"徴収代理人"アウルス・カエリウス
冬の初め、アクィラ伯領代官所の荷車がオルビア村に着いた。
荷台には麻袋が四十ほど積まれている。中身は乾燥させた金豆で、アウリス文明圏ではこれが主食にあたり、このルキア王国でもそれは例外ではない。
護送は徴収代理人のアウルスと、代官所から付けられた従者パウロスの二人だった。
村の外れから中心へと続く道を荷車が進むあいだ、あちこちから視線が集まった。垣根の向こうから黙って見つめる老人がいた。井戸端で声をひそめて何か囁き合う女たちがいた。
畑の脇から「おーい、アウルス!」と大声をかけてくる男も何人いたが、その目は荷台の麻袋に釘付けだった。
街の中心へ進むと、教会の前で一人の男が待っているのが見えた。
「アウルス殿、よくぞいらっしゃいました。私はこの村の司祭をやっております、イグナスと申します」
質素な麻の服を着た、痩せた男だった。会釈のために開いた襟元から、肋の浮いた胸が覗いている。
言われなければ司祭とは分からない。都市の教会で太った腹を揺らしている司祭たちとは大違いだ、とアウルスは思った。
「ありがとうございます。イグナスさん、あなたはトマスさんの跡を継いで二年になると聞きました。司祭の仕事はどうですか?」
「おかげさまで。この村の人々は気が良くて、不自由はしておりません。先代のトマス様はよほど慕われていたようで——私も早く追いつかなければと、日々身の引き締まる思いです」
イグナスはそう言いながら、教会の裏手へアウルスたちを案内しはじめた。
「それは結構なことです」
「アウルス殿は、この村のお生まれだと伺いました。十年ぶりほどの帰省になるのではないですか」
「……ええ。いくつか家が建て替わっていたり、配置が変わっているところもありましたが、ほとんど変わっていませんね」
アウルスはこの村の生まれだった。十一の冬に父を亡くし、身寄りもなくなった彼を、当時のこの教会の司祭が引き取った。算術の筋を見込まれ、翌春に代官所へ口を利いてもらい、都市に出た。代官所付きの書記の家に養子として入り、それ以来この村にはほとんど戻っていなかった。
イグナスの先代のトマスも、その前任の司祭も、アウルスは直接には知らない。彼を拾ってくれた司祭は、アウルスが都市に出てから二年後には亡くなったと聞いている。
アウルスは教会の前で荷を下ろし、麻袋を一つずつ秤にかけて帳面に記した。イグナスが蔵の鍵を開け、運び入れるのを手伝った。
教会の蔵は、村の中では一番頑丈な建物だった。
凶作は二年目に入っていた。去年の秋までに蓄えを食い潰した家は多い。種にする分まで手をつけてしまった家もある。教会の蔵に豆を置くのは、万が一にも村人に盗まれないようにするためだ。
◇
袋を積み終え、錠を下ろしたあと、アウルスは粗末な教会の中で腰を下ろして帳面を開いた。数字を突き合わせる。
これは「越冬貸付」という仕組みだ。伯領が備蓄の豊富な都市の商人から金豆を買い付け、凶作の村に配ることで、農村の荒廃を防ぐ制度。ただし完全な施しではなく貸付であり、受け取った家は翌年以降の収穫から返済しなければならない。
結局のところ、伯爵の関心は収入の動向にしかないのだ。
配る量は「口」という単位で数える。大人一人が冬を越すのに要る金豆の量が一口で、子供は半口として計算する。
値に直せば一口がおよそ200グロス。日雇いの日当が10グロスだから、一人を冬のあいだ食わせるには二十日ぶんの稼ぎがいる。四人の家なら日当八十日ぶん。
今回の村への割当は180口しかない。村の人口はおよそ三百四十人で、口数にすると270になる。90口ぶん足りないのだ。
受け取る家には、まず一口につき60グロスを即金で納めさせる。残り140グロスが貸付になり、三年かけて返す。伯は商人からツケで金豆を買い付けているので、この六十グロスの集金はすぐに都市へ送って商人への支払いに"アウルスが代行して"充てなければならない。
なぜアウルスが商人への支払いを代行するかといえば、アウルスは伯の公式な代官でなければ王の地方長官でもない、ただの「代理人」だからだ。代理人は伯からこの事業を請け負い、事後に与えられる4,000グロスとその超過利潤を収入とする商人の一種に過ぎない。
伯はただこの事業を都市で競売にかけるだけで、懐をほとんど痛めない。この王国の階級社会の縮図そのものだった。 もっとも、今回の案件には伯によって金豆の価格や利子率などに強い制限がかけられているため、事業の競売に参加した都市の私人のうち、彼以外は冷やかしであった。
60グロスは、だいたい日雇い6日ぶんの稼ぎにあたるが、凶作二年目にそれを出せる家は限られている。出せない家には、アウルスが自分の金を貸さなければならないことになっている。もっとも、伯からそのように命じられているわけではないが、貸さなければ受給の頭数が揃わず、三年期限の商人への支払いが足りなくなってしまう。
この仕事を請け負うにあたって、アウルス自身も都市から借金をしている。
彼が三年で取り立てる予定総額はおよそ36,000グロス。取り立てた金から代官所への返済と商人への残金を差し引いて、残りが彼の手数料になる。焦げつけば、不足ぶんは「代理人」である彼が被る。
180を村のどの家に配るかの権限は、アウルスに与えられている。
◆
村長ヘルモンの家に、村の有力者が五人集まった。受給簿の中身を決める話し合いだった。
アウルスは教会から貸し受けた帳面を広げ、各家の人数と口数、手持ちの蓄え、各家が60グロスを出せる見込みを読み上げた。有力者たちは黙って聞いていた。
「60グロスを即座に出せる家は十世帯もないだろう」と富農のニコラオスが言った。「三年かけても返済できそうにない家も多いが」
アウルスはそこで帳面を閉じて、顔を上げた。
「……気の毒ですが、他に借金を抱えていて収穫ごとに返せそうにない家は、原則として受給簿には載せられません。それに、ご存知だとは思いますが、別に返ってこない金が俺の損になるだけじゃないんです。俺が都市へ返済できない場合は、都市や伯が介入して、次に村全体の連帯責任になってしまう契約になっています」
座が静かになった。牧畜を仕切っている富農のフィリポスが口を開いた。
「中途半端に広く配るよりも、返せる家だけに絞っていくらかを呼びとして残したほうが、村としては来年の返済が楽になるだろう。我々は確かに飢えてはいるが、凶作はまだ二年目だ。体の弱い者でなければまだ耐えられるはずだ」
アウルスはしばらく考えて首を振った。
「確かに、それをすれば180口の金豆が150口程度で足りるでしょう。残りの30口ぶんは緊急時の予備として蔵に残せばいいのかもしれませんが、しかしそれでは村に大きな禍根を残してしまいます。蔵に豆が余っているのに、自分の家には配られないなんて状況になったとき、彼らが何をするか——分からないわけではないでしょう」
アウルスがそう言うと、座は再び静かになった。
「しかし、180口しかないなら、どちらにしろ数十家は受給から落とす必要があるが?」
ドワーフの鍛冶師ティモンが低い声で訊いた。太い腕を組み、小さな目でアウルスをじっと見据えている。
「……今回の案件には、受給を落とした家に対し、普段は伯が禁止している離村の許可を、俺が最大八件まで出せる権利が含まれています」
「町に出て賃仕事を探せ、ということか?」
ティモンが椅子を鳴らして立ち上がった。
「真冬にそれをやって暮らしが立つわけないだろう!」
「……はい。これは建前ですね」
アウルスは目を伏せた。
「七年前の農民蜂起の記憶が、伯にも刻まれているのでしょう。伯なりに譲歩しているつもりなのでしょうが」
その後、長時間の押し引きがあった。有力者たちが金の工面が怪しい家をいくつか名前で挙げ、アウルスがそのうち多くを受け入れ、しかし多くを落とした。
——テッサの家、アウルスの義姉の名が出たのは、話がだいたいまとまりかけた頃だった。
彼女の夫ステファノスは前の冬に死んでいる。子は二人。上が八つ、下が四つ。働き手がいないから六十グロスなど五年経っても出せるか怪しい。有力者の一人がそこを突いた。あの家は三年までに返せまい、と。
「120グロス。彼女の家は俺が個人的に立て替える予定です」
——アウルスがそう言うと、座は静かになった。
ヘルモンがアウルスの顔をしばらく見て、それ以上は何も訊かなかった。
テッサの家は受給簿に「二口受給」として入った。
◆
アウルスがこの村で最後に過ごした冬のことを、よく覚えている。
父が死に、母はもっと前にいなくなっていた。家には食う物がなかった。
そのとき一冬引き取ってくれたのがテッサの家だった。テッサは三つ年上で、弟のいない家の長女だった。
テッサの父親が、乾いた金豆を手のひらに並べて見せてくれた。虫に食われた粒は爪で押すと簡単にへこむ。色の変わったものは湿気ている。つまんで匂いを嗅げば分かるのだと。
テッサは教わるアウルスを横で見ていて、「あんた、物覚えがいいね」と笑った。
食事のとき、テッサは自分の椀から少し取り分けてアウルスの椀に入れた。黙ってやるので、はじめの数日は気づかなかった。気づいて断ると、「食べないならうちの犬にやるよ」と言って押し付けた。
翌春、アウルスは都市に出た。テッサの両親は、四年前の流行り病で二人とも死んだらしい。
村には、十二年前以来戻っていなかった。テッサとは手紙のやり取りも、数回あったきりだった。彼女の夫ステファノスとの結婚も、子が生まれたことも、紙の上でしか知らなかった。
今回、荷車に乗って村道を入ったとき、道端にテッサが立っているのが見えた。十二年ぶりだったが、すぐに分かった。痩せていた。頬が落ちて、冬の日差しの中で顔色が白かった。
テッサは彼を見て、「ああ」と声を漏らしてから、
「アル! 見違えるくらい大きくなったね!」
子供の頃の呼び方、「アル」で名前を呼んだ。
「うん。テッサも随分変わったね」
◆
——配給が始まった。
アウルスは十日おきに各家を回り、金豆の残りを確かめて、次の分を渡した。一度にまとめて渡せば食い潰す家が出るだろうからだ。だが当然、絞りすぎれば冬のうちに人が飢えて倒れる。その按配の責任は彼にあった。
家々を回ると、村の暮らしが目に入った。受給簿に載った家は、家畜をいくらか潰してしまいそうではあるが、少なくとも今年金豆が底を突く心配はなさそうだった。だが載っていない家は違った。裏手の納屋に干した根菜を吊るして食いつないでいる家。すでに家畜をすべて潰してしまい、その干し肉を少しずつ切り分けている家。
程度の差はあれど、どこの村人も顔色が悪く、子供すら動きを鈍くしていた。
◆
配給が始まって五日後に、テッサが教会に来た。
「この前は——本当に……本当にありがとう。120グロスのこと」
テッサは深く頭を下げた。そのまましばらく動かなかった。
「やめてよ、テッサ。俺たちは……少なくとも俺は、テッサのことを家族だと思ってるんだから」
アウルスがテッサの肩に手をかけて顔を上げさせると、テッサは目を伏せたまま小さく頷いた。それから黙って椅子に座り、しばらく何も言わなかった。
だが、やがて切り出した。
「ねぇ……ダミアノスって、覚えてる? あなたが村を出ていく前に、よく私とダミアノスとアルで遊んだじゃない?」
テッサが何を言いたいのか、アウルスにはもう分かっていた。この五日間で村を回りながら、いくつもの顔を見てきた。テッサが持ち出す名前の見当もついていた。
「……厚かましいのは分かってる。でも——」
テッサの声が途切れた。そして次の瞬間、椅子から滑り落ちるように膝をつき、教会の石の床に額を押しつけた。
「お願いします。彼の家を助けてください」
「——テッサ」
アウルスは立ち上がり、テッサの腕をつかんだ。
「やめてくれ。顔を上げてよ」
テッサの体を引き起こした。額の縁に石の跡がついていた。
アウルスはダミアノスという名前を覚えていた。村にいた頃の、彼より少し年上の男だった。だが、アウルス自身は彼と特に親しかったわけではない。テッサが遊んでいたから一緒にいた、という程度だった。
テッサがその名前を出したとき、二人がどういう間柄なのかが一瞬よぎった。だが、テッサの夫が生きていた頃の様子を思い出して、その疑念をすぐに打ち消した。テッサは昔からそういう性分なのだ。身近な人間が困っているのを、黙って見ていられない。子供の頃、自分の椀から取り分けてくれたのと同じだろう。
「……ごめん、テッサ。それは無理だ」
アウルスは首を振った。
「ねえさんの家に立て替えた分と、他に何軒か貸した分で、俺の手元にはもうほとんど残っていない。ダミアノスの家にさらに一口を融通する金はないんだ。俺もギリギリなんだ」
テッサはアウルスの顔をじっと見ていた。何か言いかけて、口を閉じた。 それからゆっくりと立ち上がった。
「——そう。ごめんね、無理を言って」
テッサはそれだけ言って帰っていった。 教会の扉が閉まったあと、アウルスは椅子に座ったまましばらく動かなかった。外套の下で、肋が浮きはじめていることを彼は知っていた。アウルス自身も、自分の食事を削って帳面をなんとか合わせていた。
◆
二日後に、テッサはまた来た。
「ダミアノスの家のことなんだけど——」
「テッサ」
アウルスは帳面を閉じないまま、そのままテッサに体を向けた。
「これを見てくれ」
帳面を机の上に広げ、指で数字をなぞった。
――集めた即金の額。都市の商人への送金額。手元に残るだろう金。
テッサは身を乗り出して、その数字を一つずつ目で追った。
ルキア王国では、村や都市の教会や修道会が住民へ文字を教える慣習がある。この王国の高度な分業経済や共同体自治、官僚制を支えているのはこの慣習だった。テッサも文字は読める。
ただ、帳面全体の収支の仕組みまでは分からないようだった。アウルスが一つずつ説明した。この金額はもう都市に送った、この分は代官所への返済に充てなければならない、ここが俺の手元に残っている分なのだ、と。
「……ここの数字が、あなたが都市に納める額なの?」
「ああ」
テッサは帳面から目を離し、黙った。
しばらくして、「ありがとう。ごめんね」とだけ言うと、そのまま帰っていった。
◆
翌日も来た。
今度は入り口に立ったまま、さらに口調も変わっていた。
「"アウルス"、いい?あの人の家には乳飲み子がいるの。母親の乳も出にくくなってる。上の子二人は痩せて、もうほとんど動かなくなってきてるのよ」
テッサの声は低く、今度の言葉には固い意思が滲んでいた。
「あんた、数日おきに村を見回ってるでしょう。見てるはずよ」
「……それで?」
アウルスは帳面に目を落としたまま、テッサの顔を見ずに答えた。
「ダミアノスの家だけじゃない。受給簿に載っていない家はまだいくつもある」
「だからこそ、一軒だけ特別扱いはできないと言ってるんだ!」
アウルスの手のひらが帳面ごと机を叩いた。乾いた音が教会の壁に跳ね返った。
テッサの肩がびくりと跳ねた。
だが、テッサは椅子の背を強く握ったまま、しばらく黙っていた。痩せ細った指の関節が白くなっていた。
それから口を開いた。
「じゅ——十二年前の冬のこと、忘れてないでしょうね」
アウルスの手が止まった。
テッサの顔に目をやった。彼女の隈の刻まれた目は大きく見開かれて、こちらを射抜いていた。口元と声は細かく震えていた。
「う、うちらがあんたを置いてやらなかったら、あんたは今ここに生きて立ってなかったでしょ。父さんがあんたを引き取って、食べさせて、司祭に話を通して、都市に養子に出したじゃない」
声がしだいに大きくなった。抑えようとして、抑えきれなくなっていた。
「——そのあんたが今ここにいて、帳面を持っていて、誰に配るかを決めて、そんで取った利子を"カエリウス家"に持っていこうとしてる。そうよね」
「それなのに! なんでダミアノスの家一つ助けられないの!」
アウルスは息を吸い込んだ。言葉が出てこなかった。——それは、と言いかけて詰まった。テッサの言っていることはすべて事実で、否定できることは一つもなかった。
だが、事実であることと、だからダミアノスの家に金豆を回せるかどうかは、別の話だった。
「……俺だって自分の金でこの仕事をやってんだ!」
自分でも声が大きくなっているのが分かった。そうなるつもりはなかった。
空腹でお互い気が立っているのかもしれないとも思ったが、沸き上がる言葉を抑えきれなかった。
「分かるか!?この村の連中の金豆を建て替えてやってるのは俺なんだよ!俺の家――カエリウス家は今こういう案件をこの村だけじゃなくて、あと六件もやってんだ!今の俺らは代官所にも大量に借金がある。飯だってしばらく満足に食えてないんだ!」
息が切れた。だが言葉は止まらなかった。
「それに、ダミアノスに出す金が仮にあったとして、そうしたら別の家にしわ寄せがいくんだよ!仮に俺が村の金豆百八十口を全部建て替えたとしても、今この村にある金豆の数は変わんねえって言ってんだ!受給簿に載れなかった家はいくつもあんだよ!こんな狭い村で一軒に融通したとき、俺も私もって言われたらどうすんだよ!今ですら村の空気は悪くなってんだから!」
テッサへ怒鳴る中、ふとカエリウス家のことがよぎった。
養父の家——代官所に代々書記を送り出してきた家柄だが、先代の伯が亡くなって以来、新しい伯との関係は冷え込んでいた。養父が流行り病で倒れてからは、義兄たちがアウルスに向ける目はさらに厳しくなった。
血の繋がらない弟が家に置いてもらえるのは、使い走りの仕事で結果を出しているあいだだけだ。この越冬貸付のような、これといって名誉的でもない案件を引き受けるのも、それが理由だった。ここでさらに持ち出しを増やして焦げつかせたら——俺の帰る場所がなくなる。
だが、そんなことをテッサに言えるはずがなかった。
「俺にも色々事情があるんだよ!」
テッサも引かなかった。
「事情って何よ!あんた自分でギリギリだって言ったけど、カエリウスの家にはあんた以外にも人も金も、伝手もあるでしょう!ねぇ、こっちは生きるか死ぬかなのよ?お願い、助けてよ!」
「だからないんだって!動かせる金豆も金ももうないんだ!」
「ダミアノスの家の子供が死んだら、あんたはそれでいいの!?」
「.....よくはないよ。だけど、俺に何ができるんだ!」
声がぶつかり合って、教会の中に反響した。アウルスが乱雑に帳面を広げて数字を指せば、テッサは村人の窮状を言った。配分を変えられるはずだとテッサが詰め寄ると、アウルスはもうないと突き返した。
教会に怒鳴り声が響き渡ると、司教のイグナスは無言で戸を閉めた。
しばらく言い合ったが、どちらの言い分も相手を崩すことはできなかった。
最終的にテッサが立ち上がり、何も言わずに出ていった。
◆
その日から、テッサは来なくなった。
だがアウルスの日々は変わらない。十日おきに家を回り、金豆の残量を確かめ、次の配給分を少しずつ出した。蔵の番に立ち、記録をつけながら農夫に手渡し、従者のパウロスと二人で粥を食う。これを周辺のいくつかの村でも繰り返した
冬が深くなると食事はさらに粗末になっていった。
「アウルスさん、だいぶ痩せましたね」とパウロスが言った。
「お前もな」
「あはは、まあでも、俺はもともと痩せてますよ」
ある日の午後、村を回った帰りに、昔の幼馴染の畑のそばを通りかかった。
畑は村の外れにあり、冬の手入れをしている人影が見えた。彼が腕を大きく振って声をかけてきたので、アウルスも手を挙げて返した。
道を戻ろうと振り返った。
――すると、村道の向こうに、テッサが立っていた。井戸の水を汲んでいたのだろう。手に桶を提げていた。
テッサと目は合ったが、彼女は何も言わないまま顔を背け、井戸のほうへ歩いていった。
アウルスは深い溜息をつき、そのまま歩いた。
◆
ダミアノスが死んだのは、雪の止んだ日の昼過ぎだった。
村長のヘルモンがそれを伝えてくれた。ダミアノスは秋からずっと床に伏していたようだったから、それ自体に驚きはなかった。だがそれを聞いた瞬間、テッサの顔が浮かび、空っぽの腹の内側でキリキリとした痛みが走った。
結局、アウルスはテッサの様子を見に行くことにした。
テッサの家の粗末な戸口に、上の子が立っていた。テッサの八つになる娘だ。頬がこけて、手首の骨が服の袖口から突き出ていた。
「母さんはどこにいるか知ってる?」
「ダミアノスさんの家だって」
「……いつ出てた?」
「お昼すぎくらーい」
「そっか。ありがとう。お母さんのこと、ずっと大事にするんだよ」
そう言って彼女の頭を撫でると、アウルスは道を引き返した。
ダミアノスの家がある通りに向かうと、向こうからテッサが一人で歩いてくるのが見えた。
彼女の肩は落ちていて、足取りも重いように見えた。
「テッサ!」
小走りで近づくと、目のまわりが腫れているのが分かった。
さらに、額にも赤い腫れがあった。
「……大丈夫?」
テッサはアウルスの声を聞くと立ち止まった。
そしてアウルスの顔を見上げて、口を開きかけた。
「あ"ぁ"ぁ......」
声にならない声が漏れ、そのまま膝から崩れ落ちた。
アウルスは咄嗟に腕を伸ばして彼女の体を支えた。二人ともしゃがみ込んだ格好になった。
「わ、私......ずっと、金豆粉をエイレネに持っていってたの。ほんの少しだけど、うちの分から少しずつ」
テッサは泣いていた。声を絞り出すように、低く、途切れ途切れに。肩が子供のように細かく震えていた。
しばらく経って、話した。
「毎日様子を見に行って、水を汲んで、子供の世話を手伝って、できることは何でもやった。エイレネも私の畑をまめに手伝ってくれた」
テッサはしゃがんだまま、自分の膝を見ていた。
「でも、結局——何もかも足りなかった」
テッサは袖で顔を拭った。
「エイレネの乳はもう出なくなってた。他の家に頼んで回ったけど、どこも自分の子が先で……。結局、赤ん坊は昨日の夜に死んだの。それで、次はダミアノスが今日の昼過ぎに」
アウルスは何も言えなかった。ダミアノスの死からだけではなかった。
テッサは、ごくごく僅かな自分が食べる分を、自らの足で彼らに運んだのだ。しかしそれでも足りなかった——この一部始終を背負ったのは、村長でも司祭でも商人でもなかった。力のない一人の農民、テッサが自らの力で背負おうとしたのだ。
その事実が、アウルスの腹の底から突き上げてきた。
「......か、駆けつけたときには......家の中が、エイレネと子どもたちの泣き声でいっぱいで......入っていこうとしたら、エイレネが錯乱してて......暴れて、自分の顔を何度も爪で引っ掻いてた」
「……テッサ、その額の怪我は」
「彼女に石を投げられて……出ていけ、全員出ていけって……」
アウルスはしゃがんだまま、テッサの顔を見た。
自分の目から涙が流れているのが分かった。止まらなかった。拭おうともしなかった。そんなことはどうでもよかった。声が震えて、言葉が喉の奥に引っかかった。
「ごめん」
それしか出てこなかった。
「本当に、ごめんなさい」
もう一度言って、テッサを抱きしめた。
テッサはアウルスの外套をつかんで、声を上げて泣いた。何も言わなかった。ただ縋りつくように肩に顔を埋めて、体を震わせていた。
通りの向こうから、様子を聞きつけた村人が何人か出てきた。足を止めて、互いの顔を見合わせ、近づくことも離れることもできないまま、おろおろと立っていた。
冬の日が傾くのは早かった。空の端が橙から灰色に変わり、二人の影だけが冷えた地面に長く伸びていた。風は凪いでいて、村は静かだった。
◆
やがて春が来た。
雪が溶けて地面がゆるみ、教会の蔵から出す金豆の量も少しずつ増えていった。畑にはぽつぽつと人影が見え、鍬を振る音があちこちから聞こえた。
アウルスは村を回り、秋の取立ての見込みを帳面に記した。受給簿の写しを作り、代官所へ送る分に封をした。60グロスを自分で払った家と、彼が立て替えた家。今後三年で返せる見込みのある家と、まだ分からない家。これら再び整理した。
――この冬に届け出られた死は七件だった。
畑を歩くと、去年の秋に蒔いた金豆が青々とした葉を出していた。だが、種にする分まで食い潰した家の畑は、まだ土が剥き出しのままだった。
果樹やブドウの剪定に鋏を入れている農民もいた。別の区画では赤カブの種を溝に落としている老人がいた。赤カブは金豆より早く育つ。それが実るまでのあいだ、村は一年で最も食料が逼迫する季節を通り抜けなければならない。
寒さが緩む春は、同時に蓄えが底を突く春でもある。畑に出ている人々の顔色は冬よりいくらか生気を取り戻していたが、腕や首筋の肉は削げていく一方だ。
荷造りをしていると、テッサが来た。
「アル」
それは、子供の頃の呼び方だった。
「これ、持っていって」
テッサは小さな包みと水筒を差し出した。包みを開くと、干した金豆が一掴みほど入っていた。
「……ありがとう。でもいいのか、テッサ」
「いいの。畑にもう芽が出てるし、あと少しで赤カブも蒔ける。なんとかなりそうだから」
テッサは笑みを浮かべてそう言うと、もう一つ、畳んだ布の塊を差し出した。広げると、男物の上着だった。擦り切れてはいるが、裏地にまだ厚みが残っている。
「死んじゃったステファノスのだけど。あんたの外套、もうだいぶ薄くなってるでしょう。——これはあくまで一時しのぎだから、余裕ができたらちゃんとしたのを買いなさいよ」
アウルスは上着を手に取った。テッサの元夫、ステファノスの体格は彼より一回り大きかったから、袖が余る。
だが、裏地に手を当てると確かに暖かかった。
「あんたはこの村だけじゃなくて、他の場所も回らなきゃいけないんでしょう。体を壊したら元も子もないんだから」
「……ああ」
アウルスは上着を抱えたまま、少し黙った。
「一生大事にする」
テッサは小さく笑った。口論のあと初めて見る笑顔だった。痩せた頬に皺が寄って、目元だけが昔と変わらなかった。
「気をつけてね、アル」
パウロスが馬を引き、荷車が村道を出ていった。
――街道に出る手前で振り返った。教会の屋根が見えた。
湿った畑が、緩やかな斜面に広がっている。点々と人影も見える。鍬を振る者、水を運ぶ者、しゃがんで土に手を入れている者。家々から立つ薄い煙が何本か、風のない空にまっすぐ昇っていた。
アウルスは前を向き、荷車の横に腰を下ろした。パウロスが手綱を引き、馬を急かして歩かせた。




