高木結弦の在り方
買出しから戻る頃には姉が帰ってきていた。
「おかえり。今日」
「ちょっとした用事があっただけだよ」
という軽口を交わした後に夕飯を作り始める。今日は帰宅が遅くなってしまったから、仕事終わりでお腹を空かせている姉のために簡単に作れるものにした。
入浴と一通りの家事を済ませ部屋に戻ると、買出しに出かけた時と変わらずタブレットPCを凝視する黒猫の姿が目に入った。このタブレットPCは生徒会室で使っていた円香の私物で、これだけは持って行って欲しいと頼まれたものだ。
自室の入り口から見えた限りでは、タブレットPCの画面に映っているのは数学の参考書のように見えた。
「生徒会室でも思ったけど」
姉に聞こえないように、声を気持ち小さめにして話しかけてみた。
「熱心だな」
「学生だもの。当然でしょう」
「それはそうなんだけどさ。その板を見てるときの関って妙な気迫があるように思えたんだ」
「……」
結弦の言葉に、教科書の文字を追う円香の視線の動きが一瞬だけ硬直する。
「医学部に行きたいのよ」
「医学部」
結弦は復唱しながら、円香の方を向く形で椅子に座った。
「子供のころからの目標なの。絶対に医学部に入ってやりたいことがある。でも、この姿だとペンを持てないじゃない? できるのはこうして参考書を見て、頭の中で問題を解くことだけ。これは無視できないハンデと私は思っている。そういう意識が滲み出ちゃったんでしょうね」
「……ごめん。邪魔してしまったな」
「この程度で邪魔になんてならないわよ。この部屋は生徒会室ほど寒くないしね。それに、高木くんも同級生の中では熱心に勉強している方だと思うけど。 貴方、去年の定期試験は毎回2位だったわよね」
「へえ、そうだったんだ」
「そうだったんだって、知らなかったの?」
「あんまり興味がないんだよ。赤点じゃないなら別にいいかなって」
特に気取っている様子もなく、本当に興味なさげに結弦は答えた。当然、1位は誰なのかということにも興味はない。「毎回1位を取っている人に言われても」という反応を期待していた円香は拍子抜けした。
「勉強は毎日ちゃんとやってるからな。その成果が出ただけだ」
結弦は椅子をくるりと回転させ、勉強机に向かう。
「それは、行きたい大学があるから?」
「いいや。特にないよ」
「じゃあ、勉強が楽しいからってこと?」
「……どうだろうね。楽しいと思ったことはないかな。他にやることがないからやってる感じだ」
結弦は教科書とノートを開き、今日の授業でやった内容の復習から始める。その姿には必死さもなく、嫌々やっているわけでもなく、ただそれが当然のことであるかのようにペンを走らせていた。
高校二年生、進路を意識し始める時期だが、結弦にはやりたいことというものがよくわかっていなかった。大学に至っては進学するかどうかも決めていなかった。それが姉にとって大きな負担になるのなら行くつもりはないし、逆に行くことで得られる恩恵の方が大きいなら、金銭的負担が少ない範囲で行けそうな大学に行くつもりだ。
ただ、強いていうなら結弦にも目標のようなものがないわけではなかった。
「強いていうなら。少しでもマシな歯車になれればかなって、僕は思ってる」