黒猫との共同生活
玄関の時計は19時を指していた。いつも通りならばあと30分ほどで姉が帰宅する時間だ。
結弦は時計の秒針を見つめながら円香のことを正直に話すべきかどうか考える。結論はすぐに出た。
「関」
「何?」
「家族には泊まることは内緒にしておこうと思う。窮屈な思いをさせてしまうが、どうだろうか」
姉はきっと猫が住み着くことに反対はしないだろう。ただ、それに伴うやり取りを考慮するとリスクの方が高そうだと判断した。
「構わないわよ。貴方の部屋から出なければいいのかしら」
「ああ。十分だ。案内するよ」
承諾を貰ったところで結弦は円香を抱え、二階にある自室に向かった。姉が返ってくるまでにやるべきことたくさんあるので早足だ。手がふさがっているので自室のドアを肘と足を使って開け、少し悩んでから円香をベッドの上にそっと置いた。
されるがままにベッドの上に座る高木家の小さなゲストは、結弦の部屋をきょろきょろと見渡した。
「随分と掃除が行き届いているのね。男の子の部屋ってもっと散らかっているのかと思った」
「今の時代に物議を醸しそうな偏見だけど、物が少ないだけだよ」
結弦が言う通り部屋には勉強机と寝具しかなかった。机の上には勉強道具しか置いておらず趣味に使うようなものは一切見受けられない。自室というより、ただ睡眠と勉強をするためだけの部屋といった印象を受ける。
「夕飯はどうする?」
結弦が椅子に腰かけつつ円香に尋ねる。高木家では家事全般は結弦の仕事だ。
「というか、どうしてた?」
「食べてないわ。朝と昼だけよ」
「なるほど。じゃあ明日の朝ごはんは食べるか?」
「……そうね。お願いするわ」
「了解。今から食材の買い出しに行ってくるけど、何かリクエストある?」
円香は肉球を顎に当てて考え始めた。ドロップキックの件といい姿は猫なのに仕草はどこか人間くさい。
「そうねぇ……」
円香の長考は続く。答えが返ってきそうにないので結弦は質問を変えた。
「好きな食べ物は?」
「カレー」
今度の質問は即答だ。しかも、普段は静かな話し方をしている彼女の声が上ずっているあたり相当な好物らしい。
「じゃあ、カレーにするとしよう」
「でも、食べられないのよね」
円香はわかりやすいぐらいにしょんぼりしている。本当に好きな食べ物のようだ。
「やっぱり朝食には重いかな」
「ううん。そうじゃないの。いや、重いのは間違いないけど、それ以前に猫にとって香辛料は毒なのよ。あとタマネギもダメ」
「あー……」
そういえば、と結弦は思い出す。テレビか何かで聞いたような記憶はあるが、こうしてその知識が活きる局面に遭遇したというのに言われるまで全く念頭になかった。
「……難儀な体質だな」
「そうね。もう慣れちゃったけど」
「他に食べられない物ってある?」
「日頃気を付けているのはカフェインとチョコレートね。ただ、私も全部を把握してるわけじゃないからネットで調べないと分からないわね」
「ネットか……僕の家にはパソコンがなんだよな」
「パソコンがなくたってスマホで調べられるでしょう」
「ほう。 じゃあ、アプリストアで調べればいいのかな」
「……」
「……」
沈黙が流れる。結弦は純粋に質問の回答を待っていたが、円香は「この人、本気で言ってるの?」という呆れた視線を向けていた。そして、本気で言っているらしいことを受け止めた円香はため息を吐いて、
「スマホのロックを解除して机の上に置いてちょうだい」
と語気を強めて指示した。言われた通り、結弦が自身の携帯電話を机の上に置くと円香はひょいひょいとベッドの上から結弦の勉強机の上に移動した。そして、肉球を使ってタッチパネルを器用に操作しはじめる。
「これ。このアプリでネットの情報を閲覧できるの」
カンカンと爪とタッチパネルのぶつかる音を立てながら、円香はブラウザアプリのマークを刺し示した。
「でもこのアプリ、"インターネット"って名前じゃないけど」
「高木君。船って海とか水上を移動するための道具だけど、"水"とか"海"って単語含まれてないわよね」
「……そうだな」
「それと同じよ。このアプリはあくまでインターネットを閲覧するための道具。」
「なるほど。船……で、どうやってしらべればいいんだ」
「貸しなさい」
円香は頭で小突いて、結弦からスマホの主導権を奪い取った。慣れた手つきでブラウザの検索欄に「猫 与えてはいけないもの」とフリック入力を駆使して文字を打ち込み、検索結果の中から適当なWebサイトを一つ開いて結弦に見せる。
「アルコールは人間でも未成年の僕たちはダメだとして、エビとかカニもダメなのか……」
結弦はそのページに書かれた内容を一つ一つ確認し、手帳にリストアップしていく。ブドウ、生の貝類、アーモンド、それと本人からも聞いたタマネギ。ネギ類はタマネギでなくともニラやニンニクなど全般が猫にとっては毒になるらしい。
ページを最後まで閲覧し、メモ帳に書いたリストをざっと見てみる。
(多いな……)
率直な感想を抱く。
猫にとって有害な食べ物は人間の時に食べても影響するのか、それとも猫になったときに初めて害を為すのかはわからないが、試してみるのはリスクが高すぎる。
夜になると猫の姿になってしまう、なんて聞く分にはコミカルな現象だが食事の時間すら注意を払わねば命に関わる。猫化の呪いは想像以上に重い。