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黒猫の放課後

 結弦の生徒会業務は連絡先交換から始まった。

 普通の人間、特に若者にとっては息をするように終わる作業だが

「アプリってなんですか?」

 という結弦の質問をきっかけに“業務“という単語を使うに相応しいほど労力を割くことになった。

 結弦は機械音痴である。携帯電話は姉との連絡にしか使っておらず、連絡方法も今では主流となったコミュニケーションアプリではなく基本の電話機能だ。したがって、この業務はアプリストアのアカウント登録から始まった。

 多くの人間が初めての携帯電話を購入してから一週間も経たないうちに完了させているであろうこの作業は、この場にいる三人全員の想像以上に難航した。というのも、結弦は携帯電話で文字を入力したことがほとんどなかったのである。なお、ここでいう“ほとんどなかった“という表現には“意識して入力した覚えはないが、全くないとは言い切れない“という意味が込められている。

 つまり、全くない。

 アドレス帳への番号登録すらしたことがない。結弦の番号を知っているのは姉と掛谷と千鶴の三名だが、着信時に表示される電話番号で相手を判別している。

 携帯電話で文字を入力したことがないとどうなるかというと、初期設定の規則性のない文字列で構成された覚えづらいメールアドレスを不慣れな手つきで入力する羽目になる。メールアドレスを確認してはキーボードから必要な探し、探している間に続きの文字を忘れてしまったので確認し、といつまで経ってもメールアドレスの入力が終わらない。そんな結弦に業を煮やした会長はメールアドレスの変更を提案した。

 30分に渡る会長の尽力により、ようやく結弦の携帯電話にコミュニケーションアプリがインストールされ、アカウントの登録画面に遷移できた。

「君、今までどうやって高校生活を送ってきたんだね……」

 パスワードの設定画面を覗き込まないように背中を向けている会長は呆れ気味だ。

「連絡先交換しようって話にならなかったの?」

「電話番号を書いて渡してました」

 思い返してみればあのときのクラスメイトはすごく困惑した顔をしていた気がする。あれはこういうアプリのことを意味するのか、と今更ながら合点がいった。なお、教えた電話番号が使われたことはない。それで困ったことも、少なくとも結弦は認識していない。



 コミュニケーションアプリのアカウント登録は、アプリストアへのそれと比べればスムーズに終わった。そして、会長から友達登録という概念、友達登録の方法、メッセージの送信、通話といったアプリの基本機能を懇切丁寧に教わった後、“第70期桃園学院生徒会”というグループチャットの招待が届いた。

「これで……完了……疲れた……」

 会長はデスクに突っ伏する。放っておけば夏場に放っておいたアイスのように溶けてしまいそうなほどぐったりとしていた。

「ほんと、すみません」

 礼を言いつつ円香の方を見る。彼女はスタンドで立てたタブレットPCの画面を真剣な顔つきで見ていた。会長が四苦八苦している時からずっとだ。

「お疲れ様」

 円香は結弦の方を見ずに言った。

「ああ」

 話しかけられるとは思っておらず、はっきりしない返事になる。

「まあ、疲れてるのは会長なんだけどさ」

「私の連絡先だけど、グループチャットから登録するか明日にしてちょうだい。今は手を離せないから」

「構わないけど、そんな急ぎの案件なのか、それ」

「これは別に。教科書の電子版を見ているだけよ。手を離せないのは私の体の都合」

 意図がわからず結弦は首を傾げる。

「ああ、もうそんな時間か……」

 会長が突っ伏したまま呟くと同時にポンという音が生徒会室に響く。すると、円香の姿は一瞬にして消え、代わりに黒猫がソファの上にちょこんと座っていた。

 窓の方を見ると日は沈み、外の景色は真っ暗になっている。

 もう一度黒猫の姿を見た。間違いなく昨日結弦が出会ったものだ。昨日と同じく、足元には円香が身につけていた制服がとっ散らかっている。

(やっぱり、あの猫は関だったんだ)

 疑っていたわけではない。錯覚だった可能性を未だに捨てきれていなかったわけでもない。ただ、もう一度同じ現象を目にしたことで、円香が猫になるという事実が明確に刻み込まれたような感覚がした。



 円香の制服は会長が鷲掴みで回収し、生徒会室の棚にしまわれた。

「今日はここまでだね。本格的な業務内容の説明は明日にしよう」

 結弦は頷き、帰り支度を始める。しかし、ソファの上に鎮座する黒猫はタブレットPCを見つめたまま微動だにしない。

「関は帰らないのか」

「関さんは生徒会室に泊まるよ」

 円香の代わりに会長が答えた。

「日中に帰れない日はいつもそうしてる。泊まり用の道具もほら、この通り」

 会長は先ほど閉めた棚の、隣の棚を開いて結弦に見せる。中には缶詰をはじめとした非常食が少なく見積もっても二週間分ほど入っていた。加えて教科書やノートと言った勉強道具一式、汗拭きシートもある。中身がわからない茶色い紙袋……は多分着替えだろう。

「本当は家まで送りたいのだが、関さんのマンションはペット禁止でね。居住者本人とはいえ猫を連れ込むのは問題がある。かといって、私の家に泊めるのも無理だ」

「会長もマンションなんですか?」

「家の人間が猫アレルギーなんだ」

 思っていた以上に難儀な事情だった。

「というかそれ以前に……いや、そっか。ふむふむ」

 会長は意地の悪い笑みを浮かべると

「時に高木君、君の家は自転車で通える範囲の一軒家だったねえ」

 突然、舞台役者のような張りのある声で話し始めた。言い換えれば非常に胡散臭い話し方になった。

「お姉さんは猫アレルギーかな? 確か二人暮らしだったよね」

「猫アレルギーでも猫嫌いも出ないですが……っていうかなんで家族構成まで知ってるんですか」

「ならちょうどいい! どうだね、関さんを君の家に泊めてやってはくれないだろうか。見ての通り生徒会室には空調も毛布もなくてね、夜は冷える」

 終始徹底してタブレットPCを見つめていた黒猫が驚いたように会長の方を見た。

「四月の空気はまだ肌寒い。仕方がないとはいえ、彼女を劣悪な環境で寝泊まりさせるのは忍びなく思っているんだ。今日一日だけでもいい。どうだね?」

 結弦は顎に手を当てて思案する。協力自体は問題ない。猫を我が家に泊めることにおける障害はあるだろうか。

 姉は……まあ、気にしないだろう。人並みに猫は好きだった気がする。それに中身が人間だから自由気ままに動くことはないだろうし、自分の部屋の中で隠し通すこともできるはずだ。

 他に考えなければならないことはないだろうか。食事に気を使う必要があるが、高木家の食卓は自分で管理しているから問題ない。猫を家に置く際に考慮すべきことという議題について考えること数秒。一つの疑問が浮かんだ。

「猫砂って必要ですか?」

 こめかみに円香のドロップキックが直撃した。不意の衝撃に結弦はバランスを崩し、そのまま横に倒れる。起きあがろうとしたが、胸の辺りに小動物一匹分の重みがのしかかってくるのを感じ、断念した。

 首だけを動かして胸の上を占拠する黒猫の姿を見る。見下ろしてくるその視線は何か物申したげだ。

「すまん。デリカシーがなかった」

 謝意を告げると黒猫は「わかればいいの」と言いたげな顔をして結弦の体の上から降りた。圧力から解放された結弦は状態を起こし、床の上に座る黒猫に向き直る。

「僕の家に泊まるか?」

「いいの?」

 円香は申し訳なさそうな声で聞いた。

「関が望むならどうにかするよ」

「じゃあ……お言葉に甘えるとするわ」

 そのやりとりを会長はニヤケ面で眺めていた。



 会長が生徒会棟の施錠をして本日の生徒会は解散となった。結弦は会長に挨拶をした後、駐輪場へ向い、その後ろを猫の姿になった円香がトコトコと付いてくる。そして、規則正しく並んだ自転車の列から自分の自転車を引っ張り出すと、円香はしなやかな動きで結弦の自転車の上に登り、カゴにすっぽりとおさまった。

「そこでいいのか?」

 人間の体の感覚的にはあまり居心地の良さそうな場所には見えない。円香にとって歩いた方が楽なのであれば結弦は自転車を押して歩いて帰るつもりでいたのだが、すでにカゴの中を陣取った黒猫は小さな頭を縦に振った。

「安全運転でお願いね」

 と、すまし顔で円香は言った。

「了解」



 夜風を感じながら自転車を漕ぐ。そのスピードはいつもより気持ちゆっくりだ。カゴの中の円香と運転手の結弦の間に会話はく、一人と一匹の沈黙はチェーンの擦れる音が埋めていた。

 こういう時、何か話題を振るべきなのだろうか思い話題を捻り出してみる。が、何も出てこなかった。雑談をすること自体は苦ではないのだが、自分から話題を提供するのは苦手だ。自分で話を広げられるネタが全くと言っていいほどないし、あったとてそれが相手の興味を引くものである確証はない。

 せめて受け答えだけでもしっかりとしようと前方に注意を配っているが円香の方から話題が提供されることもない。

 結局、高木家に到着して結弦が自転車を降りるまでの20分間、一言も会話を交わさないまま終了した。

「自転車を置いてくるよ。うちの自転車置き場は狭いからここで降りた方がいいと思う」

「そう」

 短く返事をすると、円香はカゴからそのまま地面へと飛び降りる。自分の体の数倍の高さからの落下だというのに怯える様子もなければ、着地後に痛がる様子もなかった。

「ドアの前で待ってるわね」

「ああ。すぐに済ませる」

 高木家の自転車置き場は家と塀の間の狭い隙間の先にある。そこまで自転車を押して歩こうとして、立ち止まった。駐輪場でのやりとりを思い出す。

 特に気に留めていなかったが、冷静になって考えてみると驚くべきことがあった。結弦は壊れたロボットのようにゆっくりと円香の方を振り向く。

「猫の姿でも喋れたのか?」

「今更!?」 

 円香は心なしか高いトーンの声で叫んだ。

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