夏目アンリはどこへ走ったのか
結弦が意識を取り戻した時、真っ先に視界に映ったのは学校指定のローファーだった。
つま先のあたりには真っ二つにちぎられた『栞』が落ちていて、粒子状に分解されていく最中だった。書かれている模様には見覚えがある。間違いなく『キャラクター・ブック・ストリング』のものだ。
その光景を見て、最初は円香がどうにか事態を解決してくれたのだと思った。
(ちぎれている……?)
『栞』の断面を見てそんなはずはないと思い直す。円香が『栞』を破壊したのなら『短剣』を使う以外の方法はなく、断面はまっすぐで綺麗なものになるはずだ。
では一体だれが破壊したのか? 他に『栞』を破壊できる方法は結弦が知る限り1つしかない。そしてそれができる人物もただ一人──結弦はゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのはアンリだった。
「ごきげんよう、先生。よく眠れましたか」
アンリは不適に笑っていた。
「……おかげさまでね」
結弦は周囲を見渡した。わずかにあいたカーテンの隙間から見える景色は暗く、まだ夜は明けていないようだ。
「どういう風の吹きまわしだ」
「別に。大した理由はありませんわよ」
アンリの唇がぷるぷると震えていることに気づいた。いたって冷静な口調の彼女の手はナイフを握る代わりにぎゅっと握りこぶしを作り、唇と同じように震わせていた。顔色から察するに相当な無理をしているように見えた。
『キャラクター・ブック・ストリング』を捨て、ナイフを捨て、今まで自分を支えてきたものを全て置いて目の前に立つ彼女からはただならぬ覚悟を感じた結弦はゆっくりと立ち上がり、普段ならゲロまみれにされているであろう距離にいるアンリと目線を合わせた。
体の奥から湧き上がる恐怖をアンリは気合で抑え込むと、胸ポケットから一枚の紙片を取りだした。その紙片には大きな樹木の紋様が描かれている。
「それは……」
「ええ、『栞』です。ただし」
そう言ってアンリが見せつけた『栞』の裏面には何も書かれていなかった。
「未使用ですが」
挑発するようにぺらぺらと『栞』を顔の近くで振って見せる。
あの公園を出て我武者羅に走っているとき、いつの間にかポケットに2枚目の『栞』が入っていることに気づいた。
これがあれば今の世界を一旦壊してもう一度『糸』を取り戻せる。真っ先にそう考えたけれど、その前に確認しなければならないことがあった。
「関副会長が猫の姿になったとき、わたくしの力のせいかもしれないとおっしゃいましたわよね? あれはどういう意味ですの?」
「『栞』は願いを叶えるために世界のルールを変える。その帳尻合わせとして別の誰かを不幸にする呪いを作るということだ」
「そう……なら」
ならば、これを使うわけにはいかない。例えわずか可能性であっても自分のせいであの人が傷つく世界を作るわけにはいかない。
「ならば、これを再び使われるのは貴方にとって好ましいことではありませんわよね?」
何より、同じ力を手に入れたら同じ過ちを犯す恐れがある。『栞』の力を使わない方法が必要だ。
「今のわたくしならもう一度理想の世界を作り直すこともできます。改善版を作るのもいいかもしれませんわね。アレは何かと欠点が多かったので」
嘘をついた。この発言は自分への保険。そして結弦への揺さぶりだ。 覚悟を示す時だ。一瞬だけ声が詰まった。結弦に気づかれないように小さく息を吐いて心を落ち着ける
「確かにそれは良くないことだ。僕の果たすべき役割は君の『栞』を破壊しておしまい、ではないからね。……それで、どうして未使用の『栞』を僕に見せたんだ?」
「その前に、なんとなく。本当になんとなくですが、貴方の代案に乗ってみてもいいと思えましたの。ただし、人形ではなく『栞』の代わりという形ですけれど」
畢竟、これは脅迫である。「自分の言うことを聞かなければ『栞』を使う」という脅し。
結弦が信用できる人物なのかは今になっても分からない。だけど、アンリが頼れる人間は今結弦しかいないのも事実だった。だから結弦を信用できる根拠として『栞』の存在を使うことにした。
「つまり、願いを叶えろということか。何をすればいい?」
「これからも勉強を教えてほしいです」
「応じよう。他には?」
「これからも料理を教えてほしいです」
「いいだろう。包丁の使い方は教えられないがね。他には?」
「これからも……恋愛相談に乗っていただきたいです」
「構わないよ。僕の意見が参考になるかはわからないが」
「それは……その通りかもしれませんが」
アンリは苦笑した。
「他には?」
「他……ですか」
言葉に詰まった。願いを言いつくしたわけではない。むしろ『キャラクター・ブック・ストリング』を欲した動機、本命とも呼ぶべき願いが残っている。
残っているのだが、自分の行いを振り返るとそれを口にするのは憚られた。
だけど、アンリが抱える問題の克服に最も必要な関係。だから、不躾を承知で願いを口にした。
「わたっ……わたくしと……友達になってくれますか?」
顔が少し熱くなった。言葉に詰まったのは照れ臭さもあったのかもしれない。
「難しいな」
即答だった。アンリは唖然とする。断るにしても少しは悩んでくれると思った。内心で落ち込むアンリだったが、結弦は続けてこういった。
「友達の定義を明確にしてくれ」
「……は?」
めんどくさい、という気持ちが凝縮された一音が放たれた。
「貴方、友達がいませんの?」
「いるさ。掛谷は友達だと最初に言っただろう」
「そう思っているのは貴方だけかもしれませんわよ?」
「かもしれないな」
「……言ってて悲しくありませんか?」
「客観的にみた僕と掛谷の関係性を表現する言葉として“友達“という単語を使っただけだ。掛谷が僕のことをどう思っているかは関係ない」
しかし、と結弦は続ける。
「君の願いを叶えるというなら話は別だ。認識を合わせておかねば」
アンリは深いため息をついた。なんてめんどくさい人なのだろう。面倒臭い人間だが、反論も思いつかなかったのでアンリは考えた。
「そうですわね。まず、一緒に遊んでくださること」
「遊ぶとは?」
「ええい、まどろっこしいですわね。お茶会とかお出かけですわよ」
「なるほど。了解した」
羨ましかった。遊ぶ約束を取り付けて「楽しみだね」と語らう同級生が。
「あと、楽しい気持ちを共有できること」
羨ましかった。こんなことがあって。あんなことがあって。日々の楽しかったことを共有できる関係が。
「悪いことをしたときに叱ってくれること」
怒られたい訳ではないが、過ちを犯した自分を正してくれる関係は素敵だと思った。
「それから……」
それから。きっと一番求めるべきこと。あの人を傷つけないために、この世界と向き合うために、必要な要素。
「嫌なことがあったときに支えてくれること」
アンリはどんなに嫌なことがあっても誰にも頼れなかった。辛い気持ちでさえ誰かに利用されるのが怖くて一人で引きこもっていた。
ああ。そうだ、と。アンリは心の奥底に抱えていた自分の願いに気づく。
“人形“で作り出した関係は理想だった。だからこそ、辛い気持ちを吐き出すと現実に引き戻される気がして、堪えていた。友人に囲まれた華やかな生活こそが自分の願いだと思い込んだ。それも間違いではないのだろう。
でも、それ以上に、一人になった時からずっと、自分の弱さを曝け出せる相手が欲しかったのだ。
「これが、わたくしの友達の定義です。そして、最後の願いです。この願いも叶えてくれますか?」
まっすぐと自分の顔を見上げる結弦に、アンリは願いを告げた。
「了解した」
結弦はアンリの目を見ながら答えた。
「君の良き友となれるように善処しよう」
「そう……でしたら……。この『栞』は使わないであげますわ」
気張っていた全身の力が抜け膝をつく。このセリフは精一杯の強がりだった。
頼ってもいい存在ができた。その事実が、今まで抱えていた重荷なくなったかのようなな気持ちにさせ、気づけば堪えていた涙が頬を伝っていた。
それからアンリは大粒の涙と共に、結弦に全てを吐き出した。
結弦への謝罪。向き合わなければならない世界への恐怖。そして、失恋の痛み。
ただ聞きに徹する結弦の前でアンリは日付が変わるまで泣き続けた。




