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理想の世界

 予想外に危機を脱出したことを自覚したアンリは腰が抜けたようにその場にペタンと座り込んだ。

 目の前には物言わぬ人形となった結弦の顔が見える。この状態になった人間に「キャラクター・ブック・ストリング」を介して役柄の情報を与えることで、アンリは理想の人格を植え付けることができるが、今は結弦に与える役を考える気になれなかった。

 疲労感がどっと襲い掛かる。結弦がこの部屋を訪れてから緊張状態が続いて心の休まる暇がなかった。

「少し……気分転換に外でも歩きましょうか」

 アンリは独り言を言って部屋を出る。いつの間にか黒猫の姿が見えなくなっていたが、気に留めなかった。




 アンリは商店街を歩いた。多くの人々が道路を歩き、物を売り、買い物をしている。繁盛しているように見えるが、これらはアンリに与えられた役割に従ったロールプレイをしているにすぎない。

 夏目アンリにとって街中を一人で歩くことはちょっとした冒険だった。根っからのインドア気質だったこともあるが、人間恐怖症を患っている大勢の人間が行き交う場所に赴くと精神的な負荷がかかる。

 ましてや、街中は学校のように最低限の安全が保障されていない。令嬢という立場のせいで誘拐される危険と隣り合わせだ。到底、心の休まる場所とは言えない。夜道となればなおさらである。

 しかし、今は違う。

(なんと……居心地が良いのでしょう)

 理想の世界になってから初めての外出だった。理屈ではわかっていたが、実際に外の世界に出て人とすれ違うことで感じた心地よさは段違いだった。

 行き交う人間は全てアンリの支配下だ。この世界にアンリの害を為す人は存在しない。結弦や円香みたいな例外があっても、アンリが「キャラクター・ブック・ストリング」を実行して命じるだけで道行く人々が守ってくれる。

『糸』によって人格を把握しているから見知らぬ人間が近づいても怖くない。心を締め付けるような他人への恐怖からも、生きづらかった世界からも解放された気分だった。

 結弦の提案に乗らなくて正解だと思った。彼の提案に乗るより、こっちの世界がずっと快適で理想的で、自由だ。

 アンリはしばらくの間、自由を謳歌した。安心して街中を歩けたことなど生まれてこの方一度もなかったから何もかも新鮮に感じられた。

 自由になったら真っ先に行きたいと常々考えている場所があった。本屋だ。読書好きなアンリだが、読むのは自宅の蔵書か通販で買った本だけだった。インターネットは便利なようで名前の知らない物を調べることは難しい。新しい本を買おうにも、題名だけ知っている本か、それと類似した本しか見つけることができなかった。

 だから、本屋に立ち寄って、聞いたこともない題名の本ばかりが並ぶ光景を目にした時、隠された秘宝を見つけたような気分になった。

 適当に歩くだけで初めて聞く題名の本が目に入る。一生ここにいてもいいかもしれないと思った。

 三冊ほど興味深い題名の本を手に取り、店員役の人間にお金を払って本屋を後にした。

「ねえ、そこの貴方」

 本屋を出てすぐに、偶然すれ違った少女に話しかけた。特に用事があったわけでもないし、顔見知りでもない。アンリが話相手に選んだのは近くにいたといいうだけだった。

 そこから一時間、アンリは他愛もない雑談を繰り広げた。

 とは言っても、話し相手がどんな返答をするかはおおよそ把握している。だから、その行為は会話ではなく生身の人間を使った人形遊びだ。だけどアンリはそれで満足していた。これまでも。これからも。夏目アンリは生身の人間を使った人形遊びで孤独を埋めようとする。



 立ち話に疲れたアンリはどこかでひと休みをしたくなった。地図を見ると近く公園があるらしいので立ち寄ることにした。

 その公園にはちょっとした池がある。池のすぐ側に設置されたベンチに座ったアンリは月明かりに照らされた水面をぼんやりと眺めた。

 どれぐらいそうしていただろうか。時間の流れを気にせずぼーっとしていると、ぽしゃんという音が聞こえアンリの意識を現世に呼び戻した。誰かが池に落ちたようだ。

 目を凝らして水面を見ると見るからに浮浪者という出立をした男が溺れていた。役の作り込みが甘い人形は空間把握に失敗したり、バランスを崩して事故を起こすことがある。

 お茶会のメンバーは綿密に人格を与えていたが、昨日今日で人格を書き換えた人形には、どうしても荒い作りの設定が生まれてしまっていた。

 周りの人間たちは助けようとしない。溺れた男は助けを求めようとしない。「公園を歩く人間」といういわばモブ程度の役割しか与えてない人形だから、どんなに苦しくてもアクシデントに対応できないのだ。

『糸』で人格を植え付けられたとしても、生命であることには変わらない。このままにしておけばあの男は溺死する。助けられる人間はアンリだけだった。そのことは理解していたが、アンリは助ける気になれなかった。池は汚いし、溺れる男は見るからに不潔だった。

 かといって、溺れ死に行く人間をこのまま観察するのは気が引けたのでアンリは見て見ぬ振りをすることにした。ベンチから立ち上がり、池に背を向ける。公園を出ようとしたとき、一陣の風がアンリの横を通り過ぎた。

 その風は自然現象ではなかった。誰かがアンリとすれ違ったときに舞い上がった風だった。

 すれ違った人物は誰なのか、と思う前にドボンという音が聞こえた。音の大きさからしてさっきまで見ていた池に“誰か“が飛び込んだ音なのは明白だった。

 錆びついたロボットのような硬い動きでアンリは背後を振り返る。池に飛び込んだ“誰か“が手慣れた様子で溺れた男を助け出し、陸に上がるところだった。

「おいおい大丈夫か?」

 その“誰か“はゲホゲホと反射で咳き込む男の背中をさする。アンリはその光景を信じられないと言った目で見つめていた。

「掛谷……先輩……」

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