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人間恐怖症の理由

 結局一からやり直すハメにはなったがタネさえできてしまえばあとはフライパンで火を通すのみ。玉ねぎを炒めたときのように常にかき混ぜる必要はなく、蒸し焼きにして、火の通り具合に注意を払いながら時々ヘラでひっくり返すだけだから片手に包丁を持った状態でもできる。結弦が近くで指示を伝えることもできるし、タイミングを逃して黒焦げにすることも、吐瀉物で台無しにすることもない。

 じゅうじゅうと肉の焼ける音を立てるフライパンを見守りながら、結弦はアンリにあることを聞くことにした。

「答えづらかったら答えなくても構わないんだけど」

「何をですの?」

 視線をフライパンに向けたままアンリは答える。

「夏目さんはなんで人間恐怖症に?」

 恐怖症克服のために知っておくべきだと前前から思っていた。きっかけさえわかれば克服の足掛かりになる可能性があるし、克服ができれば変に回りくどい戦法も取らなくて済む。

 そう思って聞いてみたが、アンリは視線をフライパンより少し下に落として沈黙だけを返した。

「すまない。忘れてくれ」

 結弦は引き下がろうとするが、それを引き止めるようにアンリは急いで答えた。

「別に大したことではありませんわよ」

 とはいうものの、アンリの言葉は続かない。聞かない方が良かったのかもしれないと、結弦は少し後悔した。

「……」

「……」

 フライパンの中で油が跳ねる音だけが厨房を支配する空間でアンリはしばし逡巡した。

「夏目家という歴史のある名家に生まれますとね、いろんな人から、いろんな感情を向けられますの。夏目家を貶めるようとする方、夏目家に近づいて利益を得ようとする方。そうなると、安易に人を信じられないのです。最悪。誘拐なんて事態になりますから」

 アンリは包丁を握る右手にぎゅっと力を込めた。

「先生は誘拐されたことはありますか?」

 "誘拐"などいう結弦の日常では縁のない単語に驚きつつも首を振った。

「わたくしはありますわ。何度も。何度も。……そんな環境で過ごしてるうちに、人がみんなわたくしに悪意を持っていると思うようになったのです。どんなに優しい人でも裏があるように思えてきて、恐ろしくなって、気づいたら人と向き合うだけで吐いてしまうようになりました」

 そこまで言ってアンリはその場にしゃがみ、気を紛らわすようにコンロの火を確認する。唇をきゅっと噛んでいて無理して話してくれたことが分かった。

「そうか……話してくれてありがとう」

 根本的な原因は幼少期からの経験に基づく人間不信。名家の子女という立場のせいで多くの人間の邪心・悪意に晒されてきた。平凡な家庭に生まれた結弦にはそれがどれほど苦しいものなのか想像することすらできなかった。

 考えられる方針は2つ。

 少なからず向けられる悪意に毅然と立ち向かえるようになるか。

 あるいは、周囲の人間が夏目アンリに悪意を持っているという思い込みを解消するか。

 どちらがより良い策だろうか。

 ハンバーグの様子に注意しながら考えていると

「誘拐といえば、掛谷先輩と初めて会ったのも攫われた時でしたわ」

「えっ」

 結弦は思わず考えるのを止めてアンリの方を見た。

「相席作戦の日が初対面じゃなかったのか」

「ええ。というか、その……助けてくださったのが掛谷先輩でしたの」

「……」

「その後すぐ警察が駆けつけたのでお話はできませんでしたけどね。お名前を知っていたのはわたくしの執念の賜物ですわ。もっとも、先日の様子を見る限りわたくしのことは覚えていなかったでしょうけど」

「そっか……」

(人質救助の方が楽って話、冗談じゃなかったんだ……)

 結弦は少し前に掛谷から言葉が経験談に基づいたものだった事実に気を取られていた。

「わたくしが掛谷先輩のことを好きになったのも、その事件がきっかけでした。当に人間が怖くなっていたのに、掛谷先輩に助けられた時だけ強烈に惹かれてしまいましたの。人間の心って不思議ですわね」

 アンリは左手を真っ赤に染まった頬に当てて恥ずかしそうに話す。恋に浮かれる乙女の姿そのものだったが、間もなくして彼女の表情は曇りじめた。我に返ったように頬に当てていた左手がゆっくりとおろされた。

「今思えば年が近くて顔の良い男性に助けてもらったからなのでしょうね。おとぎ話に出てくる白馬の王子様が助けに来てくれたように見えたのだと思います。お安い女ですわね」

 自嘲気味に笑うアンリ。それに対して結弦は

「そろそろ火が通ったかな」

 と言ってフライパンを指差した。

「少しは場の空気とか考えません!? 人が感傷的になっていますのよ!?」

 ハンバーグは生焼けだった。




 そのあと何度も失敗作を作り上げた後、アンリはどうにか一人でハンバーグに見えなくもないレベルものを作れるようになった

「……うっぷ」

 なお、試作品は生命の危険が危ぶまれるようなものを除き全て結弦が味見をしている。結弦の胃袋は破裂寸前だった。

「あとは練習あるのみですわね。出来栄えに自信を持てるようになったら先輩を誘ってみますわ」

「本当に大丈夫か?」

「ええ。完全に自力で作らなければ意味がないと思うのです。ですから、次にいらっしゃるのは先輩を誘えた後で大丈夫ですわ」

「了解した。まあ、僕もこれ以上顔が肉の脂まみれになるのは嬉しくないのでね」

「それは……申し訳ないと思っていますわよ」

 結弦に皮肉を言われアンリは唇を尖らせていった。

「じゃあ、僕はお暇するよ。困ったことがあったらいつでもよんでくれて構わない」

 結弦はアンリに背をむけ、厨房を立ち去ろうとする。その時だった。

「先生!」

 アンリが力強い声で結弦を呼び止めた。声に釣られアンリの方を振り返る。アンリは包丁を握りしめたまま、少ししおらしい表情を見せた。

「あの……ありがとうございます」

「別に。僕は役割を果たしただけだよ」

 とだけ言って、夏目家を後にした。


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