恐怖とせめぎあう想い
夏目アンリは人間恐怖症である。十歳の時に恐怖症を患ってから五年間、可能な限り他人との距離を置いて生きてきた。
特に困ることはなかった。身の回りの世話は親の雇った使用人が何も言わずに彼女の視界に入らないようにこなしてくれる。友達はいなくなったので会話の必要がないし、教師との会話は身振り手振りで察してくれるので困りはしなかった。
それでも最低限の会話をしなければならない機会はあったが、覚悟を決めれば数秒だけやり過ごすことができた。
自分の殻に閉じこもり、人と関係を築くことなく、これから先の人生を生きていく。アンリはその覚悟を決めていた。
なのに、アンリは掛谷正法という男に恋をした。自分で自分の感情が信じられなかった。人間など視界に入れるだけで恐ろしいのに、彼だけはずっと見ていたいと思った。もっとお近づきになって同じ時間を過ごしたいと思った。
その願望は徐々に膨れ上がっていき、抑えきれないほどの大きさになった時、人間恐怖症という障害が立ち塞がった。
こんなにも見ていたいのに。こんなにも話ししたいのに、掛谷と向き合うことを考えたら、人間への恐怖が勝る。自分が思いを寄せる相手でさえ、怖くてしょうがないのだ。
人間への恐怖と掛谷への恋慕の板挟みにの結果、思いを拗らせたアンリは盗撮という行為に走った。普通の人が懸想する相手と触れ合って心を満たすように、アンリは掛谷を盗撮して「掛谷を見ていたい」という欲求を解消し、写真の中の掛谷に話しかけることで、掛谷と会話している気分を味わっていた。
それだけでも十分幸せに満ちていたのだが、盗撮写真が部屋の壁を全て埋め尽くされた時、アンリは我に返った。何をやっていたのだろうと自身の愚かな行いが恥ずかしくなった。
盗撮などという下賎な行いはやめ、目を見て本物の掛谷と話せるようになるべきだ。いや、話せるようになりたい。
そのために人間恐怖症を克服しよう、とアンリは決意した。
しかし、無策に掛谷との会話を試み、恐怖から吐いてしまおうものなら到底巻き返すことができないような、最悪の第一印象を与えることになる。
掛谷との会話で失敗するわけにはいかない。まずは、別の人で練習してからだ。
「……で、その練習相手として、家庭教師という名目で生徒会に依頼を出した、と」
結弦は夏目家のトイレの扉に寄りかかり、アンリに問う。扉の向こうではアンリが便器に向かって吐き出している。
あれから三十分もの間、アンリはゲロを吐きながら途切れ途切れに生徒会に依頼するまでの背景を語った。結弦は彼女が語った内容を整理し、アンリ本人に最終確認をして今に至る。
「はい……おええ……それ……で……うっぷ……」
「最後まで言わなくていい。掛谷との仲を取り持ってほしい、ということだろう。僕が掛谷と友人だから」
「はい……おろろろ……それで……受け……くれ……おおえええ……」
「まあ、そうだな」
結弦は目的達成までの道筋を考える。正直、うまくいく自信がない。『恋の成就より世界平和の方が簡単だね』という掛谷の言葉が脳裏をよぎった。
(……いや、絶対過言だと思うけど言いたいことはわかる。)
そもそも人間恐怖症というハードルが高い。そのうえで、どれだけ手を尽くそうとも結局最後は相手の気持ち次第だ。迂闊に「任せろ」などとは言えない。
「ちなみに断ったら殺します」
「選択肢ないじゃねえか」
もとより結弦に断る気はない。だが、事前に明言しておくべきことがある。。
「僕がどれだけサポートをしようと最終的には掛谷の気持ち次第だからな。そこだけは了承できるか?」
「おええ……」
「いや、ゲロで返事されてもわからないが」
「おえええす……」
「……」
肯定と受け取った結弦は、まずは人間恐怖症を克服するための作戦を思案し始めた。




