人間恐怖症
夏目アンリは人間恐怖症である。
と、アンリのメイドである牧野は言った。理由やきっかけは分からないが、人を前にするだけで強い恐怖に襲われ、極度の緊張状態に陥るのだという。
「したがって、先ほどのように至近距離で会話をされますと嘔吐してしまうのです」
「もうちょっと早く教えてくれてもよかったと思いますけどね」
アンリの吐瀉物にまみれた体をシャワーで洗い流しながら、結弦は脱衣所の曇りガラスの向こうにいる牧野に向けて言った。
「着替えはこちらに置いておきますので、お使いください。私は別の仕事がございますので、失礼させていただきます」
「ありがとうございます」
結弦が礼を告げると曇りガラスに映る牧野のシルエットは一礼した後に消え去った。
「人間恐怖症か……難題だな」
結弦の独り言がシャワー室内にこだまする。
当然だが、人に物事を教える行為はコミュニケーションによって成立する。しかし、当の教える相手は人間恐怖症によって近づくだけで嘔吐する。これでは教えようがない。
悪夢のようだがシャワーで洗い流してもかすかに残る胃酸の臭いが現実であることを突きつける。
「なんにせよ、意思疎通の手段を見つけないとな」
結弦はシャワーの栓を閉める。
牧野が用意した着替えは桃園学院の男子制服だった。そして、その横に結弦が今日着ていたものと同じ下着が用意されている。
結弦がシャワーを浴びたのはものの五分。アンリの部屋に入ってから軽量しても三十分も経っていない。最近の洗濯機はこんなにも早く洗濯と乾燥ができるのかと思ったが、かすかに新品特有の匂いがする。
とりあえず着てみたがサイズは問題ない。
「いつ測ったんだ……下着に至ってはいつ見たんだ……いや、深く考えるのはやめておこう」
知らない方が良い気さえする疑問を捨て去り、脱衣所を後にする。
夏目邸ではシャワー室をはじめとした生活設備は全て、玄関ホールのある屋敷の中心に集中している。つまり、脱衣所を出ると玄関から入ってきたのと同様に、合わせ鏡みたいに同じ作りのドアが永久に続く廊下が左右に広がる。
そして今、アンリの部屋まで案内をしてくれた牧野は席を外している。
「どこだ……」
意気込んだはいいものの、アンリの部屋が玄関から何番目のドアなのか脱衣所を出て右側にあるのか左側にあるのかすらわからない。他の使用人に尋ねようにも姿が見えないので結弦は左側の廊下を少しずつ進んでは後ろを振り返り、玄関との距離感からアンリの部屋の位置を思い出そうとする。
「これぐらいか」
何度か歩みを進めるうちになんとなく見覚えのある距離感になった。
あとは手当たり次第にドアを開けるしかない。現在地から最も近い位置にあったドアをノックした。
「……」
返答がない。無人部屋だったのかと思ったが、アンリが人間恐怖症を抱えていることを思い出した。ノックしたところで彼女は返事ができないし、ノックに気づいていない可能性だってある。
家主に断りなく部屋に入るのは問題があるが、これ以外に術がない。結弦はゆっくりドアノブを回し、ドアを少しだけ押してみる。
鍵は掛かっていないことを確認した。ゆっくりとドアを押し、中を確認すると部屋には誰もいなかった。
違う部屋だったようだ。本来なら次の部屋にいくべきだが、結弦はその部屋のドアから動くことができなかった。
「なんだこれは……」
机もベッドも、ゴミ箱もない。家具が何一つ置かれていない部屋だった。そんな部屋の入口に釘付けになった理由は壁にある。
「なんで掛谷の写真がこんなに……?」
その部屋は全ての壁が掛谷の写真で埋めつくされていた。わずかな隙間もなく、ぎっしりと結弦の唯一と言っていい高校の友人の写真が貼られている。
ぐるりと一回転して部屋の全体を見渡す。
落ち着いて写真を観察しているうちに、ふと違和感を抱いた。もちろん、部屋一面が掛谷の写真で埋め尽くされていることではなく、ここにある写真は全て写真として何かおかしい気がしたのである。
左から右へなぞるように写真を眺めていくごとに違和感の正体がはっきりとしてくる。
(この部屋の写真の掛谷、皆カメラの方を向いていない)。
運動会や文化祭のような学校行事の様子を撮影した写真であれば納得なのだが、ここにある写真は全て日常風景を切り取ったように見える。そのうえ、明らかに掛谷を中心に撮影している。。
つまり、ここにある写真は全て
「盗撮……?」
思い浮かんだ可能性を口にした瞬間、バンッと何か硬いものが勢いよく叩きつける音が廊下の方向から響いた。
驚いてドアの方を振り返るとアンリが鬼の形相で結弦を睨んでいた。
「見ましたわね……?」
問い詰めてくる声は消え入りそうなか細い声ではない。離れていても十分聞こえるドスの効いた声だ。左手にナイフが握られているのも相まって迫力がある。
「見てしまいましたわね……?」
再度問い詰めるその姿に、おどおどして嘔吐した少女の面影はない。本当に同一人物なのか疑わしくなるほどだ。
「見ましたわね? 見てしまいましたわね? わたくしの秘密を……使用人も知らない……決して知られてはいけない秘密を……! 知ってしまいましたわねええええええええええええ!?」
獣のような慟哭を上げながら、ドスドスと足音を立ててアンリは結弦に詰め寄った。その振動で壁に貼られた写真がパタパタと音を立てる。
(一人称が「わたくし」でお嬢様言葉使う人って本当にいたんだ)
結弦は状況に見合わない呑気なことを考えていた。
「随分と饒舌だな。人間恐怖症は大丈夫なのか?」
結弦は空気を読まずに尋ねた。答えの代わりに、背中に強い衝撃が走る。次の瞬間には結弦の視界からアンリは消えて天井が映ってた。手のひらから感じたカーペットの感触で、結弦はアンリが自分の左足を払って転倒させたのだと気づいた。動きを知覚できないほど鮮やかな手腕だった。
体を起こそうとして、それはすぐに無意味な行動となった。結弦の上半身が起き上がりきる前にアンリは結弦に馬乗りになってそれを制止した。結弦の背中を床に押し付けようとする力は人一人分の重さとしては軽いが、猫と違って強引にはねのけるのは難しい。そのうえ、首筋にナイフ突きつけられているのでどちらにせよ下手に動くのはよした方よさそうだ。
「そのナイフ、僕を殺すつもりで持ってきたのか」
「ええ! もちろん! 生かしてはおけませんので!」
(どういうわけかちゃんと話ができている。聞くべきことを聞くのは今のうちかもしれない)
結弦は結弦でどこかずれていた。その思考は刃物を首筋に突きつけられているとは思えないほど呑気である。
激しい怒りが他人への恐怖を乗り越える力を与えてくれているのか、今のアンリは結弦を恐れずまともな会話を成立させていた。
(まずは打ち解けるための軽い会話からだな)
「この写真って全部盗撮か?」
「あったりまえですわよ! 誰が好き好んで目線の会ってない写真など欲しがるものですか! いえ、それはそれで趣はありますが、こっちをちゃんと見てくださった写真の方が良いに決まってます! 欲を言えばツーショットとかも欲しい!」
アンリは激昂した。聞いてもいない願望を吐き出すほどに。同時に、勝手に吐き出された願望のおかげで、結弦がこの部屋に入った瞬間から思っていた予想に確信を持った。。
「掛谷のこと好きなのか?」
変に取り繕うことなく直球で尋ねた。アンリは少し顔を真っ赤にしながら答える。
「ええ、そうですわよ! お慕いしてますとも! 好きでもない殿方を盗撮などするものですか! そして、わたくしはお慕いする殿方を盗撮し、写真を部屋に飾って楽しむ下賎な女!」
「そこまでは聞いてないし言ってないんだけどな」
「夏目家の娘がこのような趣味を持っているなど、御座いましょう! 笑いたければ存分に笑ってくださいまし! 最後は笑って逝かしてあげるなんて慈悲があるのでしょう! ああ~! あまりにも惨めすぎてわたくしも笑いたくなってきましたわ! あーはっはっは! はぁ……」
「情緒どうなってんだ」
アンリは目を見開いて捲し立ててきたかと思えば、ため息をついて落ち込んだ。
「まあ、盗撮は褒められたことじゃないし、友人の写真がこうして部屋一面に飾られている光景に複雑な心境になってはいるが、言いふらしたりはしない。僕の心の内にとどめておく。安心してくれ」
「はっ。わたくしも子供じゃありませんので、騙されませんわよ。誰にも言わないなんて言葉、信頼できるものですか。ましてやこんな滑稽なネタ、明日には学校中に知れ渡っておしまいですわ! 秘密を守れるのは自分と死者だけ。つまり、あなたには死んでもらいます」
「困ったな。死ねない理由があるんだが……」
「わたくしが申し上げるのも変ですが、あなた落ち着きすぎてはいませんか? ……って、え? あれ? 先ほど、なんとおっしゃいました?」
「死ねない理由がある」
「もっと前です!」
「言いふらしたりはしない」
「もう少し前です!」
「盗撮は褒められたことじゃない」
「戻しすぎですわよ! きっれいにわたくしが引っ掛かっているポイントだけすり抜けましたわね! わざとやってます!? って、この際どうでもいいですわ! あなた、掛谷先輩のご友人とおっしゃいました?」
「ああ。君が大量に盗撮した写真の被写体と僕は友達だ」
ちゃんと聞こえていたじゃないか、とは思ったが結弦は口にしなかった。
「それは……ちょっとお話が変わりますわね」
アンリは白い手袋に包まれた右手を顎に当ててぶつぶつと呟く。左手に握ったナイフはしっかりと、添えられたままだった。
「友達……もしかしたら……」
アンリの表情がコロコロと変わる。何か重大な決断をする覚悟を決めようとしている様子だった。
そして、しばらくして、アンリはナイフを結弦の首筋から離すと、そのまま床に置いた。
「あなたの……命は……み、み、み、見逃して……あげます」
途端に、アンリはしどろもどろした口調に戻った。怒りが消え去ったのか、ナイフを持っていないせいなのか、どちらなのだろう、と結弦は思った。
「か、代わりに……お、お、お、お、お願いが……あ……うっっぷ」
「お願い?」
聞き返しながら、結弦は自分の置かれた状況に気づく。さっきまでハキハキと喋れていたアンリは急にまともに喋れなくなった。これは一時的に抑えられていた人間恐怖症がぶり返したということだろう。
そして今、結弦は人間恐怖症がぶり返しているアンリと密着している。
「はい……その……えっと……ううっ……」
アンリの顔色がみるみる青くなっていく。逃げようにもアンリは結弦に馬乗りになっているので逃げることができない。
「おええ……」
本日二度目の吐瀉物が結弦の顔にぶちまけられる。
顔を拭いながら、シャワーを浴びるのは帰る時だけでいいや、と結弦は思った。




