黒猫の落とし物
結弦はしばらくの間、流れ落ちる水を眺めながら呆然としていた。
結弦を現実に引き戻したのはポケットから鳴り響いた着信音だった。姉からの着信だ。時刻は20時をすぎている。心配をかけてしまったと反省し電話に出た。
「もしもし」
「もしもし、結弦? 今どこにいるの?」
案の定、姉の声は心配げだった。
「ごめん。まだ学校。迷子になった」
「あらら」
正直に答えると姉は安心したのかいつもの声色に戻った。
「桃園は広いからね。しょうがないよ。帰り道はわかる?」
「ごめん」
「おっけー。迎えに行くから目印になるもの教えて」
「えっと」
とうに暗闇に包まれた周囲を見回してみるが、目印になりそうなものなど一つしかなかった。
「滝……でわかるかな?」
「滝? あー、世界樹跡地ね」
知らない固有名詞だ。しかし、桃園学院の卒業生、それも結弦と違って幼稚園から通っていた姉にとっては馴染のある場所のようだった。
「世界樹跡地?」
「うん。都市伝説として聞いたことない?」
「いや、ないかな」
「それもそっか。高等部の校舎からは遠いし、そういうのって中等部にもあがれば噂にしなくなるもんね。トイレの花子さんと同じで」
(そっちはつい最近聞いたんだけどな)
「石碑が滝のすぐ近くにあるよね」
結弦は視線を落とし、石碑に書かれた不思議な模様を見つめた。
「あるね」
「その石碑があった場所にはね、世界樹っていう願いを叶えてくれる木が植えられていたんだって」
「願いを叶えてくれる、ね」
「その木はずっと昔に枯れてしまったんだけど、願いを叶える力は今でも残っていて、石碑に向かってお祈りすると願いが叶う、っていうのが流行ったなあ」
電話の向こうから車のエンジンのかかる音が聞こえた。
「じゃあ、今から迎えに行くね。せっかくだし、なんかお願いでもしてみたら。ギャルのパンティーおくれ、とか」
「高校生にもなってそんなお願い事する人なんていないよ」
そうして姉との通話は切れた。
携帯電話をポケットにしまい。石碑をじっと見つめる。
せっかくの機会だが叶えたい願いは思いつかなかった。もともと結弦は無欲な人間だ。欲しいものも、自分がやりたいこともよくわからない。代わりに猫に化けた少女の後ろ姿が脳裏をよぎった。
彼女には叶えたい願いがあったのだろうか。中学生までしかあてにしないような都市伝説を頼りにして、高等部から遠いらしいこんな場所に来て、そこまでして叶えたい願いが。その願いは目の前で猫に変わったことと何か関係があるのだろうか。
そんなことを考えていると、脱ぎ捨てられた女子制服が目に止まった。
「…………一応、回収しておくか」
あの少女は誰なのか、制服だけが残っている理屈もよくわからないが、このままでは汚れてしまう。あの少女に学校で再会したら返せばいいし、しばらく会わなかったら捨てればいい。
制服を拾いあげると何かがぼとりと落ちた。落下地点にあったローファーに覆いかぶさったそれは女物の下着だった。
「別に願ってないんだけどな」
結弦はぼやきながらローファーと下着も鞄につめた。