3-2.沙羅の導きに従うまま通りをゆっくり走らせていれば……。
沙羅の導きに従うまま通りをゆっくり走らせていれば、そう時間もかからずに目的地に到着する。商店街を旅館側に引き返し、山道とはいかぬまでも緩やかな坂道を上りきったところである。
バスセンターとは名ばかりの、水色のカラーベンチに、三方をベニヤ板で囲った戸口もない掘っ建て小屋である。壁には誰とも知れぬ候補者を写した選挙ポスターが貼られている。標柱に貼り付けられた時刻表を見れば、朝と夕方、二本ずつの運行計画となっている。
バイクを止めた絢哉は、沙羅を降ろしてヘルメットを預かる。
「ありがとうございます。初めてバイクに乗ったけど、新鮮でした」
「それは何より。時間は大丈夫かい」
「ええ。あと五分くらいだからぴったりです」
乱れた髪を整えながら沙羅は答えた。
「五分って。歩いていたら間に合わなかったじゃないか」
「大丈夫ですよ。これを逃しても次のバスがありますし、最初から絢哉さんに乗せてもらうつもりでしたから」
そう言って沙羅は悪戯を成功させた子供のように笑った。その無邪気な笑顔を見ていられず、絢哉は理由もなくバイクを降りて風景に目を逸らす。
停留所は高所に位置しているらしく、隠れ里の全域を見渡すことができた。
里は左右を山に挟まれた扇状地となっており、正面は海に面している。
左側、山の中腹にあるのは昨夜世話になった塞ノ神神社だろう。
右側、山の麓に見える和風建築は藤ヶ谷旅館である。
神社と旅館の間に広がる盆地を埋めるように、木造や煉瓦造りの家々が並んでいる。
海側には小規模な港があり、十にも満たぬ漁船が浮いている。海沿いの架橋を走る幹線道路は国道四十五号線、隣接する線路は三陸鉄道リアス線だろう。
前時代的というには整然とした景観であり、それでありながら家屋のひとつひとつが瀟洒に富み、一定の郷愁を保って――現代と近世の狭間に取り残されたような町は、夢に浸っているかのような感傷を抱かせた。
停留所のすぐ先は隧道である。
「あのトンネルはどこに繋がっているんだい」
「岩泉町の市街ですよ。宇霊羅と外界を繋ぐ唯一の道路です。町民バスか、業者さんのトラックが通るくらいですけど、私達にとっては生命線なんです」
「なるほど。俺が事故を起こしていなければ、この道を通っていたわけか」
「きっと、そうでしょうね。そんなことより――絢哉さん。お願いがあるんです」
ベンチに座る沙羅が言った。
真面目な声色に振り向けば、沙羅は餌を強請る猫のような顔で絢哉を見詰めていた。
「絢哉さんがここにいる間は、絶対に里を出ないでください」
「それは、またどうして」
「心配するから、ですよ。別に、絢哉さんを束縛するつもりはありませんが、せめて式年祭が終わるまでは、旅館でゆっくり休んでくれませんか」
「お祭りが終わるまでって、終わるのは十日だろ。俺はそんなにいないよ」
滞在の予定は十月七日まで――今日を含めて一週間である。長々と居座って旅館に迷惑を掛けたくもないため、心情の整理がつき次第、早々に引き揚げることも考えていた。
「それは分かっています。でも、心配なものは心配なんです。お願いします」
「分かった。約束するよ」
特別断る理由もなかったため絢哉は承諾する。
確かに過保護ともいえる沙羅の態度は奇妙であり、有無を言わさぬ圧力すら秘めていたことも気に掛かったが――事故を起こして死にかけた客に対するひとつの歓待と思えば、そう不思議がることでもない。また気を遣ってくれること自体に悪い気はしなかった。それが紗絵に似た人物であるなら尚更のことである。
「あ、来ましたね」
沙羅が隧道を向いた。
視線を追えば、古い外観のバスが緩慢な速度でトンネルから這い出たところであった。
あれが岩泉町民バス――岩手県下閉伊郡岩泉町を運行する廃止代替バスである。
平成十五年にJRバスが廃止となって以降統合された路線バスであり、岩泉運輸、小川タクシー、岩手県北バスの三社が運行を受託している。愛称は「ふれあい龍泉号」だったはず――と絢哉は仕入れた覚えのない記憶を辿る。
年季の入ったバスは絢哉の前を素通りすると、道を下った先の円形地帯で旋回してから停留所に戻ってくる。車内には人の良さそうな運転手がいるだけで、乗客はひとりもいない。
「絢哉さん、行ってきます」
「ああ。学校、頑張ってな」
鞄から定期を出した沙羅は、前乗りの扉が開かれると、軽快な足取りで乗車する。
運転手と沙羅は親交があるらしく、今日は彼氏の見送りつきかい、と運転手が揶揄うように尋ねれば、旅館のお客様です変なことを言わないでくださいよ、と沙羅も笑いながら答える。紗絵が着席したのを確認してから、運転手はバスを発進させる。
田舎らしい、のどかな光景であった。
絢哉には、制服を着て通学する沙羅が太陽のように眩しく見えた。
ベンチに座り、項垂れる。
紗絵の死を受け容れるためにここまで来たが――それを果たしたところで時間は戻らない。紗絵が生き返るわけでもなければ、復学できるわけでもない。代わり映えのしないバイト漬けの日々に立ち返るだけである。
せいぜい、ほんの少しだけ真面目に生きてみてもいいかもしれないと思うくらいで――今日まで積み重ねた悪行が帳消しになるわけでもない。膨大な負債が、ほんの少しばかり零に近付くだけの話でしかないのだ。
――諦めろよ。因果からはどうしたって逃げられやしないのだから。
頭では理解していた。覚悟もしていた。
だが、どこにであるような高校に通い、ありふれた青春を謳歌していた絢哉にとって、過去と現在の落差は何よりも耐え難い痛苦であった。恥辱であった。途方もない落差は、何をもってしても埋められやしないことも分かっていた。
――紗絵。
彼女が今の俺を見たらなんと言うだろう。
ああ、そうだ。
昔は、ここで紗絵と遊んでいたのだ。
その記憶を追ってみるのもいいかもしれない――。
絢哉は立ち上がる。
自身の境遇に陶酔がなかったといえば嘘になる。
悲劇の英雄宜しく精神の摩耗を無視して、どこまでも勢いのままひた走っていけると信じていたのだが、所詮それは虚勢でしかなかった。知らず識らずのうちに活力は尽きていたのだ。
絢哉はバイクに跨がり旅館まで引き返し、本館横の駐車場らしき空き地に停める。旅館が所有しているらしいマイクロバスと軽トラが停まっているだけで宿泊客の車両は見られない。隅には大きな蔵がどっしりと構えている。
部屋に戻らず、その足で商店街に向かう。町並みを観察する以上に視線があちこちを彷徨しているのは、脳髄の奥底に眠る紗絵の面影を探しているからである。
不意に、目と鼻の先を幼き頃の紗絵が駆けていった。
彼女は川に架けられた橋の中間で立ち止まると、欄干に両手を乗せ、川面を覗き込むように身を乗り出す。その後、紗絵は立ち尽くす絢哉に振り向いて、笑顔で手を振って――幻影は消えてしまった。
誘われている、と絢哉は思った。
己も橋に立ち、手摺り越しに川を見下ろすが、透明な水が流れているだけで、特別な感動を齎すことはなかった。魚も見えなければ、川の水が止まってくれるわけでもない。
絢哉は遠方の行列に気付く。
行列は真っ直ぐ神社に続いている。長蛇の列であった。
皆一様に顔を伏せ、辛気臭い表情をしているものだから葬列のようである。否、彼らは神社に死者の声を降ろしてもらいたいがゆえに並んでいるのだ。死者を悼むという意味においては、きっと葬列以外の何物でもないのだろう。
絢哉は、石段脇の広場にある長椅子に座り込む。
沙羅から行くのは控えろと言われていたが、進行の如何によっては自分も参加しようと思ったのだ。それ以上に、抹香の匂いに惑っているような、死んだように生きている者達に親近感を抱いた。彼らと同じ空気を共有したかったのだ。
牛歩の如し葬列を眺めていた絢哉は、その中に見覚えのある影が混じっていることに気付く。
昨夜、旅館の中庭に佇んでいた黒服の女である。窓越しに見た時は夜であり、女が亡霊染みた悲愴を放っているように見えたが、陽光の許では、ひとりの弔問客でしかなかった。
絢哉は、女の蒼白な横顔に目を奪われていた。
自らに注がれる不躾な視線を感知したであろう女も振り向いた。
互いの視線が交差して――女の表情が崩れる。まるで会いたかった故人に見えたかのような驚愕と喜色が混じり、堪らずに女は両手で口許を覆ってしまう。今にも、こちらに向かって走り出しそうな様子であり――事実、女は絢哉へ半歩踏み出していた。
怪訝に思ったのは、絢哉の方である。
だが、女が迫ることも、絢哉が立ち上がることもなかった。
「――もし。君が渡会絢哉君だね。隣、いいだろうか」
二人をその場に縫い付けたのは、絢哉の前に現れた男である。
二十代中頃から後半程度、絢哉の少し上という年格好であり、黒の洋襟に白衣を羽織った姿は研修医宛らである。高い鼻梁に涼しげな目元が特徴の、長身痩躯の青年である。
「ええ、どうぞ」
絢哉は戸惑いながらも身体をずらし、青年が座る空間を作ってやる。
「いや、悪いね突然声を掛けて。君を見ていたら、どうにも放っておけなくて」
青年は絢哉の隣に座ると、葬列を眺めながらにこやかに語り出す。
「どういう意味ですか」
「なに、君は有名人だからね。それに、向こうに並びたがっていたようだったから」
「有名人?」
首を傾げる絢哉に、もしかして気付いていなかったのかい、と青年は尋ねる。
「亡き恋人を追って来たというのに、道中不幸な事故を起こしてしまったのは君だろう。藤ヶ谷さんのお嬢さんが大層気を揉んでいたよ」
「なぜ、それを」
「なぜって、ここは時代の流れに取り残された陸の孤島だからね。都会から来た君には掴み難いかもしれないが、他人様の噂が一流の娯楽になってしまうような辺鄙な土地なのさ。大方、君の境遇は村全体に知れ渡っているだろうが――まあ、これが田舎だ。悪く思わないでくれ給え」
「それにしたって、昨日の今日ですよ」
噂の伝播が早過ぎやしないだろうか。
己の行動を逐一監視されているような嫌悪を覚えたが、青年の言う通り田舎ではそれが普通なのかもしれない。紗絵と父親の故郷を嫌いになりたくもなかった。
「昨日の今日? ――ああ、そういえば、そうだったね」
胡散臭い笑顔を貼り付けた青年は、そんなことよりも、と続ける。
「君は、あれに並ぶつもりだったのかい?」
「まあ、進行にもよりますが。俺はそのためにここまで来ましたから」
「悪いことは言わない。今日のところは止めた方がいだろう」
青年はどこか言い難そうに告げた。
口調こそ柔らかなものであったが、その言葉には明確な否定が含まれていた。
「なぜですか」
「君に、故人を降ろす資格がないからだよ」
「それはどういう意味でしょうか。――手前、喧嘩売ってんのか、おい」
絢哉は、青年の発言に耐え難い侮辱を覚えた。
青年の横顔を射殺さんばかりに睨むが、当の本人に悪びれた様子は毛頭ない。
「喧嘩だって? ああ、済まない。そんなつもりはなかったのだ」
「なら何だよ」
青年の取り澄ました態度が気に入らなかった。
少し前の絢哉であれば間違いなく暴力に訴えていた。相手の鼻先に裏拳を放ったのち、馬乗りになって顔面を二三発殴るくらいはしていただろう。だが、絢哉は堪えた。自分に紗絵の声を聞く資格がないというのは、絢哉自身察していたこと――図星であったのだ。正論に対する反論を述べたところで、余計惨めになるだけだと悟っていたのだ。
青年は少しばかり緘黙したのち。
「今君が行っても、神主殿を困らせてしまうだけだからな」
と言った。婉曲的な言い回しであった。
「そんな顔をしないでくれよ。君は宇霊羅式年祭のことを何も知らないだろう」
「知っていますよ。神社に頼めば、死んだ人の声を降ろしてくれるのでしょう」
「それはそうなんだが、それだけじゃないんだ。あれを見給え。あんなに大勢が列をなしているのだ。こう言ってはなんだが、故人の声を降ろすようなイタコ擬きの神事で、全国津々浦々からあんなにも人が集まるものか。ここは誇るものが何もない山奥の寒村だぜ」
「つまり、口寄せ以上の何かがあの神社にはあるということですか」
「そういうことさ。詳細は、とても僕の口から述べることはできないがね。ああ、睨まないでくれよ。別に僕だって意地悪で秘匿しているわけじゃない。荒唐無稽かつ残忍酷薄な――外界から訪った君には、とても信じられるような話じゃないんだ。だから」
青年は絢哉を見遣る。
そこで絢哉は、青年が整った顔立ちをしていること、その眸が黒曜石の如し無機質な光を湛えていることに気付く。己が相手の名を知らぬことにも。
「自身の目で確かめるべきだ。君は藤ヶ谷旅館で食客をしているんだろう。ならば他の客を見ていれば自ずと理解できるはずだ。うん? まだ分からないという顔をしているな。ならばもう少々ばかり踏み込むとするが――宿泊客の数に注目し給え」
「宿泊客の数?」
絢哉が聞けば、そうだ数だよ、と青年が首肯く。
「宿泊客の人数が増えるんだよ」
「増えるって、祭りのために全国から人が集まるなら何も不思議ではないでしょう」
「それはそうなんだが――まあ、いい。君ならいずれ分かるさ」
勿体振ったように言ったのち、青年は黙ってしまった。
絢哉も無理して会話をする気にもなれず、沈黙が続く。
「君は、見て呉れによらないんだな」
青年は言った。
「何の話です?」
「君だって鏡くらい見るだろう。風貌だけなら世に背中を向けた破落戸だが、話しぶりは帝国大学の模範生のようだ。実にちぐはぐで――魂魄が乖離しているかのような印象を受けてしまうな」
「まあ、少し前までは普通の高校生でしたからね」
そしていつかは大学に進学して、卒業後はどこかの優良企業に就職するものとばかり信じていた。尤も、そんな将来設計など何の意味もなくなってしまったが。
「あなたの名前をお伺いしても?」
「ああ、失敬。自己紹介がまだだったね。僕は三浦雪彦というんだ。見ての通り医者だよ。年齢は――はて、何歳だったかな。失念してしまったよ。まあ君より年上なのは確かなのだが、別に敬語は要らないよ。友垣に接するように話し掛けてくれれば嬉しいね」
そこまでを流暢に喋り、黒い眼差しの青年――雪彦は、絢哉に右手を差し出した。握手のつもりらしい。
「渡会絢哉です。よろしく」
短く述べたのち絢哉は握手に応じる。
絢哉と青年の体温は近いらしく、熱いとも冷たいとも感じなかった。
・隧道から先には行ってはいけない
・仕入れた覚えの無い記憶
・外見と内面の乖離
・冷たいとも熱いとも感じない