3-1.振り子時計の鳴る音で……。
振り子時計の鳴る音で絢哉は自我を取り戻す。
計六回、午前六時である。
掛け布団と浴衣の乱れが全くないことから、死んだように眠っていたらしい。
上体を起こして日が差す窓を見れば硝子越しに雀の囀りが聞こえる。備え付けの洗面所で顔を洗い、布団を畳んで居室の隅に寄せる。私服に着替えれば、ようやく頭も冴えてくる。その頃には、紗絵の夢を見たどころか夢を見たという事実すらも忘れていた。
座椅子に腰掛け、昨日座卓に置いた紗絵の日記帳を眺める。
部屋にはテレビすらなく携帯も壊れた今、絢哉は早くも手持ち無沙汰に直面してしまった。時間を潰せるあてなど眼前の日記しか残されていなかった。そこで絢哉は、己が時間を持て余すことを厭う性分であったことを思い出す。紗絵の死から今まで、罪悪感と焦燥感に駆り立てられるまま生きてきたせいか。暇になった途端、我が身の置き所と相応しい立ち振る舞いが分からなくなってしまうのだ。
――いや、暇潰しではないのだ。
紗絵に会うこともそうだが、日記を読んで、気持ちに整理を付けることも本来の目的のひとつなのだ。紗絵の死を受け止めなければならない。紗絵がどんなことを思い、そしてどんな思いで死んでいったのかを知らなければならない。
――行け、行くのだ。何を恐れることがある。
己を叱咤して、分厚い日記に手を伸ばした時である。
「ごめんください」
部屋の外から呼びかけられた。
戸口に吊された南部鉄器の呼び鈴が鳴らされる。
絢哉が応じれば、主室の襖が滑らかに開かれた。
入ってきたのは沙羅であった。学生服に、酢漿草の家紋がはいった前掛けをつけた格好である。膳を乗せた盆を持っている。
朝食の時間なのだろう。
昨日女将から伝えられた時間ちょうどであった。
「絢哉さん、おはようございます。食事をお持ちしました」
「ありがとう。ちょうどいいタイミングだったよ」
絢哉が手にした日記帳を脇に避ければ、沙羅はてきぱきと絢哉の正面に配膳を始める。白米と味噌汁、鮎の塩焼き、揚げ豆腐に漬物という一汁三菜の献立であった。
わざわざ沙羅が食事を部屋まで持ってきてくれるあたり、良くも悪くも特別扱いされているのだと絢哉は思う。他の客と扱いを同じにしてほしいとも思うが、今それを沙羅に伝えたところで困らせてしまうことが目に見え、あえて要望を伝えることはしなかったが。
絢哉が食事を始めても、沙羅は斜め後ろに控えたままであった。ここにいても大丈夫なのか、と絢哉が視線で問えば、それをどう受け取ったのか、食べながらで良いのですが、と沙羅は話し始める。
「絢哉さん。本日の予定は決まっておりますか?」
「いいや、今のところは何も。強いて言うなら日記を読むくらいだよ」
「日記、ですか?」
沙羅は、絢哉が説明する前に、座卓の隅に寄せられた日記帳に目を向ける。
「生前、紗絵が書いていたものだよ。俺には、未だに開くこともできない」
「どうして、ですか」
「どうしてって、そりゃあ」
恨み言ばかり書いてありそうだもの、と言いそうになり慌てて口を噤む。
「まあ、色々と思うところがあるんだ。とても整理がつけられないことばかりだよ」
取り繕うように答え、食事を再開する。
これ以上立ち入ることは許さないという拒絶の意思表示である。
察してくれたであろう沙羅は、今日のことなのですが、と話題の転換を図る。
「朝、少し出ませんか?」
「出るってどこに。学校はいいのか」
「学校に行く途中に、ですよ。ほら、絢哉さん、ここまでバイクで来たじゃないですか。そのバイクを預かって修理してくれたお店に案内したいなと思っていたんです」
「なるほど。そういうことなら是非とも頼むよ」
絢哉が承諾すれば、沙羅は小さくはにかんだ。そのどこか遠慮がちな仕草は、やはり紗絵に似ていて、反射的に顔を背けてしまう。後生大事に守っていた紗絵の面影が侵食されるのを本能的に恐れたのだ。生者と死者を重ねるなど、紗絵のためにも沙羅のためにも、そして己のためにもならぬという強烈な自制も働いた。
その後は取り留めのない会話に興じていた。
里の外にある県立高校に通っていること。高校二年生であり絢哉の一つ年下であること。日頃は調理や配膳、掃除など旅館の手伝いに奔走していること。宇霊羅式年祭は七年に一度の式年祭であり、旅館は既に予約で埋まっていること。それだけ、故人に会いたいと願いう者の多いこと。今日の昼前には神社は参列者で混雑するであろうこと――。
絢哉は、互いの共通点である紗絵の話題を徹底的に避けたつもりであった。だが彼女が紗絵の妹であり、また己が紗絵に会いに来た以上、逃避にも限度があった。
絢哉が観念すると同時に食事を終えた。
話に気を取られていたせいか、美味いとも不味いとも感じなかった。
旅館の正門で落ち合う約束を交わしたのち、沙羅は慎重な手付きで盆を持ちながら退室する。
身支度を調え、長押に掛けていたジャケットを羽織り、絢哉は部屋を出る。ビジネスホテルにあるような自動施錠装置なんてものはない。誰かが入ろうと思えば、簡単に入ってしまえるだろうが、金目になるようなものなど何もない。ましてこんな田舎に泥棒などいないだろうという油断もあり、絢哉は鍵をかけることはしなかった。
絢哉が受付へ出た時には、既に学生鞄を提げた沙羅が待っていた。
「悪い、お待たせ」
絢哉が声を掛ければ、私も今来たところですよ、と沙羅が振り返る。
「まずはバイク屋でいいんだよな」
「はい。表通りにはあるけど、ちょっとだけ分かりにくい場所にあるんです」
沙羅は意気揚々と歩き出す。
中秋の早朝らしい、靄がかった冷たい空気であった。緩やかな傾斜の路地を抜け、水路が横を流れる商店街に出た。昨夜も通った道である。
多くの店舗が開店の準備に勤しんでいる。
すぐそこの青果店では、帽子を被った老夫婦が瑞々しい商品を店先に並べたり、段ボールを載せた荷車を動かしたりと、朝の営みは忙しない。
人気の絶えた光景を最初に見ていただけに、旅館の従業員でもない第三者は新鮮だった。尤も、すれ違った者皆が沙羅に笑顔で挨拶するあたり、彼らは他人でも何でもなく、良好な人間関係――偶像のような扱いかもしれないが――が存在しているのだろう。
――むしろ余所者は俺の方だよな。
死者の声を降ろしてくれるという幻想の郷に文字通り流れ着いてしまったと夢想して、内心その状況に得意になっていた絢哉は己が恥ずかしくなってしまった。
件のバイク屋は、表通りを一本逸れた場所にあった。
亜鉛鉄板の看板には『岩崎二輪店』と堂々たる文字が並び、その下には『メーカー指定販売店』とゴシック体で書かれた、錆だらけのパネルが吊られている。
店舗の前では、煙管服に身を包んだ男が、縁石に座り込んで煙管を咥えている。あれが店主だろう。壮年の男性がどこか不機嫌そうに紫煙を燻らす姿は大層様になっていた。
「おぉ、藤ヶ谷さんとこのお嬢さんじゃないか。どうしたんだ?」
店主は沙羅を見て不格好な笑みを浮かべる。
「おはようございます。預かってもらっていたバイクを引き取りに来たんですよ」
「預かってたバイクだあ?」
「ほら、あの黒くて大きいやつですよ。事故があって、直してもらったじゃないですか」
「ああ、あれか。思い出したぜ。年を取ると忘れっぽくなるからいけねえ。ともすれば、そいつが事故った兄ちゃんってわけかい。なるほど道理で悪い顔をしてやがる。若い頃の俺にそっくりだぜ」
店主は、黒目がちな瞳で絢哉を見る。
「兄ちゃん。バイクと命は大切にしなきゃいけねえぜ。まあいい、入ってくれ」
煙管の燃え滓を、ぷう、と吹き捨てた店主は、立ち上がって絢哉の背中を二度叩いた。
店主に促されるまま入店すれば、自転車から原付、中型から大型までの二輪車が所狭しと陳列されている。そのどれもが十年前のカタログに載るような絶版車ばかりであり、見る者が見れば垂涎ものの品揃えであった。エンジンオイルの臭いが立ちこめる、如何にもバイク屋といった気配である。
目的の車両は一番奥に置かれていた。原形を留めぬほど大破しているものと覚悟していたが、意外にもバイクは無事であった。
「兄ちゃんのはこいつだろ? ほとんどの部品がメーカー取り寄せの交換になっちまった。交換していないのはエンジン周りとマフラー、あとは社外品くらいだぜ」
店主は、ハンドルに下げた納品書を絢哉に突き出す。
受け取れば、店主の言った通りほぼ全ての部品が交換されていた。新車を買った方が手間がかからないくらいである。
当然、絢哉に修理を依頼した覚えはない。持ち主の発注を得ずに修理するなど、バイク屋としてどうなのかと反感を抱きもしたが、この場合助かったのも事実である。
絢哉は、復讐の道具として活躍してくれたバイクを手放したくなかった。歪ながらも紗絵との思い出のひとつであり、今となっては自身を形成する一部となっていたのだ。
「諸々の整備はばっちり済ませておいたぜ。事故車両になっちまったが安全に乗る分には問題ないだろ。錆だらけなのは勘弁な。長いこと雨ざらしだったからよ」
車両に近寄って見れば、確かにエンジン回りとタンクに発生した錆が目立つ。
エンジンガードに至っては塗装が剥がれて変形までしているが、見方によってはダメージ加工のように見えなくもない――ような気もする。
「ありがとうございます。費用はどれくらいになりますか」
「費用って。兄ちゃん、払うつもりなのかい?」
こりゃ見上げた根性だ、と店主は豪快に笑い出す。絢哉は店主が笑う理由が分からず沙羅に通訳を求めるが、沙羅も困ったように首を傾げてしまった。
「金なんざいらねえよ、俺が勝手に直しただけだからな。それに兄ちゃんから巻き上げるつもりはこれっぽっちもねえよ」
「いや、しかし、こんな大がかりな修理を無償というのもおかしいですよ。一括では払えないかもしれませんが、いずれお返しします」
「駄目だよ。兄ちゃんからは受け取れねえ。俺が好きでやったことだからな。もう二度と事故なんか起こさず、大切に乗ってやってくれや。お嬢さんもそう思うだろ」
店主は強引に話を纏めてしまう。
腑に落ちぬ絢哉であったが、沙羅にも強く頷かれ、また無謀な運転の結果、案の定事故を起こした身としては反論できなかった。
ゴーグル付きの半帽と革手袋こそ買い直したものの、結局、絢哉は修理の対価を支払うことなく愛車を引き取ることにした。
店舗の前で車体に鍵を差しスターターを押せばエンジンはすぐに始動する。
「あの、絢哉さん。このバイク――姉さんが死んだあとに買ったものですよね。後ろに乗せていただけませんか?」
「それはいいけど、君こそいいのか」
「はい。お願いします」
何が嬉しいのか、沙羅は大袈裟に頷いてみせた。彼女の反応は意想外であった。事故を起こした者の後ろに乗りたがるなど物好きもいいところである。しかもこれは縁起の悪い事故車両である。
店主から、里では時速三十キロ遵守すること。規則も緩く、仮令無帽でも捕まることはない。車も納品業者のトラックか町民バスくらいしか走らない――という雑把な説明を受けた絢哉は、ひとつしかないヘルメットを沙羅に譲り、バイクに跨がる。
「それで、どこに向かえばいいんだ。あまり複雑な道だと俺が旅館に戻れなくなる」
「バスセンターまで。このまま真っ直ぐ、表通りを道なりに進むだけだから大丈夫ですよ」
「分かった。安全運転に努めよう。さあ、乗ってくれ」
沙羅に、後部座席に横乗りしてもらう。
沙羅は、両手で絢哉の身体を締め付けた。分厚いジャケットに阻まれ、彼女の体温を感じることこそなかったが、絢哉は胸にこみ上げる懐かしさを感じた。
二人を見守っていた店主は。
「お熱いねえ。兄ちゃん、やっぱり俺の若い頃に似ているぜ」
と憐れむように笑った。
・食事を見守る沙羅
・上手いとも不味いとも感じない
・錆だらけのバイク
・エリミネーター250V格好良いよね