2-5.夢を見ていた。
夢を見ていた。
息を切らしながら這いつくばって、磨き抜かれた床を眺めていた。
転んでしまったのだと絢哉は思った。
確か、俺は近所の子供達と駆け比べをしていたはずだ。
大型連休の初日、唐突に親父が帰省すると言い出して、祖父母の家で夕食を摂ったのち、仲間数人と共に馴染みの旅館に来た――はずである。
これは、俺の過去である。夢を通して、俺は忘れていた記憶を見ているのだ。
夢であると分かっているのを、不思議とも思わぬ夢であった。
「大丈夫ですか?」
背後から声をかけられる。女の声であった。身体を起こそうとするが、激しい頭痛と眩暈で立ち上がることもままならない。それでもどうにかして顔だけを上げれば――。
目と鼻の先に、一隻六扇の屏風が広がっていた。
無残絵である。
漆黒の世界を、髭を蓄えた長髪の男が遁走している。その背後を、恰幅の良い女官達と武装した鬼達が、銘々の得物を掲げて追っている。
その最後尾に――屍体が立っていた。
白無垢にも似た死装束は膿と体液で黒く穢れ、凄惨たる光沢を放っていた。
唇は青黒く溶けて、半開きになった口からは、丸々と肥えた蛆がサラサラと零れている。見開かれた眼は瞳孔が開いて――悟性が欠落して、代わりに獰猛な光を湛えている。
膚は死斑に塗れ、痩せた手脚は木乃伊の如し質感である。だというのに下腹部だけは不格好に膨張して、美しかったであろう生前の姿など見る影もない。
だが、それだけではない。
女を屍人たらしめているのは双眸から流れ出る泪であった。
絢哉は、死人が泣くなど有り得ぬと知ってはいたが――それでも、その透明な雫が、男を想うあまり流れ出たものだと悟ってしまった。
そして。
死穢に呑まれた己を見て逃げ出した男への怨恨。
黄泉戸喫を犯したがゆえに生者の国へ帰れない己への悲嘆。
全ての感情が滅茶苦茶に乱れた、死別に懊悩する女の美しい貌に見えたのだ。
迫真かつ繊細な筆遣いで描かれた屏画は、ただの無残絵ではない。
日本書紀ないし古事記にも載せられる永訣の物語――。
「伊邪那岐命と伊邪那美命の、根堅州国の場面ね」
そんなに気味の悪い絵を見てどうしたの、と背後に立つ女が尋ねる。
正座していた絢哉は、首だけで振り返り――言葉を失った。
紗絵がいた。
幼少期の姿ではない。
絢哉のよく知る――生前そのままの姿であった。
純白の死装束に身を包み、こちらを心配そうに見下ろしている。
「――紗絵?」
狼狽のあまり、舌が回らない。
声帯が張りついたように動かない。
震える右手を伸ばすことしかできなかった。
「どうしたの? そんな顔をして」
女は、傷だらけの絢哉の手を諸手で包むように握ると、ゆっくりと立たせにかかる。
人間らしい温かな掌であった。
その熱いくらいの温度が嬉しかった。
用意していた謝罪の言葉は、どこかに行ってしまった。
「お部屋に戻りましょう? 今日は、私が一緒に寝てあげるから」
「いいのか。俺は、君に、酷いことをしてしまった。約束を、守らなかった」
「気にしないでいいのよ。昔だって、一緒に寝たじゃない」
昔? ああ、そうか。
夜、親父もどこかに出払い、一人で寝るのが怖いと駄々を捏ねていた俺に、いつも紗絵が添い寝をしてくれていたのだ。
流石、夢である。
自分でも忘れていた都合の良い記憶を見せてくれるのだから。
だが、悲しい哉。
幸せであることは間違いないが、同時に滑稽でもあるのだ。
いつまでも夢に浸ってなどいられない。
いつかは現実に立ち返らねばならない。
夢から覚めた時の失望を思えば尚更である。
「ありがとう、紗絵」
絢哉は女の手を握り返し、暗い廊下の奥へ歩き出す。
隣の女を見れば、場違いなほど陶然とした顔をして。
紗絵には似合わない表情だな――と絢哉は思った。