2-4.入浴を済ませ、待合室に出てきた絢哉を待っていたのは……。
入浴を済ませ、待合室に出てきた絢哉を待っていたのは、赤銅色の羽織に身を包んだ沙羅であった。私物らしいその羽織は上等なものらしく品の良い光沢を放っている。
「絢哉さん。待っていたわ」
長椅子に浅く腰掛けていた沙羅は立ち上がる。
沙羅以外には誰もいない。厚手の絨毯が敷かれ、時代遅れのマッサージチェアと品揃えに乏しい自動販売機、ネットの弛んだ卓球台があるだけであった。
「待っていた? どうしてまた」
「お母さんが伝え忘れたことがあったの。こんなところで立ち話もなんですから歩きながら説明します。部屋は曼珠沙華の間ですよね」
絢哉の数歩先を沙羅は歩き出す。
一階の受付に出て、横の階段を上り――四階まで上ったところで沙羅が立ち止まる。
右に進めば東棟、左に進めば西棟という中間地点である。
「絢哉さん。ひとつだけ約束してほしいことがあるんです。絢哉さんのお部屋は右側にあるけれど、あちら側――西棟には、何があっても入らないでください」
沙羅は、廊下を遮るように置かれた一隻の屏風を示した。
女将から案内された時には気付かなかったものである。
絢哉は顔を近付けて六曲の屏風絵を観察する。
色彩豊かな金碧障屏画であるが――ある瞬間を切り取って描いた日本画というよりは、左から右へ扇が流れるに伴い、時間ないし場面も移ろっているため絵巻に近いだろう。
この手の美術品には暗い絢哉であったが、黒い着流しの若者と、角張った紋様が特徴の、赤い民族衣装を纏った娘が主役であることは直感的に分かった。
屏風の左側――始まりは――里で暮らす若者が、父親らしき老父を看病しているのを、霧深い山奥に立つ娘が俯瞰している構図である。
屏風の中間――中間には――洞窟で寄り添うする若者と娘が描かれている。若者は娘に櫛を差し出し、娘は若者に刺繍の入った袋を差し出している。逢瀬の場面であろう。
屏風の右側――結末には――赤々と燃え盛る炎が鮮やかな筆遣いで描かれている。下方に広がる湖には入水したであろう娘が力なく横たわっている。若者はその娘を抱きかかえ、滂沱の涙を流しながら、天に向かって何事かを吠えている。
――何の絵なのだ、これは。
初めて見る物語であった。
絵巻物に似てこそいるが、起承転結でいうところの『転』の部分が抜け落ちている。これでは、若者と娘の恋物語が悲恋に終わったことしか掴めない。
なぜ火に包まれているのか。
なぜ娘は死を選んだのか。
娘の死を悟った若者は天に何を祈ったのか――。
絢哉には、娘の死に嘆く若者が他人には思えなかった。
「絢哉さん。聞いておりますか?」
「――ああ、悪い。屏風絵が気になって」
絢哉が弁明すれば。
「アズミ様とニーロン様の恋物語ですよ、それは」
と沙羅は解説する。
「恋物語?」
アズミという名前は初耳であった。
「はい。ここ宇霊羅の隠れ里には伝説が残されているんです。男性がアズミ様、女性がニーロン様です。伝説というのは――あ、ちょっと待ってください。その前に、この話興味あります?」
「ああ、是非とも聞かせてほしい」
「分かりました。でも時間も時間ですし、お風呂上がりですので、できるだけ簡単にまとめてしまいますね」
御伽草子の読み聞かせでもするかのように、沙羅は柔らかな口跡で語り出す――。
岩泉の里に住まう人間は、元を辿れば奈良時代の末、政争に負けて逃れ来た都人――大和の民でした。時を同じくして、朝廷の軍勢に追い立てられ、南方から逃れてきた蝦夷の一族が宇霊羅山の奥深くに住むようになりました。
里の人間は大和の民ではありましたが、両者の間で争うようなことはせず、かといって親しく交流することもせず、お互いの立場を認め合いながら平和に暮らしておりました。
里に、アズミ様という青年がおりました。
ある日、お父様が病気に罹ってしまわれました。アズミ様が手立てがないかを聞き回ったところ、ひとりの古老から「蝦夷が摂ってくれたシドケという薬草を飲ませたら治った」ということを聞き出します。
アズミ様はその薬草を求めて宇霊羅山へ分け入りますが、蝦夷のいる場所が分からず、闇雲に歩き回るしかありません。道なき道を進み、藪を抜け、崖を登り――いつの間にか夜になってしまいました。疲れと寒さで、とうとうアズミ様は倒れてしまいます。
そのアズミ様を介抱したのが、蝦夷の娘ニーロン様でした。
アズミ様が、シドケという薬草を探してやって来たことを、ご自身が里の人間であることをニーロン様に告げれば、家に置いてあるかもしれない、あれば持ってきてあげましょう、とニーロン様は答えます。
しかしながら、蝦夷の酋長であるお父様に知られると怒られるため、ニーロン様はアズミ様をとある洞窟まで案内して、そこで待っているように伝えました。
ニーロン様がお戻りになったのは翌朝のことでした。
ニーロン様から薬草を受け取ったアズミ様は何度も御礼を言い、お父様の病気が治ったらまたここに訪れると約束を交わしたのち、里へ帰りました。
薬草のお蔭で、アズミ様のお父様はみるみるうちに良くなりました。アズミ様は、薬草をどこから摘んできたのか里人に尋ねられましたが、決して誰にも言いふらしたりはしませんでした。
アズミ様は、亡くなったお母様の形見である櫛を持って、再びあの洞窟に行きました。その櫛をニーロン様へ贈ると、その御礼に、編んで作ったという小さな袋を貰いました。
その後も、お二人は何度も逢瀬を重ねました。
けれど――その密やかで小さな恋も長くは続きませんでした。
蝦夷を討伐するため、大和の軍勢が里に押し寄せて来たのです。軍勢を率いる将軍は、隠れ里の在処を里人から聞き出そうとしましたが里人は誰も知りません。アズミ様もニーロン様のために黙っておりました。
これに怒った将軍は、宇霊羅の山に火を放ち蝦夷達を燻り出そうとします。危機を報せるために、アズミ様は里を抜け出して、あの洞窟に走りました。
翌朝、宇霊羅山のあちこちに火が放たれ――三日三晩燃えたのち、雨によって鎮火しました。
ですが、アズミ様は二度と里に戻っては来ませんでした。
「ニーロン様はアズミ様を呼び続けながら湖に入水して果て。ニーロン様を求めて駆けつけたアズミ様も、後を追って自刃してしまいました」
そこまで語ると――沙羅は屏風の一扇を見遣ったまま黙ってしまった。
どうやら話は終いらしい。
屏風絵は伝説を忠実に再現しているようである。ようではあるのだが――。
「何と言うべきか。めでたしめでたし、で終わってくれはしないんだな」
「ええ。この伝説は悲恋ですから。ですが――口伝で残っているせいか、話にも様々なバリエーションがあるようです」
「様々というと」
「例えば――蝦夷一族と里人が直接争ったり、ニーロン様とアズミ様の役割が反対になっていたり。物語の結末も、お二人は北へ落ち延びたという話もあれば、洞窟に隠れて大火を遣り過ごしたという話もあり――必ずしも悲恋と決まっているわけではありません」
言ってしまえばよくある創り話なのかもしれませんが――と沙羅は結んだ。
確かに、歴史上の人物における生存説はよく聞く話である。
枚挙に暇がないと言ってもいい。
有名処を論えば――。
明智光秀は、落ち武者狩りで死んだのは別人であり、天台宗の僧侶になったという天海=明智光秀説がある。源義経に至っては蝦夷に逃れたという北行伝説ならまだしも、モンゴルに逃れて建国したという義経=チンギス・ハン説などという真面目に語れば失笑されるような話すらある。ロシア帝国最後の皇女は――随分前に否定されているか。
いずれにせよ。
死んだと思われていた者の生存が真実しやかに囁かれてしまうのはそう珍しくもない。
――せめて空想の中だけでも、幸福に生きてほしいからな。
絢哉が頷けば、沙羅は不思議そうに首を三十度ほど傾ける。
「どうされましたか?」
「何でもないよ。それにしても詳しいんだな。話も上手で、つい聞き入ってしまったよ」
絢哉が賞賛すれば、沙羅は照れたように顔を背けてしまった。
「これでも旅館の次期女将として教育を受けているものですから。それに、意外に思われるかもしれませんが、この話は本当なんですよ?」
「本当というと――」
何がだろうか。
岩泉の人間が元は都人だということか。
それとも蝦夷の一派が隠れ里に根付いたことか。
病を治すシドケという薬草は――モミジガサという山菜なら実在する。
蝦夷討伐の軍勢がこの地に押し寄せたことは――征夷大将軍である坂ノ上田村麻呂がいるのだから紛れもない事実であろう。
ならば、宇霊羅山が大火に包まれたことか。
「すべて、ですよ」
「え?」
絢哉の顔を見て、やっぱりそんな顔になりますよね、と沙羅は小さく笑った。
「アズミ様とニーロン様の恋模様も、隠れ里の存在も、全部が本当にあったことだと私達は信じております。だって、ここが宇霊羅の隠れ里なんですもの。私達が信じてあげなくては可哀想ではありませんか。――ああ、ずいぶん話が脱線してしまいましたね。ええと、とにかく、この屏風から先には立ち入らないようお願いします」
「そうだった。理由を尋ねても?」
絢哉が控え目に尋ねれば。
「特別なお客様をお世話しているんです」
沙羅は答えた。
「特別?」
「昨日ぐらいから、かしら。その人、誰にも見せられないくらいに怪我が酷くて――多分見たらショックを受けると思うし、その人のためにも絢哉さんのためにもならないわ」
「なるほど。事情は分かったし、言いつけは守るから、そんな顔しないでくれ」
日頃からバイク好きの連中とつるみ、日中にも事故を起こした絢哉にとっては大層身につまされる話であった。仲間の内には、電柱に衝突して死んだ者もいれば、中央分離帯に接触して手脚を喪った者もいる。
自業自得と言えばそれまでだが――バイト先で知り合い、意気投合した友人の見舞いに行った時のことである。右足の膝から下を切除した彼女の姿を見て、絢哉は平生のように振る舞うことができなかった。四肢の一部が欠如しているだけで、同じ人間であるはずなのに、まるで違う生き物であるかのように思えて――生理的嫌悪を抱いてしまったのだ。昨日まではごく普通に接していたはずなのに。
無論、そこに忌避があってはならぬことだと頭では理解していたが――絢哉は、死に対する本能的な恐怖と、死を穢れと見做す日本人らしい神道の価値観に打ち克つことができなかった。当然その事実は彼女との友好に罅を入れることになり、絢哉自身にも根深い嫌悪を残すことになってしまった。
そこまでの経験があったからこそ、絢哉は互いのためにならない、という言葉の意味を正しく汲み取ることができた。その傷病人だって自分を化物のように見られたくないだろうし、己だって他人を受け容れられない無力感を味わいたくない。
その人、早く良くなるといいな――と言おうとした時である。
男の呻きが廊下に響き渡った。
屏風の奥、件の客人がいるであろう部屋から発せられたものである。
生命の危機に瀕した人間が絞り出す、恐怖と痛苦に塗れた、声にならぬ絶叫であった。
「今のは――空耳じゃないよな」
「ああ、何てこと。絢哉さんは休んでいてください」
「待ってくれ。君は、どうするんだ」
「私が行かないと。あの人を、落ち着かせてあげないといけませんから」
そう言うや否や、沙羅は屏風の脇をすり抜けて走って行く。
たった一枚の仕切りを隔てただけで、沙羅が遠くに行ってしまったような気がした。
絢哉はしばらくその場に立ち尽くしていたが、仕方なく部屋に戻ることにした。
時刻は既に二時を回っていた。
日捲りカレンダーを一枚千切って、紙片を屑籠に投げ捨てる。
――明日は、二〇二〇年の十月一日だ。
祭りが始まる。もうすぐ、紗絵に会えるのだ。
部屋の照明を消して、誰かが敷いてくれた布団に倒れ込む。絢哉は目を閉じ、死んだ紗絵を思い描こうとするが、浮かんでくるのは先程別れたばかりの沙羅であった。
多分、それは。一卵性双生児かと見紛うほどに紗絵と沙羅が似ているからだ。そこに他意はないはずだ――と絢哉は己を分析する。自身が、沙羅に惹かれつつある覚えは全くなかった。
絢哉が寝入るまで、男の呻き声は聞こえなかった。
・恋物語は実話
・大怪我をしたらしい特別な客人は昨日から
・屏風の先は立ち入り禁止