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2-3.部屋は静まり返り、振り子時計が時を刻む……。

 部屋は静まり返り、振り子時計が時を刻む、古臭い音がするだけとなった。

 絢哉が再び中庭を見下ろした時には、既に女は消えていた。


 ひとりになった途端、忘れていた寒さと全身の痛みが戻ってきた。

 酷く疲れた心持ちであり、堪らず近くにあった椅子に座り込む。


 …………ブウウ――――ンンン――――ンンン…………。


 時計が鳴った。腹に響くような、低く弾力ある音である。

 短針は一時を指している。いつの間にか深夜になっていたのだ。


 このままでは風邪を引いてしまう、温泉に浸かって休ませてもらおう――と絢哉は重い腰を上げる。


 タオルを取り出そうと鞄を手にして――その手触りが妙に固いことに気付く。見れば表皮は亀裂だらけで、すっかり艶が抜け落ちている。まるで数年間放置していたかのような劣化具合であった。雨に浸ったせいだろうか。革製品ゆえ水濡れには弱いのかもしれない。


 絢哉は鞄の中身を調べる。紗絵の日記は無傷であった。煙草が入った缶も。

 今判明している物品の被害は、ライターの紛失と携帯の水没、車両を含めたバイク用品くらいである。とても軽微とは言えぬ損害であったが、日記が無事ならそれで良かった。喫煙はできずとも構わない。吸いたくなったら燐寸かライターを買えばいい。携帯も、今となっては連絡を取り合う知己もいない。世俗と距離を置きたい絢哉にとっては必要な処置ですらあった。


 タオル片手に部屋を後にする。女将の言う通り、湯殿は東棟一階の突き当たりにあった。深夜ゆえ誰とも会いはしなかった。


 ひとりしかいない脱衣所で、ライダージャケットとインナーを脱ぐ。ジャケットは完膚なきまでに破損しており、厚手の本革だというのに右腕は大きく裂けている。


 絢哉は大鏡の前に立つが、上半身に目立った外傷はない。おそらくは下半身にも。銀髪の前髪を上げた、不良らしい見飽きた顔があるだけであった。


 ――だとすれば、あの怪我は。


 事故のショックで、幻覚でも見てしまったのだろうか。

 それならそれでいい。五体満足でいられるなど、ありがたいことではないか。


 考えることが面倒になった絢哉は、そそくさと湯殿に向かう。

 湯殿は貸切り状態であった。

 シャワーで身体を清めたのち、露天風呂のある屋外に出る。


 御影石らしいタイルを敷き詰め、人工的な光で満たされた清潔な内風呂よりも、白く濁った水面からは湯気がたち、古めかしい水銀灯に照らされる薄暗い露天風呂の方が、外界を遮断して追憶に浸りたい絢哉にとっては何かと都合が良かったのだ。


 温泉に含まれる成分や効能、その他注意書きが綴られた立て札を無視して、絢哉は身体を湯に沈める。湯温は高く、冷え切った身体が引き攣るが、それも次第に弛緩していく。


 露天風呂は小さく収められた空間であった。

 上を見上げれば(ひのき)で組まれた四阿(あずまや)がかかり、外周は竹垣で囲われている。

 時折、塀の外から乾いた炸裂音が響くのは、誘蛾灯に魅了された羽虫達が電撃殺虫機を掠める音であろう。入口脇には、雨天時にでも被るであろう編み笠と、落ち葉や虫の死骸を掬い取る網が立て掛けてある。


 嘆息した絢哉は、屋根と竹垣の隙間に広がる夜空を仰望する。

 ようやく人心地ついた気分であった。鍾乳洞で目が覚めた時はどうなるかと思ったが、こうしてどうにか目的の旅館まで着くことができたのだ。


 あとは紗絵に会うだけであった。

 否、それは正しくない。

 口寄せができるという神職を尋ね、紗絵の声を下ろしてもらうだけである。


 絢哉の口許が歪んだ。温泉の快楽によるものではない。紗絵に近付きつつある現状に歓喜すると同時に、紗絵が死んだという紛れもない事実と、彼女の自殺の遠因が己にあるという良心の呵責が蘇り――酷薄な運命に嗤笑(ししょう)せざるを得なかったのだ。


 だが絢哉は、荒れ狂う精神を自認することこそできたが、葛藤を飲み込む術を知らなかった。故人を偲ぶ純粋な心と、その純粋さに由来する鋭利な罪悪感とで、絢哉の心は真っ二つに分かたれる。


 ――俺は、どうすべきなのだろうか。


 乖離した心で絢哉は勘案する。

 仮令(たとえ)紗絵にどう思われようとも構わない、己はどうしても彼女に会いたいのだと自我を貫けるほど鉄面皮(てつめんぴ)ではいられなかった。さりとて、彼女が俺を許すはずがない、ならば会わぬ方が互いのためだろうと悲観的にもなりきれなかった。青年期に特有の破滅的な勇気と、他者の顔色を(おもね)ってばかりの臆病な劣等感の間を行き来した結果――。


 ――会って謝ろう。俺にはそれしかできない。それが俺に果たせる最後の誠実だろう。


 思考は無難なものに行き着いてしまう。今のうちに紗絵に何と言うか決めておかなければと頭の辞書を捲っていれば、後方から、がらり、と扉の開閉音が聞こえた。真後ろの硝子戸からではない。少し横にずれた位置からの音であった。


 絢哉は纏まりかけた思索を中断させる。他の宿泊客が来たのだろう。続きは、紗絵の日記を見ながら考えようか、と思った時である。


 ひたり、ひたり、と。


 濡れた軽い足音が近付き、斜め後ろで止まった。

 どういう訳か、無粋な闖入者はすぐ背後で立ち止まったのである。湯殿という施設ゆえに振り返ることこそしなかったが、絢哉は頭頂部に視線を感じていた。


「おとなり、失礼しますね」


 女の声であった。


 絢哉が反応するより早く、身体にタオルを巻き付けた女が、するり、と滑り込むように胸元までを湯に沈める。一寸でも動けば、肌と肌が触れあう距離であった。


 女の登場は、絢哉に何の感動も(もたら)しはしなかった。紗絵を偲んでいたところを邪魔されたのだから厄介ですらあった。また女に騒ぎ立てられでもすれば、社会通念的に追い出されるのはこちらの方である。


 ここは男湯ですよ、と絢哉は穏便に済ませようとして。


 ――待て、今の声は。


 聞き覚えのある特徴的な声であった。否、俺はこの声を知っている。飾ってもいないのに丸い愛嬌に満ちて、それでいて女子高生にしては音階(オクターブ)の低い――。


 ――紗絵だ。今のは、紗絵の声だ!


 絢哉は、理性の諫止(かんし)を無視して、女へ振り向いた。


 女も、絢哉を見ていた。

 髪は濡れ、頬は僅かに上気していたが、それでも絢哉のよく知る――心の底から追い求め、(こいねが)った女の顔であった。


「紗絵――」


 絢哉は聞いた。否、君は本当に藤ヶ谷紗絵なのか、と尋ねたつもりであったが、己は何と馬鹿なことを聞いているのだろうという無意識の自戒が働き、呻きに似た呟きにしかならなかった。


 女は、否定も肯定もしなかった。

 その代わり、一瞬だけ目を(みは)ったのち、悲しそうに微笑して。


「お久しぶりです。渡会絢哉さん」


 と言った。


 絢哉は即座に悟る。彼女は、言葉にしなかっただけで、自分は藤ヶ谷紗絵ではないと伝えたつもりなのだろう、と。当然である。どこの世界に、死者が蘇るというのか。この世がそんなに都合の良いものはでないことくらい承知していたはずなのだ。それなのに俺は何を期待していたのだ――と絢哉は落胆する。


 冷静に女を見れば、他人の空似であることが分かる。目鼻立ちや輪郭こそ似ているものの、口許や耳朶の造形は異なっている。


「――これはとんだ失礼を。あなたが知り合いに似ていたもので」

「まあ、無理もないかと。私と姉さんは似ていますもの」

「姉さん? 君は、もしかして」


 紗絵の妹なのか。


「申し遅れました。沙羅(さら)といいます。藤ヶ谷沙羅です」


 よろしくお願いいします絢哉さん――と沙羅は目を細める。


「俺を知っているのか」

「はい。覚えておりませんか?」

「君とは初対面じゃないのか」


 事実、紗絵から妹がいると聞いたことは一度もなかった。知らなかったからこそ取り乱しかけたのだ。だが沙羅はそう思わなかったらしい。まあそうですよね、とどこか不満気に頷いてみせる。


「姉から聞いておりました。絢哉さんのことを」

「紗絵から?」


 絢哉は身構えてしまう。

 紗絵を死に追いやったのはお前だろう、と詰責されているような気がしたのだ。


「紗絵は、何て言っていたんだ」

「素敵な彼氏さんだって」

「そんなことはないよ。絶対に有り得ない」

「そうですか? 私は、姉の言う通りだと思いますけど」

「やめてくれ」


 気に食わぬ言葉であった。俺達のことを知りもしないくせに勝手なことを言うものじゃない、と言おうとしたとき。沙羅がこちらにもたれかかり、自分の頭を肩に乗せたことで反論を封じられてしまう。


 生前、紗絵が甘えたい時に出す意思表示(サイン)であった。沙羅の人間らしい温もりは絢哉を大いに揺さ振った。思わず抱き寄せそうになったが寸前のところで堪える。


 思い上がってはいけない。彼女はきっと俺を慰めようとしてくれているのだ。彼女だって肉親を喪ったばかりで人肌恋しいだけなのだ。それなのに故人と重ねて見るなど、彼女に対しても紗絵に対しても無礼である。今ここにいるのは、恋人を自殺させた底抜けの大馬鹿野郎と、姉を喪った可哀想な妹だけである。俺達の間には、死者を(いた)む厳かな沈黙さえあればいい――。


 絢哉は、ここが男湯の露天風呂であることを思い出す。

 紗絵とよく似たこの少女を、他の誰かに見られることが嫌だった。


「俺のことなんてどうでもいいんだ。それより君はどうしてこんなところに」

「どうしてって、こんな夜中に出歩いたものだから寒くなって。絢哉さんが山から降りてくるって聞いて、せっかく迎えに行ったのに行き違いになってしまったんですもの。まあ、絢哉さんに会いたかったのもありますけど」

「そういう話じゃなくて。ここは男湯だろ。他の客が来る前に戻れよ」

「絢哉さん、何か勘違いをしていませんか?」


 絢哉の肩に頭を乗せたまま、沙羅は愉快そうに笑った。


「そこの立て札を見ていないでしょう。うちの露天は混浴なんですよ」

「混浴?」


 絢哉が立て札に首を捻れば、確かに『当露天風呂は混浴となっております。他のお客様の迷惑とならぬよう節度あるご利用をお願い致します』という文句が書かれている。


「本当だ。混浴のある温泉なんて初めて来たよ」

「いくら私だって、男湯に堂々と入る度胸はありません」

「しかしそうは言ってもだ。他の人が来ないとも限らないだろ」


 内風呂に戻れよ、と絢哉が勧めれば、心配はいりませんよ、と沙羅は答える。


「もし男の人が来ても、タオルを巻いているから平気だし、みんな絶対にじろじろ見たりなんかしませんもの。自分のことで精一杯だから、問題なんて起きやしないわ」

「自分のことで精一杯?」

「ここに来るお客さんはみんな大切な誰かを喪った方ばかりなの。悲しくて寂しくて、辛くて悔しくて、楽しいことや嬉しいことなんて何も感じなくなって――どうにもならなくなってしまった方ばかりなの。そんな人が問題なんて起こすわけがない。そんな元気すらないんだもの。絢哉さんだってそうでしょう?」

「それは、そうだな。全くもってその通りだよ」

「良いなあ。お姉ちゃんが、ちょっとだけ羨ましい」


 呟くように沙羅が言った。


「どうしてそう思うんだ」

「だって、絢哉さんに会いたいと思ってもらえるんだもの。死んでもなお愛されるなんて、尊いことだと思う」


 感慨深そうに沙羅は漏らす。

 絢哉は、何と返答すべきか分からずに、圧し黙ることしかできなかった。


「俺は、君の言う通り紗絵に会うためにここまで来たんだ。神社に頼めば、死者の声を下ろしてくれるって叔母さん――眞緒さんに教えられたんだ。それで合っているかい」


 無言に耐えきれなくなった絢哉が渋々切り出せば。


「ええ。ニーロン様に頼めば、叶えてくれると思いますよ」

「今、何と。にいろん、様?」


 当惑する絢哉に、沙羅は再び笑った。


「神主様のことですよ。この里ではニーロン様と呼ばれているんです」

「なるほど。それなら明日にでも神社に行って、その、にいろん様にお願いしてみるよ」


 絢哉の頭に、厳めしい顔つきの神主が浮上する。

 おそらく人名ではない。誉田別命(ほむだわけのみこと)を祭神とする盛岡八幡宮(もりおかはちまんぐう)が八幡様と呼ばれるように、ニーロン様というのも神社そのものに対する敬称だろう、と根拠もなく絢哉は考える。


「明日、ですか?」

「ああ。何か問題でもあるのか」

「多分、困ったことになると思うわ」


 困ったこと?


「行くのはもう少し時間を置いてからの方がいいと思います。絢哉さんがこの里に慣れてからでも決して遅くはないわ。お祭りだって十日間はあるもの。何も、明日慌てて行くことはないでしょう。もし明日行ったとしても、みんな考えることは同じだから、並ぶだけで一日が終わってしまうわ」


 沙羅の言葉には切羽詰まった響きが込められていたが、理屈は通っている。また、紗絵によく似た彼女を困らせてしまうのも本意ではなかった。


「絢哉さんだって一週間はいる予定でしょう? それなら急がなくても」

「分かったよ。とりあえず、明日行くことはやめにするよ」


 絢哉が折れれば、それがいいわ、と安堵したように沙羅は頷いた。


「なんだか大袈裟だな」

「だって、絢哉さんを姉さんに取られたくなかったんですもの」

「それは――どういう意味だ?」

「ごめんなさい。少し、喋り過ぎちゃったみたい」


 もう上がります、と沙羅はその場に立つと、女湯があるであろう衝立(ついたて)の向こうへ去ってしまった。ひとり残された絢哉は、発言の真意を考えるが皆目見当もつかなかった。


 羽虫達の感電死する音が戻ってきた。

・手触りの固い本革の鞄

・お久しぶりです

・他人の空似

・神社に行くのは止した方がいい

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