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2-2.絢哉を覚醒させたのは全身に感じる水の冷たさであった。

 絢哉を覚醒させたのは全身に感じる水の冷たさであった。気が付けば、水に身体を浸しながら硬い岩肌に仰臥(ぎょうが)している。失明したのかと錯覚してしまうほどに暗い世界であった。それでも目を凝らせば、遙か上方に赤橙(あかだいだい)の裸電球が吊り下がっているのが分かる。光源はそれのみであり、闇が敷き詰められた空間を照らすには心許ない。


 長時間眠っていた体感はなかった。

 体感では一時間にも満たぬ程度であり、妙に頭が冴えていた。


 ――どこだ、ここは。


 絢哉は上半身を起こし周囲を観察する。先刻の渓流ではない。どこをどう流されたのか、地底湖ないし鍾乳洞のような場所にいた。目が暗順応するにつれ、ここが高低差ある広大な空間であることが察せられる。自然に考えれば、大雨に流され、幸か不幸かこの場所に流れ着いてしまったのであろうが――。


 岩泉町には全国三大鍾乳洞のひとつにも数えられる龍泉洞(りゅうせんどう)や、総延長約二十三キロという日本最長の安家洞(あっかどう)もある。ここがそれら支洞のひとつと仮定すれば、この広大な空間にも説明がつくのかもしれない。未だ発見されていない石灰洞という可能性も捨てきれない。


 だが、それでも疑問は残る。果たして鍾乳洞というものは地上の河川と繋がっているものなのだろうか。仮に繋がっていたとしても。


 ――どうして俺は生きているのだ?


 絢哉は己が死なずにいることが不思議でならなかった。暗さゆえ確認することはできないが、右腕を始め全身の損傷は酷いものだったことは間違いない。それこそ呼吸の仕方を忘れてしまうくらいには。頭部を強打したことを考えれば、あのまま死んでもおかしくなかったはずである。溺死を免れたのは、ジャケットとヘルメットが上手く作用して救命胴衣の代わりになってくれたお蔭なのだろうが。


 ――考えていても埒が明かない。生きていられるうちに動かなければ。


 絢哉は立ち上がる。

 上着のポケットを(あらた)めれば財布と携帯は無事であった。煙草とライターは紛失している。携帯を懐中電灯代わりに使おうにも水没したらしくまるで反応がない。左手に巻いた腕時計は文字盤が砕け、十時十五分で針が止まっている。

 濡れて重くなったヘルメットを脱げば、シールドは粉々に砕け、破断した側頭部からは緩衝材が垣間見える。脚部のプロテクターも潰れて変形している。


 唯一の光源である電球までは遠い。だが、ここは人が立ち入る場所でもあるらしく、途中に木造の桟橋や階段も設置されているため辿り着けぬこともない。まずはあの電球まで登ってみるか、と意を決した時である。


 頭上で何かが光った。懐中電灯らしき黄色い光である。何かを探すように、石灰岩の岩肌を舐めるように照らしながら、徐々にこちらに近付いてくる。


 ――俺を探しに来た救助隊だろうか。


 機能を失ったヘルメットと膝当てを捨て、近くの桟橋によじ登れば、懐中電灯の主も物音に気付いたらしい。真っ直ぐ向かってくる。


「渡会絢哉さんですか」


 電灯の側から声が発せられた。

 静謐(せいひつ)を乱さぬように心遣った、控えめな声量であった。


 (ともしび)を掲げていたのは絢哉とそう年も変わらぬ娘であった。ひとりである。

 見覚えのある赤色の和装に、背中までの黒い髪、小柄な体躯をしている。


「そうだけど、君は」

「私のことなどいいのです。あなたを探しておりました」

「助けに来てくれたのか。ありがとう」

「助けにきたのではありません。迎えに参りました。さあ、行きましょう」

「待ってくれ。行くってどこに」

「説明はあとで致します。まずはここを出ましょう」


 付いてこいと言わんばかりに娘は歩き出す。取り合うつもりがないのか歩調を緩めようともしない。まあ、洪水が起きた直後であるなら脱出を優先するのが賢明かもしれない、と己を納得させた絢哉は渋々ながらも娘に従う。


 湿った橋板を叩く二人分の足音が地底湖に木霊(こだま)する。


「渡会さん。記憶のほどは如何(いかが)です?」


 肩越しに振り向いた娘が問う。


「記憶?」

「あなたは崖から落ちてしまったのです。覚えておりますか」

「ああ。しっかりと覚えているよ。バイクで君を避けたあと、カーブを曲がりきれずにガードレールに激突して、河原に落ちてしまった。正直死んだと思ったけど、こうして生きているなんて我ながら不思議だ」

「ご自身がここにいる理由は?」

「雨で流されたからじゃないのか。今が何時かは分からないけれど、昼から大雨になる予報だったし、君だってそう思ったから来てくれたんだろ?」

「そう、ですね。本当にすみませんでした」


 曖昧な相槌を打ったのち、立ち止まった娘は詫びた。

 だが、絢哉には娘が謝罪する意図が分からない。


「急にどうしたんだ」

「あの時、私があそこにいなければ、あなたは事故を起こしませんでした」

「止してくれ。あれは俺がスピードを出し過ぎたのがいけないんだ。君のせいじゃない」


 娘はまだ何か言いたげではあったが、もういいよ、と絢哉は手を挙げて発言を遮る。

 謂われのない謝罪を受けることは却って居心地が悪かったのだ。絢哉にとって、謝罪とはされるものではなく、するものでしかなった。いくら謝罪を積み重ねたところで過去を変えられぬことも人生訓として既に熟知していたこともある。


「ところで。あの時、君が抱いていた白いものは何だったんだい」

「猫です。あの子が車に轢かれたという話を聞いて、ちょうど駆けつけたところでした」

「君が飼っていた猫だったのか」


 絢哉が聞けば、娘は頷いた。あの山道に残る轍からして、バスにでも轢かれてしまったのだろうと絢哉は推察する。ならば、あの白猫は死んでしまったのだろう、とも。


 そのような状況なのに、こうして自分を探してくれた娘に対する罪悪感もあった。だが掛けるべき言葉を見付けられずに黙殺する形となってしまった。


 裸電球には到達したが出口はまだ見当たらない。


「君は、どうして俺のことを知っているんだ?」


 途切れた会話を埋めるように絢哉は質問を絞り出す。


「探すように頼まれたんです」

「頼まれた? すると君は、警察に依頼された救助ボランティアか何かなのかい」

「いえ。藤ヶ谷旅館の女将さんと、そちらのお嬢さんに頼まれたのです」

「藤ヶ谷旅館――」


 絢哉が世話になるはずだった宿であり、そこの女将が紗絵の実母である。


 ――しかしながら。


 お嬢さんという存在に心当たりはなかった。紗絵は、姉妹がいるなど一言も言っていなかった――はずである。少なくとも絢哉が覚えている限りでは。


 絢哉が何か述べるよりも早く、娘が口を開いて。


「あなたが、死んだ恋人に会うために、ここ宇霊羅の隠れ里を訪うつもりであったことは聞いております。その間、藤ヶ谷さんのところでお世話になることも」


 と言った。


「それなら話は早い。その旅館に行きたいんだけど、ここから近いのかい」

「ええ。旅館まで道案内を致します」

「助かるよ。しかし、歩いて行ける距離なのか。バイクもどうなったか分からないし、俺自身、いつまで歩けるかも分からない」

「心配いりませんよ。あなたの乗り物は落ちてしまったけれど、里の男衆が総出で引き上げてくれました。あちこちが壊れていたようですが、機械屋の旦那様が直してくれたそうですよ」

「なるほど。あちこちに迷惑を掛けてしまったわけか。修理費も馬鹿にならないだろうな」


 そもそも修理して直る範囲だったのだろうか、と絢哉が首を捻れば。


客人(まれびと)がそんなことを気にしてはいけませんよ。あなたは大切な人に会うためにここに来たのでしょう。ならば、ご自身の目的だけを考えていればよろしいかと。それに、誰もあなたから金子(きんす)を取ろうなどとは思いますまい」


 娘は唇の端だけで笑ってみせた。その年齢不相応な、冷笑とも憐憫ともつかぬ、形容し難い微笑みが印象に残った。


 洞窟から脱したのはそれからしばらくしてからであった。


 外は夜であった。

 空には月齢二十三・五あまりの三日月が浮いている。

 鬱蒼とした木々に囲まれ、時折吹き抜ける夜風に木の葉が騒響(ざわめき)たてる。


 娘に従うまま小径(こみち)を進む。

 何基もの鳥居を抜け、建物の裏手へ(まわ)り、神社の境内(けいだい)らしき場所に出た。

 玉砂利の敷かれた広々とした空間である。

 点在する石灯籠には火が灯され、境内を囲う竹垣には『宇霊羅式年祭(うれいらしきねんさい)』『塞ノ神(さいのかみ)魂呼之義(たまよばいのぎ)』と白地に黒字で書かれたのぼりが(なび)いている。厳かで清浄な雰囲気であった。


「ここは――」

「塞ノ神神社です。ひとまず旅館に連絡しなくてはなりませんから中に入りましょう」


 娘は拝殿の横に設置された社務所らしき平屋に入る。勝手知ったる様子とその装束から、きっと神社の関係者なのだろうと絢哉は察したつもりになる。


 玄関には、乳白色のカバーで覆われた電灯が点けられている。久々に見る文明らしい光に、そして当初の目的であった塞ノ神神社に辿り着いたことに、絢哉は心の奥底から安堵が滲み出すのを感じた。


 案内されたのは客間らしき和室であった。

 一匹の白猫が出迎えてくれる。

 絢哉を見上げて一鳴きしたのち、入ってこいと言わんばかりに奥の間へ消えていく。


 津軽塗(つがるぬり)の座卓、床の間に飾られた山百合、竹林を描いた水墨画、年季の入った書架、時代を感じさせる二叉アンテナを乗せたブラウン管テレビ――現代社会の教科書に掲載されるような前時代的居室であった。


 中でも目を引いたのは、柱に取り付けられた古めかしい電話機であった。


 木製の小箱正面に、二つの呼び鈴と、ラッパ型の送話器がついている形状は、頬被(ほっかむり)をして口をすぼめる火男(ひょっとこ)を連想させる。左側面には独立した受話器が、右側面には発電用の手回式ハンドルが付随している。

 デルビル磁石式壁掛け電話である。

 当然、平成生まれの絢哉には馴染みのない物であったが、腐っても進学校に在籍していた身である。識ってはいたのだ。


「やはり、それが珍しいのですね。山から降りて来た方は、皆そのような顔をされます」

「本や映像でしか見たことがないよ。今でも使えるのかい」

「この里に限っては、まだまだ現役ですよ。あなたには奇異に見えるのかもしれませんが、宇霊羅では普通のことなのです。あまり驚かないでくださいな」


 警句を多分に含んだ、釘を刺すような物言いであった。


「今、旅館に掛けます。あなたが行くことを前もって伝えなければ、向こうもきっと驚いてしまうでしょう。そちらに座って待っていてください」


 敷かれた座布団を示され、絢哉は素直に腰を落ち着ける。


「先方には、本日伺うことは伝えているのだが」

「時間が時間ですから。この部屋に時計はありませんが、もう真夜中ですよ」

「それもそうか。これは失敬」


 腕時計を見れば、やはり転落したと思われる十時十五分のままである。

 つまり、およそ十二時間は意識を失っていたことになる。

 体感ではたったの一時間程度だったはずなのだが。


 そもそもなぜ俺は生きているだ、と絢哉は己が右手を持ち上げる。無骨な革手袋は、掌こそ破れているものの地肌に傷はない。右腕も捻じ曲がってなどいない。全くもって健全である。


 娘が電話機のハンドルを回せば、呼び鈴が鳴動する。


「――もし。塞ノ神神社です。藤ヶ谷旅館に繋いでください。一○六番です。――夜分遅くにすみません。私です。ええ、そうです。客人が着いたので、今からそちらに送り届けます。もう支度は済んでいるんですか。ああ、そういうことですか。あの子も、随分心待ちにしていましたからね。はい、今からそちらに参りますので、出迎えをお願いします。――え、言葉遣い? まあ、それは、触れないでいただけると。ほんの戯れのようなものです。合わせてください。私にだってそういう想いはありますもの。――お祭りですか。こちらの準備は終わっておりますよ。この前いただいた帳簿ですと五十人にも満たないかと。え、増える? あまり多くなってしまうと式年祭の間に終わらないかもしれませんよ」


 話が逸れてしまったようである。

 境内で目にした『宇霊羅式年祭』のことだろう。


 この調子だとすぐには終わらないな、と絢哉が手持ち無沙汰を感じた時である。

 白猫が寄ってきた。暗い場所にいたせいか瞳孔は(まる)く広がっている。膝頭に頬を擦り付けようとするが、絢哉の衣服が生乾きであることに気付くと、猫のくせに怪訝な顔をして、娘の許に向かってしまう。


 娘の飼い猫なのだろう。

 昼前に轢かれた猫は生きていたのだ。


「――すみません、客人を待たせているものですから、このぐらいで。そちらに着くのは半刻くらい後になるかと思います。え、あの子がもう外で待っている? そちらで引き留めてください。ええ、それでは」


 受話器を戻した娘は、お待たせしました、と振り向いた。

 足許には白猫が構ってほしそうに彷徨(うろつ)いている。


「さて、そろそろ行きませんと。あなたはお留守番よ」


 声を掛けられた白猫は娘の言葉を理解したのかしていないのか、みゃあ、と鳴いたのち、部屋の隅に積まれた座布団によじ登ると丸くなってしまった。暢気(のんき)なものである。


 娘と共に社務所を出て、長い石段を下りて、夜道を歩く。


 昔ながらの町並みであり、里の中心部であろう目抜き通りには八百屋や酒屋、薬屋に豆腐屋など、古ぼけた屋号を掲げた瓦屋根の商店が軒を連ねている。時分ゆえ、全ての店舗がシャッターを下ろして夜の静寂を守っている。


 聞こえるのは二人分の足音のみである。

 静けさを乱すのも悪いと思い、絢哉は喋らずにいた。

 欄干を朱で塗った橋を渡り、横道に逸れ、またしばらく進み――。


 突如、目の前が明るくなった。


 高い塀に囲われた広大な楼閣であった。

 正門には『藤ヶ谷旅館』と威風堂々たる文字が書かれた一枚板が掲げられ、両脇には荒摺りの和紙が張られた提灯が吊られている。闇夜に映える鮮やかな橙の灯は、一種猥雑(わいざつ)にも見える幻想的な光であった。解放された玄関からは、受付と(おぼ)しき黒檀の記帳台と、猩々緋(しょうじょうひ)毛氈(もうせん)が敷かれている。


 門前に、女が控えていた。

 長い髪を鼈甲(べっこう)(かんざし)で纏め、紺瑠璃(こんるり)の着物に、臙脂(えんじ)の帯という格好であった。帯締めは竜胆色(りんどういろ)である。提灯が逆光となって、その表情は窺えない。


「お待たせしました。件の客人です」


 女の前で、娘が立ち止まる。


「こんな遅くにありがとう。疲れたでしょう?」

「いえ。役目を果たしたまでです。ところでお嬢さんはどうされたのです。姿が見られないようですが」

「あの子ったら自分が迎えに行くんだって聞かなくて。さっき家を飛び出たきり、まだ帰ってないのよ。途中で会いませんでしたか?」

「会っておりません。お嬢さんのことですから、きっと神社まで行ったのかでしょう」

「それでもいつかは諦めて帰ってくるでしょう。狭い里ですもの。そんなことよりも」


 女は、絢哉に視線を向けと。


「あなたが渡会絢哉君?」


 と尋ねた。


そこで絢哉は、眼前の女が紗絵と似ていることに気付き――彼女が紗絵の母親であることを、即ち、ここ藤ヶ谷旅館の女将であることに思い至る。


「はい、そうです。眞緒さんの紹介で参りました」


 夜分遅くの来訪となり誠に申し訳ありません、と絢哉が丁寧に詫びれば、事情は聞いているから大丈夫よ、と女将はやんわりと制止する。


「ようこそ宇霊羅の隠れ里へ。温泉くらいしかないところだけど、あなたの気の済むまで、ゆっくりしていいからね」

「お気遣いありがとうございます。ほんの少しだけ、お世話になります」


 絢哉は、紗絵に似た顔に労いの言葉をかけられただけで気が緩むのを感じた。同時に、そんな己の現金さが恨めしくもなってしまう。


「ほんの少しだけと言わずに、ね?」

「いえ。あまり長居しても迷惑になってしまいますから」

「そんなこと言わずに。きっと、あの子も喜ぶわ」


 あの子とは一体誰のことだろうか。

 紗絵のことか。

 それとも――。


「それでは、私はここで失礼します。渡会さん、私のせいで、すみませんでした。お詫びというわけではありませんが、何かありましたら相談してください」


 またお会いしましょう、と言って、闇夜に紛れるように娘は去って行った。何かを訴えるような眼差しをしていた。

 絢哉は、見るともなしに娘の消えた先を眺めて――己が娘の名前を聞かずにいたことを思い出す。きっと彼女は互いに自己紹介をしていなかったから、去り際にあんな顔をしたのだろうと知った気になる。


「絢哉君? どうしたの」

「いえ、何でもありません。そういえば、こちらは豪雨の影響はありませんでしたか」

「え、豪雨?」

「はい。俺が崖から落ちた時にちょうど雨が降り出して、それで洞窟まで流されてしまったようなのです。被害はなかったんでしょうか。二〇一六年の台風では、岩泉一帯はかなりの被害を受けたと聞いておりますが」


 絢哉が説明すれば、そのことね、と女将は頷いた。


「雨の影響は全然なかったのよ。確かに、あの時の台風ではこっちもひどい被害を受けてしまったし、絢哉君が来た時も雨が降ったけれど――それでも心配するほどじゃないわ。それより長旅で疲れたでしょう? お部屋のお掃除も今日済ませたところで、君が持っていた荷物もそこに置いているからね。お部屋まで案内するわ」


 女将に続き、絢哉は旅館の敷居を跨ぐ。誰もいない受付で、革製のライダーブーツから、藤を編んだルームシューズに履き替える。


「絢哉君のお部屋は一番上の四階よ。ここの階段を上って右側、東棟の一番奥の部屋」


 女将は、記帳台脇の階段を指し示す。年季が入りながらも艶のある木造階段は、如何にも由緒ある旅館らしい重厚な外観をしていた。


 女将に先導されるまま、階段を静かに上る。


 階段だけではなかった。飾られた壺や西洋画、襖や障子といった建具(たてぐ)ひとつとっても意匠の凝ったものばかりであり、日常と隔絶された異界に迷い込んでしまったかのような錯覚を抱いてしまう。

 このような旅館に宿泊できるなど眞緒は一体どんな魔法を使ったのだろうか、と絢哉は不思議がる。いくら紗絵と交際していていたとはいえども、端から見れば所詮子供の恋愛でしかない。優遇される覚えなどなかった。寧ろ、紗絵との約束を守らなかった罰として、これから途轍もない酷い目に遭うのではないか――という被害妄想すら抱いたとき。


 女将は廊下の最奥で立ち止まる。


「こちらは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の間となります」

「曼珠沙華――」


 彼岸花の別名である。代表される花言葉は「悲しき思い出」「諦め」であり、死別を連想させるあまり縁起の良い花ではない。


 促されるまま、曇り硝子の嵌められた格子戸を開けて入室する。


 照明は点いていた。

 前室に入れば畳と紙の匂い――上質な和室の匂いが鼻先を(くすぐ)る。

 内装は、世間一般の想像とそう大差ない旅館の一室である。卓と座椅子が置かれた十畳ばかりの主室に、彼岸花と山百合が生けられた床の間、二脚の安楽椅子が向かい合う広縁――部屋構えに圧倒されてしまうが、それでも自宅に帰ってきたかのような、どこか懐かしさの混じった安寧を覚えた。


 柱には今時珍しい振り子時計と日捲りカレンダーが掛けられ、部屋の隅には、バイクの荷台に括り付けていた肩掛け鞄が置かれている。


 誘われるように窓辺に立てば坪庭を見下ろすことができる。

 南部赤松(なんぶあかまつ)(もみじ)躑躅(つつじ)が植えられた品の良い日本庭園であった。穿(うが)たれた池には緋塗りの太鼓橋が架けられ、常夜灯らしき石灯籠には小さな灯が踊っている。


 ――あれは、誰だ?


 橋の上に、女がいた。

 こちらに背を向けている。

 濃紺の洋服を着た髪の長い女性であり、何をするでもなく宙空の一点を凝視している。

 最初は幽霊かと思った。だが、よく見れば二本の脚があり、(かす)かな影もある。


 女が振り向いた。

 女の視線は真っ直ぐ絢哉を捉えた。

 絢哉が見ていたことを知っていたかのように。


 外見から察するに二十代半ば。色の白い、どこか(かげ)のある――否、陰鬱として今にも死んでしまうかのような危殆(きたい)を纏っていた。


 女も絢哉も、互いに何も身動(みじろ)ぎもせず、しばし見詰め合っていた。

 女を刺激しない方がいいと直感したのである。

 それが彼女のためであろうと。


「絢哉君、どうしたの?」

「――いえ。中庭に女性がいたものですから、どうしたのかなと気になって」


 振り返った絢哉は――今度は女将の姿に違和を覚えた。


「女の人? あのお客様かしら」

「ご宿泊の方ですか」

「ええ。お祭りも始まって、様々な事情を抱えてしまった人が沢山いらっしゃるの。絢哉君のようにね。気になるのも分かるけれど、そっとしてあげて頂戴」


 主室の入口に立ったまま女将は答えた。


「自分がされて嫌なことは決して致しません。それよりも、お祭り、ですか」

「ええ。明日から十日間――宇霊羅式年祭が執り行われるのよ。信じられないことかもしれないけれど、全国から大勢の人がこのお祭りのためだけに集まってくるの。渡会絢哉君。ようこそ藤ヶ谷旅館へ。女将の藤ヶ谷碧(ふじがやみどり)と申します」


 老舗旅館の女将――碧は深々とお辞儀をする。

 その堂に入った所作を見ながら、絢哉は先程感じた違和の正体に思い至る。


 若過ぎるのだ、彼女は。

 明るい場所で初めて碧を見たが、どう見積もっても二十代前半の姿形であり、とても紗絵の母親には見えなかった。まだ姉と言った方が説得力がある。

 少なくとも、紗絵の叔母である眞緒にはあった年相応の成熟というものが碧からは全く感じられなかった。そのくせ、立ち振る舞いは旅館の女将らしく洗練されたものであり、容姿と内面の不一致に、絢哉は多大な奇妙を覚えた。


「初日から色々とあって大変だったでしょう? 今日のところは温泉に浸かって、ゆっくりしてね。場所は一階の受付に向かって右側を道なりに進んでいけばいいわ。もしそれ以外に何か分からないことや困ったことがあれば受付の呼び鈴を鳴らしてね。係の者がすぐ向かうから」


 その他、食事は誰かに部屋まで持ってこさせること、外出する際は一声かけることなど、女将は細かな注意点をつらつらと述べていく。


 そして。


()()()のことを、どうか宜しくお願い致します――」


 と言った。

 意味深長な台詞であった。

 絢哉がその真意を尋ねる前に、女将は去っていった。

・目覚めたのは地底湖

・宛がわれた部屋には日捲りカレンダー

・例大祭ではなくて式年祭

・女将の外見と内面の不一致

・白猫かわいい

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