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7-6.「残念ながら、そうなのだよ」

「残念ながら、そうなのだよ」


 雪彦は寂しそうに片頬だけで笑ってみせる。


「けれどもだ。そこに何の問題があるのだね。ニーロン様を頼ってきた者の多くは、死者に会いたい一心なのだ。君だってそうだろう。蘇った者が、事実その当人なのか、あるいは生者の想像から構築される虚像かなど誰にも分からない。『あなたは本物の故人ですか、それとも誰かが想像した偽物ですか』なんて馬鹿正直に聞く訳にもいかない。そもそも、それを聞いたところでそんなこと当人にすらも分からないのだから。自己の存在証明なんて生者の頃から数多の哲学者が頭を悩ませているというのに、そこに生死の問題まで上乗せされてしまったらもうお手上げなのだ。だから――理屈屋の君には受け容れ難い話なのかもしれないが――誰も不幸になっていないのだから問題ないと開き直るしかないのだ。そうでなければ救われないだろう。僕も、君も」

「そうだな。悪かったよ、変なことを聞いて。彼がこの世に顕現して――どうなったんだ。青年の意識は戻ったのか」

「ああ。霊体が顕現してからすぐ彼は昏睡から回復した。正直言って神事と意識の回復に如何なる因果があったのかは今でも分からない。降霊などせずとも回復したのかもしれないし、顕現が肉体に何らかの影響を与えたのかもしれない。いずれにせよ、青年の意識が回復した以上、霊体の方はもとあるべき場所に還さなければならない。その理屈は君も分かってくれるな?」

「まあ、そうだな。その後、彼はどうなったのだ。先刻の話では障碍が残ってしまう可能性が高いということであったが」

「現在も経過観察中だが(おおむ)ね良好だ。最初は瞬きしかできなかったのだが、次第に返事や簡単な応答もできるようになって、今では歩行の訓練に励んでいる。正直驚いたよ。植物状態からの生還など、しかも高次機能の回復なんて無理だと思っていたからね」

「そうか。それは良かったな」


 絢哉は安堵した。雪彦が如何なる意図でこの話をしたのかは未だ分からずにいたが、いつの間にか青年に同調していた。彼が昏睡に陥り、父親が悩むところは自分事のように胸が痛んだし、回復してその上後遺症もないと分かれば自分のように嬉しかった。


 だが、喜ぶ絢哉とは裏腹に、雪彦は浮かぬ顔をしていた。

 その顔をしたまま、来たようだな、と雪彦は絢哉の後ろを見遣る。

 絢哉が振り返れば、女将が入ってきたところであった。


「御免なさい、遅くなりました」

「いや、構わない。ちょうど絢哉に事のあらましを言って聞かせていたところだ。そこいらに座るといい」


 答えたのは娘であった。


「碧さん。もうひとりの彼は?」


 自身の対面に正座する女将に、雪彦が尋ねる。


「事前に言われた通り、鳥居の側で待ってもらっております。呼びますか?」

「いや、まだ話は終わってないから彼にはもう少々ばかり待機してもらいましょう。彼の体調や精神状態はどうです。安定しておりますか」

「ええ。ここまで歩いてくるのは大儀そうにしておりましたが、受け答えはしっかりしておりますし、正常だと思います」

「そうですか。ならば後は、僕の説得にかかっているという訳か」


 眉間に皺を寄せながら雪彦は頷いた。

 絢哉に向き直る。


「渡会君。その青年は奇跡的に目を覚まし、現在快方に向かっている訳なのだが――ひとつばかり問題があってだな。一応聞くが、それが何か分かるか?」

「問題だって。彼は無事目覚めて、その霊体も向こうに還ったのだから万事解決したのではないか。まあ、諸々のリハビリは大変そうだが」

「違うんだよ」

「え?」

「渡会君。僕がいつ、霊体が帰ったと言った?」


 雪彦が言った。

 雪彦だけではない。

 娘も女将も絢哉を見ていた。


「そいつはまだこの世に留まっているのだ。悲しい哉、己が霊体であると気付かずにだ。それこそが問題なんだよ。僕は君に不幸な青年の話を言って聞かせたが――どう思った? 自分のことのように感じたかい」

「ああ。というより俺の話じゃなかったのか。この里に来た経緯(いきさつ)も、バイクでの失態(やらかし)も一致していたから、そうと思いながら他人の話を聞く(てい)でいたのだが――」


 そこで絢哉は違和を覚える。

 確かに青年と己は似ていた。

 だが――己には、深い眠りから目覚めた記憶も、運動に四苦八苦した覚えもなかった。


 むしろ、その点だけでいえば。

 あの包帯男の方がよほど『青年』らしいように思えてならない――。


「雪彦。その不幸な青年とは俺のことじゃないのか」


 絢哉は尋ねるが、雪彦は答えない。


「まずは先刻の問題について解説した方がいいだろう。なぜ、この世に顕現した霊体が、己をそうと認識できずにいたかというと――そいつが自我を持った時機(タイミング)が問題だったのだ。先程の青年が事故を起こして昏睡に陥ったのが二〇二〇年の九月三十日であるなら、彼の霊体が顕現したのが翌年二〇二一年の九月三十日であり――ちょうど一年後の同日であったのだ。つまり霊体は一年間の空白を認識せず、今日この日を二〇二〇年と思い込んでいたという訳だ。それだけに留まらず、旅館のご令嬢――沙羅君の願望が混じったのも余計だったな。彼女がそいつに如何なる理想願望を押しつけたのかは今となっては知る(よし)もないのだが(こう)()覿(てき)(めん)であった。何せそいつは彼女の嘘をそっくりそのまま信じ込んでしまったのだからな」

「嘘というのは――」


 絢哉は、自分の声が震えていることに気付く。


「彼女がどんな嘘を吐いたのかというと――自分の中に、そいつが求めて已まない恋人の魂が宿っているという大胆不敵な妄言だよ。いくら姉妹であり、それなりに外見が似ているとはいえども――そして内面を日記からどうにか模倣できたとしても――嘘は嘘でしかない。普通であれば看破されてしまうのだろうが、そいつはいとも簡単に信じた。それどころか沙羅君を好いてしまった。彼女と共に、ありもしない永遠を望むようになってしまった。まあ最終的には踏み留まってくれたようだが――いずれにせよ彼女の存在が真実の露呈を妨げたのは事実なのだ。本来は、誰かがそうと語らずとも自発的に気付いてもらいたかったのだが――いや、これは言い訳だ。僕達は真相を語る勇気が持てなかった。自身が霊体であると気付かぬ者に向かって『お前の身体が昏睡から回復した以上、存在意義などない。どこへなりとも消えるがよい』などと言える訳がないのだ。僕個人としても、そいつを良い奴だと思っていた。実年齢こそ確かに離れているが、今時こんな感心な若者がいたのかと思った。友でありたいと思った。だから尚のこと言い出せずにいた。僕に泣けることが許されるなら、今だって泣いていただろう」


 雪彦は真正面を見据えて言った。

 その姿は、何時何分死亡確認――と重い事実を告げる医師(しにがみ)のようで。

 同席する女将と娘も憐れむような眼差しを絢哉に向けていて、最期まで頑張りましたから声を掛けてあげてください――と遺族に告げる看護婦のようで。


 ――この場合、死に際を看取られるのは誰だ? 


 いや、まさか。

 そんなはずは――。


「雪彦。君の言った不幸な青年は存在するんだな」

「ああ、そうだ」

「顕現した彼の霊体は、今この時も、この世に留まっているんだな」

「その通りだ。容疑者は君と、旅館で療養していた彼の二人しかいないのだ。渡会君、君は自身に与えられた配役をどう考える。一方は恋人を喪った悲しみのあまりこの里を訪れようとしたが、道中の事故で丸一年眠り続けた憐れな男。彼は今年の九月三十日に目覚め(もつ)()リハビリ中である。他方、霊体は昏睡した青年を起こす最後の希望として、青年の御尊父と彼を慕う娘の祈りから構成された思念体ないし偶像だ。そいつは己が霊体であることに気付きもせず、当初の目的であった恋人を求めるあまり、そこを娘につけ込まれ荒唐無稽な嘘を信じた憐れな男だ。その霊体は今日この時にこの世を去る宿命(さだめ)にあるのだ。――さあ、渡会絢哉君。答え給え。君は己をどう認識しているのだ」


 雪彦は静かに詰め寄る。

 だが、絢哉には答えられなかった。


 己がバイクで娘を轢きかけた結果、崖から落ちた記憶も確かにあった。あの時の驚愕も、右足側のステップを地面に擦った時の反動も、脳裏に心的外傷(トラウマ)のように刻まれている。

 反対に、沙羅の身体に紗絵が宿ったと聞いて狂喜乱舞したことも事実であった。今までの人生が報われたとすら思った。仮令それが沙羅の狂言だとしても――共に過ごした幸福な時間までもが嘘になる訳ではない。礼すら言いたい気分であった。己が霊体であるという自覚など微塵もなかった。


 絢哉の心は、正中線から真っ二つに分かたれてしまった。

 虚勢を張るしか能のない理性は、己は昏睡から覚めたばかりの肉体だろう。この医者は霊体を見送らせるためにこの己を留めているに過ぎない――と嘲っているし、死期を悟った本能は、己は今日消えてなくなる霊体の方だろう。そんなこと話の流れから分かることじゃないか――と何が可笑しいのか笑い転げている。


 絢哉は俯いて掌を見下ろす。

 紗絵ほどではないが、どちらかといえば色の白い膚である。

 自分が、昏睡から起きたばかりの生者にも、今日消えゆく死者であるようにも思えた。


「雪彦。正直分からない。教えてくれ。俺は、今ここに生きているのか」

「そんなの、誰にも証明できないよ。だが、君はこの里に来てから疑問を抱いたことはなかったのかい」

「疑問? 何について」

「君自身についてさ。例えば、崖から転落して河原で失神した君が次に覚醒したのは鍾乳洞だと言っていたな。そしてそこをニーロン様に拾われたと」

「ああ、そうだとも。体感ではそう長い時間眠っていなかったように思う」

「人の体感ほど当てにならないものはないよ。しかし、なぜ君はそこにいたのだ?」

「なぜって、大雨に流されたからだろうよ。この地域の鍾乳洞は外部の河川と繋がっているとどこかで聞いたことがある。あの龍泉洞だって平成三〇年の豪雨災害では、入口から濁流が溢れ出ていたのを覚えている。俺が溺死しなかったのは、ヘルメットやジャケットが救命胴衣の役割を」

「絢哉。もう、何も言うな。そんなことは有り得ない」


 必死に喋る絢哉を止めたのは娘であった。


「よいか、絢哉。あの地底湖は、他のどことも繋がっておらんのだ」

「え? それなら、俺はどうしてあんなところに」

「それはそなたが常世から降ってきたからに外ならない。私はあの時、そなたを迎えに行ったのだ。常世から降ってきた死者は皆、あの辺りで自我を取り戻すものだ」


 あっけなく齎された事実に、絢哉は言葉を失ってしまう。


「渡会君。考えてみてもくれ。君が(たお)れた渓谷と神社裏の地底湖は、高低差や距離諸々を鑑みても、繋がっていることなど有り得ないんだよ。君が地底湖で気付いた時には既に一年が経っていたのだ」

「そんなこと――」


 嘘に決まっている、性質の悪い冗談にもほどがある――とは言えなかった。

 今何かを言えば、その拍子に感情の(たが)が外れ、二度と平静を取り戻せぬ予感がしたのだ。またそれ以上に、嗚呼そうだったのかという納得と脱力に全身を支配され、口を開く精魂すらも持ち得なかった。雪彦はこの事実を伝えんがため、遠回りをしたり、結論を先延ばしにしたりしていたのだ。


「雪彦。お前が、神社に行くのは止せと言ったのは、こういう訳だったのか」


 それでも絢哉が気力を振り絞り、尋ねれば。


「その通りだ。死者が死者を呼ぶなど前例がない――否、正確には誰も呼ぼうと思わない。死者を望むのは生者だけに許された特権なのだ」


 雪彦は険しい顔で頷く。


「死者を望むのは生者の特権――」


 (せい)(こく)を射た言い回しであった。

 なるほど、だから俺はイザナミ側の山車に立たされた訳かと今更ながらに理解する。なぜ己がイザナミ側なのか尋ねた時、確かに娘は困り顔を浮かべていた。演者を薦めた際の口振りも強引だったようにも思える。果たしてあの時の返答は方便だったのか、それとも本心だったのか――今となっては尋ねる意味もない。


「あまり驚かないのだな。反論されたり、暴れたりされるものと覚悟していたのだが」

「それはそれで心外だな。俺がそんな奴に見えるのか。なんというか、まあ、伝えにくかっただろ。言ってくれてありがとう」


 痩せ我慢をして答える。胸の内は荒れ狂い、今にも卒倒してしまいそうな精神状況であった。絢哉を寸前のところで繋ぎ留めていたのは、友の前では人間らしくありたい、という僅かに残された意地であった。


「渡会君。君と僕の仲じゃないか。そう無理をすることもない。言いたいことがあるなら遠慮なく言っておくれ。何だって聞いてやる。尤も、僕には聞くことしかできないが」

「それなら――少しだけだ。少しだけでいいから弱音を吐かせてくれ。頼む、雪彦。今からでも嘘だと言ってくれ。俺は、自分を霊体だとか思念体だとか思ったことはただの一度もない。いくらお前の言うことでも、自分が誰かの想像だとか偶像だとか――偽物だなんて本当は信じたくない。俺が偽物なら、俺が今まで、生きて考えてきたことは何だと言うのだ。確かに沙羅にはすっかり騙されたが、それでも俺なりに悩んで、君にも相談して、紗絵との時間を大切に過ごしていたんだ。それが全部嘘だっていうのは――なんというか、上手い言葉が見付からないが――あんまりじゃないか」


 絢哉は、喋っているうちに、言葉の節々に熱が篭もるのを感じた。

 (ふた)(こと)()(こと)の感謝を伝えて、雪彦も簡素な言葉を返して――互いに笑い合い、それで全ての思いを(えん)()するつもりであったのに、溢れる言葉を止めることができなかった。


「最初に言ったはずだ。君にとって、とても受け容れ難い内容であると。信じてくれと。決して嘘じゃないと」


 雪彦は、絢哉以上に辛そうに答えた。

 絢哉は、己の身体が小刻みに震えていることに気付く。祭りの最中に感じたものと同じものであり――己が恐慌に呑まれていることを察する。


 己がこの世に顕現した霊体であるなら、今日中に彼岸に帰らなくてはならない。それが道理であるのは理解していたが――それでも、己が霊体であるという自覚に欠けていた絢哉にとっては、死ねと言われることと同義であった。幾度となく自殺を試みたくせに今になって怯えるなんて――と絢哉は己の心理を不思議がる。


「ニーロン様。俺は今日、帰らなければならないのなら、どこに行けば」

「覚えていないのか。社の裏に洞窟があって、そこを道なりに進んでいくのだ。いいか。恐れることなど何もない。洞窟を抜けた先は空けた空間となっていて、そこには本殿が建てられている。そこまで行けば自ずと理解できるだろう。――なあ、絢哉」


 娘に呼ばれ、絢哉は伏せていた顔を上げる。


「この度は本当に済まなかった。私のせいで、そなたに多大な迷惑を掛けてしまった。どうか、許してほしい――」

「もう、いいですよ。気にしないでください」


 本音を言えば。

 あの時、彼女があの場にいなかったら確かに違う未来となっていたであろう。

 事故など起こさず、常世から呼び出した紗絵と出会い、生きる勇気を貰い、彼女の死を受け容れ――残された人生をまっとうしようと覚悟していたのかもしれない。


 思うところは確かにあった。だが、それは責任転嫁でしかない。

 あの事故は他の誰のせいでもなく、己のせいなのだ。


「その後はどうなるのでしょう。俺がこの里で過ごした記憶は消えてしまうのでしょうか。それとも身体の方に受け継がれるのでしょうか」

「それは――分からない。だが、きっとそんなことはないだろう。そなたは、そなたの御尊父と沙羅が思い描いた残留思念にしか過ぎんのだ。そなたの肉体と、そなたは確かに似てこそいるが、それでも根本のところは違う――かもしれない」

「そうですか」


 事実は覆らない。(しゆく)々(しゆく)と受け容れなければならない。

 だが、それでも――諦めがつけられなかった。


「なあ、雪彦。お前だって人間だ。何かの間違いという可能性はないだろうか。例えば、俺と奴が逆で、奴の方が霊体ということは」


 絢哉は最後の抵抗を試みる。

 醜い悪足掻きであることは自分でも分かっていた。


「残念だがそれは有り得ない。僕と君は同じ霊体だ」

「随分あっさり言うなあ。何を根拠にそう言えるのだ。俺があの地底湖で目覚めたことは――あの洞窟、どこにも繋がっていないとは言うが、潜水調査なんかしていないだろう。もしかしたら俺が無意識のうちに別の支洞から迷い込んだだけかもしれない」

「それなら君の認識に一年の空白があったことはどう説明する。この際だ。はっきり言わせてもらうが、君は救急ヘリによって総合病院に送り届けられたのだ。その場を、僕もニーロン様も見届けているのだ」

「そんなこと本当は分かっている。理解しているさ。お前の言うことが正しいことくらい。だが、心が理解を拒んでいるのだ。頼む、雪彦。違うと言ってくれ。それができないなら引導を渡してくれ。お前は用済みだから消えてくれと言われて素直に頷いてやれるほど、ここで過ごした日々は軽いものじゃないんだ。心の底から逢いたいと思った女は狂言で、それどころか俺自身が誰かの贋作(ニセモノ)なのだからお前らにとってはクソほどに滑稽で、どうでもいい話なのかもしれないが――それでも、俺にとっては真実(ホンモノ)だったんだ」

「承知した。これだけは同じ屍として言いたくなかったが――乞われた以上は仕方ない」

「勿体振るのはお前の悪癖だぜ」


 何だって言うのだ、と絢哉が促せば。


「君は、君が気付いていないだけで、もう随分と前から人間を辞めているんだよ」


 雪彦は告げた。


「それはどういう意味だ」

「やはり自覚はなかったか。それじゃあ聞くが、君が事故で河原に倒れた時、全身を怪我したのは覚えているかね。ニーロン様は、最後に君が煙草を吸おうとしていたのを見ていたらしいが」

「覚えているとも。煙草を咥えてライターで炙ったが、呼吸ができないため火が点けられなかった。しかも直後に雨粒が(あた)ったせいで一口も喫えないまま落としてしまった」

「その姿勢は愛煙家として賞賛に値するが――そうじゃない。手脚の怪我はどうだった。具体的にはどこをどの程度痛めていた?」

「手脚? 言われてみれば確かに酷いものだったな」


 絢哉は思い出す。右膝が潰れ、右腕は捻れていたことを。

 右の掌はグローブが破れ、骨と肉が露出していたことを。

 絢哉は再び己の掌を見下ろすが怪我の痕跡は一切ない。

 最初からそんな怪我などなかったかのように。


「その怪我は、君が地底湖で目覚めた時には消えていたのだろう?」

「それは――ああ、その通りだ」

「納得するにはまだ早い。君は旅館に世話になっているらしいが、その部屋には内風呂や洗面所、トイレといった施設も勿論あるんだろう?」

「それがどうした」

「君、ここに来てから用を足したことは? 髭を剃ったことは?」

「あ――」

「一度もないだろう。髪だって伸びていないように見える。食事すらまともに摂っていなかったのではないかね」


 絢哉は言葉に詰まってしまった。雪彦の言う通りであった。催したことは一度もなかったし、生えてこないものは剃りようがなかった。食事こそ出されたものは胃に収めていたが、空腹も満腹も感じたことはなかった。


 今までそれに気付かずにいたことが不思議であった。

 普通であれば己の不調として気付けるはずなのに――。


「なぜだ。なぜ俺は気付かなかった」

「そんなの簡単さ。僕らには食事も排泄も、何なら睡眠すら必要ないのだから。必要の無いものは感知できないように創造されている。僕らは習慣を辿ることしかできないのだ」

「習慣――」

「ああ、それでも食事の真似事はできるようだぜ。尤も、僕らが口に入れたと思っても実際には減ってすらいなくて、僕らは食べたと錯覚しているに過ぎないらしいのだ。不思議な現象ではあるのだがね。だから君が食事がした時は、すぐ配膳を下げられるように誰かが側に控えていたのではないかね。完食したはずなのに一口も減っていない膳に君が気付かないように」

「言われてみれば、確かにそうだった」


 絢哉が女将を見れば、その役目は沙羅に言いつけておりました――と申し訳なさそうに答える。


「繰り返すが僕らは既に人間ではない。三大欲求の食欲・睡眠欲・性欲を欠いており、飲まず食わず、眠りもせず、()えもしない――生者がこうあれかしと願ったようにしか生きられない――否、留まっているにしか過ぎないのだ。君は自発的に紗絵君を求めているつもりだろうが、それは完全なる誤りだ。きっと君の御尊父が抱いた想像であろうし、紗絵君を求めていたはずなのに、あっさりと沙羅君に惹かれるどころか沙羅君の騙った嘘を信じてしまっただろうに。言わせてもらうが、あの時の君は本当に見ていられなかったぜ。節操がないというか屍としての矜持に欠けるというか――まあ、そのお蔭で沙羅君の悪巧みにも気付けたのだから怪我の功名とでも言うべきなのかもしれないが」


 雪彦は唇の端に自虐の混じった冷笑を浮かべた。


「さて、これが最後の決定打になろうが、君は火の見櫓から飛んだな。ニーロン様もその瞬間を見ていたそうだが――どう落ちたのだね。是非君の口から聞かせてくれ」

「お前、自殺未遂した人間にその状況を語らせるのか」

「今更だろうに。それで、どんなふうに落ちたのだね」

「どうって――手摺りの上に立ち、両手を広げて、プールの高台から飛びこむように頭から思い切りいったぜ」

「――そう、それなのだよ」


 我が意を得たりというように雪彦が頷く。


「君はそれで、なぜ生きているのだ? おっと、悪口なんかじゃないぜ。あの火の見櫓の高さはそれなりにあるんだ。いくら地面が柔らかい草原であったとしても普通の人間なら頸部の骨折なり頭蓋の陥没で死ぬか後遺症を負うくらいの大怪我をしているはずなのだ。おかしいと思わなかったのか。いや、おかしいと思わないことがおかしいのだよ。いくら君が精神的に参っていたとしても、それなりに頭が回る性分だろう。もう一度聞くぜ、どうして君は死ななかった?」


 もう、反論の余地は一分たりとも残されていなかった。潮時であった。悪足掻きにこれ以上雪彦を付き合わせるのも申し訳なかった。


 消えるしかないから、消えるだけである。


 摂理云々の前に、この世を去る側にも、それ相応の作法ないし礼節があるのだ。

 雪彦は己のためにこのような場を設けてくれた。見苦しい駄々にも付き合ってくれた。己はその思いに応えなければならない。


 立つ鳥跡を濁さずとはよく言ったものだ、と絢哉は思う。


 絢哉は笑った。

 ようやく、死に至る決意を固めることができた。

 自虐も自嘲もなかった。

 己は、雪彦と友でいられるために消えるのだ――という爽やかな気概に満ちていた。

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