7-5.「君と彼は、似ているのだよ」
「君と彼は、似ているのだよ」
絞り出すように雪彦は言った。
「兄弟なんてものじゃない。同一人物かと見紛うほどだ。だから、まあ、沙羅君は確かに彼を好いていたのだろうが、次第に君に惹かれてしまった。そういう話だと思うよ。高瀬君は嘘を吐いていた訳じゃないし、沙羅君だって多情仏心だったという話じゃない。そこだけは誤解しないでやってくれ」
「それは分かっているよ。人が誰かを好きになることを俺が責められるわけがない。しかし俺と奴はそんなに似ているのか」
「ああ。外見も内面もそっくりさ。ドッペルゲンガーだとか幽体離脱だとかいう単語が脳裏を掠めるくらいにはな」
「ドッペルゲンガーとはまた非科学的な――いや、今更か」
「呆れたくなるのも分からんでもないが大真面目な話なんだぜ。つまり、君と彼は双子以上によく似た存在――鏡に映ったもう一人の自分のように、同一なる存在であると僕は考えている」
「急に何を言っているんだ。俺と奴は他人だぜ」
「夢を見ただろう?」
不意に雪彦は尋ねた。
「夢?」
「そうだ。それが根拠さ。よく分からないという顔をしているが――君はよく夢のことを語ってくれただろう。ほら、旅館廊下を走っていれば屏風が見えたとか、腐り果てた紗絵君から逃げ出してしまったとか」
「ああ、そうだな。それが」
「僕はその話を聞いた時、どうにも客観性があるなと感じたのだ。有り体に言えば事実ではないのかと思ったのだ。そうだな。屏風の話が最たる例だろう。君は旅館四階に置いてある屏風を見たことがあるのだろうが――では君が僕に夢の内容を聞かせてくれた時点ではどうだった?」
「いや、見たことがあるよ。何せ俺の部屋は四階で、その屏風は階段のすぐ側に置かれているんだ。嫌でも目に付くし、沙羅にも女将さんにも、ここから先は怪我人がいるから入ってはならないと釘を刺されてしまった」
「ならば屏風の裏側はどうだ?」
「いや、裏までは見たことがない。なあ、雪彦。この問答には何の意味があるんだ」
「おかしいんだよ」
「え?」
「君が、あの屏風の裏面――イザナギとイザナミの無残絵を知っていたことが。だから、あの夢は君が見たものじゃない。誰かが見た映像を君が受信してしまった――客観的な事実ではないかと思ったのだ。もっと言えば、君は同衾していた女から逃げたな。廊下を走って。それも含めて、あれは君の夢ではなく彼が見た現実なのだ」
「そんなの偶然じゃ」
「偶然なものか。君は、あの目を逸らしたくなるような絵の構図も、筆力も、色彩も、目の前で観察してきたかのように僕に語ってくれたじゃないか。僕も往診の度にあれを見るが一致していたぜ。それに君は夢で廊下を走ったと言ったが――あの日、彼は未明に自室から廊下までを逃げ出そうとしたと他でもない沙羅君から相談を受けたのだ。聞けば、同衾していて、追いかけて布団まで連れ戻したと言っていたが――一致するだろう。もう一度言うぜ。これは偶然じゃないのだ。君が悪夢だと言っていた腐敗した紗絵君から逃げ出す話も、確かにそこまでは君の罪悪感が創り出した妄想なのだろうが、旅館中を走って背後から迫り来る女から逃げ出したのは事実なのだよ。言わずもがな追ってくるのは沙羅君だ。考えれば考えるほど、ドッペルゲンガーとでも言えばいいのか、思念同位体とでも言えばいいのか、中々上手い表現が見付けられないが――君と彼は恐ろしいほどに似ているのだ」
雪彦は一度咳払いをして喉の調子を整える。
「実を言えば、僕が最初に君を見掛けた時、もう外を出歩けるくらいに回復したのかと思ってしまったよ。実際に彼の意識が戻ったのは――君が一年ぶりに目覚めたのと同じくらいのタイミングだろうか。今では発話機能も取り戻して、歩行の訓練に励んでいるよ」
雪彦はなぜか饒舌に語る。その姿は、患者の回復を見届ける医者というよりは、友の回復を目の当たりにする青年本人の喜びであった。
絢哉は小さな妬気を抱いてしまう。
雪彦の一番の友人は己ではなかったのかと思った。
「雪彦。もう、いい。聞いたのは俺の方だが奴の話はもう沢山だ。俺と似ていることは分かった。俺がここに呼ばれたのはいくら待っても紗絵は来ないと伝えるためなんだろう。ならばもう十分だ。帰らせてくれ。色々なことがあり過ぎて疲れてしまったよ」
「待ち給え。残念だがまだ話は終わっていない」
絢哉が腰を上げようとすれば、その腕を雪彦が掴んで文字通り引き留める。
「君には、まだ知らねばならぬことがあるのだ。そして、彼の話もそのうちのひとつ――否、最重要事項だ。もう少々ばかり付き合ってもらう」
「最重要事項? 話がどうにも見えてこないのだが」
「君と彼の関係なくてこの話は語れないのだ。とはいえども、この話題はこれ以上発展させられないから一度置いておくとしよう。今は君と彼が非常によく似た存在であること、それだけを覚えてくれればいい。直に分かる」
「直に分かるって――そればかりだな。俺が眠っていたことについても、奴についても、どうにも回り諄いぜ。結論を言ってくれないか」
「それだけは、どうしてもできない」
「どうしてだよ」
「結論を先に伝えたとしても君はきっと信じないだろう。仮令信じてくれたとしても重大な齟齬が生じてしまう恐れがある。慎重にならざるを得ないほど繊細な問題なんだ。頼む、分かってくれ」
「仕方ない。その代わり手短に頼む」
「心掛けるよ。さて、ここで話題は変わるのだが――とある男の話をしようじゃないか。年の頃は十八を超えた程度、頭の回転が速いながらも多少鈍さのある純朴な青年であった。彼は、如何なる事情があったのか恋人に先立たれてしまい自暴自棄に陥っていた折、ここ宇霊羅の隠れ里に伝わる秘祭を知人から聞いた。何でも、死者を蘇らせてくれる神事があると。彼は喜んだはずだ。何せ、里の在処を聞いてすぐ愛用のバイクに乗って来ようとしたのだから。だが彼は道中、運悪く事故を起こしてしまった」
「おい、雪彦。それは」
どこかで聞いたことのある話だな、と絢哉が口を挟めば、黙って聞き給えよ意味のある話なのだから、と雪彦が顔を顰める。
「彼が起こした事故というのは、道路にいた娘を避けた直後のカーブを曲がりきれなかったらしいのだ。その娘は、近くの分社の管理を任されていて、その帰りに飼っていた白猫が車に轢かれてしまったのを助けようとしていたらしいのだが――それはさて置き。彼は崖から落ちてしまった。いくら安全帽と防具を着込んでいたとはいえども、高所から渓流の河原に叩き付けられて意識不明の重体に陥ってしまったのだ」
雪彦は、上座にいる娘に視線を移す。
「焦ったのは事故の原因となってしまった娘だ。近くにあった緊急連絡用の電話を取り、隠れ里唯一の病院に連絡を寄越した。そこの院長は事情を聞くや警察に通報、救急を要請した。自分も現場に急行したが――そこからが地獄だった。何せ大雨が降り出していたし、彼は大破したバイクと共に遙か下方の河原に伸びてぴくりとも動かない。まして救急車も満足に進んでいけない狭い山道だ。結局救急ヘリが出動することになって――青年は意識不明の重体のまま市の総合病院に運び込まれたのだ。その後、彼はずっと目を覚ますことはなかった。遷延性意識障碍――所謂植物状態に陥ってしまった。ああ、あのバイクは岩崎君が中心となって、里の男衆でどうにか引き上げたから心配はしないでくれよ」
「バイクのことなんかどうでもいいよ。その青年とやらは、それからどうなったんだ」
「市の総合病院に入院していたが――昏睡が覚めないまま半年以上経ってしまった。彼の御尊父は一度は延命措置を止めて彼を死なせてやろうとした。それが彼のためであろうと。恋人を亡くした世で生きるのは辛かろうと。彼自身、自分いつが死んでもいいように身辺整理も済ませており、遺書まで残していたらしいのだ。また彼は何かしらの重い罪を犯していたようで――前科者という烙印に加え、精神と身体を毀してまでこの世に縛り付けることもない。ここで死なせてやった方がまだ幸せだろうと。御尊父はそのようなこと涙ながらに語っていたよ。だが、御尊父はそれでも彼の命を諦め切れなかった。彼を病院から引き取ったのち、最後の手段に賭けることにしたのだ」
「最後の手段――」
それは、もしや。
「そうだ。隠れ里に伝わる秘祭――宇霊羅式年祭だよ。今年はちょうど式年祭の年だった。つまり御尊父は、どこかに行ってしまった彼の魂を蛻となってしまった身体に呼び戻そうと考えたのだ。そうすれば青年は生き返ってくれると信じたのだ。御尊父はこの里で生まれ育った人間だから祭りのことを知っていたのだ。まあ、そう思いたくなる気持ちは非常によく分かる。植物状態の人間など、脳幹の機能だけは保っているが――それだけだ。様々な世話が必要になり、その表情は白痴宛らだからな」
雪彦は見てきたことのように語った。
「御尊父の決断を擁護するつもりではないのだが、僕の立場から解説をさせてほしい。脳への外傷が原因の遷延性意識障碍は十二ヶ月以上経った場合、回復の可能性はぐんと低くなる。仮令回復したとしても多くの患者において重度の障碍が残ってしまう。無論例外もあるが、回復の見込みは五年で三パーセントだ。意思疎通や理解力が回復するのだが自活できる数はもっと下がり正常な機能を取り戻すことはない。植物状態が続いた場合、大半の患者は脳損傷後の六ヶ月以内に死亡する。死因は肺感染症、尿路感染症、多臓器不全、原因不明の急死など様々だが――死を免れたとしても、その期待余命は二年から五年。五年以上の生存は約二十五パーセント。数十年以上の生存報告もあるが――希有な例だ。若年の患者は、高齢な患者と比較すれば運動機能こそ回復しやすい一方、認知行動ないし発話機能においては回復に差は見受けられない。ゆえに御尊父の選択は異常でも冷血でもない。彼を生かしておくにも資源の問題――金と労力だってかかってしまう。延命措置というものは綺麗事ではいられないのだ」
雪彦の話を聞きながら絢哉は考える。
その青年は死ぬべきだったと。
それが彼自身のためであり、また彼を取り巻く大勢のためにもなろうと。
周囲に多大な迷惑を掛けてまで生き長らえるなど――しかもそれを本人の与り知らぬところで決められているなど――彼の尊厳を思えば、悲しいことこの上ない。
「雪彦。最後の手段とやらは上手くいったのか。いや、そんなことができるのか」
「誰にも分からなかったよ。初めての試みだったからな。当然文献なんて残っていない。大事なのはその御尊父がそう信じたことと、彼ら親子に賛同者がいたことだ」
「賛同者?」
「うむ。事故の原因となったと責任を感じていた娘――もう伏せるのも面倒だからお呼びしますが、ニーロン様自ら彼の面倒を見ることを名乗り出た。またこの里唯一の宿泊施設である旅館の女将も同様に声を上げた。旅館には空き部屋もあり、彼の介助となる人員も確保できるからな。聞けば女将には彼に対する義理ないし負い目があったそうなのだ。何でも彼の恋人の、母親がその女将――碧さんだったからね。碧さんは娘が世話になったばかりではなく、彼の人生に暗い影を落としてしまったことを気に掛けていたのだ。まあ、このあたりについては人間関係の妙というものだな。いずれにせよ彼の面倒は旅館で見ることに相成った訳だが――先刻も触れた通り植物状態となった人間の看病というのは綺麗事では済まされない。ゆえに彼の身柄を旅館へ引き渡すのは、宇霊羅式年祭の直前――九月三十日になったのだ。さて、問題は彼の魂を呼び戻すところに移るのだが――これにまた名乗りを上げた者がいた。沙羅君である。元々は彼の御尊父だけが神社に赴くことになっていたのだが同行だけならばと許された」
今思えばその時から彼女は考えを巡らせていたのだろうね――と雪彦は独白る。
「神事自体が、故人の没年月日、如何様な人物であったか、そして如何様に死んでしまったか、何を好み何を厭うていたのかなどといった聞き取りの後、祈りを捧げるようなものだからな。同行自体は誰も問題とは思わなかったのだ。あくまでその時は」
皮肉を忍ばせながら雪彦は言った。
「その時は? では、後々何らかの問題が生じたということか」
「ああ。故人を形成する想像に不純物が混じってしまったのだ」
「不純物とは」
「人間の主観など当然個人ごとに異なって然るものだ。ゆえに死者に対する想像には客観性も正当性も存在しない。誰かがあいつはよく笑う朗らかな奴だったと言う一方、ヘラヘラと軽薄でいけ好かない奴だったと言う者もいるだろう。結局は他者の好悪に依るものだよ評判なんて。ここまではいいな?」
「ああ、続けてくれ」
「故人がどんな者であったかを聞き入れ、黄泉ないし常世から魂もとい記憶を顕現させてくれるのがこの地に御座す神なのだ。そしてその降ってきた者達を迎え入れ、案内するのがニーロン様だ。それが大雑把な式年祭の段取りだ。だが後になって判明したのだが、彼の降霊は上手くいかなかった。顕現こそ成功したのだが、沙羅君が良くない影響を与えてしまったのだ」
「良くない影響というのは」
「良くないと言っては語弊があるな。要は理想や願望が大いに含まれてしまったのだ。それも当然だろう。沙羅君は彼を好いていたし、そのくせ幼少期以来彼に会っていなかったのだから、彼女が抱くものは所詮理想像でしかない。それが、彼をよく知る御尊父の想像と混じってしまったものだから、顕現した彼は、どこか矛盾ないし欠陥を内包してしまったのだ。果たして、彼女が最初からそれを狙って同行を願い出たのかは僕達には分かりかねるが――きっと知っていたのだろうな。何せ、この里で生まれ育ち、今日まで数多の死者を見送り続けた旅館の令嬢だ。というより、その後の彼女の行動を思えば全て分かった上での行動だったのだろう。ああ、ここで言う矛盾や欠陥というのは、彼女を普通以上に好意的に捉え、妄信的になってしまうことだよ。分かり易く言うなら、彼は彼女の操り人形に近しい存在になってしまったのだ。しかも自分ではそうとは気付かずに」
雪彦は嘆息して額に手を当てた。その頃には、背後で燃えていたイザナミも消し炭になったのか、火が爆ぜる音は聞こえなくなっていた。
絢哉は、どうにも気になることがあった。
「雪彦。お前の言うことを聞いていると、その蘇った青年は――理想云々は置いておくとしても――あくまで生者の思い描く姿を切り取っただけの人形であって、本当の意味で、青年その人ではないように聞こえてしまうのだが」
「そうだよ。よく分かっているじゃないか」
雪彦は肯定した。なんでもないことのように。
「――は? いや、待ってくれよ。そんなことって」
絢哉は狼狽する。皆、死者に会いたくて、藁にも縋る思いでいるというのに――いざ蓋を開けてみれば、自分が思い描く想像でしかないなんて。確かに顕現してくれるだけでも奇跡なのだろうが。それでも、何というか――騙してはいないだろうか。
――こんなもの、侮辱以外の何物でもない!
口が動くのなら絢哉は糺したかった。何に対する侮辱なのかは絢哉自身にも判然としなかったが強烈な憤然と失望に駆られたのは事実であった。だが、絢哉は歯を食い縛って己の激情を遣り過ごす。
何を指摘したところで、娘と雪彦に対して、お前は本当の意味で人間ではなく誰かの思い描いた亡霊でしかないと言うことになり、無言を貫くしかなかったのだ。




