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2-1.眞緒から貰った古い住民地図によれば……。

 眞緒から貰った古い住民地図によれば、宇霊羅と呼ばれる集落は岩手県(いわてけん)岩泉町(いわいずみちょう)下閉伊郡(しもへいぐん)の山中に位置している。絢哉が所持する携帯の地図アプリでは勿論(もちろん)のこと、最新式のカーナビですら位置情報が存在しない山奥の僻地である。逗留の予定を旅館に伝えるよう眞緒に頼んだ絢哉は、簡単な旅支度を済ませると、バイクに乗りすぐに出発した。


 携行品は財布と携帯、煙草にオイルライターのみであり、本革の肩掛け鞄には、未だに開けずにいる紗絵の日記帳と未開封の煙草缶、携帯灰皿、タオルと着替えを収めている。荷物に不足があれば、都度現地調達をする算段であった。


 滞在期間は九月三十日から十月七日までの八日間を想定していた。無論できることなら宇霊羅例大祭の期間である十日までの宿泊としたかったが、バイト先との兼ね合いもあり八日が限界であった。眞緒からは先方も費用は不要であることを承知していると重ね重ね聞いてはいたが、それでも厚意に甘えるつもりはなかった。紗絵の死は己のせいであるという自責がそれを許さなかった。旅館の女将が紗絵の実母であるなら尚更のことである。


 盛岡から宇霊羅への道程(みちのり)は、国道四五五号を経由して岩泉町の市街に入り、そこから山道に逸れていく経路となる。長く見積もっても片道三時間程度。道すがらに立ち寄った道の駅・三田貝分校(みたかいぶんこう)で、地元の名産である龍泉洞(りゅうせんどう)珈琲(コーヒー)短角牛(たんかくぎゅう)のコロッケを買って一服を挟んだのち、絢哉は更にバイクを走らせる。

 秋も中頃となり、遠くの木々は深緋(こきひ)支子(くちなし)に色付いていた。空は薄群青に澄み渡り、季節柄暑くも寒くもない。絶好のツーリング日和であるにも関わらず他のバイク乗りを見ないのは平日の早朝ゆえか、昼頃から大雨になるという予報のせいか。


 今朝に見たIBC岩手放送の天気予報では、台風接近に伴い、強風および大雨()()()()が発令されていたことを絢哉は思い出す。


 二〇一六年――平成二十八年八月三十日に岩泉町を襲った台風一〇号の豪雨災害も記憶に新しく、絢哉は焦りを感じていた。同年、視察団を引き連れた安部晋三(あべしんぞう)元首相が、九名が犠牲となったグループホームを訪った報道を鮮明に覚えていた。水の透明度が高いことで知られる龍泉洞の受付兼入口から、真っ黒な濁流が溢れ出していた衝撃的な光景も。


 絢哉はバイクの速度を緩め、両足のステップに立つ。ちょうど通りかかった岩泉橋から、かつて氾濫(はんらん)した小本川(おもとがわ)を見下ろせば未撤去の瓦礫(がれき)が堆積している。道路の修繕や施設の復旧は大方済んだのだろうが、全てを元通りにするには、もう少々ばかり時間を要するのかもしれない。

 先刻通った路面に残っていた石灰を撒いたような白い汚れは、誰かが必死の思いで描いたSOSの痕跡だったのかもしれない、と考えた絢哉は、自分が一銭たりとも募金していなかったことを思い出し、その恥ずかしさを置き去りにするために速度を上げた。


     *     *     *


 平成三〇年三月三十日、岩泉町政策推進課から発行された『平成二八年台風十号豪雨災害「復旧の記録」ふるさと岩泉の再生へ』に依れば――。


 人的被害、死亡者数は二十四人(関連死三名を含む)。重傷一人、軽傷四人。

 避難状況、孤立したのは三十三地区、約四三〇世帯、約八七〇人。

 住宅被害、半壊未満から全壊までの全被害を纏めれば、住家が九百八十四棟、非住家が九百三十一棟。

 被害額――建物、土木、農林水産業、医療社会福祉、商工観光、教育、水道、その他施設の合計額は三百二十八億円にまで上る。


 岩泉町は本州で最も面積の広い町であり、山間部に集落が点在することが孤立に拍車をかけたのだろう。また参考として挙げれば、東日本大震災の住家被害は二百八棟であることから、単純比較することこそできないが、決して一地方の軽微な災害でないことは確かであろう。


 未だ復興途上であり傷跡が癒えぬ状況であるにも関わらず、全国の人々にとっては令和二年――二〇二〇年七月熊本で発生した集中豪雨の方が、印象に残っているであろうことが口惜しいが――致し方ない。日本にいる限り災害は避けられない。また人間は忘れる生き物なのだから。

 

     *     *     *


 空を見上げれば、空の端には分厚く淀んだ積乱雲が浮いているし、空気も湿っているような気さえする。今でこそ晴れているが悠長にはしていられなかった。


 岩泉警察署を通過して、楽天イーグルス岩泉球場側の四つ辻を北に逸れて山道に入る。辛うじて舗装はされてはいるものの、中央線もなく、バスかトラックがつけたであろう(わだち)が残る凹凸(おうとつ)だらけの悪路であった。


 狭い橋を渡り、古い鳥居を潜ったところで空気が変わった。


 馬手(めて)紅葉(もみじ)の群生する山となり、道路に覆い被さるように生えているせいで妙に薄暗い。弓手(ゆんで)は切り立った渓谷であり、遙か下方には清流と河原が広がっている。

 落下防止に申し訳程度のガードレールが設置されてはいるが、どれも焦茶色の錆に塗れ、いささか強度に不安が残る代物であった。この時には、ハンドルに取り付けたバイク用のナビも『位置情報を失いました。引き返してください』と初めて聞くメッセージを発するだけとなっていた。


 ――引き返せだと。馬鹿を言うな、何があろうと俺は行くしかないのだ!


 システムヘルメットの中で絢哉は叫び、ギアをひとつ落としてからアクセルを開く。

 元々は単なる移動手段でしかなかったバイクも今では立派な自殺の道具となり、多少の速度超過では何とも思わなくなった。生命の危機が心地良いとすら感じていた。


 無論、事故死の際は対人ではなく対物であり、他人様を加害者にも被害者にもさせる気はなかった。多分、己は電柱か信号機にでも激突して無様に死ぬのだろう。自殺するなど紗絵には悪いが不慮の事故ならノーカウントだろう。紗絵も笑って許してくれるはず、などと絢哉は思っていたのだが――根拠のない夢想に浸っていたのが駄目だった。


 四パーセントの下り勾配で時速六十キロを超えていたにも関わらず、前方の人影を察知するのが遅れた。


 少女であった。

 黒い髪に、赤い和装である。


 道の中央で屈み、毛並みの白い、(いたち)(てん)らしい小動物を泣きそうな顔で抱いている。そいつは、車にでも()かれたのか、口から血を流してぐったりしている――。


 ――(まず)いッ!


 ブレーキを踏んでも間に合わぬ距離であった。

 咄嗟に回避制動をとり、寸前かつ最小限の動作で少女を(かわ)す。

 車体を立て直して停止しようとするが、次に待ち構えていたのは右方向の急カーブであった。しかも路面には水溜まりが広がり、濡れた落ち葉が一面に敷かれている――。


 止まることを諦めた絢哉は車体を倒して、落ち葉の比較的少ない内角(インコース)に強引に入る。視線はカーブの出口に据え、重心がブレないように膝と足首で車体を挟む。最早カーブミラーを見る余裕はなかった。対向車が来ないことを祈るばかりであった。


 ――対向車、無し。よし、行ける!


 安堵した矢先であった。

 右足の真下から、がり、という異音がした。

 次いで反発が生じ、カーブの途中にも関わらず、傾けた車体が戻ってしまった。右のステップを擦ったのだ、と気付いた時には、眼前にガードレールが迫っていた。


 凄まじい衝撃であり、ヘルメットで重くなった頭部を軸に、空中で振り回される感覚がした。全身が浮遊感に包まれ、己が上がっているのか、落ちているのかすらも分からなかった。それを判断しようと目を開くも、紅葉と青空と、渓流と岩肌とが忙しなく回転する視界は、何の情報も(もたら)しはしなかった。


 ――駄目だ、この高さでは助からない。


 紗絵に会えぬまま死ぬのは勿体ないが、高所からの落下という、紗絵と同じ死因となるであろうことを思えば悪い気分ではなかった。

 笑った瞬間、顔面と胸部が打ち付けられた。頭部が一メートルほど弾み、頸椎から、みしり、という妙な音が聞こえた。痛みこそなかったが四肢が痺れたように強張り、身体を動かすことが酷く面倒に感じられた。


 それでも無理矢理起き上がり辺りを見回せば、岩だらけの河原に落ちたことが分かった。少しでも落下点がずれていれば、清流に沈んでそのまま溺死していたことだろう。


 絢哉は手頃な岩まで近付くと、崩れ落ちるように背を預けた。

 ヘルメットの重さで頭が後方に傾き、天を仰ぐ格好になる。


 (ひび)の入ったシールド越しに何かが動いた。先程轢きかけた少女である。断崖の上から、こちらを見下ろしている。ガードレールに手を掛け、身を乗り出しながら何かを叫んでいるようだったが、聞こえるのは無機質な耳鳴りだけであった。


 絢哉は手を挙げようとした。

 特別、何かを伝えようとしたつもりはない。

 落ちてしまったのは速度を出し過ぎた俺の失態だから気に病まないでくれ。まあ、道路の中央で座っているものじゃないけどな。ところで、さっきの白い生き物は猫なのか犬なのか、それとも別の生物なのかい。それはそうと警察に通報してくれれば嬉しいのだが――などといった纏まらぬ思索の発露であった。


 だが、意に反して右腕は動かなかった。見れば、前腕が外方向に捻れているし、掌に至ってはグローブが破けて骨が露出している。左手も両脚も似たような有様であった。


 ――間違いない、これは死んだな。


 絢哉は開放骨折している右手でヘルメットの前面を押し上げると、ジャケットのポケットから煙草の紙箱とオイルライターを取り出す。身体がまともに動かせない今、残された最後の時間にできることは喫煙だけであった。


 落下の衝撃で潰れてしまった一本を咥え、ライターで先端を炙るが、いつまで経っても火は点いてくれなかった。


 ――嗚呼、そうか。俺はもう呼吸すらできなくなってしまったのだ。


そう思った刹那、空から落ちた雨粒が、先端の焦げた煙草に直撃した。絢哉の唇から、煙草が転げ落ちた。ライターの火も消えてしまった。もう、拾い直す気力は失せていた。


 曇天から零れ落ちる水滴は次第に勢いを増し、すぐに土砂降りとなってしまった。


 ――おいおい。予報だと雨は昼前からだったじゃないか。


 格好悪いなあ、畜生。

 死んだ恋人を忘れられず、死にたがっていたくせに。

 あの平穏で、幸せで、温かな日々に戻りたかった。


「紗絵。俺が悪かった、許してくれ」


 秘めていた弱音が口から転げ出た。

 絢哉が最期に見たのは、暗雲立ちこめる昏い空と、崖に群生する色彩鮮やかな紅葉であった。

・天気予報は大雨強風の特別警報

・逗留予定は2020年9月30日から10月7日まで

・車に内臓を挽き潰された白い小動物

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