7-4.「お前がそこまで言うなら――分かった、信用するよ」
新しい「なろう」のシステムが使いにくひ……。
「お前がそこまで言うなら――分かった、信用するよ。だが、早速で悪いが俺は本当に、お前の言うことが理解できなかった。紗絵が存在しないとはどういう意味なんだ。まさか俺は気が狂っていて、紗絵がいるという幻を見ていたのか」
「本当に、理解できないか」
「ああ」
「推測もできないか」
「ああ」
「言っておくが君は狂ってなどいない。君の正気は僕が証明する。君がこの里で見聞きしたことは全て事実だ。それゆえ尚のこと具合が悪いのだ。結論から言わせてもらうが――君の見ていた紗絵君は、全て沙羅君の狂言だったのだよ」
何を言われようとも動じまいと覚悟していた絢哉だが、やはり戸惑いは隠せない。
理解はできた。理解はできたが――肝心の心が納得を拒んだのだ。
「雪彦。それはつまり――沙羅が姉を演じていただけだと。君はそう言いたいのか」
理性を総動員させて、努めて平静に絢哉は尋ねる。
「ああ、そうだ。あまり驚いていないようだな。もしや薄々勘付いていたのかい」
「まさか。これでも本当に驚いている。言いたいことだってある。心が追いついていないだけだ。しかし、それは有り得ないよ」
「どうしてそう思う?」
「診療所でも言ったかもしれないが――あれはやはり紗絵だ。勿論外側の話をしてるんじゃない。内面が俺の知る紗絵そのものだった。それだけは他人がどんなに頑張ったところで真似できないだろう」
「君の言う内面とは――性格とか言動とか――記憶という解釈でいいのかな」
「ああ。もっと言えば――俺との思い出だよ。俺は、彼女が、紗絵しか知り得ないことを嬉しそうに語るものだから信じた。信じざるを得なかった。己が知らぬうちに紗絵を常世から呼んでしまったと思ったのだ」
雪彦はすぐに答えなかった。熟考したのち。
「沙羅君には、今は亡き紗絵君の記憶と精神を模倣できるだけの十分な理由と時間があったんだよ」
と噛んで含めるように言った。
「尤も、ここでいう理由とは、動機の方ではなく"How"――どのようにしてという意味になるのだが」
「悪い、雪彦。意味が分からない」
「紗絵君の遺した日記だよ」
遮るように雪彦は言った。
「日記? それがどうした」
「それがあったから、沙羅君は死んだ姉の為人を知ることができたのだ。君とどのように過ごしたのかという記憶も」
「ちょっと待ってくれ。それは流石に無理がある。いや、まあ、確かに日記は毎日欠かさず丁寧過ぎるくらい丁寧に書かれていたから――模倣しようと思えば可能かもしれない。だが、三年日記だぜ。真似るなら読み込んで覚えなくてはならないだろ。そんなのできる訳がない」
「言ったはずだ。沙羅君には時間があったと」
「強引に纏めないでくれ。俺は先月の末――九月三十日しかも真夜中に、紗絵の日記と共にこの里にやって来たんだ。その後、紗絵が蘇ってくれたと確信したのが十月二日のことだ。沙羅が日記を読んだとしても、たった数日で理解などできるものか。紗絵の残した日記は――俺との毎日は――あっさり真似できるような軽いものじゃない。そもそも沙羅はいつ日記を見たというのだ。あれはいつも俺の部屋に置いていた。誰かが部屋に入って盗み見た気配などなかった」
「そうだな。君の言い分も尤もだ。ひとつずつ、その誤謬を正してやらねばなるまい」
「誤謬だと」
「ああそうだ。君はこの里に来てからいくつかの致命的な勘違いをしているのだ。ゆえに見誤ってしまったのだ」
雪彦は言った。
言い難いことを、それでも言わなければならぬと腹を決めた男の顔である。
「君は先刻、九月三十日にこの里に来たと言ったな」
「ああ。それがどうした」
「正確に教えてくれ。具体的には、何年の何月何日、何曜日に来たのだね」
「そんなことか。二〇二〇年の九月三十日水曜日だ。もっと言ってやろうか。その日は午後から大雨になるものだから慌てて出てきたのだ。ハッキリ覚えているよ。というかこの話は診療所でもしたじゃないか。ほら、水害がどうとか警報がどうとか」
「では、今日が西暦何年何月何日か言えるかね?」
雪彦が尋ねた。
何となく、その質問に答えてはならぬような気がしたが。
「二〇二〇年の十月十日だろう」
絢哉は答える。答えてしまった。己でも、取り返しの付かぬ失言をしてしまったような気がしたが――どうしてそう思うのかは分からなかった。
雪彦も娘も何も言わなかった。
だが視線は雄弁に語っている。
お前の言うことは誤っている、と。
「うん? 間違っていたか。今日は十日の土曜日じゃないのか」
「違うんだよ渡会君。今日は――二〇二一年の十月十日、日曜日なんだ」
「――は?」
「君の認識には一年の齟齬が存在しているのだ」
「どうして、そんなことが言えるんだ」
「論より証拠だ。これを見てくれ」
雪彦は、拝殿の隅に平積みされていた新聞の一部を手に取って絢哉に寄越す。
事前に用意していたのだろう。県紙である『岩手日報』の日付を見れば。
――馬鹿な。
日付は、間違いなく二〇二一年十月十日であった。
頁の乱れも少ない。紙とインクの匂いがしっかり残っている――投函からそう経っていない、本日の朝刊と分かるものであった。
「君と会って話をして、どうにも嫌な予感がしていたのだ。君の中に一年の空白があるのではないかと。曜日と日付の認識もずれている。――そうだな。君がいたく心配していた大雨の被害は確かに酷いものだったぜ。川が氾濫して橋は流されたし、田畑の被害額も相当なものだった。床下浸水の被害戸数なんて数えるのが馬鹿らしくなるくらいだったよ。だがそれは去年の出来事なのだ」
「なぜだ? 意味が分からない。教えてくれ、どうして俺はこんな勘違いを」
絢哉は己の声が酷く掠れていることを自覚する。
証拠を提示され、現在が二〇二一年であることは認めざるを得なかったが――それでも二〇二一年を過ごした記憶は存在しなかった。盛岡を発った二〇二〇年九月三十日と現在の二〇二一年十月十日は地続きで、そこに一年が介在する余地などないように思えた。
「渡会君。君は――君という人間は、バイクの事故が原因で一年あまり眠っていたのだ」
「事故――」
「そうさ。僕もその瞬間を見た訳ではないから判然としたことは言えないが――君は盛岡からこの里に来る道すがら、ニーロン様を轢かぬよう避けたまでは良かったが、急カーブを曲がり損ねてガードレールに激突、その勢いのまま崖から落ちてしまったのだ。きっとその時だろうね」
「しかし、俺には一年も眠っていた記憶なんてない。そもそも俺は河原に落ちた後すぐ洞窟まで流され、そこを彼女に拾ってもらったんだ。その足で旅館に行ったんだ」
「それなら、その後にでも眠ってしまったのではないかな。正直に言うとだね、君がいつ、どうやって一年を過ごしたのかについては今突っ込んで語るべきことじゃないのだ。今が二〇二一年で、君には一年の空白があるらしい――今はそれさえ分かっていればいいのだ。物事には順序というものがある」
「それはそうかもしれないが」
「乱暴な話だが、君は事故によって一年眠っていたという大枠の理解に留めてほしい。腑に落ちぬだろうが、人間の記憶や時間の尺度なんて曖昧なものだろう。大丈夫かね? 随分心配そうな顔をしているじゃないか」
「それはそうだろう。自覚のない空白の一年を指摘され、こんなものまで出されてしまっては不安ならない方がおかしい。なあ、これは本物なのか。俺は本当に」
一年を眠っていたのか、とは聞けなかった。
口にするのが怖かったのだ。
「本当だとも。僕が嘘でこんなものを用意するものか。それじゃあ聞くが、君が乗っていたあの単車――エリミネーターとかいう洒落た名前の絶版車があっただろう?」
「ああ、それが」
「君が眠っていないとしたら、あのバイクはたった一日で直ったことになるんだぜ。おかしいとは思わなかったのか。店に全ての部品が揃っているならまだしも、あれは絶版車だ。店主の岩崎君に聞けば、わざわざメーカーから取り寄せたパーツだってあったそうじゃないか。しかも試運転までやってくれたらしいぜ。冷静に考えてもみろ。一日で直っていい範囲の損害じゃない。むしろ一年とは言わずとも、君が長いこと眠っていた証拠になるんじゃないのか」
雪彦の説明に、絢哉は沈黙してしまう。
現在日時を知る手段など旅館の日捲りカレンダーしかなかった。携帯は壊れたままであったし、腕時計も日付表示のない安価なアナログ士気である。里の外には連絡を取り合うような知己もおらず不便を感じたことはなかった。むしろ気楽であるとすら思っていた。
「渡会君。話を進めてもいいかね」
絢哉は頷く。頷く外なかった。
「さて、話は日記の件に戻るが――これで沙羅君が死んだ姉を演じることができたのにも説明がつくだろう。即ち、君が旅館の一室で死んだように眠っている訳だから――勿論それは仮定なのだが――沙羅君が日記を読む隙なんていくらでもあっただろうし、君が信用してしまいたくなるほど精妙な紗絵君を裡に創ることは可能だったはずだ」
雪彦の言う真実とやらが、己を蝕んでいくのを絢哉を感じた。
確かに受け容れ難い内容であったがため、無意識ながらに反論の糸口を探っていた。
「雪彦。沙羅が死んだ姉を演じていたと言いたいのは分かったよ。ゆえに彼女がここに来る必要がないということも。実感こそないが俺が一年丸々記憶を失っているらしいことも一応は。だが、どうしてだ。沙羅は死んだ姉を真似て何をしたかったんだ。そんな理由なんてないだろう」
「それがそうでもないのだよ」
「どういうことだ」
「先に断っておく。僕が今から言うことは、高瀬君に聞いてもらった内容や、碧さんから聞いた内容をもとに導き出したひとつの推察でしかないことを留意してほしい。何せ、沙羅君に直接会っての説得はできなかったからね」
雪彦は慎重に述べる。
「これは高瀬君が頑張って沙羅君から聞き出した話なのだが――沙羅君は、どうにも姉である紗絵君を恨んでいたようなのだ。いや、恨んでいたというのは言い過ぎか。せいぜい疎んでいた程度かもしれない。具体的に、姉妹の間に何があったのかまでは不明なのだが――何でも沙羅君曰く、姉である紗絵君に何か大事なものを横取りされたようなのだ」
「横取りだって」
「ああ。生憎、高瀬君が聞き出せたのはここまでであり、これ以上は不明である。だが、僕から碧さんにも確認して、姉妹には深い溝というか確執があったことの裏付けは取れているのだ。まずはこれがひとつ。――ああ、僕だって兄弟姉妹は仲良くすべきだと脳死で語るつもりはないぜ。姉だけが里を出て気儘に暮らす一方、妹の方は老舗旅館の御令嬢であり次期女将だと従業員からは持て囃されて――まして死者が蘇る特殊な里だ。世間一般の物差しで測れないことは承知しているさ」
絢哉は、紗絵が妹の存在を己の前でただの一言も語っていないことを思い出す。
偶然、話す機会がなかっただけなのか。
それとも、あえて隠さねばならぬ理由があったのか――。
「もうひとつは――これも高瀬君が聞き出してくれたことなのだが、沙羅君は君のことを好いていたそうだ。他人様の感情を本人の許可なく喋るのは僕の信念に反するのだが、まあ事情が事情だ、致し方ない」
「沙羅が、そう言っていたのか」
「なんだい鈍い反応だな。言っておくが、人間的にだとか友人としてだとか、そういう玉虫色の返答じゃないぜ。男女間の感情だぜ。さては既に何か言われたな」
「いや、そういう訳ではないのだが――」
夕刻、紗絵から接吻を乞われたことを思い出す。あの時、紗絵は妹の想いを代弁したが――あの言葉は沙羅本人のものだったのだ。
だとしたら。
遠回しにしか伝えられなかった沙羅は、どれだけ悲しく惨めであっただろうか。俺は、この上なく沙羅を傷付けていたのだ――。
「ふん。武士の情けとして何も聞かずにおいてやるが――三つ目だ。沙羅君が姉のふりをした時機についてだ。沙羅君の立場になって考えると、自殺した姉の恋人に、姉を装って近付くのは中々難しい選択であるように思われるのだ。君が好きで近付きたいならわざわざ姉を騙る必要もないはずだ。つまり、何か特別な理由があったと考えるのが自然なのだ。それも直前に」
雪彦は言葉を切り、考えを纏めてからまた口を開く。
「君は語ってくれたな。紗絵君の遺した日記を読んでいたが、どうしても読み進められず、町に逃げ出して――火の見櫓から衝動的に身を投げてしまったと」
「ああ、確かにそうだ。それをニーロン様に見られていて、ニーロン様が呼びつけてくれた沙羅に介抱された――と思う。頭からいったせいで、どうにも記憶が曖昧だが。しかし俺が死に損なったことと、沙羅が姉を演じることにどう繋がるのだ」
「絢哉よ。問題はそなたが死に損なったことではないのだ」
答えたのは成り行きを見守っていた娘である。
「私は影から見ていた。あの時、そなたは駆けつけてくれた沙羅を紗絵と呼んだのだ。沙羅の姿に他の女を見出したのだ。私が思うに――それが引き鉄だったのだろうよ」
「引き鉄――」
沙羅君はそこから着想を得たのだろう、と雪彦はまたも補足を入れるが、絢哉にはその心情が理解できない。
「待ってくれ。よく分からない。俺が紗絵と見間違ったことが事実だとして、どうして沙羅が紗絵を演じることになるのだ。彼女にメリットなんてないだろう」
「馬鹿者。こういうのは有利不利で語る話ではない。絢哉、どうしてお前は沙羅の気持ちを分かってやれない。鈍いにもほどがある」
憤慨した娘は語句を荒らげる。
絢哉は己が娘の不興を買っていることには気付けても、娘の言う沙羅の気持ち――己が心配されるに足る人間であることには思い至らない。未だ心の奥底には、紗絵を死に追いやった己は忌み嫌われて当然だという強迫観念が澱のように残っていたのだ。
「渡会君。沙羅君は、櫓から君が身を投げたと聞いて凄く心配したはずだ。事実そうだっただろう?」
「それは――そうだな。そうだったかもしれない」
「沙羅君は閃いたはずだ。自分が姉のふりをすれば君をこの世に繋ぎ留めることができるかもしれないと。それが君のためになるのだと。そう思ってしまうくらいには君のことが好きだった。君を死なせたくなかったのだ。ここまでは良いかね?」
「まさか、俺がそう想われていたなんて。意外でしかない」
「まあ、その後に永遠だ何だと理屈を捏ねて君に迫ったのはやり過ぎと言う外ないがね」
「――え?」
「失敬、こちらの話さ。ここいらで話を纏めるとだ。彼女は君のために姉を騙ったのだ。だが、そこには姉に対する敵愾心もあっただろうし純粋な善意であるとも言い切れない。彼女の利己を満たす行為であったと僕は睨んでいるのだが、本人に直接問うた訳でもないし、正直どこまでいっても推察の域を出ない。何なら動機なんて何だっていいのだ」
どこか投げ遣りに雪彦は言った。
「何だっていいとは随分じゃないか。こっちは話について行くのに精一杯だというのに」
「悪いね。だが何度も言うがこれは推察だ。大事なのは今ここにいる君が納得してくれるかどうかなんだ。僕はそのためにあれこれと聞き回り考えを絞っているのだ。それで――どうかね。沙羅君には姉を演じる必要があったと理解してもらえたかい」
「まあ、そうだな。一応は筋が通っているように思われる。明日にでも聞いてみるよ」
そう言った瞬間――雪彦の動きがぴたりと静止した。
娘に至っては所在なさげに俯いてしまう。
「それは、諦めてくれないか」
雪彦が静かに告げる。
真剣味を孕んだ言葉であった。
「なぜだ。問題でもあるのか」
「それについても後でしっかり説明するよ。それより君は本当に納得してくれたのかい。一応なんて言っていたが」
「ああ、そうだ。高瀬さんの情報は確かなのかい。疑うつもりはないのだが、どうにも沙羅が俺を好いてくれるというのが信じられない。沙羅の好きな男は別にいるはずじゃないか。君が定期的に往診しているというあの包帯男だろうに」
「なるほど、その件か。それについては非常に説明が難しいのだ」
「そんなに難しいことを聞いたつもりはないのだが」
絢哉には雪彦が難色を示すことの方が意外であった。ただ一言、沙羅はあの男を好いていた、とさえ言ってくれれば良かった。その方が何倍も自然であろうと思った。
・絢哉は事故を原因に一年昏睡に陥っていた
・沙羅には紗絵を演じる必要性があった
・明日の確認は諦めてくれ




