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7-2.絢哉が社務所の裏に着いた時には日が沈み、山際が照るだけとなっていた。

 絢哉が社務所の裏に着いた時には日が沈み、山際が照るだけとなっていた。

 黄昏時である。篝が焚かれているにも関わらず白装束を纏った曳き手達の人相が判然としないのは、流石は誰彼時(たそがれどき)といったところか。


 絢哉は完成した山車に圧倒されてしまった。豪華な幕や数多の提灯によって飾られた屋台はさることながら、大天上に座する伊邪那美命(いざなみのみこと)は見事と言う外なかった。

 山車を用いた祭りによくある大袈裟かつ大味な人形などとはかけ離れている。あれは勇壮と迫力が売りであるから良いのだろうが――この女神は違った。

 頭部は冠と(かつら)、胴体は色彩豊かな着物で着飾っているものの、竹串を組んだだけの骨格に荒い和紙を貼り合わせ、そこに墨で顔を描いただけであるはずなのに――否、だからこそ黄泉へ渡ってしまった(たお)やかな女性を余すところなく表現して――絢哉が想像するイザナミそのものであった。


 山車には、笛や太鼓、摺鐘で演奏する者達が乗っていた。やはりそこに男女の別はない。正面だけが空けられていた。そこに立てというのだろう。


「ようやく来てくれたか、イザナミ殿」


 背後から肩を叩かれた。雪彦である。

 白装束でもないのに場に溶け込んでいるのは白衣のせいだろう。

 面と向かって話すのは随分久々であった。


「雪彦。お前もこっち側なのか」

「そりゃそうさ。そうか、君はまだ気付いていないんだな」

「何のことだ」

「いや、こちらの話さ。さあ、これに着替えるといい。僕の分だ。神主殿が、君が遅いものだから大層気を揉んでいたぜ。かくいう僕も、君が来ないものと思っていた」


 雪彦は畳まれた白装束を差し出す。


「何を言っているんだよ。ええと、これは羽織って帯を締めるだけでいいのか」

「ああ。時間もないから急ぎ給え。――ああ、違う。襟は逆だ。左が手前だ」

「左前って、死装束じゃないか」

「そうだ。僕らが着るのは死装束だからな。それよりも沙羅君のことだ」

「沙羅がどうしたって?」


 絢哉が死装束に袖を通して帯を締めれば、雪彦はいつものゴールデンバッドを咥え、ライターで着火する。


「君、沙羅君から祭りの参加を止められなかったのかね。僕はてっきり、君がその甘言に乗せられ、ありもしない永遠なんてものに酔い、全てを放棄するものとばかり」

「彼女から参加を止められたことも、永遠という文句に惹かれたのも事実だよ。だが見縊ってもらっては困る。俺は友の助言を忘れるような男じゃない、舐めてくれるなよ」

「しかし、その様子だと、なあ」

「どうしたんだよ。言いたいことがあるならハッキリ言ってくれ」

「いや、こればかりは言えない。君が自発的に気付いてくれるのを待つしかないのだ」

「雪彦。悪いが、お前が何を言いたいのかサッパリ分からない」

「そりゃそうさ、分からぬように言っているのだから」


 雪彦は笑みを浮かべるが、その笑みは酷く空虚なものに見えた。


「本番前に悪かったよ。僕は曳き手として踏ん張るから、君も台詞を読み飛ばさぬようせいぜい注意することだな。この里で暮らすひとりの人間として――何より君の友人として成功を祈っているぜ」

「ありがとう。しかし大仰ではないか」

「大仰なものか。今から始まるのは七年に一度の式年祭だぜ」


 では達者でなイザナミ殿――と言い捨てた雪彦は、その他大勢の中に混じっていった。二三度瞬きをすれば、もう、雪彦がどこにいるのか分からなくなる。


 絢哉が山車に跳び乗ると同時に、誰が合図するでもなく山車は前進する。

 それに伴い、笛と太鼓、摺鐘が拍子をとる――。


 山車の移動は牛歩の如し。

 勇壮とはほど遠く、葬列のようであった。

 遅々とした歩みゆえ、斜面を下っていながらも揺れはない。


 絢哉の立つ山車は麓の広場にて、もう一つの山車と対面する。


 ――嗚呼、あれが。


 亡き妻を追って、黄泉に赴いた日ノ本の神――伊邪那岐命(いざなぎのみこと)である。


 見た限り、こちらと同じく簡素な骨組みに衣類を被せ、顔や手といった露出部分は和紙を貼り合わせた造りであるはずなのに、その姿は――前方に向かって掌を差し伸べた姿勢も相まって、最愛の妻を亡くした男の悲嘆と慟哭を鮮明に表現した――神でありながらも、どこまでも人間らしい様相であった。


 似ている、と思った。


 愛した女の死を受け容れられず、原因となった者を殺そうとして。それでも尚諦めがつかずに女を追ってこんな隠れ里にまで来てしまったのだ。どんな姿になっても愛してやると息巻いたは良いものの、屍となった姿に恐れ(おのの)いて逃げ出してしまったところまで。


 雪彦に言わせれば、あの厭夢は神話に影響を受けただけとのことであったが――それでも絢哉はイザナギに深い共感を抱いた。他人とは思えなかった。死者に対する強い思いは万世共通なのだろうと思った。


 ――この世は何と残酷なのだろうか。


 己はイザナギに共感を覚えた。畏れ多くも仲間であると。友情まで抱いた。

 だが己はイザナミ役として、友に否を突きつけねばならない。

 そして、それは己と紗絵にも当てはまることである――。


 二つの山車はいつの間にか止まっていた。

 距離にすれば十メートルも離れていない。


 その気になれば、木鼻から木鼻へと跳び移り、源義経みなもとのよしつねの如し八艘(はっそう)飛びを披露して、対面の紗絵を攫ってしまえるほどの隔たりであった。


 このような辺鄙な隠れ里に、これだけの人間がいたのかと思うほど数多の者が山車を囲っていた。雑踏警備も案内役の係員もいないのに、老若男女を問わず誰しもが一定の間隔を保ち整然と並んでいる。皆一様に寂しそうに顔を伏せているのだから――やはりこれは葬列に違いないのだろう。


 日は完全に沈んでいたが、銘々が掲げるガス式のトーチランプや松明(たいまつ)、山車の四方に吊られた雪洞により暗いとは思わなかった。


 紗絵の表情が、憂いを帯びているのは気のせいではないだろう。

 絢哉自身、己が少なくとも笑顔でないことは理解していた。


 ――今から始まるのだ。イザナギとイザナミの応酬が。


 騒響(ざわめき)は消えていた。祭り囃子も絶えていた。(しわぶき)ひとつ聞こえない。

 ここにいる全員が、絢哉あるいは紗絵を仰いでいた。


(うつく)しき()汝妹(なにも)(みこと)(あれ)(いまし)(つく)れる(くに)(いま)(つく)()へず。(かれ)(かへ)るべし」


 紗絵が言った。


(くや)しきかも、()()ずて。()黄泉戸喫(よもつへぐひ)しつ。(しか)れども(うつく)しき()汝夫(なせ)(みこと)()()ませる(こと)(かしこ)し。(かれ)(かへ)らむと(おも)ふを、(しばら)黄泉(よもつ)(かみ)相論(あげつら)はむ。()()たまひそ」


 絢哉が応える。


 イザナミの山車がゆっくりと旋回して、真後ろを向く。

 イザナギの山車が距離を詰める――。


 少々の間を置いてから。


(あれ)(はぢ)()せつ」


 絢哉は言い放つ。

 刹那、先刻までの牛歩が嘘のように、山車が急旋回した。

 絢哉は均衡(バランス)を崩して尻餅を突きそうになるが――誰かに襟首を掴まれ転倒を免れる。欄干にしがみ付いてから助けてくれた者へと向けば、あの未亡人の旦那が立っていた。

 激しく揺れる山車をものともせず山車の上部に片手で捕まっている。もう一方の手には笛が握られている。絢哉の隣で物悲しい笛の音を披露していた者であった。相変わらず屍人のように暗い瞳で――否、(れつき)とした屍人なのだこの男は――絢哉を見下ろしている。


「すみません、助かりました」

「気にしなくていい。それより台詞があるんじゃないのか」


 見た目と同様に落ち着き払った声で男性は言った。

 そうであった。

 己がイザナミの化身なら言わねばならぬ――。


「――追え! 私に恥をかかせたあの者を逃がすな!」


 号令の直後、山車を囲う曳き手達が呼応するように声を上げた。追え、イザナギを逃がすな――と口々に叫んでいる。

 山車が急発進する。

 体感速度は十キロを超える程度でしかなかったが――山車の真正面という位置と、背景の薄暗さも相まって、夜道を全力疾走しているかのような錯覚を抱く。


「嗚呼、愛しい御方よ。どうして逃げるのですか!」


 絢哉は視線の先、イザナギに向かって叫ぶ。


「そんなに私が醜いと仰るのですか! 共に国を作る為に帰ろうと仰ったのは貴方ではありませんか!」


 絢哉の白装束に惹かれた一頭の夜盗蛾が肩を掠めた。

 上質な絹から織られた死装束に、煤竹色(すすたけいろ)の鱗粉が付着する――。


黄泉醜女(よもつしこめ)黄泉軍(よもついくさ)も駄目ならば――ええい、私が行こう!」


 絢哉が肩口を払うと同時に、山車の勢いが増した。

 車輪はがらがらと音を立て、高く伸びた高楼からはごうごうと風を切る音が聞こえる。それなりの速度が出ているにも関わらず、誰一人として落伍者は出ていない。まさにイザナギを追う軍勢宛らであった。


 世界は妙な高揚に支配されていた。

 絢哉は全身が冷え切っていることに気付く。

 見れば欄干を掴む手が震えている――。


「君、大丈夫か?」


 絢哉の変調に気付いたのだろう。

 隣の男性が怪訝そうに尋ねる。


「――ええ、大丈夫です。旅館に着くまで、もう台詞はありませんから」

「そうか。だが無理はしないでくれよ。代役の用意はいつでもできているからな。尤も、勝手に交代したら君の相方に悪いだろうから、できるならやりたくないが」


 男性は皮肉そうに笑った。どうやら彼が代役なのだと遅まきながら気付く。演奏も十二分にこなし、台詞も暗記して、こちらに気まで遣ってくれるとは――あの未亡人も惜しい者亡くしたものだと他人事のように考える。


 ――それにしても。


 なぜ、俺はこうも震えているのだ?

 絢哉は己の異変を疑問に思うが、すぐ原因に思い至る。


 己は――恐れているのだ。


 少し先を駆ける紗絵が黄泉の軍勢に追いつかれてしまうことを。

 口先ではイザナギを逃がすなとそれらしいことを(のたま)っているが――心の底から愛した女である。本心では紗絵が無事に現世まで逃げ(おお)せてほしいと願っているのだ。


 ――嗚呼、きっと。


 イザナミも本当はそう思っていたに違いない。確かに死に穢された己の姿を、よりにもよって最愛の夫であるイザナギに見られ、その上逃げられたら羞恥のあまり怒り狂うのは当然であろうが。それでも愛した夫である。恨みに呑まれ、愛した者を追うなど、悲しいに決まっている。

 それだけじゃない。己は既に黄泉戸喫を済ませてしまった身である。どう足掻いたところで生者の国へ戻るなど叶わないのだ。ゆえに醜い化生となった己が生者を追い立て、事戸(ことど)を渡すしか路は残されていないのだ。


 そうと悟ったからこその絶望であり、それゆえの震えであった。

 絢哉は、己と紗枝が、どちらが生者でどちらが死者かが分からなくなってしまった。


 ――人間でないことがこれほどまでに恐ろしいとは。


 しかし人の矜持まで捨てた覚えはない。死んだ己を連れ戻しに来てくれるような優しい生者に離別を切り出させるなどあってはならぬ。ここは(おん)(ぞう)に呑まれた屍人らしく、己から事戸を言い渡してやろう――。


 絢哉の裡に宿ったイザナミは、()(らん)した顔を歪ませて声高に哄笑する。

 紗絵を乗せた山車が旅館前の橋を渡り、曳き手達の巧みな誘導により反転する。

 今度は紗絵が絢哉を待ち受ける格好となる。

 最終局面である。


 絢哉の山車は徐々に速度を緩めながら――橋の直前で停止した。

 あれだけの距離を追走したにも関わらず曳き手達が呼吸を乱さずにいるのは、山車を囲う者達は皆、黄泉から叩き起こされた憐れな降り人であるからだろう。道理で先程から咳ひとつ聞こえない訳だ、と絢哉は今更過ぎることに気付いてしまう。


 対面の山車と比べればその差は一目瞭然であった。

 向こうは紗絵を含めた全員が生きている人間である。瞳に意思を宿し、膚には血が通い、ある者は汗を滲ませ、呼吸の度に肩が上下する――。


 ――待て、何か妙ではないか。


 絢哉は、自身の虚ろな心に恐ろしい閃きが芽生えた――ような気がした。

 対面の山車を睨めば――正面に立つのは紗絵ではない。沙羅であった。よく見ずとも、目鼻立ちや輪郭といった顔の造形は違う。背格好だって異なっている。病的なほど色の白かった紗絵と比べれば日本人らしい健康的な肌をしている。細かな差異を挙げればきりがないが――紗絵とはどうしたって似ても似つかない。


 ――それがどうした。外側は沙羅でも、裡には紗絵が宿っているのだ。


 短い間であったが、紗絵と過ごした時間は嘘じゃない。

 絢哉は思うが、それと同時に、どうして己はあんな女を紗絵と思っていたのだろうか、という不可思議も確かにあった。最初に会った時から、既に他人だと分かっていたじゃないか。そう思った途端――。


 ――ぴしり、と。


 絢哉は、己の裡にありながら、外界を遮断する殻に亀裂が走る音を聞いた。その罅からは墨汁のような暗い自己嫌悪が滲み出て――代わりに、今の今まで目を背けていた現実がするりと辷り込んで、空虚な己を満たしていく――。


 ――間もなく、夢が覚める。


 俺は、現実に向き合わねばならない。

 防御壁の破綻を悟った瞬間である。


「嗚呼、オホカムヅミよ――」


 沙羅が言った。絢哉が我に返る。

 オホカムヅミというのは、イザナギが己を救った桃につけた名前である。


「お前が私を助けたように、この(あし)(はら)に住まう多くの人間達が苦しむ時に助けてくれ」


 古事記において、黄泉軍から逃走するためにイザナギが桃の果実を三つ投げた時に言った台詞である。次は絢哉の番である。


「愛しい我が夫よ。貴方は私に恥をかかせた。のみならず逃げ出しもした。ならば私達には離別しか路はありますまい」


 沙羅を見据える。

 もう声を張り上げる必要はなかった。

 晩秋の、寒いくらいの夜風が紗絵まで想いを届けてくれるだろう、と思った。


「愛しい我が妻よ。貴女が黄泉戸喫を済ませてしまったことを悔しく思う。私が貴女から逃げてしまったことを申し訳なく思う。だが生者と死者は相容れぬ。この境界は決して踏み越えてはならぬものである。私はようやく分かった。私は貴女とは生きられない」


 沙羅は言った。今にも泣きそうな顔をしていた。

 絢哉には、なぜ沙羅がそんな顔をするのか分からなかった。

 いずれにせよ――最後の台詞である。


 絢哉は大きく息を吸い込み――久しく呼吸していなかったせいか、萎れた肺胞が()(ひろ)げられる、ぱりぱりという乾いた音が聞こえた。


「愛しい人よ。貴方がこんなことをなさるなら私は貴方の国の人間を一日に千人も殺してしまいます」


 目に涙を浮かべた沙羅も言う。


「愛しい人よ。貴女がこんなことをなさるなら私は一日に千五百もの産屋を建ててみせる」


 沙羅の声は絶叫に近かった。

 絢哉と沙羅の役目は終わった。

 言葉もなく、互いに見合うだけであった。


 合図もなしに祭り囃子が響き出す。

 絢哉の山車が反転を始める。

 焦れるほどゆっくり、時間を掛けて。

 曳き手達も、山車と併走していた者達も皆顔を伏せており――絢哉は察してしまう。この時間は、生者と死者に残された本当に最後の――惜別の瞬間なのだと。


 その証拠に、沙羅は絢哉を食い入るように見詰めている。

 沙羅だけじゃない。生者の誰しもが、こちら側の誰かを見送っている――。


「絢哉さん!」


 堪えきれずに沙羅が叫んだ。それを皮切りに、生者が口々に叫ぶ。

 死にゆく者達の名前を。伝えきれずにいた想いを。

 旋回の速度は更に遅くなるが――それでも曳き手の歩みは止まらない。


 一人の女が境界を踏み超えた。自らが起こした交通事故で夫を喪った未亡人である。白装束の亡者達を掻き分け、屋台に縋り付くように、必死で夫の名前を叫んでいる。

 息子を火事で喪った母親も、死者の群れに取り囲まれた息子をきつく抱き締めている。その様子を、神社の境内で遊んでいた子供達が寂しそうに眺めている――。


 未亡人の旦那は、瞑目したまま笛の演奏を続けている。

 熊のヌイグルミを抱えた男児も、母の拘束を抜け出そうと藻掻いている。

 死者は誰一人この場に残ろうとしない。


 全員が理解しているのだ。これより先に生者を連れて行けぬことを。別れねばならぬと。何かを言えば、余計に名残惜しくなってしまうことを。

 全員が決心を固めていたのだ。そのための猶予は貰っていたのだ。

 それが分かっているからこそ。ようやく理解できたからこそ、絢哉は妻の呼び声を無視する男性に何も言わなかった。山車の僅かな揺れに身を任せ、山車が神社に着くのを待っていた。


 全身の震えはいつの間にか収まっていた。

・どちらが死者でどちらが生者か分からなくなってしまった

・どうしてあんな娘を紗絵だと思っていたのだろうか

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