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7-1.結局、絢哉は紗絵と今後について語り合うこともしないまま……。

 結局、絢哉は紗絵と今後について語り合うこともしないまま宇霊羅式年祭の最終日――十月十日を迎えてしまった。


 時間ならいくらでもあった。紗絵は学校と旅館の仕事がない日は決まって絢哉の部屋を訪れてくれたし、絢哉も紗絵が来るものと判って煙草も喫わずに待つばかりであった。


 話さずにいたのは理由(わけ)があった。

 互いに如何なる結論を選んだとて、共にいられる時間が貴重であることに変わりがないと分かっていたためである。相手を思い遣り、情緒を交換し、過去を惜しむ時間を割かれるのを厭うたのだ。


 紗絵との時間に会話は必要なかった。元来、絢哉も口先に長けた性質でもなかったし、紗絵に至っては寡黙と言っても差し支えない性分である。同じ空間にいて、同じ時間を分かち合うだけで幸せであると絢哉は心の底から思っていた。


 宇霊羅式年祭の演者について言えば、既に全文を暗唱できるまでになっていた。聞けば紗絵も同様であるという。

 絢哉は、一度も読み合わせの相手に紗絵を指定することはなかった。また紗絵から誘われることもなかった。練習相手はいつも神社の娘であった。アナウンサー宛らの無機質な読み合わせであったがゆえ、演技力には若干の不安が残ってしまったが。


 山車に立ち対面するのがこの紗絵である。あの娘はお誂え向きと称したが言い得て妙であった。否、それどころの話ではない。絢哉は、感極まった結果、己が喋ることもできぬくらい泣いてしまうのではないかと危惧していた。いっそのこと人間らしく号泣でもして、芝居など代役にでも任せてやれば良いとすら思った。

 絢哉が娘に代役を要求すれば、適当に見繕ってくれるとの言質もとっている。


 いずれにせよ、絢哉と紗絵はこと練習において、ただの一度も読み合わせをせずにいた。


 未だに、絢哉は己がイザナミを演じる違和を捨て切れずにいた。

 加えて、イザナギとイザナミが――即ち己と紗絵が――芝居とはいえども、またも引き裂かれることに意図と嫌悪を覚えたのだ。有り体に言えば、生者と死者は別れるべきであるという如何にも教科書染みた訓戒ないし正論を振りかざされているような気がしてならなかった。

 そんなこと俺達が一番良く分かっていると絢哉は反発を抱く。否、理解してしまったからこそ己は紗絵と共に死ぬことを望み、紗絵は禁忌を犯してまで永遠を生きようとしてくれるのだ。


 嗚呼、本当に佳い女だ――と絢哉は思う。


 紗絵は、窓から坪庭を見下ろしている。

 彼女の視線を占めるものが気になり隣に立てば、いつかの未亡人とその旦那が長椅子に肩を寄せ合うように座り、何かを語らっている。少し離れた太鼓橋では、未就学児と思しき男児が、母親と手を繋いで楽しそうに笑っている――。


 彼らだけではない。この旅館この里において、蘇った死者が、己を呼んだ生者と共に束の間の逢瀬を楽しんでいた。彼らの表情にはどこか後ろめたい翳が差し、日の経過につれ、その暗い影が払拭できぬほど色濃く見えるのは、彼らの逢瀬がどこまでいっても「束の間」でしかないからであろう。


 生者の方は、己が我儘のために、懸命に生きて懸命に死んだ死者をあえて呼んだ罪に。

 死者の方は、己が見送られる側にしか立てぬ無力さに怯えている。呪っているのだ。


 あの男児ですら、死期を悟った末期癌患者のような、どこまでも透明かつ悲しげな瞳で母親を見遣るのだ。


「ねえ、絢哉くん。子供の頃、追い駆けっこをしたのを覚えてる?」


 覚束ない足取りで歩む男児を見ながら紗絵は言った。


「覚えているよ。旅館の廊下や商店街の川沿いを、近所の子供達と一緒になって走り回っていたな。あまりにも煩いものだから、女将さんに怒られたのも覚えている」


 絢哉も坪庭を眼下に答える。

 何も言わずに母親を見詰める男児は、同じく何も言わない母親に抱き締められる。それを眺めながら、二度も今生の別れを繰り返すのはどちらにとっても地獄であろうと絢哉は思う。それでもあの(おや)()にとっては明確な意味があったのだろう、とも。


「それなら火の見櫓での内緒話は?」


 視線を動かさずに紗絵は問うた。


「勿論覚えているよ。最初は何をするのか分からなかったけど、結婚式の(まま)(ごと)なんだって君が鐘を鳴らした後に気が付いたよ」

「具体的にはどんなことをしたっけ?」

「うん? 君は覚えていないのかい。だとしたらショックだぜ。俺はあの時君と約束したから、ずっと君を忘れずにいたというのに」

「ごめんなさい。流石に何年も前のことだから記憶が曖昧なの。それに、あなたが火の見櫓から飛び降りたと聞いて、急いで駆けつけたことの方が印象に強く残っているもの。妹の記憶だけれどね」

「それは、そうだな。心配を掛けて悪かったよ。もう二度とあんなことをしない」


 絢哉が正直に謝罪すれば、そんなこと当然でしょう、と紗絵は僅かに気色ばむ。


「火の見櫓での結婚式では、どんなことをしたの?」

「所詮子供の儘事だよ。手摺りに俺と君の名前を石で書いて、相合い傘で囲って、互いにずっと一緒にいようと誓って、半鐘を鳴らして――それで終いさ。勝手に登って勝手に鳴らしたものだから、こっ(ぴど)く叱られたのは言うまでもないけどな」

「そう言われてみれば、そうだった気もするわね」

「本当に覚えていないんだな。少し、寂しいな」

「そんな顔しないで、少しずつ思い出しているんだから。私達が降りたあと――消防隊のおじさんが真っ先に駆けつけたよね。ほら、いつも頭に手拭いを巻いて、頬に青い痣がある男の人。あとは、折角二人きりになれたと思ったのに、里の子供達が皆戻ってきて、どうしたのって何度も聞かれたでしょう?」

「ああ、懐かしいな。もう名前も顔も覚えていないけれど、きっと俺より立派に生きているんだろうな。そうであってくれたら嬉しいな」

「そうね。でもあの子達は、あの時から何ひとつとして変わっていないわ」

「それは――」


 どういうことだ、とは聞かなかった。この里において、歳月を経ても姿形が変わらないということは――そういうことである。


 ――嗚呼、ともすれば。


 神社の境内で目にした年端もいかぬ子供達は。

 社務所の裏手を示してくれたあの娘は――。

 かつて幼少期を共にした仲間達であったのだ。


 絢哉は、己だけ図体が大きくなってしまったことに罪悪感を覚えた。同時に、いつまでも成長せず、子供のままで在り続ける彼らは、一体どんな気持ちなのかという純粋な疑問が過り、形容し難い薄ら寒さを覚えた。


 ――やはり、人間というものは留まってはいけないのだ。


 生まれ、育ち、老いて、死ぬべき生き物なのだ。

 がたがたと小刻みに震える己の身体に戸惑う絢哉を後目に。


「私ね。あそこで絢哉くんと、したものとばかり思っていた」


 呟くように紗絵は言った。

 目的語を欠いた台詞であった。


「したって、何を?」

「結婚式で男女がするって言ったら、ひとつしかないでしょう?」


 婉曲な表現をする紗絵に、ああ接吻(キス)のことか、と絢哉は思う。


「するわけないだろ。あの時はまだ小学生だったんだから」

「だから、私の願望だったのよ。私、思うの。人間の過去や記憶って、ほんのちょっとしたことで都合良く変わってしまうものだって。私の記憶も、きみの記憶も」


 紗絵の流し目が絢哉を捉える。

 責められている、と絢哉は直感する。

 心当たりこそなかったが言葉に詰まってしまった。


「――ねえ、してみない?」


 口許に笑みを湛えた紗絵が尋ねる。

 その目が潤んで見えるのは、きっと思い過ごしではないのだろう。鈴を張ったような瞳に絢哉は大いに揺さぶられた。また彼女が恥を忍んで乞うている姿に胸を打たれた。ならばこちらも応えてやるのが男であろうという時代錯誤な勇気が湧き上がるが。


「それだけはできないよ。妹さんに申し訳が立たない」


 絢哉自身、紗絵が部屋を訪う度、もっと彼女に触れていたい――新雪を踏み(にじ)るように、己の存在を相手に刻みつけてやりたいという後ろ暗い欲望を抱いていたことは事実であった。尤も、重度の抑鬱により肉欲の欠落した身体では叶えようがなかったが。加えて沙羅を傷物にはできぬという頑迷かつ強固な理性が律し、絢哉から紗絵に触れたことは一度たりともなかった。


「女性にキスをせがまれているのにしないなんて」

「俺だって、君だけにならしてるさ。でも、その身体は妹さんのものだ」

「あの子なら許してくれるわ。別にいいでしょう今時キスくらい。減るものでもないし」

「減るよ、多分。こんな風貌の男が言えたことじゃないが、誠実でありたいんだよ俺は」

「あの子だって――」


 紗絵の声量が絞られ、絢哉が聞き返せば。


「あの子だって、あなたに惹かれていたわ」


 紗絵は言った。

 視軸こそ彼方(かなた)に向けられていたが、迂遠ながらも真剣な告白であった。


「それは――どうだろうね」


 信じ難い話だよ、と絢哉が慎重に返せば、どうしてそう思うの、と紗絵が静かに距離を詰める。


「沙羅には他に好きな人がいるんだよ。向こうの部屋で眠っているあいつさ。それは君だって――妹の記憶を持っている君の方が分かっていることじゃないのか」


 絢哉が躍起になって言い返せば、紗絵は逡巡したのち。


「確かにあの子はあの人が好きだった。ううん、今だって好き――なんだと思う。でもね」


 静かに振り向いた。

 その目は涙に濡れていた。


「動けずにいる壊れた本物よりも、たとえ模造品でも、人間らしく動いてくれた方がずっといいでしょう?」


 意味深長な台詞であった。

 だが絢哉には言葉に秘められた真意を汲み取ることができなかった。

 会話は途切れ、結局それ以上のことは起こらなかった。


 絢哉の中で、模造品という単語が妙に引っ掛かった。

 だが些細な違和感は新たな閃きを齎すことはなく、奇妙な疎外感を残すだけであった。




 日が暮れるまで、絢哉は紗絵と共に過ごす最後の空気に浸っていた。時折、思い付いたように過去の出来事を語らい、あの時はああだったこうだった、有り難う済まなかった、と積み重ねた思い出の棚卸しに勤しんでいた。


 将来の展望から一切目を背けた、未来を持たぬ者同士の遣り取りであった。

 だが絢哉にとってはそれだけで十分だった。過去に生きて、そして今日再び死ぬ紗絵を前に未来を語る訳にはいかなかった。尤も、紗絵と共に逝きたいという願いは未だに消えていないどころか益々強くなっていたが。


 絢哉は、未来に何の希望も見出せなくなっていた。

 紗絵が隣にいないなら無価値であると思った。今この世界には己と紗絵だけが存在して、それが続いてくれるなら他に何も要らないとすら思った。

 紗絵が天に昇ろうとするならその手を握って共に跳ぼうと思った。いつかの悪夢宜しく彼岸が地底湖だというなら共に沈もうと思った。ダンテの『神曲』の如く地獄の底で目覚めるなら、共に天国までの旅路を歩もうと思った。

 若々しく同時に愚かしくもある、万能感を伴った青年期特有の恋情であった。


 絢哉は紗絵の手を握っていた。人間らしい温かな掌であった。

 その体温(ぬくもり)が絢哉の決意を鈍らせる。

 離れたくない。

 まだ一緒にいたい――。


「もう日が暮れちゃうね。そろそろ、行かないと」


 絢哉の葛藤を余所に、紗絵はやんわりと握られた手を振り解く。

 紗絵は旅館の駐車場に、絢哉は神社の社務所に行くよう前もって言われていた。

 山車が動き出すのは黄昏時である。


「ねぇ」


 坪庭を見下ろしたまま紗絵は言う。

 庭園にはもう誰もいない。

 常夜灯が佇むだけであった。


「このまま、私達が行かなかったらどうなるんだろうね。祭りが終わるまで、ずっとここにいようよ。ね?」


 最後の抵抗であった。

 甘い囁きであったが――絢哉は首を横に振った。

 覚悟は決まっていた。

 紗絵を見送り、独りで生きてやると。

 あるいは己も共に死んでやると。


 絢哉の意思が揺るがぬことを察したのだろう。

 紗絵は観念したように俯いてしまう。

 絢哉は紗絵に近付くと、そっと接吻をした。

 紗絵は僅かに目を見開いたが、何も言いはしなかった。

 もう、言葉は不要であった。

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