6-3.紗絵が絢哉の部屋を訪ったのは夜も更けた頃であった。
・俺は死んだって君のことを愛している
・沙羅はあいつのことが好き
・制服姿の紗絵が日記に何かを書いている
紗絵が絢哉の部屋を訪ったのは夜も更けた頃であった。
温を浴びた直後だろうか。浴衣の上に煤紅色の羽織を纏い、その頬は朱が差している。髪の先端はしっとりと濡れている。
「お邪魔します。良かった、まだ寝ていなくて」
勝手知ったる様子で、紗絵は朝と同じように窓辺の席――絢哉の対面に座る。
ふわりと石鹸の芳香が漂い、絢哉は眩暈を覚えた。
煙草を吸わずにいて良かったと肚の底から思った。
「君が来ると思って、ずっと待っていたよ」
「ごめんね。旅館の手伝いもあったし、宿題もなかなか終わらなくて」
「宿題――そうか。高校生は忙しいもんな。すっかり忘れていたよ。俺も退学していなければ高校三年生だったんだよな」
「退学って――そっか。辞めちゃったんだね、学校」
「正確には辞めさせられたんだがね。まだ、君が飛び降りてからのことを話していなかったよな。それに、君に謝らなければいけないことがある。聞いてくれないか」
紗絵はしばし絢哉を見詰めて――頷いた。頷いてくれた。
絢哉は語り出す。恋人の死を受け容れられずに復讐を決意したことを。復讐することで自分が許されるのではないかと思い込んでいたことを。その具体的な方法を。手段の一環として、かつての渡会絢哉という人間性を捨てたこと。だが結局は自分の首を絞めるだけでしかなかったことを。高校を退学した後、現在は駅前の飲食店でバイト漬けの日々を送っていることを。そんな折、叔母である眞緒から日記を渡され、里での療養を勧められたことを。この里では死者が本当に蘇る場所であり、自覚のないまま紗絵を呼んでしまったことを――。
「ごめん。俺は君の遺言に従うことだけはどうしてもできなかった。それだけじゃない。己の都合だけで、懸命に生きて、懸命に死んでいった君の意思を尊重せずに呼んでしまった。それだけならまだしも――妹さんの沙羅にだって迷惑を掛けている。でも、俺はどうしても君に会いたかったんだ。君に会わなければ生きていけなかったんだ」
絢哉は、今まで、己が紗絵を求めるのは当然の権利であると信じていた。紗絵のいない人生に意味は見出せなかったし、故人に会いたいと思い出に縋り、黄泉の存在を信じる生者の願いも当然であると思っていた。
しかしながら、本日あの娘に齎された説教で悟ってしまった。己は自分のことしか考えていなかったと。紗絵の都合など只の少しも考えていなかったことを。
「どうか許してほしい」
ゆえに絢哉は謝った。謝ることしかできなかった。許しが得られるとも思っていなかったが、これもひとつのけじめであると思った。謝らなければ、彼女の死に囚われたまま前に進めないものと思っていた。
紗絵は、しばらく何も言わなかった。その場に立ち上がると、絢哉の側に寄り、頭部をそっと抱き寄せた。言葉に困ったら、すぐ身体言語に頼りたがる紗絵のやりそうなことだ、と思いながらも、絢哉は彼女の温度と感触に身を委ねていた。
目頭が熱くなった――気がした。尤も、涸れた涙腺は涙の一滴すら絞り出せずにいたのだから、やはり気のせいなのかもしれない。この期に及んで泣くことすらできない自分は、もう人間を辞めた木乃伊か羅刹にでもなったかのようで、ほんの少しだけ悲しくなってしまった。
この時ばかりは、身体の持ち主が沙羅であることも、紗絵が望む永遠を断ろうとしていたことも忘れていた。只々、紗絵の鼓動を感じていた。この幸せな時間がずっと続いてくれやしないかと本気で思った。紗絵と永遠を歩むことが禁忌であるなら、いっそのこと紗絵と共に逝きたいとすら思った。
――嗚呼、そうだ。それが良い。
現実逃避の副産物でしかないその閃きは、絢哉にとってまさに天啓であった。己が生涯は、今や紗絵の面影に縋り、辛うじて生き長らえているだけの屍でしかない。己は紗絵に生かされているに過ぎない。そんな残り滓のような男に紗絵を付き合わせるのも悪い。しかもその身体は無関係な妹のものであるなら尚更である。
ならば紗絵と共に逝けばいい。悪人である己が紗絵と同じ場所に逝ける保証などないが、それならそれでいい。それこそ摂理というものである。
紗絵のいない現世で死んだように生きていくよりはずっといい――。
「絢哉くん。私のために、ありがとう」
自棄を拗らせた思考は、紗絵の声によって中断される。
「紗絵。君が謝ることじゃないんだ。悪いのは全部俺なんだよ」
「そんなことないよ」
「それがそうでもないんだ。素直に、君に従ってさえいれば人生を踏み外さずに済んだ。高校も退学せずに、どこかの大学に進学して、長期休暇では帰省して。君の墓前で手を合わせながら、あれこれ語れるようなごく普通の人生を歩めたかもしれないんだ。そういう人生の方がまだマシだったと思わないでもないが――もう、そんなことはいいんだ」
絢哉はやんわりと紗絵を引き離す。
「俺なりに今後のことを考えてみたけれど――ごめん。俺は君の思いには応えられない」
「それは、どういうこと?」
「君は俺と永遠に在ろうとしてくれているんだろうけど、そんなの、やっぱり無理だ。俺達は祭りの最終日で別れるべきだよ」
「どうして、そう思うの?」
尋ねる紗絵の声は震えていた。
「君が言ったことだろう。残酷なことだって。確かに、俺達二人が納得してしまえばそれでいいのだろうが、その身体は妹さんのものだ。それに、俺は自分だけが年を取って、君を置いて死んでいくことに耐えられない。だから残された時間は別れを惜しむために使いたい。前向きに別れよう。身勝手なことを言っているのは分かる。でも、俺に、残された生涯を生きていけるようにしてほしい。君のいない人生を歩む勇気をくれないか」
「私じゃ、駄目なの? 私を呼んだのはあなたなのに。私は、諦められない。諦め切れるわけがない。この身体が誰のものであろうと――そんなの関係ない。私はあなたと一緒にいたい。あなただって私に会いたいと思ってくれたからこそ、ここまで来たんでしょう。どうして今更になってそんなことを言うの。私のこと嫌いになったの?」
「そんなことある訳がない。俺は死んだって君のことを愛している」
「それならどうして」
「永遠なんて、どこにもないからだよ」
絢哉の返答に沙羅は沈黙してしまう。その空気は絢哉にとって耐え難いものであったが――それでも言わねばなるまい、と絢哉は臍を固める。
「俺は、君と一緒に生きていくことはできない。でも、一緒に死ぬことならできる」
「何を、言ってるの?」
「さっきはああ言ったけど。正直、君のいない人生を生きるのはもう無理だ。だから、できるなら俺は君と一緒に死にたい。それは、俺にとって幸せなことなんだ」
「駄目だよ、そんなことを言っちゃ」
「駄目かな」
「そこまで私のことを想ってくれるのは嬉しいけれど――私は絢哉くんに生きてほしい。ううん、私は絢哉くんと一緒に生きたい」
「いつまでも一緒にはいられないだろ」
「そんなの関係ない。私がしたいと思ったから、するだけだよ」
紗絵は、話は終いと言わんばかりに開放したままのカーテンを閉ざす。
「私、もう行くね」
「そうか」
「そんな寂しそうな顔しないでよ。あまり遅くなると、離れにいるお母さんも心配しちゃうし、あの子にも悪いから」
「あいつのところに行くのか」
反射的に絢哉は聞いた。
特に何かを意識した訳ではない。
口から転げ出てしまった言葉であった。
「え? あいつって――」
「向こうにいる怪我人のことだよ。沙羅は、あいつのことが好きなんだろうが――君を、あいつに取られたくない」
駄々を捏ねる絢哉を見て、持て余したように紗絵は笑った。
「大丈夫だよ、私は、君のことが一番好きだから」
また来るからね――と言って、紗絵は退室してしまった。
* * *
一度は寝入ったはずの絢哉だが、いつの間にか覚醒していた。布団に仰臥しながら、薄ぼんやりとした光に照らされた天井の板目を見るともなしに眺めていた。
――なぜ、明るいのだ?
就寝前に消灯したはずである。
光源へ頭だけを動かせば――窓辺の安楽椅子に制服姿の紗絵が座っている。卓上の照明を頼りに、日記帳へ何かを書き綴っている。
絢哉がのそりと上半身を起こせば、紗絵は絢哉に気付いたようだった。
「あぁ、ごめん。起こしちゃったね」
紗絵は微笑した。
久々に見る本物の、紗絵の笑い顔であった、
絢哉は安堵した。
良かった、紗絵は戻ってきてくれた――と。
なぜ制服姿であるかについては思い至らなかった。
「紗絵。何を書いているんだい」
「秘密。まだ見ちゃ駄目だからね」
紗絵は日記に向かったまま答える。
「それなら、いつになったら見てもいいんだい」
「全てが終わってから、かなあ」
紗絵はまだボールペンを手放してくれない。書き残したい想いが多々あるのだろう、実に紗絵らしいな、と絢哉は思った。
「きみは先に寝てていいからね。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
紗絵の横顔をいつまでも眺めていたいと思ったが、紗絵に見守られながら眠りに就きたいという人間らしい欲求に負け、絢哉は目を閉じた。




