6-1.部屋に入室する何者かの足音で絢哉は起きた。
部屋に入室する何者かの足音で絢哉は起きた。主室の襖に顔を向ければ、沙羅が入室したところであった。
この時には、紗絵の存在に微塵の疑いも抱いていなかった。身振りや手振り、言い振り、果ては思い出まで持っているとなれば信用する外なかったのだ。無論、雪彦の忠告を忘れた訳ではない。また皮肉に富んだ己の人生である。いずれ破滅に陥るであろうことも予感していた。
だが絢哉の心理は、絢哉の知らぬところで既に限界を迎えていた。ゆえに絢哉は己でも不思議に思うこともなく紗絵の存在を妄信していた。己が、自覚のないままに紗絵を呼んでしまったのだと思うことにした。
絢哉は嬉しかった。涸れ果てたはずの涙が出そうになるくらい狂喜した。感極まるものがあった。だが、その喜びが肥大すればするほど不安が堆積するのも感じていた。
心の奥底から際限なく湧き出す懸念は、ほど近い未来に己と紗絵を破局に追いやるのではないかという恐怖すら抱くようになっていた。
胸の内に渦巻く、整理のつけられぬ葛藤を噛み殺してから起き上がる。
「おはよう。もう朝食の時間かい」
部屋の時計を見れば五時を少し過ぎたところであった。
早朝もいいところであるが眠気など最初からなかった。
「いいえ。少しでも絢哉くんと一緒にいたくて。迷惑だった?」
絢哉くん、と分かり易く強調させて娘は言った。つまり、今の自分は紗絵であると彼女は言外に伝えようとしているのだ。それを察した絢哉は。
「君なら迷惑なんかじゃないさ」
と笑いながら答える。
布団を上げるのを紗絵に任せ、絢哉は洗面所で身を調える。鏡に映った己は、相変わらず苦虫を噛み潰したような顔をしており、瞳に至っては雪彦の部屋に飾ってあった剥製のような黒い円がぎょろぎょろと動くだけであった。我ながら酷い面構えである。
――折角紗絵が来てくれたのだ。少しは嬉しそうにしやがれ。
自身に悪態を吐くも、別世界の分身は下手糞な笑みを浮かべるだけであった。髭も眉も全く伸びていない。盛岡を出る前に整えたままであった。特別何かをすることもなく、備え付けの石鹸で洗顔するだけで身支度は済んでしまった。
絢哉が主室に戻れば、紗絵は窓辺の安楽椅子に浅く腰掛けていた。白魚のような指が日記帳をぱらぱらと捲って――最後の頁で止められる。最終頁は『年末所感』の欄であり、二〇一九年の欄は当然空白となっている。
だが、紗絵は真っ白であるはずの頁を凝乎と見詰めている。
「紗絵?」
絢哉が呼び掛ければ、紗絵は弾かれたように顔を上げて周りを見回す。
だが、その動揺も一瞬であった。
すぐ平静を取り戻し、絢哉に笑いかける。
「ごめんな。眞緒さんから君の日記を渡されて、そのままだったよ。君の許可なく読んで本当にごめん」
絢哉が謝罪すれば、別にそれはいいの、と紗絵は首を横に振った。
「それより絢哉くんは全部見たの?」
「いいや。二〇一九年の元旦から五月九日まで。あとは中々読めずにいるよ」
二〇一九年五月十日――紗絵の命日である。
「そう。それならいいの」
「え?」
「なんでもない。私の方こそ、ぼうっとしちゃってごめんね。どうしても妹の記憶が混じって、ちょっと変な反応になっちゃうみたい」
「君がいることは、妹さんは知っているのか」
「うん。説明しにくいんだけど、夢を見ているような感覚に近いのかもしれない。ああ、でも心配しないで。身体を無理矢理乗っ取っているわけじゃないの。すぐに妹に交代することもできるから」
「そう、なのか」
絢哉は頷くことしかできなかった。沙羅に対する罪悪感もさることながら、それ以上に紗絵の永続を願っている己を自覚して、深い自己嫌悪に陥ったのだ。
紗絵は、絢哉に手招きをして対面に座らせる。
絢哉も紗絵も、すぐに口を開かなかった。言わなければならぬこと、伝えきれずにいた想いが多々あったはずなのに――いざ機会が目の前に降って湧いた途端、絢哉は口を動かせなくなってしまった。
「制服を着ているけど、今日は学校なのか」
苦労して絞り出した言葉は、つまらぬ日常の問い掛けであった。
「え? うん、そうだけど」
紗絵は笑ってしまった。唇を閉ざしたまま口角を持ち上げる、紗絵がよくする笑い方であった。笑ったのではなく笑われているということに絢哉は気付けない。
「どうして笑うんだよ。俺は何か、気に障ること言ってしまったのかい」
「違うよ。だって、真面目な顔をして、たっぷり間を取って、何を言われるのかなと思ったら普通のことだもの」
「そりゃ悪かったよ。何を言ったら良いのか本当に分からなくて。おかしいな。山ほど、伝えたいことや謝らなければいけないことがあったはずなのに。ごめんよ」
「慌てなくても焦らなくてもいいよ。私はここにいるから。もう、どこにも行かないから。時間ならたっぷりあるから」
「そんなこと――」
あるわけがない。
俺達が共にいられるのは祭りが終わるまでだろう。
俺達は。
俺達だからこそ。
永遠なんて本当はどこにもありやしないことを分かっているはずじゃないか。
最初は反論しようと思った。
だが、できなかった。
紗絵の笑みを前に、別れをどうしても切り出せなかった。それどころか、彼女が永遠を望むのなら如何なる禁忌をも犯してみせよう。それが彼女を殺した己にしかできぬ罪の贖い方だろうという自棄糞めいた思考すら湧き上がってくる始末であった。
「そんなこと、なに?」
「何でもないよ」
ゆえに絢哉は何も言わぬことを選んだ。
それきり、互いに何も言わず早朝の穏やかな静謐の中にいた。
元々、性格こそ温厚で人当たりも良いが、紗絵はよく喋る性質でもない。基本的に話題の提供は絢哉からばかりであったが、今まで、己がどんな話を紗絵としていたのかを絢哉は思い出せなかった。軽薄で心の篭もらぬ口説き文句ならいくらでも吐き捨ててきたが、かつての生真面目で優等生な己を絢哉はどうしても呼び起こせなかった。
絢哉の困窮を察したのかは分からない。
「今日、学校なの」
紗絵が言った。
「それなら学校まで送らせてくれ。俺、バイクの免許を取ったんだぜ」
「知ってるよ。妹の記憶は私も共有しているから。でも安全運転でよろしくね。絶対に事故なんて起こしちゃ駄目だからね」
「分かってるよ。事故にはもう懲りたよ。あれ、そういえば」
今日は日曜だろ、学校は休みじゃないか、と言おうとして。
昨日雪彦から曜日を訂正されたことを思い出す。
即ち、今日は月曜日であるはずなのだが。
柱に掛けられた日捲りカレンダーを見れば、日付は朱色で十月四日となっている。
就寝前に一枚捲ったのを覚えている。
今日は確かに十月四日で間違いないはずなのだが、これは一体――。
「絢哉くん? どうしたの」
「いや、今日が何月何日か分からなくなって。今日は四日だよな」
「今日は月曜日よ。もしかして、捲り忘れていたんじゃないの?」
「いや、そんなはずは」
絢哉の言葉を聞かずに紗絵は立ち上がると。
日捲りカレンダーを手に取って一枚を破り、傍らの屑籠に丁寧に千切って捨てる。
更新された日付は黒い文字で五日と書かれている。
絢哉の視力では年号、六輝までは識別できなかったが――紗絵が言うならそうだろう、彼女はいつだって正しかったのだから、と絢哉は思い込む。思い込んでしまった。
「そうか。今日は月曜日だったのか」
「そうよ。本当は、もっときみと一緒にいたいけど、学校にはちゃんと行かないとね」
「そうだな。絶対にその方がいい」
俺のようになってはいけない、と絢哉が強く肯定すれば、紗絵は困ったように小さく笑った。その顔のまま柱時計を見て。
「絢哉くん。私、もう行くね」
と名残惜しそうに告げる。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「ごめんね。朝は忙しくて。私も色々と手伝わないといけないから」
「そうか、そうだよな。引き留めて悪かったよ。お仕事、頑張ってな」
「うん。行ってきます」
足早に出て行った紗絵を見ながら、絢哉はまたしても自身が情けなくなってしまった。働きに出て行く女性を見送るなど、まるで酒甕飯嚢――穀潰しのヒモである。否、この上なく事実なのだから尚のこと具合が悪い。
煙草を取り出して、その一本を咥えたところで、はたと気付く。
広縁のテーブルの上、硝子製の灰皿には捨てずに放置していた吸い殻が転がっている。己は麻痺して察することはできないが、部屋は勿論、自身にも煙草の悪臭はこびりついていることであろう。
なぜ、紗絵は何も言わなかったのだろう。それだけじゃない。変わり果てた己の容姿にも指摘しなかった。ともすれば、口にはしなかっただけで、何があったのかを察してしまったのだろうか。紗絵は聡明過ぎるほどに聡明であった。それを思えば十分考えられるが――。
絢哉は考え込むが、簡素を通り越して質素な朝食を持ってきた紗絵に面と向かって尋ねる勇気は持てなかった。
朝食を済ませた絢哉は、一階受付の隅、衝立で仕切られた談話スペースの長椅子で紗絵を待っていた。テーブルに灰皿が設置されていることから察するに、二〇二〇年四月に全面施行された改正健康増進法はこの旅館には適用されていないようである。今更であるが。
――まあ、役人もここまで来て確かめもしないだろう。
あるいは老舗旅館ということで見逃してもらっているのか。
真偽のほどは定かではなかったが、煙草を喫う気分にはなれなかった。
今し方、隣に老婆が座ったのだ。頬に火傷痕を残した沈痛な面持ちの女性である。傍らには乳母車があり、子供が好みそうなウサギ柄のタオルケットと、積み木の玩具が寝かされている。乳母車はあちこちが焦げ、ハンドル部分の樹脂に至ってはドロドロに溶解している。物持ちが良いどころの話ではない。粗大ゴミと言われた方がしっくりくるような代物であったが――絢哉は悟ってしまった。この老婆が如何様な目に遭ったのかを。とても、この老女の隣で火を点ける気にはなれなかった。
絢哉は周辺視野で老婆を観察する。背筋も曲がり、毛髪には白髪が交じり、顔には皺も深く刻まれてこそいるが――よくよく見れば、それなりに若くも見える。三十代から四十代といったところであり、決して老婆などとは言えない。人生の痛苦が、人相を変えてしまった。ただそれだけのことであるのかもしれない。
絢哉が時間を持て余していれば、玄関に人影が現れた。
朝の白い光を受けて、影法師が館内に伸びている。
影は矮く、手脚も短い。
見れば、未就学児らしきひとりの男児が心細そうに立っていた。寝間着姿である。彼の手には焼け焦げた熊のヌイグルミが握られ、彼と同じように周囲をきょろきょろと見回している。
「おかあさん、どこ?」
少年が言った。
母を求める幼子の呼び声である。
その声で、女性の動きがぴたりと止まった。恐る恐る顔を上げて。その瞳が少年を認めたかと思うと、女性は一目散に男児へ駆け寄って彼をきつく抱き締める。
御免なさいね、もう放さないからね、お母さんが悪かったからね、置いていって御免なさい――などと、半狂乱になりながら叫んでいる。
――嗚呼、これが死者が蘇る光景か。
もし、この世に神仏とやらが本当にいるのなら。
どうか、頼むよ。
あの二人だけでも幸せにしてやってくれ。
絢哉は両手を握り締め、腹の底から祈る。気が済むまで祈りを捧げたのち、駐車場へ抜け出してバイクのエンジンを掛ける。とてもではないが、あの場にいられなかったのだ。
朝も早い時間だというのに、少し離れた蔵には大勢が集い何やら作業に勤しんでいる。蔵の正面、半開きになった扉から垣間見えるのは、側面に車輪がついた櫓である。
神社で作っているものと対になる山車である。人形こそ見えぬが、さしずめあれがイザナギの屋台だろう。
作業に集中している面々を見れば、昨日の未亡人や、小料理屋の従業員もいた。多くの観光客もいる。そこに男女の別はない。おそらくは出自の差も。作業自体も、社務所裏で行っていたものとそう大差ないようである。
絢哉はその面子を遠巻きに見ながら、多少の孤独と疑問を抱く。
イザナギ組とイザナミ組の違いは何かと。
なぜ、己は向こうに混じることはできなかったのだろうかと。
己は紗絵を連れ戻しに来たのだからイザナギ側の人間ではないのだろうかと。
何となく彼らに話し掛けることもできず、原付とさして変わらぬ控え目な排気音を聞きながら、絢哉は遠巻きに作業を見守ることしかできなかった。
「おはようございます、渡会さん。どこかに行かれるんですか?」
絢哉の意識を現世に戻したのは、少女の呼び掛けであった。雪彦の助手――高瀬という名の女子生徒がいた。
「ああ。これから沙羅さんを学校まで送るんだよ」
「えっ。沙羅ちゃんと?」
意外そうに女子生徒は言った。絢哉が訳を尋ねれば。
「今日は沙羅ちゃんと一緒に行こうと思っていたんですよ」
と女子生徒は答える。
「君達はいつも二人で学校に行っているのかい」
「いえ、毎日ではないんです。気が向いた時くらいです。邪魔するのも悪いけど、先生に頼まれたこともあるし――」
「よく分からないが折角ここまで来たんだ。二人で行けばいい」
「いいんですか。なんだか、すみません」
「構わないよ。どうせ送るといっても、すぐそこのバス停までだからな。本当は学校まで送ってやりたいけど土地勘もないし、行ったとしても、きっと悪目立ちしてしまうだろうからな」
「本当にすみません。お邪魔虫になって」
「別にいいって」
それからは女子生徒が主導となり、高校の授業内容であったり、文理選択の悩みであったり、進学や部活動であったりと、ありふれた世間話に興じていた。
会話が弾みかけた時に沙羅はやって来た。もう、紗絵の面影は失せていた。絢哉が事情を話して、引き下がる形になったことを伝えれば沙羅は納得してくれた。
沙羅は、姉が裡にいること、その姉が絢哉と浅からぬ関係にあることに対して何も言いはしなかった。絢哉からも言うことはしなかった。
「じゃあ、またね。絢哉さん」
「ああ。またな」
女子生徒だけが、言外に含みを持たせる二人を不思議そうに眺めていた。
・日記の最終頁
・伸びていない眉と髭
・曜日に対する一日の、認識の差異




