5-2.絢哉は旅館の駐車場に戻り停めていたバイクに跨がる。
絢哉は旅館の駐車場に戻り停めていた愛車に跨がる。バイク屋の店主に言われた通り、原付とそう変わらぬ速度で流す。
商店街を抜けてしまえば舗装もされていない砂利道となる。他の車両は、簡易郵便局の赤いスクーターが一台と、幌を被せたトラックが二台、観光客のものと思しき他県ナンバーのセダンが一台であった。
里を包む風を浴びながら絢哉は思う。
今まで、生き急いでいたのだと。今は精神の休息に充てなければならないのだと。そうして、いつかは現実に立ち返らなければならないのだと。
しかしながら――紗絵のことである。
如何なる形であれ決着はつけなければならない。そうでなくては戻るに戻れない。己の逗留期間を思えば、残された時間はそう多くない。
――けれど。
時の流れが遅いこの里で紗絵と二人で生きていくのもひとつの理想ではないだろうか。きっとその人生は間違いなく幸せだろう。
今の今まで、良い大学に入り、それなりの知名度とそれなりの待遇の企業に就職して、そのうち主任ないし係長にでも出世して、いつかは結婚して家庭を持ち、マイホームだって購入しているような――いささか典型的に過ぎるかもしれないが、そういう人生こそが幸せであるとばかり信じていた。だが、例外もあるらしい。
果樹園と煙草の畑を越えた先に診療所はあった。
小さいながらも威圧を内包した四角い混凝土造りの建物であり、傍らに立つ木造の電柱には『三浦医院』と白地に黒のゴシック体で書かれた看板が吊られている。四隅に錆が浮いて、僅かばかり傾いているのは愛嬌だろうか。
入口前は車止めだけが置かれた駐車場となっており、緊急車両であれば一台、普通車であれば二台が並ぶ程度の広さである。すぐ横には長椅子が並び、営業日ならば診察を受けた者達の社交場となっていたことだろう。
駐車場の隅にバイクを停め、病院の裏手を見上げる。
病院の背後には土瀝青で固められた急斜面が聳え立ち、遙か上方からは時折車両の通過音が零れ落ちる。海沿いを走る幹線道路――国道四五号だろうか。
まるで刑務所の内側から塀を仰望したかのような、牢獄宛らの光景であった。過去に悪事を働いた絢哉にとっては何とも気持ちの悪くなる眺めである。高低差もあり、里から国道に上る手段はないかのように思われる。
「君、空を仰いで一体どうしたのだね?」
怪訝な顔をした雪彦が玄関から出てきた。
「いや、まるで塀の中にいるような気がしてな。違う世界のように思えてならない」
雪彦が絢哉の視線を追えば、言わんとしたことを察したのか愉快そうに唇を歪める。
「君も中々洒落気あることを言うものだ。それはまさしく慧眼だよ。君の言う通り、この高壁は僕らを俗世に留めるための結界なのだ。監獄と言い換えてもいいかもしれない。だが、この分厚い壁が堤防として機能してくれたからこそ、|先の津波(3.11)では大した被害を受けずに済んだという側面もあるのだから難しいものだよ」
雪彦も身体を反らしながら答えた。
ちょうど大型車両が通ったらしく、ごう、というタイヤが路面を蹴張る音がした。
「雁首揃えて空を仰いでいても仕方ない。入り給え。友を招くのは本当に久々なのだよ。歓迎しようじゃないか」
院内は、絢哉が想像するほど古びても薄汚れてもいなかった。浅葱色をしたリノリウムの床には多少の擦り傷が見受けられるくらいで、どこにでもある小綺麗な小病院である。休診日らしく館内に人の気配ない。消毒液の匂いがどこまでも浸潤した空気を窓から差し込む陽光が貫くだけであった。
案内されたのは廊下の最奥、院長室である。
部屋の中央には波斯製とも土耳古製ともつかぬ赤い絨毯が敷かれ、一枚板の重厚なテーブルを挟んで黒革の安楽椅子が向かい合っている。民話集が収められた水引箪笥の上には、雌雄揃った雉の剥製と、模造品らしい短銃が並べられている。
上質であることに拘りつつも決して派手にならず、あくまで鑑賞の範疇に留まろうとするような――雪彦の気遣いと気高さを十二分に窺える空間となっていた。
「座り給え。生憎今日は高瀬君もいないため茶の一つも出せないが構わないだろう? 何せ僕らは煙さえあれば生きていける人間なのだからな」
雪彦は嘯くと、奥の両袖机に載せられた灰皿を取ってテーブルの中央に置いた。南部鉄器の灰皿には既に十を超える吸い殻が転がっており、特有の悪臭を放っている。
「雪彦。招かれた身で言うのも悪いが吸い殻はこまめに捨てるべきだぜ」
「煩いなあ。今日は偶さかなのだ。普段であれば、あの娘が勝手に入って勝手に清掃してくれるんだよ」
「高瀬さんだったか。今日はいないのか」
「買い出しか何かの用事で市街にまで出掛けているのだ。きっと夕暮れまでには帰って来よう。だが、あんな娘のことなど今は――今だけは、どうでもいいのだ」
雪彦は苦々しく零すと、お馴染みとなったゴールデンバッドを咥え、傍らの置き型ライターで先端を炙る。
それを見届けてから絢哉も懐から愛飲のピースを取り出す。
互いに最初の一口は、焦れるほどゆっくりと吸って――肺と腔内を濃厚な煙で満たし、体内に有害な成分が行き渡るのを感じてから徐に吐き出す――喫煙者だけが理解する、愛すべき沈黙を愉しんでいた。
――だが。
絢哉は煙草の風味に違和感を抱く。
通常であればヤニクラないしタール酔いで浮遊感を伴った眩暈を覚えるのだが、今日ばかりは何も感じなかった。最後に心地良く酔ったのは、この里に着く前――あの道の駅だったかと絢哉は首を捻る。
「それで、君。今日はどうしたのだね。この僕が相談に乗ってやる」
「秘密にしてくれるか」
「秘密? そりゃ勿論、他人の事情をおいそれと吹聴して回る趣味はないが、具体的には何を指しているのだ。君がここに来たことか。それとも今から君が語る内容か」
「両方だよ。きっと沙羅もいい顔をしないだろうからな」
「へぇ、それまたどうして、と聞くのは野暮だろうね」
雪彦は何とも言えぬ顔をするが絢哉は首を横に振った。
「お前が想像しているような軽い内容でないことは確かだぜ。まあ、想われていることは否定しないが彼女は何か隠しているのだ。本人も時機を見ていずれ説明するとは言っていたが、とんでもない大事になりそうな予感がするのだ。俺は彼女に対して不審を抱いている。正確に言うのなら――彼女を信じることが、道徳的にも倫理的にも正しいことなのか悩んでいるのだ。以上を踏まえて確認したいことがある」
「いいだろう。君がそこまで言うなら僕も応えようじゃないか。それで、改めて聞くが、君は一体何をそこまで思い詰めているのだね?」
「その前に、この里に伝わる祭りについて教えてくれ」
「祭りというと、宇霊羅式年祭のことかい」
「ああ。具体的には死者が蘇るなんてことが本当にあるのか。いや、それが事実だとしても。死者の魂が、生者の身体に乗り移るなんてことがあると思うか」
絢哉の質問に、雪彦は片眉を上げて怪訝そうにしてみせる。
その表情のまま。
「君はどうしてそんなことを聞くのだ? いや、まあ、おおよその想像はつくのだが」
と聞き返す。
「驚かないで聞いてくれ。沙羅の身体に、紗絵の魂が入ってしまったようなのだ」
「紗絵君というのは」
「沙羅の姉で、俺の恋人だった女だ。彼女は、去年――二〇一九年の春に自殺したのだ。どういう訳か、紗絵しか知り得ぬことを妹の沙羅が知っていた。それだけじゃない。自分のことを紗絵であるとまで言ったのだ」
「なるほど。それにしても、去年か」
「どうした?」
「――いや。その紗絵君というのが、君が本当に会いたかった人物なんだね」
絢哉が肯定すれば、雪彦は顎に手を遣り、しばし思案する。
「雪彦。自分でも馬鹿げたことを言っているのは分かっているんだ。だが信じてほしい。本気で困っているのだ」
「分かっている。疑ってなどいないのだ。考えを整理していた。どこから喋ったものか。どこまでを踏み込んで語れば齟齬を与えずに済むのかとな。ただ一つ言えることは、君は、やはり致命的な勘違いをしている」
「勘違いだと? やはり、沙羅は嘘を」
「待て。結論を急いてはいけない。いいかい、よく聞いてくれ。物事には序列というものがあるのだ。その結論に至るには早過ぎる。それこそ今の君には致命的だ」
焦る絢哉を宥めるように雪彦は手を挙げた。
「いいかい? 嘘も方便という諺だってあるのだ。虚偽が即ち悪だとも限らないだろう。誰しもが人を陥れようとして嘘を吐くわけでもあるまい。どうしても嘘を吐かずにはいられない、已むに已まれぬ事情だってあるかもしれないだろう」
「それは確かにそうだが――いや、その通りだな」
「分かってもらえて何よりだ。宇霊羅式年祭に話を戻そう。死者が蘇ることはあるよ。それは真実だ。具体的には、参列者の依頼を受け、神主殿が常世と呼ばれる異界から魂を呼ぶ――否、降ろすのだ。降ってきた者達は、己を呼んだ生者がいる旅館へと向かう。ゆえに昨日も言ったと思うが、祭りの期間は宿泊客がどんどん増えて、それこそお祭りのように里中が賑やかになるのさ。どうだい? 中々にナンセンスでありながらも幻想的な話だろう。まあ論より証拠さ。今日あたりには『お降り様』で旅館は溢れてしまうだろう。現実主義者らしい君も信じざるを得ないことだろう」
「それなら、死者の魂というのか精神というのかは分からないが――死者の記憶が生者に乗り移るなんてことは有り得るのだろうか」
「僕もこの里で暮らして永いが、それは一度も聞いたことがないな」
「そうか。それなら角度を変えよう。沙羅の身体に紗絵の記憶が宿ったとして、この場合どうするのが正しいのだろうか」
「随分とまあ抽象曖昧な聞き方じゃないか。そんなの、自分が好いと感じるまま、己の正義を貫けば自ずと後悔しない結果になるものだと思うがね」
「それはそうだが――そういう話でもないのだ」
「うん? どういうことだい」
「お前ならどうするかを参考までに聞かせてほしい。死者の魂だけが降りてきたとして、俺はそれを喜んでいいのか迷っているのだ。そりゃあ信じ難いことだが、死ぬほど会いたかった女が会いに来てくれたのだ。嬉しいに決まっている。でも話はそんな簡単じゃあないのだ。身体は妹のものだ。上手く言えないが、正しいことではないだろう。こんなの魂の殺人じゃないか」
「なるほど。君の言わんとしていることは相分かった。君は迷っているわけだな。自分の恋情に従うまま紗絵君の精神と寄り添うべきか、あるいは身体の所有者である沙羅君の精神を尊重すべきかを。いやはや、恐れ入った。これは非常に選び難い究極の難問だね」
雪彦は鷹揚に頷いた。笑みすら浮かべていた。
「なんだよその反応は。これでも俺は真剣に悩んでいるんだぜ。お前からすれば滑稽で、馬鹿馬鹿しい話なのかもしれないが、惚れた腫れたという単純な話ではないのだ」
「失敬。だが恋やら愛やらでないとすれば何なのだ。教えてくれ。生憎、この通り僕の友は君しか残っていないのだ。人間関係――ことさら男女の色事には疎くてね」
「お前、籍を入れていたんじゃなかったのか」
「そんな大昔のこと、忘れてしまったよ」
雪彦は寂しそうに笑ってみせる。絢哉はそれ以上踏み込むことはしなかった。これ以上は何を言っても泥仕合である。互いの朋義に関わることでもある。
「罪悪感だよ」
絢哉は率直に答える。
「罪悪感?」
「そうさ。言ってなかったな。俺こそが、紗絵を死に追いやった張本人のひとりなのだ。確かに俺と紗絵は付き合っていたぜ。高校生の糞餓鬼ながらも将来を真剣に考えていた。紗絵が死んだ後は彼女を害した連中に復讐だってしてやった。彼女と会うためだけにここまでやって来た。これは紗絵を死なせた人間の罪悪感だ。贖罪できるかどうかの瀬戸際なんだよ。だから何と言ったらいいのか――この負い目がある限り俺は紗絵を拒絶できない。しかし、かといって紗絵と一緒にいるのは妹の沙羅に申し訳が立たないだろう」
「それは、うん、そうだね。君の立場にすれば実に悩ましいな」
「改めて聞くよ。俺は、どうするべきだと思う」
絢哉が雪彦を見れば、雪彦はどこか困ったように顔を背けて煙を吐いた。
「君にできることは、そう多くない。君の気が済むまで紗絵君の側にいてやればいい。必要なことは後ほど彼女から告げられるだろう。だがこれだけは覚悟しておくべきだ。君が紗絵君といられるのは宇霊羅式年祭の最終日までだ。これは確定事項であり、逃れられない宿命と思い給え。こう言うと先輩風を吹かせているようで嫌だがね。君達に永遠を望む資格なんてないよ」
雪彦は淡々と述べた。
永遠を望む資格なんてない――。
「最終日というと」
「十月十日だな。あと一週間といったところか」
短い。あまりにも短過ぎる。
だが、それ以前の問題として。
「生憎だが、俺はそこまでいないぜ。七日には盛岡に戻るつもりだ」
「――何だって?」
雪彦は眼を丸くする。煙草の灰がテーブルに落ちた。
「そんなに驚くことか」
「君、もう少し逗留を延ばしてみてはどうかね。式年祭の最終日までいた方がいい」
「そうしたいのもやまやまなんだが。バイトもあるし、金銭的な都合もあるからな」
「旅館の方には僕の方から伝えるから。どうか残ってくれ、頼むよ」
雪彦の熱意に押されるように絢哉は頷いた。ここで頷かなければ話が進まないと思ったのもある。後ほど、旅館の公衆電話を借りて盛岡にいる父親と、旅館を紹介してくれた紗絵の叔母、そしてバイト先に滞在を延ばすことを後で伝えなければ、とも考える。
絢哉は、長くなった煙草の灰を灰皿に落としたのち揉み消した。続けて、もう一本に手を伸ばし燐寸で着火する。対面の雪彦も二本目に手を付けたようである。
「酒も食事も美味いと思えなくなってしまったが煙草だけはいつまで経ってもしっかり美味いのだから不思議なものだね」
まるで自分自身に焼香を上げている心持ちだよ、と言った雪彦は、天井に向けて煙を吐き出した。一癖ある独特の芳香である。
「ところで君はどうして、沙羅君の中に死んだ恋人が宿っていると思ったのだね。まさか本人がそう主張していたのかい?」
「そう言っているじゃないか。それに紗絵しか知り得ぬことを知っていたのだ」
「ふむ。具体的には?」
「二人の思い出だよ」
絢哉が、火の見櫓での儘事や、商店街側に架けられた橋の思い出、仕草そのものが紗絵に似ていたことを述べれば、雪彦は僅かに目を丸くする。
「しかし、なあ。姉妹なのだから見た様は勿論、仕草も似て然るものじゃないかね。記憶の保持についても、二人に親交があればどうとでも捏造できるだろうに」
「疑ってかかりたくなるのは分かるが沙羅と紗絵に接点はないはずだ。俺は紗絵から妹がいたなんて一度も聞いたことなんてなかった。妹の存在を知ったのはこの里に来てからだぜ。まあ俺に言っていなかっただけで親交があったというなら話は別だが――雪彦、やはりお前は疑っているのか。俺は信じたいよ。というか信じて側にいろと言ったのはお前じゃないか」
絢哉が縋るように雪彦を見れば。
「前言を撤回させてもらう。やはり疑ってかかるべきだ」
厳しい反論が返ってくる。
「それは、どうしてだ」
「沙羅君には想い人がいたはずだからな。尤も、僕の記憶が確かであればの話だが」
「それは――そうか。確かに、そうだな。あの娘も年頃だ。不思議なことではない」
絢哉は、自身の周章を圧し殺しながら言った。
理由は分からない。だが、手酷く裏切られたような気分であった。
・村から国道へ這い出る経路はない
・僕らは煙さえあれば生きていける
・両切りの『Peace』でもヤニクラは起こらなかった
・君達に永遠を望む資格なんてないよ




