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5-1.朝食の後、絢哉は祭りの準備を手伝うために神社に出向いた。

 朝食の後、絢哉は祭りの準備を手伝うために神社に出向いた。時間が早過ぎると思いもしたが、その時は社務所ないし蔵の前で待たせてもらう腹積もりでいた。


 沙羅は、由緒ある旅館にしては簡素な(あさ)()を――昨日のうちに女将に頼んでいたのだ。食欲も味覚も全くないため最低限のものにしてくれと。何なら用意しなくても平気だと。話を受けた女将は心配するでも首を傾げるでもなく、分かりましたと一言頷くだけであった。まるで最初から絢哉が申し出ることを分かっていたように――黙々と胃に収める絢哉を愉快そうに眺めていた。


 特別これといった会話もなかった。もとより、絢哉も、沙羅の中にいる紗絵も口数の多い性格ではなかったため、絢哉にとっては懐かしさすら感じる時間であった。

 互いに積もる話もある――どころではない。今までのこと、そして今後のことを包み隠さず話さなくてはならぬ差し迫った状況であることは理解していた。加えて、彼女も絢哉と離れるのを拒むように座ったままであったが。それでも絢哉は食器を乗せた盆と共に沙羅を帰らせた。


 絢哉は沙羅から告げられたこと――妹の沙羅に、姉である紗絵の精神ないし記憶が宿ること――を信じ切れずにいたのだ。

 昨日は沙羅の気迫に押し切られる形で信じ込んでしまったが、生まれてこの方、科学信奉の世界に身を置いていた絢哉である。僅かな疑いを捨てられなかったのだ。一晩経た今、沙羅から滲み出す紗絵の像が精巧となればなるほど、現実逃避が見せる都合の良い幻影なのではないかと疑ってしまうのだ。

 この世の、ありとあらゆる存在が、己にとってそう都合の良いものではないことを――何なら、世界のありとあらゆるものが牙を剥いて殺しにかかってくるものを――経験則として知っていたからこその疑念であった。


 それだけではない。

 沙羅ことが気懸かりであった。

 昨夜、沙羅は自身が紗絵であると言った。式年祭を過ぎても一緒にいようとまで言ってくれた。それ自体は喜ばしいことである。精神が毀れるまで愛に殉じた絢哉にとっては甘過ぎる慰めであった。


 ――しかし、ともすれば。


 沙羅の精神はどこにいってしまうか。まさか、紗絵の人格に浸食され消えてしまうのだろうか。それとも多重人格――乖離性同一性障碍のように、ひとつの身体を二つの精神で分かち合うとでもいうのだろうか。


 ――果たしてそのようなことが許されるのか。


 紗絵を愛するということは沙羅を侮辱していることに外ならないのだ。紗絵の存在が真実だとしても、それで、めでたしめでたしとはなってくれないのだ。


 世の不条理に慣れきった理性は懐疑を抱いて、本能は紗絵からの愛に(かつ)えていた。

 絢哉の精神はまたしても乖離してしまう。気が狂いそうであった。そう思ったからこそ他人を頼ることにした。誰かに話を聞いてもらいたかった。


 これが沙羅を拒んだ理由であり、祭りの準備を口実に神社に出向いた理由であり、昼時の休憩に雪彦を捕まえた理由であった。


「一体どうしたのだね、そんな深刻そうな顔をして」


 昨日と同じ工具箱に腰掛け、ゴールデンバッドを咥えた雪彦が問うた。

 祭りを手伝っていた他の者達は鈍々(のろのろ)と敷地を去り、連中に指示を飛ばしていた里の古老達は錆だらけの軽トラや軽バンに乗って去って行く。社務所裏に残ったのは絢哉と雪彦、そして社務所の濡れ縁から二人を遠巻きに見る娘であった。


「会ったばかりのお前に言うのもなんだが、相談に乗ってほしい」

「相談? それは構わないが、重い内容で、誰にも聞かせられない話かい?」

「ああ。俺にとってはこの上なく重要な話だよ。多分、沙羅にとってもな」

「沙羅君にも?」

「ああ」


 絢哉は再び頷けば、ふむ承知した、と言い、雪彦は煙草の火を揉み消しにかかる。


「良いのか。煙草、まだ火を点けたばかりじゃないか勿体ない」

「構わないよ。まだ在庫(ストツク)は残しているんだ。気に入っているのは確かだが、北海道ではまだ販売されているそうだし、尽きたら尽きたで煙草屋の婆様に代替品を見繕ってもらうだけさ。いや、煙草の話なんていいんだよ。煙よりたった一人の友人の方が大事さ」

「照れ臭いことを真顔で言わないでくれよ」


 それより友人が一人しかいないのかよ、と絢哉が茶化せば、(ほう)(ばい)達とは死に別れてしまったからね、と嘘とも真ともつかぬ文句が返ってくる。


「長生きしていると人情というものが如何に貴重であるかが分かるというものさ。なあに、君も年を取れば分かるようになるさ」

「今度は年寄り臭いことを言うんだな。俺もお前も、年齢はそう変わらないだろ」


 絢哉は未成年である。

 民法における成人年齢の引き下げの議論がようやく進んだとどこかで耳にした覚えもあるが――学校を退学してバイト漬けの日々を送り納税をしていたとしても、絢哉自身の認識としても十八歳というのはまだ子供であった。少なくとも大人であると胸を張って言えるほど成熟してはいなかった。では何をすれば大人といえるのか、と絢哉は考えるが、納得のいく答えは思い付かなかった。


「なるほど君からはそう見えるのか。生憎、僕はこれでも良い年をした大人なのだよ。人生の先輩として振る舞うつもりはこれっぽっちもないがね」

「大人、ねえ」

「うん? 何だい」

「確かにお前は立派な大人だろうな。だが何をもって大人とするのかが分からなくてな」

「なんだそんなことか。如何にも若人(わこうど)が悩みそうなことじゃないか。そんなもの言わずとも知れたことじゃないか。人によって様々な言い分があるのだろうが――例えば、自分と家族の食い()()を稼いでいることだったり、常識を知り秩序を乱さぬことだったり、結婚して子を成すことであったり、己の選択に責任を持てることであったり――そのどれもが正しく、何かが間違っているということもないだろうさ。君はそんなことを相談したかったのかい?」

「違う。相談事は別だ。ちなみにお前はどう思う。何ができたら大人なんだろうな」

「そうだね。僕に言わせれば」


 雪彦は僅かばかり考えたのち。


「大切な者を看取ったことがあるかどうか、かな」


 と言った。


「きっと人物に限った話でもないのだろうね。時代そのものであったり、諦めのつけられぬ感情であったり、色々あるのかもしれないが――いずれにせよ、そういう意味ならば僕も君も十分大人と胸を張ってもいいのではないかね」

「看取りたくて看取ったわけではないのだが」

「それは僕とて同じさ。大人になりたくてなった者など、そうそういないだろう。いたとすれば世間の冷たさを知らぬ大馬鹿者か、被虐趣味を(こじ)らせた変態だよ。何せこの世は生きて老いるにせよ死んで留まるにせよ何かと苦労事が多過ぎるからな。――よし、行こうじゃないか」


 そこまでを語った雪彦は、己の膝を叩いて立ち上がる。


「行くって、どこに」

「僕の診療所さ。落ち着いて話をするにはそこがいいだろう」

「診療所とは、まるで病人扱いだな。今日は土曜日だから休診だろうに」

「休診はそうだが今日は――いや、何でもない。何を勘違いしているかは知らないが別に病室で心理相談(カウンセリング)をするわけじゃないぜ。そもそも僕の専門は内科であって心療内科は勿論、精神科や脳外科などは正直そこまでの経験はないのだ。大病院にあるような最新機器もないからな。僕の私室(プライベートルーム)でゆっくり話そうというだけさ」


 雪彦は絢哉の頭部を見遣る。転落事故を心配しているのだろうと察した絢哉は、問題ないと示すために二度大きく頷いてみせる。


「精神状態はともかく事故の怪我なら問題ないぜ。俺は丈夫にできているらしい」


 崖から落ちても死なず、大雨に流されても溺死を免れた。火の見櫓から飛んでもこの通りピンピンしているのだ。悪運が良いにもほどがある。見えざる者に守られているのではと勘繰ってしまうくらいである。まったくもって嬉しくないが。


「それなら良いのだが。時に、君は事故の瞬間を覚えているかい」


 どこか慎重に、それでいて自然体を装いながら雪彦は尋ねる。


「ああ、鮮明に覚えているよ」

「是非、後学のために教えてほしいところだが――まあ立ってする話でもないな。診療所に着いてから聞かせてもらおうじゃないか」

「その診療所はここから近いのか」

「歩いて二十分はかかるだろうか。なあに、散歩だと思えば問題ないだろう」

「いや、悪いが二十分は遠いぜ。場所を教えてくれ、バイクで向かうよ」


 絢哉が診療所の場所を尋ねれば、道連れが欲しかったであろう雪彦は愚痴を垂れたのち教えてくれた。通り沿いにある迷いもしない場所であった。


「さて、僕は向こうで話に入れず拗ねている監督殿に一言断ってくるよ。午後からは手伝いを抜けさせてもらうと。理由は――そうだな。君の怪我を出汁(だし)にさせてもらうよ」

「それは構わない。上手く言ってくれ」


 娘を見れば、彼女は縁側に腰掛けて草履を履いた脚を退屈そうにばたつかせている。絢哉の視力では、目を絞ったところでその顔色は識別できない。


 未だに名の知らぬ娘への説明を雪彦に任せ、蔵の隅に佇む作成途上の人形に振り返る。午前中は里に住む職人の指示に従い絢哉も製作に励んでいた。現在の進捗は、指南役の親方に言わせればそう悪くはないらしい。


 (べに)(あか)(げつ)(ぱく)を基調とした(きら)びやかな装束を纏った、骨組みばかりの人形である。首から上は未だ手つかずであり、今日の午後から、親方自ら竹串と和紙を用いて半日で創り上げる手筈となっていた。規模は、人間よりもおよそ二回り大きい程度である。

 親方曰く、大天上に載せる以上、見て呉れは大きくしなければならないらしい。親方は絢哉のような熱心な若者が珍しいのか、あるいは本人の気質によるものか、懇切丁寧に説明してくれた。


 絢哉は思う。イザナミの顔は如何なるものになるだろうか、と。雪彦が語った神話によれば――そして今日の悪夢では――愛する男に、蛆が(たか)り腐り果てた恥ずかしい姿を見られたことによる憤怒ないし悲嘆に染まっていると考えるのが普通であろうが――それでも絢哉は、笑ってくれたらいいと願う。


 そうでなくては可哀想であろう。

 イザナギも、イザナミも。


「待たせたね」


 雪彦はすぐに戻ってきた。


「どうしたのだね。そんなに睨まなくたっていいじゃないか色男」

「睨んでなどいないよ。しかし、なに、色男だって?」

「監督殿は君のことを大層気に掛けている様子でな。午後に君と出るといったら、それはもう嫌味を言われたぜ」

「嫌味ねえ。嫌味を言うような人間には見えなかったが。まあ、俺達の出会い方なり事情を考えれば分からんでもないか」

「なんだい、その思わせぶりな言い方は」

「俺が事故った理由は前に言っただろ。彼女は自分のせいだと思っているのかもしれない。本当に悪いのはスピードを出し過ぎた俺の方なのにな。祭りの手伝いだって彼女から持ちかけてくれた話なんだ」


 絢哉が事情を掻い摘まんで話せば、納得したのか雪彦は頷いた。

・女将は「分かりました」と一言だけ

・本日は土曜日のはず

・絢哉の葛藤

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