4-5.結局その場は沙羅に従うまま、未亡人に対する謝罪も御礼もそこそこに……。
・お母さんは後悔しているの?
・西棟にいる重篤な怪我人
・屍人の特徴である真っ黒な瞳
・現実味のある悪夢
結局その場は沙羅に従うまま、未亡人に対する謝罪も御礼もそこそこに支払いを済ませて小料理屋を退出することになってしまった。
小さな身体で、大股で歩く沙羅は、受付に出たところで絢哉に振り向いた。
「どうしてあんなところにいたんですか」
沙羅は問う。近辺には誰もいない。
「あんなところって。落ち着いてくれ。俺は何か悪いことをしてしまったのかい」
年齢を偽って飲酒をしていたことよりも、小料理屋にいたこと――もっと言えば、あの未亡人といたことの方が気に食わないのだろうかと絢哉は愚鈍なりに考えを巡らせる。
「こんな見た目じゃ説得力はないかもしれないが、別に俺は疚しいことがあってあの人と飲んでいたわけじゃない。そもそも互いの名前すら知らないんだ。聞こうとも思わない。あの人の亡くなった旦那さんが俺に似ていたから――それで、向こうから声を掛けられたんだ。旅館の迷惑になるようなことなど何もしていない」
「私は、そんなことを心配しているんじゃありません。確かに、あなたが他の女といるのは良い気分がしない――むしろ腸が煮えくり返るような思いすらしますが――そんなことはどうでもいいんです。教えてください。あの人とどんな話をしていたんですか」
「どんな話って」
「何か変なことを――そう、とても信じられないようなこと言われたでしょう?」
沙羅は、執着すらも滲ませた瞳で絢哉を睨め付ける。
「確かに、そうだな。ニーロン様にお願いすれば、死者を常世から蘇らせてくれると。皆、それを目的に来ていると――そのように聞いたよ」
「それだけですか?」
絢哉が頷いても、沙羅は信用できないと言わんばかりに絢哉を凝視していたが――それも長くは続かなかった。脱力したように肩を落とした。
「本当なのか。死者が蘇るなんて」
「信じられませんか」
「当たり前じゃないか。あの人にはとても言えなかったけど――有り得ない。有り得てたまるかよそんなこと。一度死んだ者は、どんなに強く思ったところで生き返ったりなんて絶対にしないんだ。紗絵はもう死んだんだ。妙な期待をして糠喜びなんてしたくない」
「喜べばいいじゃないですか」
何でもないことのように沙羅は言った。
「――は?」
「真実です。ニーロン様は、私達の願いを叶えてくださいます」
「それは、つまり」
「ニーロン様にお願いをすれば、死者を山の向こうから――私達はその場所を常世と呼んでおりますが――降ろしてくれるんですよ。今でこそこの旅館は静まり返っておりますが、きっとあと二三日もすれば、ここも常世から降りてきた方々で賑わうことでしょう」
絢哉は、返す言葉を持ち合わせていなかった。
雪彦が勿体振って言った、宿泊客の数を見ていれば自ずと理解できるとはこのことだったのかという理解は遅れてやってきた。
「それなら、俺も。俺だって」
紗絵を。紗絵を、紗絵を――。
「それは止してください。というより、あなたには必要ありません」
「それは、どういう意味だ?」
「そんな簡単な話じゃないからです。旅館の娘として、本当はこんなことを言うべきではないのでしょうが――降ってきたあとが問題なのです。生き返って、生前と同じように幸せに生きていけると思ったら大間違いです。よろしいですか。蘇った死者『降り人』『お降り様』なんてこの里では呼びますが――彼らがこの世に留まっていられるのは祭りの間だけ――わずか十日あまりなんです。祭りが終われば彼らはまた常世に戻らなければなりません。それが規則なんです。つまり、また別れなくてはなりません。あなたはその悲しみに堪えられますか?」
言葉そのものは淡々としていながらも、鬼気迫る沙羅の表情に絢哉は呑まれていた。紗絵とよく似た顔に詰られているというのも心苦しさに拍車を掛ける。
「愛する者を喪って寂しいと思うあなたの気持ちは私には推測することしかできませんが――それでも、それは残された側の勝手な都合です。死者の身にもなってください。彼らは、死の眠りから叩き起こされたと思ったら、十日あまりの逢瀬ののち、また常世へと旅立つのです。それはまた死者を殺すことに他なりません。残酷なことではありませんか」
「待ってくれ」
絢哉は堪らずに遮る。理解の許容を超えてしまいそうだった。否、自覚していないだけで、恃みにしていた小賢しい理性は既に思考を放棄していた。
「君はさっき規則だとか言ったが――降ってきた人は十日しかいられないのか。十日を過ぎてしまったらどうなってしまうんだ。消えてしまうのか」
「消えませんよ。消えませんし、ずっと魂はこの里に残り続けます」
「それなら」
無理してまた別れる必要なんてないじゃないか、と言おうとした絢哉に。
「未来永劫、そのままの姿で」
重ねるように沙羅は言った。
「常世への帰還を拒んだ者は、その当時の姿を保ったまま、老いもせず、死ぬこともせず、そのままでいるんです。本当に、あなたはそれでいいと思いますか?」
沙羅に圧倒されつつも、絢哉は諦めが付けられなかった。
もう一度、夢でも幻でもない、本当の紗絵に会える可能性を目の前にちらつかされて、黙ってなどいられなかった。消えかけていた恋情に火が灯ったのだ。
「教えてくれ。祭りで一度呼んだ死者は、もう二度と呼べないのか」
「さぁ、どうでしょう。おそらく、そういった縛りはないとは思いますよ」
「それなら毎年呼べばいいじゃないか。悲しみは薄れるはずだ。この例えが適切かは分からないが――織姫と彦星のような遠距離恋愛みたいなものだろう」
「残念ですが死者を降ろすことができるのは七年に一度の式年祭だけです。毎年の例大祭ではやっておりません。七年ごとに呼ぶことも、きっとできないことはないのでしょうが――本当に、そうまでして会いたいと思いますか?」
「舐めるな。当然だろ。君は七年も経てば故人への想いも悲しみも薄れて過去になっているようなことを言いたいのだろうが――こういうのは時間じゃないんだ。むしろ俺は、紗絵の死を受け容れるために紗絵に会いたいんだ。そうでもしなければ俺は生きていけない。どうしたって過去になんかできない。できることなら何度だって会いたい」
必死に訴える絢哉に、沙羅は冷ややかな目を向けるだけだった。
「今までに多くの人があなたと同じことを言っておりましたが、二度目以降に呼んだ人は誰もおりませんでした」
「どうしてだ」
「どうしてって――後悔するからに決まっているでしょう」
さも当然であるかのように沙羅は言った。
「後悔?」
「逆に聞きますけど、どうして後悔しないと思うんですか」
「そんなの――俺がそう思うからだ。君は知らないだろうが、俺はずっと昔から、餓鬼の頃から紗絵が好きだったんだよ。一目見た時から惚れていたんだ。この里に来る度に、紗絵に会って遊ぶのを心待ちにしていたんだ。紗絵のためなら何でもやった。たかが七年ごときで忘れられやしないし、今更他の誰かを好きになって、別の生き方なんてできやしないんだ」
「知っていますよ。そんなこと」
沙羅は唇の両端を僅かに持ち上げる。
「思い出は色々ありますけど――商店街の橋で、手摺りから見下ろせる何てことはない景色が気に入って、あなたが来る度、二人でずっと眺めてましたね。それから――火の見櫓でした内緒の話も私は覚えておりますよ」
「どうして、それを。紗絵から聞いたのか」
絢哉の記憶では、あの時あの場にいたのは己と紗絵だけであった。確かに他の子供達も交えて遊びもしたが、それは別の時である。そもそも妹の存在など宇霊羅に来るまで知らずにいた。
絢哉は不思議でならなかった。
どうして紗絵しか知り得ぬ情報を、妹の沙羅が知っているのか。
――まさか。彼女は、沙羅ではなくて。
絢哉が恐ろしい事実に直面する寸前。
「仮定の話ですが」
沙羅が、紗絵とよく似た顔で語り出す。
「もしも私が姉だとしたら――やはり悲しいです。嫌です。残酷だと思います。考えてもください。七年ごとに会うとして――私の方は死んだ時からずっと変わらないのに、あなただけは成長もすれば老いもする。具体的には――今あなたは十八歳ですよね。それなら次は二十五歳。立派な大学を出て、きっと有名な会社に勤めていることでしょう。その次は三十二歳ですね。男盛り働き盛りとでも言いましょうか。きっと私以外の誰かがあなたを好きになってくれるでしょう。その次は――三十九歳ですか。もう立派なおじ様ですね。晩婚化なんて言われている昨今ですから決めつけることはできませんが、結婚しているなら子供も立派に育ってくれることでしょう。昔の私やあなたと同じように。あなたの想いは嬉しい。でも、この世に生きる者として、幸せになる権利を放棄してまで私に縛られるのはどうかと思います」
姉であれば、きっとそのように言うでしょう――と結論づけた沙羅は絢哉を見遣る。
そこで絢哉は、今の発言があくまで仮定の話でしかないことを思い出す。
「それなら、俺は。俺はどうすれば」
「ひとつだけ、方法があります」
「方法?」
「祭りの期間を過ぎても一緒にいることです」
「だが、そんなことをすれば」
「確かに、魂は未来永劫この世に留まり、やがては自分を呼んでくれた者すら見送る立場になるのでしょう。でも、それのどこに問題があるのでしょう。私とあなたさえ納得してしまえば、それでいいのではありませんか。これもひとつの愛の形だと私は思います。私は、あなたとの永遠が欲しい。いつまでもずっと一緒にいたい。ねえ、絢哉くん――」
私とあなたさえ?
絢哉くん?
やめろ、やめてくれ。
それは紗絵が俺を呼ぶ時の言い方だ。
妹であるだけの君が言っていい言葉なんかじゃない。
これ以上、俺から紗絵を奪わないでくれ――。
「待ってくれ。訳が分からない。整理させてくれ」
「整理って、今更何を言っているの」
「なあ。俺は今からとびきりの馬鹿げたことを聞くが――君は。君は」
紗絵なのか――という言葉を飲み込んで。
手が勝手に伸びて、彼女の前髪を指先で撫でた。
生前、紗絵が好んだ所作である。
彼女が本当に紗絵であるならば。
照れ笑いでもして目を瞑ってくれるはずなのだが――。
――ああ。あァ、嗚呼ッ!
絢哉は叫びたかった。眼前にいる沙羅も嬉しそうに笑い、瞑目しているのだ。明確な返答こそ寄越さなかったが――仕草が雄弁に語っている。
「絢哉くん。私が神社に行く必要がないって言った本当の理由、分かってくれた?」
「――ああ。とても、信じ難いことだが」
「でも、信じてくれないと困るわ」
娘は、半歩前に歩み出ると上目遣いで絢哉を見る。その視線は抱擁を乞うていた。絢哉は、目の前に二度と会えぬと思っていた恋人がいることに衝撃を受けた。理性は粉々に砕け散り、疑う気は微塵も起こらなかった。娘を抱き寄せようとした時である。
「何の話をしているの?」
頭上から呼びかけられた。
声の主を見れば階段の踊り場に女将が立っていた。
「何って――絢哉くんに里のことやお祭りのことを教えてあげただけよ」
「嘘仰い。階上まで聞こえていたわ。あなた、どういうつもりなの?」
「お母さんには関係ないでしょう。これは私達の問題なの。それとも、なに。お母さんは後悔しているの。後悔しているから止めようとしているの?」
「私は後悔なんかしておりません。沙羅、あなたと紗絵の間に何があったのかは私には分からないけれど。あなたは今、勢いだけに任せているでしょう?」
「そんなことないわ。ずっと前から決めていたことだもの」
「あなたはそうかもしれないけれど――そこにいる絢哉君のことはどうするつもり。騙すような真似をしてあなたは本当に平気なの。それ以上に――あなたのせいで、彼が目覚めなくなったらどうするつもり?」
「それは――」
娘は言葉に詰まらせてしまう。
「沙羅。今ならまだ引き返せるわ。あなたが説明したくないなら私が代わってもいい。もしかしたら説明するには時期尚早なのかもしれないけれど」
「駄目。それだけは絶対に駄目。言ったでしょ。これは私達の問題なの。お母さんには私達を止める権利なんて絶対にないわ」
「沙羅」
諫めるように女将は娘を呼ぶが、絶対に嫌よ、と娘は頑として譲らない。
「待ってください」
堪らずに絢哉は娘を庇うように立つ。彼女が己を騙そうとしているとか、彼が目覚めなくなったら――などと気になる発言は確かにあった。だが二人の対立を収める方が大事だった。
女将は絢哉を見て、どこか諦めたように頷いてから。
「二人とも。よく考えて、二人で決めなさい。あなた達の人生なのだから。でもね沙羅。ちゃんと伝えなきゃ駄目よ。あなたの役目だって皆で相談して決めたでしょう」
と説得するように言った。
女将はそのまま階下に降りて、記帳台裏の控え室に去って行った。
居心地の悪い空気だけが残された。
遠巻きに、通りすがりの宿泊客が何事かとこちらを眺めている。
「なあ。女将さんが言っていたことだけど」
君は嘘を吐いているのか――と聞こうとして、娘が俯いていることに気付く。
前髪に遮られてその表情こそ窺えなかったが、今にも泣き出してしまいそうな様子であるように思われた。絢哉は娘の手を引き、自室に連れて行くことにした。宿泊客の無遠慮な視線に晒されるのも可哀想であったし、何より己が放っておけなかったのだ。
娘を広縁の安楽椅子に座らせた絢哉は、中庭を見下ろしていた。無理に尋ねることはしなかった。もしこの娘が本当に紗絵であるなら口を割らせることは逆効果だろうと。必要ならば向こうから説明してくれるだろうと。それが俺達の付き合い方だったはずだ――と考えていた。
――いや、それで俺は失敗したのだ。
ならばここは俺の方から踏み込むべきではないのか、と絢哉が戸惑っていれば。
「お母さんの言ったことだけど」
絢哉の自問自答は、娘が口を開いたことで中断される。
「絢哉くんは、私が言ったことが嘘だと思いますか。私がきみを騙していると思う?」
「いや、そうは思わない。俺は君を信じている」
絢哉が娘を見れば、娘も絢哉を見詰めていた。
紗絵と同じ、日本人にしては薄い鳶色の虹彩をしており、窓から差し込む斜陽のせいで白い顔が猩々(じよう)緋に照らされている。
綺麗だと思った。絢哉の知る紗絵であった。二人しか知り得ぬ思い出を共有して、仕草だって似ているのだ。この女は紗絵に違いない――と絢哉は思った。
「ありがとう。でも――お母さんの言った通り、きみに話していないことがあるの。多分、これを言ったらきみは嫌がるかもしれない。怒るかもしれない。失望されるかもしれない。私のことを嫌いになるかもしれない。でも、ごめんなさい。やっぱり、まだ話すわけにはいかないの」
「別に、いいよ。無理して話すことなんてない。君が話したいと思った時に言ってくれればそれでいい。でも、俺は君に会うためにここまで来たんだ。今更君を嫌いになんてならないよ。何があっても君の味方でいる。だから、一人で抱え込むことだけは止めてくれ。それだけは約束してくれないか」
沙羅は、絢哉の顔を眩しそうに見たのち。
「ありがとう。ごめんなさい」
と言った。
何かを堪えるような表情であり――良心の呵責に苦しむ善良なる悪人のような顔で――絢哉にはどうして娘がそのような顔をするのか分からなかった。己が彼女のために何ができるかも。
それからは互いに何も言わず、郷愁とも感傷ともつかぬ、快でも不快でもない停滞した空気に浸っていたが、思い出したように娘は立ち上がった。
「もう夕食の時間ね。持ってくるわ」
「いや、いい」
「え?」
「食欲がないんだ。今は、何も口に入れたくない」
「――そう。分かった」
でも手伝いには行かなきゃ――と言って、娘はぱたぱたと部屋を出て行った。
その生きている人間らしい後ろ姿を見ながら、絢哉はこの里を訪った目的――謝罪を済ませていなかったことを思い出す。近いうちに機会を作って謝らなければ、と思った時である。
ばたん、と。
窓硝子を叩く音がした。絢哉のいる部屋ではない。もっと遠いところから発せられた音である。絢哉が音の発生源――中庭を隔てた向こう側の部屋を見れば。閉ざされたカーテンの隙間に掌が押しつけられていた。赤茶けた包帯が巻かれた、傷だらけの手であった。
次いで、人間の顔がぬうと現れた。顔面にも、掌と同じく包帯が巻き付けられ――包帯からはみ出た白髪は蓬々(ほう)に乱れきっている。瞳の焦点は胡乱であったが――それでも絢哉を凝視しているようであった。その様は成仏し損ねた悪霊宛らであり、性別も人相も分からなかったが――背格好から察するに男であろう、と絢哉は思う。
――あれは。
西棟にいる怪我人であろう。火傷か打撲かは分からぬが遠目でも分かるほどに酷い状況であった。見られたくないというのも十分頷ける。絢哉は男に目礼を遣ったのち、自室のカーテンを閉めた。
柱時計が鳴った。合計六回――午後六時である。
その下にある日捲りカレンダーは十月二日のままであった。
* * *
絢哉は夢を見ていた。
自我が生じた瞬間から、俺は夢を見ているのだと分かる世界であった。いつかと同じように全身を冷たい水に浸して、仰向けになって暗い空間を眺めていた。
着ているのは先刻着替えたばかりの浴衣ではない。黒のライダーパンツに、同じく黒のライダージャケットを羽織っている。
――はて。ここが夢であるのは良いとしても。
絢哉は上半身を起こして考える。
何かを為さんとして、死ぬ気でここまでやってきたのだが。
――そうだ、思い出した。
俺は紗絵に会うためにここにいるのだ。
否、紗絵を連れ戻しに来たのだ。
急げ、間に合わなくなる。
紗絵は、今も尚俺を待っているのだから。
絢哉は、胸の奥で燃える使命感に突き動かされるがまま立ち上がろうとして――手脚が思うように動かせないことに気付く。目を凝らせば右脚は妙な方向に捻れているし、右手に至ってはグローブごと抉れて、白い骨と赤い肉が露出している。
酷い負傷ではあったが、痛みはなかった。まるでバイクの操縦を誤った結果、遙か下方の崖まで転落したかのような有様である。己の異常を認めても、驚愕も萎縮もなかった。ここは夢なのだから気にすることもないだろうという反骨心と、己はどんな外傷を負っても――例えば火の見櫓から身を投げても――絶対に死にはしないだろうという根拠のない開き直りがあった。
絢哉は歪んだ手脚を整復して、走ることはできぬまでも歩けるようにする。
地底湖から這い上がり、洞窟を道なりに進む。洞窟の最深から聞こえてくる紗絵の呼び声により迷うこともなかった。
緩慢な勾配を、下へ下へと、どこまでも下りていく――。
どれだけ歩いたか。
絢哉は桟橋の上にいた。
木造の橋は真っ直ぐに進み――先端は闇に溶けて同化していた。
足が止まった。
少し先、橋の中央に女が立っていた。
濃紺の制服に身を包んだ女子高生――藤ヶ谷紗絵である。
紗絵は黙したまま、屍人の特徴である真っ黒な眼差しで絢哉を凝視している。
「ずっと、ずっと会いたかった」
先に口を開いたのは絢哉であった。心の底から渇望していた女に会えたのだ。泣きそうですらあった。相対する紗絵は屍人らしい無表情のまま。
「どうして来てしまったの」
と聞いた。
責めるような口振りに絢哉は当惑してしまう。絢哉は、現世から屍人を連れ戻しに来た己に対して、迎えに来てくれてありがとう――と紗絵が喜んでくれるものとばかり思っていたのだ。
「どうしてって――君を迎えに来たんだ。一緒に帰ろう」
「駄目だよ。そんなこと、絶対に駄目。許されるわけないもの」
「許さないって、誰が」
あの世の神々が、だろうか。
絢哉は、自身と紗絵の置かれた状況が日本神話ないし記紀にて語られるイザナギとイザナミの物語に酷似していることに気付く。それならば、この先紗絵をひとりで行かせてはならない。神の許可が必要ならば、二人で許しを乞いに行こう――と考えを纏めるが。
「私ときみが。何より、自然の摂理とはそういうものでしょう?」
呟くように紗絵は言った。
未だその表情は能面のようであった。
「そんなの、どうだっていいだろ。俺は君と生きたいんだ」
「行くって、どこに? 私達に、行き場なんてもうどこにもないよ」
「そういう意味じゃない。もしかして君は、怒っているのか」
「怒っていないよ。どうして」
「俺のせいだろ、君が死んでしまったのは。遅くなったけど――本当にごめん。俺は君の気持ちに寄り添うことができなかった」
ずっと言いたかったことであったはずなのに、その謝罪は何よりも苦しかった。だが、紗絵の表情は変わらない。変えることができない。
「違うよ。私が死んだのは私のせい。きみは何も悪くないよ。むしろ私の方こそ、君を巻き込んでごめんね。そんなことよりも――きみはどうするの」
「え?」
「私とここにいてくれるの。それとも一人で帰っちゃうの。私は、どっちでもいいよ。きみのやりたいことを選ぶべきだよ」
「どちらでもないよ。さっき言っただろ。一緒に行こう、ほら」
絢哉は紗絵まで歩み寄り、右手を差し伸べる。
傷だらけの掌であった。薬指と小指に至っては、根元から千切れかけて、時計の振り子のように――あるいはキレの悪い病人の痰のように――ふらふらと垂れ下がっている。紗絵の手を取り引き返すことも考えたが、なぜかそれだけはしてはならぬと思った。
――痺れを切らしたイザナギは妻を追って寝殿に入り、見てしまうのだ――。
――妻の変わり果てた姿を。身体から蛆が湧き、醜く腐り果てた姿だ――。
誰かが教えてくれたことである。
絢哉は、無意識のうちに、紗絵が腐り果ててしまうことを恐れたのだ。
絢哉の内なる戦慄を察したのかは分からない。
差し出された屍人のような掌を、温度の欠如した眼で見下ろしながら。
「きみには無理だよ」
紗絵は告げた。
「どうして、そんなことを言うんだ」
「見れば、分かるでしょう?」
「――え?」
「私の顔」
言うや否や――強烈な腐敗臭が鼻を貫いた。動物性蛋白質が分解される時に特有の、他の何物にも喩えようがない悪臭であった。
見れば――紗枝の顔が、どろり、と溶け出した。木乃伊のように乾燥して萎れたのではない。温度と湿度に犯され、皮膚と血肉、少々の脂肪が、重力に負けて垂れ下がった瞬間である。口許からは鬱血した舌が伸びて、いつ産み付けられたとも分からぬ丸々と肥えた蛆がサラサラと溢れ出す――。
しとどに濡れた洋袴は、棒のように細くなった二本の脚に張りついている。血と糞尿、溶解した粘膜と内臓が混じり合った青黒い液体が、白い靴下と茶色い革靴を穢している。それだけではない。艶のあった黒い髪は抜け落ちて、側頭部に至っては皮膚ごと剥がれ落ちている。
額から左目にかけては陥没して、割れた頭蓋からは涅色の水が滾々(こん)と溢れ出ている。水晶体が破裂した眼球は不細工に浮腫んでいる。
凄絶たる光景であった。生前の愛嬌ある姿とはどうしたって似つかない――生命だったモノでしかなかった。
だが絢哉は、これが未だ紗絵であると。まだ彼女の意思が残っていると分かっていた。ゆえに、こんな不気味な屍体など俺は知らない、こんなものは紗絵じゃないとは口が裂けても言えなかった。
俺は、紗絵を連れ戻しに来たのだ。
二人で現世に戻って生きるのだ――。
己を律し、再び手を差し伸べようとするが――できなかった。背筋が凍り、手脚の震えを止めることできなかった。
文字通り、目と鼻の先に紗絵が迫っていた。
残された右目だけで絢哉を見詰めている。
「私と一緒に死んでくれる?」
唇をほとんど動かさずに紗絵は尋ねる。
肺胞が潰え、呼吸という機能を失ったがゆえの囁きでしかなかったが、絢哉は確かにその懇願を――否、脅迫を聞いた。
口許から覗く、黒い黴の生えた歯は、唾液に塗れて滑々(ぬらぬら)と光り――醜悪さをこれ以上ないくらいに煽っている。
――これは、本当に紗絵なのか?
こんな屍体を、俺は本当に愛していたのか。
こんな化物と、本当に生きようとしていたのか。
どんな姿になったところで一度は愛した女である。何度も会いたいと希った女である。手が届く距離にいるなら抱き締めてやるべきだ。もう二度と放すことのないように――と理性が痩せ我慢を叫ぶが。
――無理だ。
考えるより先に脚が動いた。
絢哉は身を翻して脱兎の如く奔走するが、十歩も進まぬうちに転倒してしまった。整復したばかりの膝と足首が荷重に耐えきれずに縺れ、反射的に突き出した右手の前腕がぐにゃりと曲がった。起き上がろうとしても、麻痺したように四肢が動かなかった。
それでもどうにか絢哉が振り向けば――傍らに紗絵が立っていた。膨張した左眼から伝った黄色い液体が輪郭をなぞり――橋板に垂れた。どろりと生暖かくもあり、生理的嫌悪を駆り立てる――屍者にしか流せぬ泪であった。
「きみは私とは生きていけない。だから、ねえ。もういいでしょ? 一緒にここで朽ちて消えましょう?」
そう言って紗絵は笑った――ようだった。尤も、口の端を僅かばかり持ち上げ、ふぅ、と腐臭を漏らすだけの動きでしかなかったが。
紗絵はその場に膝を折って、耳打ちでもするかのように顔を近付けて。
「うそつき」
と嗤った。
絢哉の恐怖が極限に達した。
――やめろやめろやめろやめろッ!
絢哉は叫んだつもりであった。だが、喉から出るのは、嗄れた老人のような呻き声であった。何年も喋っていなかったような感覚であった。
夢が覚めた。
暗い部屋の中、布団に寝かされていた。
天井を見詰めている。
全身が汗に塗れ、酷く不快であった。
長らく風呂に入っていないかのような。
己から饐えた臭いが漂っていることに気付く。
右手と右脚が酷く疼いた。
だが、それよりも。
誰かが枕元に立っている。
己を見下ろしている。
息を殺して、何かを訴えるように睨んでいる。
目を凝らせば、その影が女であることが見てとれた。
紗絵である。
――拙い。早く、逃げなければ。
絢哉は身体を強引に動かし、部屋から飛び出す。今さっきの夢と異なり、今度は真っ直ぐ走ることができた。いつの間にか絢哉は叫んでいた。
――来るな。俺が悪かったから、許してくれ。
裸足で廊下を疾走する。すぐ誰かが追随する気配がする。
いつまで経っても夢は覚めてくれなかった。




