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4-4.宇霊羅の隠れ里を重い足取りで歩く。

・美味いとも感じない食事

・「あなただって、そうじゃないの?」

・飲み干した筈の徳利から酒が零れる。酔っていたのだろうか。


 宇霊羅の隠れ里を重い足取りで歩く。


 通りには提灯が吊られ、遠方からは祭り囃子の郷愁的な音が風に乗って聞こえてくる。練習でもしているのだろう。昨日と違うのは、通りを散策する観光客が僅かばかり増えていることだろうか。


 肩が触れあうくらいの距離で連れ立って歩き、青果店の軒先に並べられた照柿を物珍しそうに眺めているのは品の良い老夫婦である。()(いろ)に輝く艶のある果実は、天井から垂れる裸電球の光を受けながら己が存在を命一杯に主張している。

 幼い娘の手を引いているのは若い母親である。たどたどしい口調で己が見聞きしたことを誇らしげに語る我が子の話を、母親は慈愛溢れる顔で頷き返しながら聞いている。

 飲み屋から出てきたのは肩を組んだ背広の二人組である。片方は赤ら顔の千鳥足であり、相方は苦笑いを浮かべている。きっと彼らの間は篤い友情があるのだろう。いささか時代錯誤な光景であったが――とてもよく似合っている。


 観光客の多くは、それなりに幸せそうな表情をしている。

 それが絢哉には意外であった。己を含め、皆、已むに已まれぬ事情がありここを訪ったはずである。神社に長蛇の列を作る者達を弔問客と見紛うくらいには暗い顔をしていたはずである。


 ともすれば――。


 今この場にいる者達は既に神社で用事を済ませてしまったのだ。それならば合点がいく。どいつもこいつも憑き物が落ちたかのような顔をしているのだ。きっと俺も、紗絵の声を聞けば少しは前向きになれるのかもしれない。


 ――嗚呼、なんて羨ましい。


 絢哉は小さな居酒屋の前で足を止めた。軒に吊された赤い提灯が目に留まったのだ。曇り硝子の嵌められた安っぽい引き戸の向こうは、大将と思われる白衣の男と、カウンターの前に座る客達で賑わっていた。見た限り満席でもなさそうである。


 腹が減ったわけでも喉が渇いたわけでもない。

 だが、無性に酒が飲みたくなったのだ。

 煙草をふかしながら、日本酒でも焼酎でも何でもいいから、紗絵との思い出を(さかな)に呷りたかった。それもひとつの供養なのかもしれないと思ったのだ。


 今まで、酒を飲んでも酔うこともできず、楽しいとも美味しいとも思えなかったが――今日ばかりは違う予感がした。紗絵が隣にいるつもりで飲めば、少しは良い時間を過ごせそうな気がした。


 絢哉は引き戸に手を掛けたが――入店することができなかった。敷居を跨ぎながら、一人ですが大丈夫ですか、と大将に尋ねるだけであったのに。硝子の向こうから漏れ聞こえる楽しそうな談笑を邪魔してはいけないと。否、拒絶されているように感じたのだ。


 結局、踵を返して旅館に逃げ帰ることにした。


 絢哉は、受付の横、土産屋兼売店の奥に小料理屋があることを発見した。

 意を決して、今度こそ暖簾をくぐり店に入った。店内は五つのカウンター席と、四つのテーブル席がある規模の小さな飲食店であった。それなりに賑わっている。


 厨房では、白帽と(いた)(まえ)(はつ)()に身を包んだ店主が調理に勤しんでいる。

 店主は横目で絢哉を見遣ると一瞬眉を(ひそ)めたが結局何も言わなかった。それを入店と飲酒の許可と受け取った絢哉は一番奥の席に座る。

 三角巾と前掛けをした従業員が注文を受けに来る。絢哉が地酒の熱燗と、肴に厚焼き卵と若鶏の唐揚げを頼めば。


「あの、年齢は大丈夫でしょうか」


 従業員は訝しそうに尋ねる。ええ大丈夫ですよ、と絢哉が悪友の伝手(ツテ)を用いて作った年齢偽造済みの学生証を出そうとすれば。


「――おい! チェックなんていいから注文通り酒でも何でも出してやれ」


 店主からの一喝が入る。

 酒と料理はすぐに来た。


 手酌で御猪口に透明な清酒を注ぐと、絢哉は早速呷る。

 柔らかな舌触りと共に熱い液体が喉から食道までを流れる感覚がして、華やかな米の香りと酒精(アルコール)が鼻から抜けていく。絢哉に酒を嗜む習慣はなかったが、それでも()(じよう)であることは判った。続いておろし大根に醤油を垂らし、卵焼きに箸を伸ばすが――空腹が解消される満足感はなく、期待していた旨さはどこにもなかった。


 酷い肩透かしをくらった気分である。

 砂を噛んでいるような感覚ですらあった。

 味覚障碍は抑鬱の症状である。

 鬱が再発でもしたのだろうか。


 ――まあ、紗絵の日記を見ればそうもなるか。


 絢哉は箸を置くと、煙草を取り出して咥えた一本に着火する。時間を掛けて消費すれば多少は精神も上向いてくれるだろうかと力なく煙を吐き出した時である。


「同席、いい?」


 女性の声がした。

 顔を上げれば、吐き出した煙の向こうに女が立っていた。

 一昨日は坪庭に、昨日は神社に並んでいた女である。


「ええ、どうぞ」


 絢哉が脊髄反射的に返事をすれば、女は対面でも斜向かいでもなく、なぜか隣に座った。さあ持って、と絢哉に御猪口を持たせると、手元にあった布巾を徳利(とっくり)に巻き付けてから酌をする。その(こな)れた様は、絢哉にはとても大人びて見えた。

 絢哉は、どうも――と一口つけてから、点けたばかりの煙草の火を消した。

 注文を取りに来た従業員に、女は烏龍茶を頼む。


「お名前を聞いてもいいかしら」


 厨房で忙しそうに動き回る店主を横目に女は尋ねた。

 女が頼んだ烏龍茶もすぐに来た。


「渡会絢哉です」


 絢哉が答えれば、そうなのね、と女は呟いた。

 その(かんばせ)に失意が差したのを絢哉は見逃さない。


「一体どうされたんですか」


 今度は絢哉が尋ねる。

 女は相変わらず真正面を向いていたが、その横顔は死人のように蒼白で――尤も絢哉自身誰かの死に顔を実際に目にしたことはなくただの比喩でしかなかったのだが――纏う気配は他者を拒絶するもので。絢哉は、女がこの旅館の正当なる利用客であることを察してしまう。


 女は少しばかり言い淀んだのち。


「ごめんなさい。あなたが、死んだ夫に似ていたものだから」


 と答えた。


「旦那さん、ですか」


 戸惑う絢哉に、だからね、と女は続ける。


「夫がもう、(とこ)()から蘇ってくれたものとばかり思ってしまったの」


 絢哉にとって、常世という単語(ワード)も、蘇ってくれたという文句(フレーズ)も気にはなったが、それ以上に気懸かりだったのは。


 ――もう? 


 もう、ということは。

 いずれは蘇ってくれるとでも言いたいのだろうか。


「その話、詳しく教えてくれませんか。死んだ人が生き返るとでもいうんですか」


 絢哉が聞けば、女は意外そうな顔をしてみせる。その顔のまま。


「ニーロン様にお願いすれば、死んだ人をあの世から連れ戻してくれるのよ」


 と語った。

 その言葉は絢哉にとっては衝撃であり、また心底欲していたものでもあったが――そんなことなど起こってたまるか、ひょっとしてこの女は精神を病んでしまったのだろうか、という懐疑の念が勝っていた。


「そんな馬鹿なことが本当にあるのですか」

「馬鹿なんて酷いことを言うのね。でも、それでもいいの。私にとってはそれだけが希望だから。神社の人だって、ここで待っていれば、いずれ常世から、あの人が私に会いに来てくれるって言ってくれたもの」


 女は烏龍茶を一口だけ傾ける。そして。


「あなただって、そうじゃないの?」


 と尋ねた。

 未亡人の台詞を、お前だって死者に会いたかったここにいるのだろう、と解釈した絢哉は確かにそうだと頷く。


「俺は、塞ノ神神社の神職に頼めば、青森のイタコがやる口寄せのように、死者の声を降ろしてくれると――そう聞いて、この里にやって来たんです」

「そういうことじゃなくて」

「え?」


 絢哉が未亡人を見れば、女は整った眉根を寄せて絢哉を見詰めていた。その後、何かを察したように頷いたが、それ以上何かを言いはしなかった。絢哉も口を開くのが酷く大儀に感じられ、歪な沈黙の中にいた。


「本当に、死んだ人が蘇るのですか」


 絢哉は思ったことを尋ねる。


「そう言っているじゃないの。じゃなきゃこんなところにまで来ないわ。あなただって、神社に大勢の人が並んでいるのを見たでしょう」

「それは確かにそうですが」

「あなたは、誰に会いたかったの?」

「付き合っていた恋人です。去年、自殺してしまったんです」


 絢哉は、必要最小限かつ客観的な事実を述べるに留める。自分が死なせたこと、紗絵が虐めに遭っていたなどと語るには、自身も酔っていなければ、それを語れる関係性でもなかった。代わりに。


「あなたの旦那さんは、俺なんかに似ていたんですか」


 と聞いた。


「ええ。若い頃は君のように髪を染めて、ちょっとだけヤンチャだったのよ。瓜二つとまでは言わないけれど――憂鬱そうな雰囲気だけは本当にそっくり」

「すみません」

「謝らないでよ、私が勝手に勘違いして声を掛けただけなんだから」


 絢哉は未亡人の言うことが理解できた――つもりになった。絢哉自身、死んだ紗絵と妹の沙羅を重ねていたのだ。沙羅が、紗絵の蘇った姿なのだとすら思った。それからは湿っぽい空気に流されるまま、ぽつりぽつりと互いに故人との思い出を語っていた。


 絢哉は、自分が不誠実であったばかりに紗絵を死なせてしまったことを。残された人生の虚しさと悲しさを。未亡人は、自身の不注意による交通事故で助手席にいた夫を死なせてしまったことを。新婚僅か三ヶ月目の事故であったことを。


 会って間もない他人に話せるような話題でもないと思っていたが、むしろ、赤の他人だからこそ気兼ねなく話せることもあるのだと絢哉はこの時初めて知った。

 ゆえに絢哉は、女の名を聞くことはしなかったし特別親交を深めるつもりもなかった。両者が近しい者を喪ったという事実さえあれば成立する関係であり、この後は、互いが互いの人生に一切干渉せぬだろうという妙な確信すら抱いていた。


「――何をしているのですか」


 絢哉の意識を小料理屋に引き戻したのは少女の呼び声であった。


 見ればテーブルの横に沙羅が立っていた。

 凄まじい剣幕で絢哉と未亡人を見比べている。


 厨房の店主も、飲み物を配っていた従業員も、他の客達までも――全員が驚いたように闖入者の沙羅を見ている。


「絢哉さん、立ってください。行きますよ!」


 自身に注がれる視線を意に介さず、沙羅は絢哉の手を引いて退出しようとする。

 その拍子に御猪口が転がり――つい先刻飲み干したはずなのだが――透明な液体が零れてしまう。とんだ粗相であった。即座に未亡人が布巾で(ぬぐ)ってくれる。


「ちょっと待ってくれ。一体どうしたって言うんだ」

「どうしたじゃありませんよ。どうしてここにいるんですか!」

「はあ? 俺がどこにいようが関係ないだろ。君は何をそんなに怒っているんだ」


 絢哉は聞くが、沙羅は答えなかった。

 代わりに隣の未亡人を見下ろして。


「絢哉さんに、変なことを吹き込んでいませんよね」


 と非難するように問うた。


「え? 急にどうしたのよ」

「いいから答えてください。何を話していたんですか」

「何って――亡くしてしまった人との大切な思い出話よ。悪い? もしかして彼、あなたの彼氏さんだったの?」


 だとしたらごめんなさいね、と未亡人は形ばかりの謝罪を述べる。当然、そんな訳がないと知った上での返答である。酒宴の空気を大いに損なったこと、故人を偲ぶ時間を邪魔されたことに対する意趣返しのつもりだったのかもしれない。


 面食らったのは沙羅の方であった。

 少々の逡巡をみせたのち。


「――そうです。私が、絢哉くんの恋人です」


 と宣言してみせた。

 毅然かつ堂々とした態度で。

 その言葉は真実であるかのように聞こえてしまった。

 絢哉は激烈な懐かしさに襲われた。先刻過った、沙羅が、紗絵の蘇った姿ではないかという虚妄は何の違和感もなく腑に落ちていった。

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