4-3.「誘われたんだよ。祭りの準備を手伝わないかって」
※2024/02/07 キリが悪かったため次章5000文字程度をこちらに回す。
「誘われたんだよ。祭りの準備を手伝わないかって」
「なるほど。あの御方も珍しいことをするものだな。まあ何らかの考えがあるのだろう。君達の経緯を思えば不思議ではないが――正直、僕は君がここに来るのは時期尚早だと思っている」
「まだ、そんなことを言っているのかお前は」
「悪いね。しかし、僕とて神主殿を困らせたくはないのだ。どうしても気になるのなら旅館のお嬢さんにでも聞いてみるといい。もう前祭りも二日目だ、宿泊客も増えてくる頃合いだろうからね。賢い君ならばすぐに察してくれるだろうよ」
「回り諄い言い方をせずにハッキリ言ってくれ。こちとら馬鹿だから言われなきゃ分からないぜ」
「生憎、僕の口からは伝えることができないのだ」
「何でだよ。箝口令でも敷かれているのか。余所者には言うなって」
「そんなんじゃないよ」
「なら何だよ」
絢哉は聞くが、雪彦は答えなかった。黙殺するつもりでいるらしい。暗い眼光を絢哉に向けるだけであった。怒りも笑いもしていない。
己が知らぬことを相手が知っている。それだけでなく己の本懐が果たせぬことに苛立ちを覚えたのは確かである。
だが、それ以上に。
同情されている、と思った。
雪彦からの視線が痛かった。今まで、他人からの同情など何とも思わなかったのだが――否、雪彦は他人ではない。親友になれると直感した男なのだ。他人だったら何とも思わなかっただろう――これほどまでに悲しく情けないことだと知らなかった。
絢哉は思う。
同情とは対等な立場では成立しないものであると。相手を格下と見做し、更にはどこまでも辱める行為なのだと。雪彦にそこまでの思惑はないのだろうが――お前とは友でも何でもないと告げられているようで。己が精神異常者であると。まともな人間ではなくなっているのだと。
――違いない。
俺はもう、紗絵がいなくなってから、まともじゃなくなったのだから。俺にはもう何も残されていないのだから。
そこまでを思えば、胸から怒りは失せていた。全身が脱力して手からハタキが滑り落ちた。竹の軸がアルミ合金の踏み台に当たって、かつん、と軽い音をたてる。
「君、どうしたのだね。ほら、受け取り給え」
「ああ、悪い。手が滑ってしまったようだ」
「本当かい? 顔色が優れないようだが、体調でも悪いのかね」
「平気だよ。もとより色は白い方だ」
「それなら良いが。まあ、僕らにとって顔色なんて何の健康指標にもならないのだがね。重ね重ね済まないとは思っているよ。前にも言ったかもしれないが、何も意地悪で言っているわけではないのだ。旅館のお嬢さんにでも聞くのがいいだろう」
「正直、沙羅には会いたくないが――分かった。今度、時間を作ってみるよ」
「会いたくないって、何かあったのかい?」
「色々あったんだよ」
「その色々を聞いているのだ」
絢哉は、最初は話そうと思った。否、友である雪彦に聞いてもらいたかった。自身が希死念慮に呑まれ、火の見櫓から投身自殺を図ったことを。結果死ねずに、娘に介抱され、沙羅にも連絡が行き、二人に多大な心配を掛けてしまったことを。自身を蝕む虚無と自己嫌悪も、妻と死別してしまったこの男とならば分かち合えると期待したのだ。
だが――言えなかった。悩みの共有など、対等な友であればこその話である。同情される身では到底叶わぬことである。
絢哉は、転倒防止のために踏み台の一段目に足を掛けてくれている雪彦を見下す。
これ以上聞いてくれるな、という憂いを込めて。だが、その意図を汲み取ったであろうにも関わらず、教えてくれよ、と雪彦はまた問うた。
今度は絢哉が黙殺する番であった。
「他人様の関係について、根掘り葉掘り聞くべきではないことは承知しているのだが――こちらにも譲れぬ事情があるのだ。断じて軽薄な興味本位で聞いているわけではないのだ」
「事情だって」
「うむ。沙羅君のことだが――君という存在がこの里に来る前から、いたく君のことを気に掛けていたものだからね。いいか、君がここに来る、ずっとずっと前からだぜ」
「それは知ってるよ。沙羅は優しいからな」
「君、それは違うよ。彼女のこと、何も知らないんだな」
雪彦は否定する。そこにもう同情の色はなかった。
友に向ける眼差しをして。
「彼女は多分、優しくもなんともないぜ」
と告げた。
「沙羅を悪く言うのは止せ。俺が彼女のことを何も知らないのは否定しないが――優しくなかったら世話を焼いてくれないと思うぜ。自分で言ってて情けなくなるが」
「ふん、若いな」
「え?」
「忠告させてもらうが、あの娘の想い人は既にいるのだ。――む? そんな意外そうな顔をしなくたっていいじゃないか。彼女は、そいつを救いたくて救いたくて必死になっているんだぜ。そしてそれは君じゃあないのだ」
断言した雪彦は、話は終いだと言わんばかりに、背を向けて蔵を出ようとする。
呼び止めようとしたが――何も台詞が出てこなかった。
「あぁ、そうだ。その脚立の使い方は間違っている」
思い出したように雪彦が振り返る。
「脚立というものは、そんなふうに天板を跨いじゃいけないんだ。腰掛けるなんてもっての外さ。なぜなら脚立が倒れてしまった時に受け身の取りようがないからな。下りようとした時に脚を引っ掛ける恐れもある」
「ならどうしろって言うんだ」
「上から二段目くらいに、両足で立って使うんだ。君の身長なら十分届くだろう?」
「随分詳しいな。まるで現場監督みたいなことを言う」
「僕は医者をする前、三四年あまり電燈工夫を囓っていたからね。今では確か電気工事士とか言うらしいな。いずれにせよ、これくらいは常識さ」
自慢げに語った雪彦は、白衣のポケットから定期入れのようなものを出して絢哉に示す。免状であった。大昔に撮られたと思われる白黒の顔写真はまるで遺影のようであった。
脚立から下りた絢哉は、先刻の発言の真意を雪彦に問おうとして――止めた。
何を言っても、はぐらかされると思ったのだ。
その代わり。
「どうして、お前はここにいるんだ」
と至極当然なことを尋ねた。
「君と同じだよ」
雪彦は素直に応じた。
「僕も手伝いに駆り出されたのだ。今日は病院も休診だし、退屈凌ぎという意味合いの方が強いのだが――他の人間が神社で作業しているのに、僕だけ何もしていないというのはきまりが悪いのだよ。村八分にでもされたら流石の僕も堪らない。あとは、まあ」
雪彦は周囲に視線を向ける。
社務所の濡れ縁では娘が座りながら茶を啜っている。監督官のつもりなのだろう。
敷地内では辛気臭い顔をした者達が、古老の指示を受け黙々と作業に勤しんでいる。
山車の旋回を補助するであろう長尺の棒や、藺草を編んだ分厚い茣蓙の確認。山車の装飾となる提灯や垂れ幕、飾り紐の用意と設置。祭り囃子を担う太鼓や笛、摺鉦の調整。参加者が着用するであろう死装束にも似た白装束の数量と状態の把握――。
「僕も妻と死に別れてしまったという話は前にもしただろう? 僕にも、逝ってしまった者のために祈りたいという理由があるのだ。どのような形であれ祭りに参加することで、生と死の境界を今一度明確にして、忘れてかけてしまった亡き妻の輪郭を――どのように生きて、そしてどのように死んでいったのか――思い出さなくてはならないのだ。そうでもしなければ、僕はこれ以上この里で生きていく意味などないのだよ。悲しい哉、僕はこの祭りによって生かされている亡霊のようなものなのだ」
雪彦の言葉は、死別を体験した者特有の重圧と切迫に満ちて――絢哉には迂闊な返答をすることができなかった。雪彦を尊重するがゆえの無言であった。
雪彦がその沈黙をどう受け取ったのかは分からない。だが、悪い空気ではないように絢哉は感じた。何をするわけでもなく傍らの踏み台に腰掛ければ、雪彦も年季の入った工具箱に座り込んだ。
「手伝わなくていいのか」
「ああ。人手は十分足りているようだからね。大事なのは、僕らが今ここにいることだ」
雪彦は懐から煙草を取り出す。
「君も一本どうかね?」
「いや、結構。自分の分がある。しかしここは禁煙じゃないのか」
「堅いことを言うのは止してくれよ。僕も君も、煙でしか満たされない人種じゃないか。きっと皆も分かってくれるさ」
「まるで仙人みたいなことを言うんだな」
いや仙人なら霞か、と絢哉が冗談めかして言えば。
「君も聡いな。あながち間違いじゃないんだな、これが」
煙草を咥えた雪彦が笑った。
どこから拝借したのかも分からない灰皿を自身の横に置いた。
絢哉も自前の煙草を取り出して、吸い口を整えてから燐寸で着火する。
こうして誰かと喫うなど、バイト先の喫煙所で、休憩時間や仕事終わりに同僚と屯して以来であった。尤も絢哉自身は口数が多い性分でもなく、進んで交流を深める気にもなれなかったため専ら聞き役に徹してばかりいたが――悪くない、と思った。少なくとも、バイト仲間の退屈で冗長な繰り言に付き合わされるよりも有意義な時間であった。
「渡会君。君のそれは良い香りじゃないか。ああ、言わなくていい。当ててみせようじゃないか。この甘い香りは『Peace』だね。しかも両切りのショッピと見た」
「正解だよ」
「ふむ。中々良い品性をしているじゃないか。君くらいの年頃では珍しいのではないか」
「確かに仲間には誰もいなかったな。まあ早死にするために吸っているだけだから大した意味なんてないんだけどな」
「早死にだって? そりゃ医者としては聞き捨てならないな。どういう訳だい」
雪彦は意外そうに絢哉を見る。
絢哉が、死亡率向上啓蒙活動の一つだと伝えれば、雪彦は合点したように頷いたのち量の多い煙を吐き出した。洋酒のような芳香が漂う。
「お前は何を吸っているんだ」
「これかい? 『Golden Bat』さ。君にとっては珍しいのかもしれないが」
雪彦は懐から包装を取り出してみせる。金色の蝙蝠をあしらった古風な外装である。
記憶が確かであれば――発売は一九〇六年大蔵省専売局からであり、二〇〇六年には発売から百周年を迎え、国内では現役最古の銘柄であったらしいが――二〇一九年十月以降、たばこ税の軽減措置の縮小撤廃に伴い、旧三級品である『わかば』『エコー』と共に在庫品限りで生産終了になった――はずである。
「それ、去年に生産終了していなかったか」
「ああ。煙草屋の婆様に頼んであるだけを買い占めたのさ。尤も、現在は後継品なる『ゴールデンバッド・シガー』が北海道でのみ売られているそうだが――うん? 去年だって。君は今、去年と言ったかね」
雪彦は首を傾げる。
「間違っていたか。確か、生産終了は二〇一九年だと思っていたが」
「いや、それは合っている。しかし去年か――」
雪彦は何か言いたそうに目を細める。
どうした、と絢哉が聞いても、煙が目に染みたのだ、と誤魔化すだけであった。
「しかしまあ。月日が経つのは早いものだね。『人生は何事も為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりにも短い』とは人生の本質を突いた名言だよ本当に。今になって気付くとはあまりにも遅過ぎたが」
「年寄り臭いことを。『山月記』だったか。現国の教科書に載っていたよ。作者は」
「中島敦だよ。三十三歳で急逝した羨ましい作家殿だな」
雪彦は、大きく息を吐きながら言った。
それからは互いに何を言うでもなく、誰のためでもない停滞した空気を漂っていた。
贅沢な時間であった。一本を灰にするのに十分も費やした絢哉が、もう一本に手を伸ばそうかと考えた時である。
「先生、こちらにいらしたんですか」
喫煙の余韻を打ち壊しにかかる明朗な声であった。絢哉が顔を上げれば一人の少女が駆けてくる。年格好は高校生くらい――沙羅と同じ年頃に見える。髪を後ろで束ね、学校指定のジャージにハーフパンツという野暮ったいながらも活発そうな格好である。その頬が赤いのは、きっと頬紅などではなく日焼けのせいだろう。
当然ながら呼ばれたのは己ではない。隣にいる雪彦である。
「ああ、高瀬君。どうしたのだね。急患というわけではなさそうだが」
「神社に回覧板を出しに来ただけですよ。それにしても珍しいですね、先生が外出されるなんて。今日はずっと書斎に篭もって本を読んでいるものとばかり思っていました」
「人を本の虫のように言うのは止し給えよ」
「でも、事実じゃありませんか」
「僕は、この祭りだけは積極的に参加することを決めているのだよ。七年に一度の式年祭なら尚更のことだ」
「それなら私のことも誘ってくれたら良かったじゃありませんか」
女子生徒は、はにかみながら言った。
端で見ていた絢哉にも、彼女が雪彦に好意を抱いていると瞬時に察してしまえるような明白な態度であった。
彼女の本心を知ってか知らずか。
「それは気が利かなくて済まなかったね」
と雪彦は口先だけの謝罪を述べる。
口許は温厚な医師らしい笑みこそ浮かべているが、距離感がありありと横たわって――絢哉はその態度が気になってしまう。
おいこら雪彦。この娘と一緒に準備でも何でもすればいいじゃないか。彼女は君に誘われたがっているぜ――と揶揄うことも考えたが、止めた。己が他人様の人間模様に口出しできる身分にないことを――即ち、己の不注意ないし不誠実のせいで恋人を自殺させた愚か者であることを思い出したのだ。
また他人の感情に疎い己ですら女子生徒の好意を察し得たのだ。他者を観察することに長けた医者の雪彦が見抜けぬ訳がない。雪彦には雪彦なりの事情があるのだろう。
その証左に、雪彦は立ち上がるどころか視線すらも合わせず、どこか遠くを見ているだけであった。
絢哉には分かった。雪彦が、遠くに逝ってしまった誰かを偲んでいることを。
絢哉にとって――おそらくは女子生徒にとっても――居心地の悪い空気が流れたのち。
「高瀬君。僕には、どうしてもやるべきことがあるのだ。用事を済ませたら戻ってくれ。なあに、そう遅くはならないよ」
表情と同じく柔らかな言い様であった。
だが、そこには何人たりとも立ち入ることのできぬ拒絶が秘められており――その拒絶を受け取ったのだろう女子生徒は、やはり寂しそうに頷いて。
「分かりました。お祭り、楽しんでくださいね」
と言った。
「楽しめるかは分からないが、まっとうしようとは思っている」
「ところで先生。こちらの方は――」
女子生徒は初めて気付いたように絢哉を見遣る。
そこに不審の色が透けて見えるのは、やはり格好のせいだろうか。
「ああ、紹介がまだだったね。彼は渡会絢哉君という。昨日会ったばかりなのだが意気投合してね。日は浅いが友達のつもりさ。身なりこそ粗野かつ軽薄であるが、中身はそれなりに理知的な人物だから、そこは誤解しないでやってくれよ」
「雪彦。友と言ってくれたことは純粋に嬉しいが、見た目については余計だぜ」
「友人からの忌憚ない意見に口を挟むのもどうかと思うがね。まして君はこの里に来る途中に単車で事故ったのだろう。不良以外の何物でもない」
「それはそうだが」
「だが、何だね?」
言い負かされた結果閉口する絢哉は、座っていた踏み台から立ち上がると、応酬を愉快そうに眺めていた女子生徒に向き直る。無礼にも慇懃にもなり過ぎない程度に軽く頭を下げる。
「どうも、渡会です。色々あって盛岡から来ました」
「初めまして、高瀬です。この近くに住んで、先生の助手をしております」
「助手?」
彼女はまだ学生であり、とても医療事務や看護に従事しているようには見えなかった。
雪彦に聞けば、うちで雇っているアルバイトだよ、と億劫そうに補足する。
「先生ったら。いい加減助手って認めてくれてもいいじゃないですか。それより渡会さん、話は聞いておりますよ。もう起きて話ができるようになったんですね」
「ああ、やっぱり事故のことは知られていたのか」
「それはもう。こう言っては失礼かもしれませんが村の一大ニュースでしたからね。沙羅ちゃんなんて本当に心配していたんですよ。何日も泣いていたんですよ」
「何日も? それは流石に――」
大袈裟に過ぎやしないだろうか。
事故は一昨日のことである。何日もというのは流石に脚色があるだろう。
「そうですよ。見てられなかったんですからね。あとで沙羅ちゃんにお礼を言った方がいいと思います。私は沙羅ちゃんの友達だから言いますけど」
「お、おう。分かったよ」
絢哉は目の前でハキハキ喋る女子生徒から顔を背けてしまった。眩しさのあまり、とても見ていられなかったのだ。
己にもう少しばかりの誠実さがあれば、己も紗絵も、この少女のように真っ当に生きることができたのだろうか――とありもしない世界が脳裏を過ったこともある。
絢哉は、精神と肉体の温度が下がるのを感じた。
「渡会さん?」
「ご忠告、痛み入るよ。口頭では何度も礼を伝えているんだが――物品の方がいいかな」
追求を避けるため、無理して会話を続ける。
「何でもいいと思いますよ。あの子、渡会さんからなら何でも喜んでくれると思いますよ」
「そうか。それなら今度、何か見繕って贈ってみるよ。うん? どうしたんだ」
女子生徒は、まだ絢哉を不思議そうに見詰めている。紗絵とは似ても似つかぬその顔に得体の知れぬ不快を覚えながらも、威圧を与えぬよう努めて優しく問えば。
「絢哉さんって、コンタクトレンズつけてます?」
女子生徒は尋ねた。唐突な問いであったが、絢哉にとっては半ば事実であった。日常生活ではコンタクトを装着していたし、バイクに乗る時だけは眼鏡にしていたのだ(バイク乗りならご存じであろう。フルフェイスであろうとも風圧でレンズが剥がれて飛ばされるのだ)。尤も、事故の衝撃で眼鏡はどこかにやってしまったし、コンタクトは持参してしないため今は裸眼であったが。
「いや、今はつけていないよ」
もしかすれば、自分でも知らぬうちに彼女を睨んでいたのかもしれない。視力の悪い者が焦点を合わせるために目を絞り、前方を睨み付けていたなどよくある話である。
「私、てっきりつけているものだと思っていました。でも、それなら」
でも、それなら――何だろうか?
絢哉が尋ねようとすれば。
「高瀬君」
雪彦が女子生徒を呼びつける。その声には制止が含まれ、余計なことを喋るなと叱っているようでもあった。
「は、はい。何でしょうか」
「何でしょうかじゃないよ。回覧板を出すという君の役目はもう終わったんだろう。ならば早く戻り給え。時間があるなら旅館の方で祭りの支度でも手伝ってくればいい。君も式年祭はそう経験がないだろう。向こうも準備で忙しい頃合いだろうに」
「ええ、いいじゃないですか。少しくらい話をしていても」
「そういうことではないのだ。ほらほら、行った行った。僕らもこれからもう一仕事あるのだよ。君の相手などしていられないのだ」
「分かりましたよ。渡会さん、沙羅ちゃんのこと、お願いしますね」
絢哉の返事も聞かず、女子生徒は敷地を去って行った。
「ふん。ようやく行ってくれたか。いや、うちの者が騒がしくて済まなかった。あれでも色々普段から言い聞かせてはいるのだが――度し難いものだな」
「別に気にもしていないさ。しかし、あんな突き放すような言い方をしなくたって良かったんじゃないか。少し可哀想だ。彼女はお前と過ごしたかっただけのように見えたぜ」
「分かってないなあ渡会君。先刻も言ったが、村八分はこのご時世にも存在するんだぜ。日頃面倒を見ている妹分が虐められたら嫌だろうに」
「どういうことだ。ここにいればいい、という話か」
「そうだ。尤も、この場合は反対――いてはいけない、という意味になってしまうがね」
雪彦は皮肉そうに笑った。
「分からないな。彼女がいることの何が問題なんだ。あの娘と何かあったのか」
「いいや、何も」
「ならなぜそうも遠ざけるんだ。こういう言い方もどうかと思うが、あの子は明るくて活発で――そうあることに疑問すらも抱けない――大いに役に立ってくれそうな類型の人間のように見えたが」
「そう。だから具合が悪いのだよ」
雪彦は肯定するが、やはり絢哉には分からない。
「彼女はまだ十五そこいらの子供で、この里のことをよく知らないのだ。口先だけは大人ぶって丁寧なのだが――どうにも視野が狭い。だから配慮というものができないのだ」
「何の話だ」
「見給え。里人と余所者が共同作業をしている――この光景、君にはどう映る?」
雪彦に従い、絢哉は近傍の者達を観察する。時折、こちらを遠慮がちに、あるいは迷惑そうに見る者が少しばかりいる。
「どう、とは豪く曖昧な聞き方だな。俺もよく知らんがこれが普通の光景じゃないのか。全員が死んだ魚のような目をして、活気もなくて。まるで葬儀に参加しているような気分にもなってしまうが――まあ、この里に来た目的を思えば残当だろうな。俺もだからな」
「では聞き方を変えよう。外の祭りも、こんなに静かなものかね。違うだろう。考えてもみてくれ。皆が死者を悼もうとしている中では、あのような溌剌とした娘に居場所なんて与えてやれないのだ。無論彼女が悪いというわけではないのだが、そこにいるだけで誰かを傷付けたり、邪魔だと思われたりするのだ。旅館の方ならその懸念がないとも言えないが――向こうの方がまだましだろう」
「なるほど。お前の言いたいことがやっと分かったよ。残念だがその通りだな」
「僕としても、せめて式年祭の期間だけは可能な限り独りでいたいのだ。どうして、なんて野暮なことは聞かないでくれよ。こちとら必死に面影を繋ぎ止めようと――忘れまいと頑張っているのだ。それなのに彼女ときたら、こっちの気も知らずに僕の心を踏み荒らしにかかるのだから持て余してしまうというものだ。彼女が僕をどう思ってくれようが、僕が彼女を避けることは、きっと未来永劫変わらないだろうな」
そこまでを語った雪彦は、絢哉を一瞥したのち。
「君もそうだろう? 死んだ恋人を追って、この里までやってきた渡会絢哉君」
と訊いた。
話振りこそ質問の体をなしてはいたが、ある種の追認ないし確定事項のようで――絢哉は訳もなく返答に詰まってしまった。
一瞬、沙羅の姿が過ったのは――気の迷いだろう。
「当然だ。分かりきったことを聞かないでくれよ」
動揺を悟られぬように絢哉が答えれば、雪彦は破顔して。
「良い返事だ。それを聞いて安心したよ」
と頷いた。
絢哉は思う。
もしかしたら、この男は己に釘を刺したつもりなのかもしれないと。
姿形が似ているだけで、気持ちが移ろうことなどあってはならぬ。
それ即ち死者への侮辱なのだ――と。
絢哉は雪彦と顔を合わせていられず、日が暮れる前に手伝いを抜けることにした。雪彦も娘も不思議そうな顔をしていたが、有り難いことにさしたる追求もなく解放してくれた。
角度の急な階段を下りながら自省する。
嗚呼、俺は何と愚かな男であろうか、と。
今まで、嘘も誇張も抜きに何十何百と重ねに重ねた自責である。だが今回ばかりは毛色が違った。絢哉の精神に重篤な亀裂を入れたのは、先刻の雪彦との問答であった。
雪彦は愛する者を喪った男の先達として一つの訓戒を寄越したに過ぎない。だが、その忠告は絢哉の心に的確過ぎるほど的確に突き刺さってしまったのだ。
絢哉は自覚してしまったのだ。
いつの間にか、胸の内に沙羅がするりと辷り込み、徐々にその存在を大きくしていたことを。それは増殖を繰り返して醜く肥大していく癌細胞によく似ていて――己の正常かつ清浄な精神性が蝕まれていくことに強烈な恐怖を抱いた。それでいて、彩葉紅葉が秋に色付くような――あるいは桜花の花弁が薫風に薙ぎ散らされていくような――自然の摂理であるという己を正当化させるような前向きな感情も確かに存在していた。
――愚か者め。恥知らずめ。卑劣漢め。
――俺は紗絵を裏切ろうとしていたのだ!
絢哉は己が許せなかった。恋人を死なせたがゆえに精神を毀し、その恋人に今一度近付くために、やっとの思いで辿り着いたこの里で、あろうことかその妹に心惹かれてしまうなど。そんなことは己の正義が許さない。考えただけで吐き気がする。
歯を食い縛り、真正面を睥睨する。できることなら叫びたかった。衝動のまま暴れ、手当たり次第に目に付いた物を毀したかった。
参列者のひとりを蹴飛ばして転がり殺したらさぞいい気分になれるだろう。誰でもいい。嗚呼、そこの杖をついた爺様なんてちょうどいい案配じゃないか。いや、搭乗者のいない乳母車を押す寡婦でもいいぞ。いい悲鳴が聞こえそうだ――。
そのような残忍なことを考えていたからだろうか。
絢哉の顔を見た媼が。
「鬼じゃ」
と漏らした。
そして畏れるように手を合わせる。
まるで己が悪霊と言われているようで腹が立ったが――死んでも死にきれず未だにこの世にしがみ付いているのだから、あながち間違いでもない。言い得て妙ですらあった。
自嘲と諧謔、そして少々の虚勢が湧き上がり、絢哉の怒りは急速に冷めてしまった。
それどころか己が滑稽に思えて仕方がなかった
――落ち着けよ。そこまで悲観することでもないだろう。
満面の笑みを浮かべた絢哉は、嬉々として語り出す内なる声に耳を傾ける。
――考えてもみろ。当然なことじゃないか。
姉妹というのは似て然るものだ。紗絵に取り憑かれた俺が、似た年頃似た顔をした女に惹かれるなど至極当然じゃあないか。何をそう怒ることがあろうか。片や姉を喪った可哀想な妹。片や恋人を自殺に追いやった憐れな男。寄り添う理由など、これ以上ないくらいじゃあないか。お誂え向きというやつだろうに。
それに、だ。
絢哉の裡に潜む、煤けた亡霊は、嘲弄するかのように唇を歪める――。
惹かれているのは事実としても、その心は本当に、好意や恋情に分類されるものか? 己は己に向かって、沙羅を愛していると真に言えるのか? 言えやしないだろう、そんなこと。なぜなら己は今でもただ一人、紗絵だけを愛しているのだから。惹かれているのは外側が多少ばかり似ているからに過ぎないのだ。あるいは同病相憐れむ――お前が忌み嫌った同情でしかないのだ。いずれにせよ一時の気の迷いだ。
――喜べよ。俺は紗絵を裏切ってなどいない。処女の如し誠実を保っているのだ。
薄汚い本性は、そこまで好き勝手に述べると、それきり死んだように何も言わなくなってしまった。
残されたのは丸裸となった虚弱な精神であり、頭から冷水を浴びせられたかのような心持ちであった。十月の初旬だというのに、真冬のように酷く寒く感じた。
・2019年は去年という認識は本当に正しいのか?
・沙羅には想い人がいる。そしてそれは絢哉ではない




