4-2.絢哉は簡単に支度を済ませると、財布と煙草、燐寸箱だけを持って部屋を出た。
絢哉は簡単に支度を済ませると、財布と煙草、燐寸箱だけを持って部屋を出た。
階段を下りて一階に行けば、記帳台で番頭らしき禿頭の翁が、来客らしき独りの男性の応対をしているところであった。礼服に身を包んだ男の眼は虚ろで、現実に絶望した者特有の目付きをしていた。そういえば先刻鏡に映った己も、あのような廃人らしい目をしていたな――などと思いながら、絢哉は受付を素通りして屋外に出る。
正門へ出れば、竹箒で玄関を掃き清めている沙羅と出会した。人懐こそうな笑みを浮かべて寄ってくる。先程の気まずさを一切感じさせない態度――所謂大人の対応であった。次期女将としての教育を受けているというのもきっと伊達ではないのだろう。
「絢哉さん、お出掛けですか?」
「ああ。外の空気を吸いたくて。昔歩いた町がどう変わっているのかも知りたくて」
神社に向かうとはあえて言わなかった。
「そういえば絢哉さん、この辺りの子供達と遊んでましたものね。旅館で鬼ごっこをしたり、川辺で隠れんぼをしたり。懐かしいですね。もう十年くらい経つんでしょうか」
姉から話を聞いていたのだろう。
沙羅は自らが体験したことのように懐古する。
「そうだな。月日が経つのは本当に早いよ」
「その反応、お爺さんみたい。ところで絢哉さんは覚えておりますか。あちらの四階にいた女の子のことを」
沙羅は旅館の正面を見上げる。
視線を追えば――四階部分は露台となり、こちらを見下ろせる構造になっていた。
「女の子?」
絢哉は聞き返す。心当たりはなかった。
「はい。その子は遊びに出掛ける絢哉さん達を、あそこからいつも羨ましそうに眺めていたそうですよ」
露台を仰ぎ見たまま沙羅は答えた。
「その子は、どうしてまたそんなところに」
「病弱だったからです。喘息持ちで、他にもいくつかの感染症を患っていて――とても絢哉さん達と遊べるような健康状態ではありませんでした。軟禁されていたとでも言いましょうか。覚えておりますか?」
「いや、覚えていない。そんな子がいるなんて知らなかった」
「そうですか。それは――良かったです」
「良かった?」
「気にしないでください。今の私達にとっては何の関係もない話ですから」
沙羅は、言の葉に含みを持たせながら薄く笑った。
「あまり遅くならないでくださいね。何度も言いますが本当に心配してしまいますから」
「分かってるよ。俺が言っても説得力に欠けるかもしれないが、もうあんなことはしない。今更になって分かったけど、生きることと同じくらい、死ぬことにも気力は要るらしい。自分を殺すのはもっと簡単なことだと思っていたよ」
絢哉の愚痴とも懺悔ともつかぬ弱音を神妙な顔で聞いていた沙羅は、一呼吸置いたのち。
「絢哉くん。そんなこと言わないでよ。聞いているこっちまで悲しくなるよ」
と諫めるように言った。
その呼称、その台詞は、ただの制止のつもりだったのだろうが。
――紗絵。
この時、絢哉は沙羅の中に紗絵を見た。有り得ぬことと理解していながらも、今ここにいるのは紗絵ではないのかという期待を一瞬でも抱いてしまった。
「きっと、私が姉さんだったらそう言うと思いますよ?」
困惑のあまり呼吸の仕方すら忘れてしまった絢哉を知らぬように沙羅は言った。
「――そうか。いや、そうだよな」
頼むから驚かせないでくれよ、と絢哉が控え目に抗議すれば、やっぱり似ていましたか、と沙羅は曖昧な笑みを浮かべる。
その態度は、どこか消沈したようでもあり、また何らかの希望を見出したようでもあり――やはり機微に疎い絢哉には沙羅が何を思っているのかを汲み取ることができない。
ただ、紗絵の面影を残す女に責められているような気がして、この場を逃げ去りたいという思いだけがあった。
「俺は行くよ。仕事の邪魔をして悪かった」
「あ――」
沙羅はまだ何かを話したかったようだが、絢哉は素知らぬふりを決めて足早に去る。
商店街を歩けば、里の人間に混じり観光客らしき者が散見されるが、絢哉の想像する田舎町そのものであった。
塞ノ神神社に続く石段には相変わらず参列が伸びていた。昨日と顔ぶれがそう変わっていないように見えるのは、皆揃って悲愴を漂わせているせいか、あるいは参列者が神社の許容を超過してしまっているせいなのか――。
きっと後者であろう。所詮は北東北の寂れた神社である。許容人数や処理能力にも限界がある。窓口を増やし整理券でも配布すれば改善は見込めるのだろうが、それでは御役所仕事である。ここは神社であり、己を含め求めているのは救済なのだ。決して利便などではないのだ。
絢哉は参列の横を歩いて石段を上っていく。列を無視するなと誰かに咎められるかと思いもしたが、皆不審そうに絢哉を見たのち、道を譲るように一歩退いてしまう。腰の曲がった白髪の媼に至っては、どういう訳か恭しく頭を垂れる始末である。
道幅は二三メートル程度と、然程狭くもないのだが――大方、この不良の如し様相のせいだろうと絢哉は分析する。里の空気に全くそぐわぬ銀髪の若者が景気の悪い仏頂面で、肩を怒らせて歩いているのだ。誰だって関わり合いになりたいとは思うまい。閉鎖的な寒村であるなら尚更である。
そう思えば、会った時から好意的な沙羅や雪彦、名も知らぬ神社の娘、女将やバイク屋の店主は珍しい――否、有り難い存在である。尤も、沙羅や女将はこちらの事情を知っており、あの娘に至っては出会い方が加害者と被害者である。バイク屋の店主に至ってはただの利害関係者に過ぎないのかもしれないが。
大鳥居を潜り境内に入っても、参列は途切れることなく続いていた。
若い夫婦らしき男女が、白衣に緋袴を纏った老女の案内を受けて拝殿へ入っていく。
絢哉からは陰となり、内部の様子を窺うことはできない。
見たところ神社の関係者はあの女性のみであり、他に案内があるわけでもない。
参列者以外には、小学生低学年ぐらいの、数名の子供達がキャッキャとはしゃぎながら境内を駆け回っている。その微笑ましい光景はいつかの自分を見せつけられているようで――絢哉は謂われのない引け目を感じてしまう。
彼らの親御は近くにはいないようだが、こんな場所では問題にもならないだろう。
参列者が子供達を眩しそうに見ているのに反して、彼らが参列者に近寄りもしないのは、きっと彼らなりに何か悲しいことがあったのだと。話し掛けてはいけないものだと察しているからだろう。子供というのは、大人が思うよりもずっと聡明で、敏感で、冷徹になれるのだから。
子供のひとりが境内の入口で立ち尽くしている絢哉に気付いた。
髪を後ろで結わえた女児である。
絢哉を見ると、昔からの朋友に会ったかのように嬉しそうに笑い、拝殿横に併設された社務所を指差した。あちらに行け、と言いたいらしい。絢哉が女児に目礼を返せば、彼女は手をぶんぶんと振ってくれた。
絢哉が社務所の裏手に回れば、空けた空間となっていた。その奥には白漆喰の蔵が鎮座しており、一つしかない観音開きの扉は開放されていた。倉庫にしては高さも奥行きも十二分の規模があり、中には一台の山車がすっぽりと収められている。
輿舁が牽引する長い木鼻に、前方にはひとつ、後方にはふたつの車輪。急旋回にも対応できる機動力を求めたのだろう。大天上を囲う跳ね高欄には朱が塗られ、金色の擬宝珠で装飾がされている。出立はまだであるらしく、軒提灯も雪洞も、天幕も額もない。
一見すれば埼玉県熊谷市鎌倉町の『熊谷うちわ祭り』や千葉県香取市の『佐原の大祭』を彷彿とさせる山車であるが――。
絢哉は蔵に近寄り高欄を見上げる。
飾り人形がいるはずの舞台は空席であった。
傍らの立て札には『伊邪那美命』と書かれてはいるが、蔵を見回しても肝心の人形はどこにもいない。今目の前にあるものがイザナミの乗る屋台であるなら、その相方となるイザナギの山車はどこにあるのだろうかとも思う。
「渡会さん。ようこそ、おいでくださいました」
背後から声を掛けられた。振り返れば昨日の娘がいた。
「これは、どうも。昨日はご迷惑をお掛けしました」
「迷惑だなんてとんでもない。それより気分はどうです。落ち着きましたか」
「ええ。きっと、もう、あのようなことはできないでしょう」
自分でも滑稽に感じるくらい他人事のような言い振りであった。
今でこそ悟性も回復し、社会的な怠惰で辛うじて踏みとどまっているが、脆弱な精神がいつ崩壊してしまうか分からなかったために断言できなかったのだ。
「きっと、と言うのが気になりますが――少しでも回復されたのならいいことでしょう。昨日も申し上げましたが、祭事に関わっていく中で、どのように生きていくかを見直せば良いのですから。私達はそうすることでしか死から逃れられないのです」
山車まで歩み出た娘は、前方に突き出た木鼻を撫でたのち、絢哉に振り向いた。
「ところで。本日は手伝ってほしいとお願いしたわけですが――渡会さんは、お祭りのことはご存じですか?」
「いえ。実は、よく知らないのです」
絢哉は敬語で答えた。娘に対して今後は敬語で接しようと思い直したのだ。そうしなければならぬ恩義と神性が娘にはあった。また自殺の瞬間を目撃され、気苦労を掛けたであろう相手に、馴れ馴れしく対等な口を利けるほど厚顔無恥な性分でもなかった。むしろ素の性向は繊細かつ臆病であり、大して親しくもない異性には敬語を使うべきだという常識が再起したこともある。
盛岡で生まれ育った絢哉は宇霊羅式年祭という祭事も、それに山車が用いられることも、主役となるのがイザナギとイザナミであることも知らなかった。また、このような人里離れた秋の集落と、大勢の人口と熱気があってこそ賑わう山車を用いた祭りが、どうにも似合わぬように思えたのだ。
「神主というのか宮司というのかよく分かりませんが――神社にお願いすれば死者の声を降ろしてくれるらしい、というくらいです。式年祭とはどういうことをするのですか」
「簡単に言えば――死者を悼むお祭りです。知名度こそありませんが、文献の記述を信じるなら古来より続く由緒正しい神事です。都合によって前後することもありますが、期間は十月一日からの十日までの十日間。最初の五日は前祭り、後半の五日は後祭りと呼ばれます。前祭りでは神社で参加者の受付や案内をして、後祭りでは最後の一日に限り、ここにあるイザナミの屋台と、旅館にあるイザナギの屋台を牽いて里を練り歩きます。里を現世、山を彼岸に見立てて――それぞれの屋台に乗った代表者が、台詞を読み上げて――日本神話の一つの場面を再現するのです。そうして、死別を納得した二柱の神々が、それぞれの在るべき場所に戻っていく――という筋書きです」
「納得ですか。日本神話であれば、喧嘩別れをしたのちに大岩で隔てられるという内容だったと思いますが」
「それはそうなのですが、岩なんて実際には置けませんし、死にゆく者と面と向き合って、対話ののち、死別を受け容れる――というのが祭事の主旨であると私は考えております。虚構と切り捨ててしまえばそれまでなのですが――虚構に縋ることでしか救われない者はあなたが思う以上に多いのです。宇霊羅式年祭は死にゆく者達のために――いえ、それ以上に今を生きる者のためにあるのですよ」
娘は、山車の上方――大天上を指差した。
「あなたには、あちらに乗せる人形作成の手伝いをしてもらいましょう」
「あの、こういった作業の経験はありません。こういうのは職人さんの仕事ではありませんか。もしくは前回使ったものを再利用するのではありませんか」
「それがないのです。祭りの度に燃やしてしまいますから」
「燃やしてしまうんですか」
「ええ。役目を終えた二柱の人形は、神社の境内で燃やしてしまうんです。こう言っては神様に失礼なのかもしれませんが――厄人形のように、私達の思いと共に、在るべき場所に還っていただきます。仮令燃やさずに保管していたとしても、屋台を使うのは七年に一度の式年祭ですから、きっと痛んでみずぼらしいものになっていたことでしょう」
役目を終えた人形が燃やされる様を想像し――惨い話だと絢哉は思う。七年ぶりに顕現したというのに、いざ用済みとなれば燃やされるなど、憐れとしか言い様がなかった。
絢哉の閉口を作業への後込みと思ったらしい娘は、大丈夫ですよ、と励ましにかかる。
「今はまだ来ていないだけで、主導となるのは里の古老達ですから。もちろん作業自体も強制ではありません。都合がつく時だけで構いませんよ」
「いえ、是非参加させていただきたいと思います。他の人は――俺と同じような境遇の人はいないのでしょうか」
絢哉が問えば、今度は娘の方が困ったような顔で黙りこくってしまった。絢哉が、何か失言をしてしまったのかと思うくらい黙ったのち。
「まだ前祭りが始まったばかりですからね。直に増えてきますよ。まずは、私達にできることからやっていきましょう」
と娘は答えた。
なるほど、よくできた祭りであると絢哉は思う。
いささか風趣に欠けた見方であるが、人間社会の需要を真正面から捉えているからこそ、由緒正しい神事として長らく続いているのだ。死者を悼むという感情は大昔からそう変わらないのかもしれない。
続けて絢哉は考える。もし己にイザナギの山車に立つ名誉を与えられたとして、イザナミ側の演者に説得されただけで死別を受け容れられるのだろうかと。その場合、己と共演することになる不幸な演者は誰であろうかと。
紗絵であるのが筋だろうが――。
祭り囃子が響く闇夜に、数多の提灯に照らされ、巨大なイザナミの人形を背負い、こちらを見据える紗絵を思い描いてしまうが――当然そんなことは有り得ない。それならば妹の沙羅だろうか。そうであってくれたら嬉しい、と絢哉は思った。思ってしまった。
娘に従うまま、蔵の掃除と簡単な整理から始める。少し待っていれば、娘の言った通り次第に面子が集まってくる。総数は十名にも満たない程度、里の人間と外様の人間が半々といったところである。連中のほとんどがこの世の不幸を全て背負ったような顔つきをしており、やはり似通った境遇の者達なのだろう。
娘は彼らに指示を与えると、彼らも頷いて作業に取りかかる。
娘は三人程を連れて、蔵の裏手にある緩やかな坂道を下りていく。石段とは別の商店街に続く経路なのだろう。人手が必要な物品でも取りに行ったのかもしれない。
山車の脇に九尺の脚立を立て、天板を跨いで座り、乾いた雑巾とハタキで高欄の煤を払っていた時である。
「君、どうしてここにいるのだね?」
聞き覚えのある声であった。
見下ろせば、雪彦が立っていた。
・四階の露台で軟禁されていた病弱な娘
・境内で遊んでいた子供達




