4-1.昨日、絢哉が旅館に戻ってきたのは二十時を過ぎた頃であった。
昨日、絢哉が旅館に戻ってきたのは二十時を過ぎた頃であった。
沙羅が何も言わぬをいいことに、隣に付き添ってくれる女が、かつて自分が死なせた恋人と思い込んで――その錯乱は眠りに就くまで治らなかった。暗い夜道を手を引かれながら歩くだけで、己が世界で一番の果報者と思えた。ようやく俺は希った女に逢うことができたのだ。この里で死者が蘇るというのは真実だったのだ――と幸せな迷妄に身を委ねていた。
沙羅は、絢哉を部屋まで導いたのち敷いた布団に寝かしつけ、絢哉が眠るまで側にいてくれた。やはり沙羅が何かを言うことはなかった。泣きそうな顔をしているだけで――そのくせ、どこか隠しきれぬ喜色がありありと窺えて――余計に、この女は紗絵であるという誤った認識を助長させることになった。
絢哉が起きてからも沙羅は側にいてくれた。枕元に正座して、絢哉の顔を凝然と見守っている。ある種の決意が見え隠れする能面染みた顔であった。制服でも寝間着でもない、白い寛衣に膝丈の洋袴という大人びた私服姿であった。
紗絵が好んでいた格好であり、やはり目の前にいる女は紗絵になったのではないかという馬鹿げた思考にまたも呑まれそうになるが、目を瞑り、その妄想を遮断する。
もう、錯乱も発作も治まっていた。酷なる現実を受け容れるしか路はないのだと声高に叫ぶ理知が復活したのだ。
視線だけで時計を見れば、時刻は七時を過ぎたところであった。日捲りカレンダーは沙羅が破ってくれたのか十月二日に更新されている。
「おはよう沙羅さん。昨日は、迷惑をかけてすみませんでした」
絢哉が恐る恐る声を掛ければ、沙羅は取り繕ったような笑みを浮かべる。
「おはようございます。落ち着いたようで何よりです」
「いや、本当に申し訳ない。恥ずかしいところを見せてしまった」
人生でワースト三位に入るくらいの失態だった、と回復したことを誇示するため諧謔交じりに言えば、そんなことはありませんよ、と沙羅は強い調子で断じる。
「絢哉さんは姉さんを愛していたからこそ辛いんです。それだけ誰かを好きになれるのは立派なことではありませんか。決して恥ずかしいことなんかじゃありません。恋人を喪って心が壊れそうになるのは、きっと普通のことなんだと思います」
「普通か。それはまたなんというか――」
一体どこに恋人を自殺させた挙げ句、自棄に陥り、身投げしても死にきれず、その妹に縋り付いてしまう奴がいるのか。そんな奴、いたとしたら切腹ものの大馬鹿野郎である。
「自分を卑下するのはよくありませんよ。私は、姉さんのことが羨ましいです」
いつかも交わした遣り取りであった。
沙羅は解放されたカーテンに目を遣った。すぐそこから雀の鳴き声が聞こえる。露台の手摺りに数羽とまっているのだろう。
「死んでもなお好きな人にそれだけ強く想ってもらえるなんて――尊いことです」
「端から見ればそうなのかもしれないな。それでも好意的に過ぎる解釈だけどな」
「姉さんの言った通り。絢哉さんって気難しい性格なのね」
沙羅は窓を向いたまま言った。昔を懐かしむような――痛々しい顔つきであった。絢哉が何か言うより早く、沙羅の手が絢哉の額に乗せられた。頭頂部から前髪にかけて子供をあやすように撫でつける。その手付きには覚えがあった。紗絵が好んだ触れ合いのひとつであった。
今思えば、口下手で控え目な紗絵なりに勇気を出していたのかもしれない。そう考えれば、簡単に手を振り払うことは躊躇われてしまった。彼女が何を思って自身の頭を撫でているのかは分からなかったが好きにさせることにした。もう少しばかり紗絵の面影に触れていたいという打算もあったことは確かであったが。
絢哉は自省する。己と沙羅は、宿泊客とその恋人の妹でしかない。言ってしまえば他人とさして変わらぬ関係であり、きっと相応しい距離感ではないのだろうと。
――なあに、この女もすぐに飽きてくれるさ。放っておけよ。
絢哉の思惑とは異なり、沙羅に飽きる様子はなかった。むしろ興味深そうに、髪の一本一本を細やかに梳る。
昨日は帰ってくると同時に、沙羅に看取られながら死ぬるように眠ったのだ。草の切れ端でもついていたのかもしれない。あるいは頭部に裂傷か瘤でもあるのか確かめでもしているかもしれないと絢哉は冴えぬ頭で類推する。
それにしても、よく死ななかったものだ。櫓の高度は目測で十メートルに届くかといった程度であった。いくら下が柔らかな草原だとはいえども頭部から直撃したのだ。頸部の骨折や重篤な脳震盪ないし脳挫傷に陥るものと期待していたのだが。
――止せよ今更。くだらない。
激しい頭痛もなければ嘔吐も眩暈もない。四肢の麻痺や痙攣もない。そもそも崖から転落した時ですら死ねなかったのだ。直後に濁流に呑まれても溺死を免れた。そんな頑強な奴が子供でも登れる場所から飛んだところで死ねる訳がないのだ。
きっと、俺は死から見放されてしまったのだ。いくら向こうにいる紗絵に会いたいと願ったところで叶わないのだ。俺は、この残酷な世で、ひとりで生きていかなくてならないのだ――。
「絢哉さん。大丈夫ですか?」
鋭い呼び声に、絢哉は我に返る。厳めしい顔をして虚空を直視していたことに気付く。
「ああ、悪い。大丈夫だよ」
「本当ですか? どこか痛いところがあれば我慢しないで言ってくださいね。お医者様をお呼びしますから」
「それには及ばないよ。少し、昔のことを思い出しただけだから。それよりも」
絢哉は、沙羅の手を乱暴にならぬようにそっと除けてから身を起こす。
「今日は平日だろ。学校があるんじゃないのか」
「今日は休みですよ」
「平日なのに」
カレンダーに目を凝らせば十月二日の金曜日であることが辛うじて読み取れる。
絢哉の視力は、日常生活に困ることこそなかったが良くもない。バイクに乗る時だけは眼鏡をしていたのだが、それも事故の衝撃でどこかにやってしまったのだ。コンタクトレンズも盛岡の実家に置いたままであった。
「行きたくない事情でもあるのか。人間関係や部活動で困ったことがあるなら、俺で良ければ何でも相談に乗るよ。いいか、絶対に無理して学校に行く必要なんてないんだ」
「違いますよ。ただ、その、旅館の手伝いもありますので」
沙羅は、目を泳がせながら答えた。そこに誤魔化すような響きが込められていたのは、客である己に面と向かって伝え難かったからであろう。旅館が繁忙期であることは事実であろうが、己が他の利用客以上に、この年端もいかぬ少女に、心労ないし迷惑を掛けていることもまた事実であり、絢哉は居心地の悪さを感じてしまう。
「絢哉さん。朝食はもうできておりますが、食べられますか」
「いや、折角作ってくれたのに申し訳ないが、食欲が全くない」
「やっぱり、お医者様に診てもらった方が」
「大丈夫だよ。別に昨日の傷具合がどうという話じゃないんだ。何というか、これは精神的なものだから放っておけば直に治るさ。なあに、人間水さえあれば一週間は生きていけるのだから心配は無用だよ」
絢哉は笑った――つもりだった。だが痛々しい表情筋の引き攣りにしかならず、衰弱と消耗を隠蔽することはできなかった。その顔を見たからであろう。沙羅は、何かを堪えるような表情をしたのち。
「絢哉さんは、そんなになるくらい、姉さんが好きだったんですね」
と漏らした。その言葉は誰に向けたものでもない、ただの呟き――遣り場のない心情の発露――であったのだろう。それを察したからこそ、絢哉も黙殺ないし無言の肯定をするつもりであったのだが。
「今でも好きだ。後追い自殺をしてしまうくらいにはな」
反射的に答えてしまった。失言であったと気付いたのは、沙羅が目を見開いて、こちらをきつく睨んでいると分かってからであった。
沙羅は一言も発さずまま部屋を去っていった。彼女がなぜあのような顔をしたのかは分からなかったが、深く傷付けてしまったであろうことは鈍感な絢哉にも理解できた。かつて口論の末、言い負かしてしまった紗絵の顔によく似ていて――心臓を鷲掴みにされかのような不快と不安を齎してくれた。
一人になった絢哉は、広縁の椅子に腰掛けて日記を読むことにした。
昨日は三年目――二〇一九年の元日からしか目を通していなかったが、今なら残った全ての記述を受け止められるような気がしたのだ。
特筆すべき心境の変化があった訳ではない。相変わらず敷き詰められた流麗な文字ひとつひとつが己を責め苛むように見えたし、鉛のように重苦しい希死念慮は今も燻っている。しかしながら己が二度も死に損なったことで逃げ場など何処にもないことを遅まきながら悟ったのだ。
几帳面に綴られた一日一日の出来事を追いながら考える。紗絵は、どうして日記を一日たりとも欠かさずに書き続けたのだろう――と。
全ての頁に目を通したわけではないが、理由や目的といったものは明言されていなかったはずである。文字も内容も丁寧かつ洗練されていて、粗雑な点など見受けられない。誰が見ても、それ相応の時間と労力が費やされたものであると分かる出来である。ある種の執着すら感じられるほどであった。
児童相談所から派遣されたカウンセラーからの受け売りだが――日記には複数の効能があるといわれている。具体的には語彙や文章の訓練、思考の整理および客観化、記憶力の向上などが挙げられ、非行に手を染めるような問題児には推奨されることもあるらしい。絢哉自身、日記を書くことを勧められた同類であったが――。
しかしながら、紗絵の日記を見る限り、目的は別にあるのだと絢哉は直感した。ならば、紗絵は何を為さんとしてここまで精緻な、ある種文芸作品とも呼ぶべきものを書き上げたのか。
それ以前の問題として。
いくら己が紗絵の恋人であり眞緒から託されたとはいえども、死者の意思を勘繰って暴き立てようなど、紗絵に対する辱めではないのか。
じくり、と良心が疼くが、日記を閉じるつもりはなかった。故人を冒涜していると言われようが――そんなことは今更である。純粋に、紗絵が何を思って生きて、そして何を思って死んでいったのかを知らねばならぬ気がしたのだ。
己の中に、より鮮明で、より鮮烈な――未来永劫、風化することのない紗絵を創り上げたかったこともある。仮令それがどれほど苦痛を伴う作業であったとしても。
その行為は、死者の分まで生きるという死別の克服ないし前向きな感情に由来するものではなかった。死別という現実に打ちのめされ、更には忘却という二度目の離苦をどこまでも恐怖したがゆえの、自罰的な感情を大いに含んだ適応機制でしかなかった。
絢哉は、そのような己の精神状態など重々承知していた。記録を媒体として死者を繋ぎ止めるなど、時間を停滞させることでしかない。生者である己の時間は否応なく流れるものであり、また人間の記憶など完全とはほど遠い。如何に精巧な紗絵を創ったところで、記憶はどうしたって褪せていくものである。
人は、思い出だけでは生きていけない。
疾うの昔から分かっていたことである。
生き損なった結果ここを紹介され、そして死に損なって――今こうして過去に縋っているのだから堂々巡りもいいところである。近々、己が破綻してしまうであろうことも分かっていた。
――では、破滅を免れるためには何が必要か。
何をすれば己は人生を肯定できるだろうかと絢哉が己に問えば、あの名も知らぬ娘が思い浮かぶ。彼女は言っていた。神社に来いと。祭事の手伝いでもして自分の心に整理を付けてしまえと。
至極尤もな話である。眞緒も、観光客が祭りの手伝いをするという旨のことを言っていた。もしかすれば愛別離苦に嘆く者達のために、神社側が用意した催し――救済なのかもしれない。
絢哉は日記帳を置いた。時計を見れば十時を回ろうかという頃合いであった。今から神社に向かえば時間的にもちょうどいい。沙羅や雪彦に止められてはいたが、参列者の人数次第によっては神職――ニーロン様といったか――に頼んで、紗絵の声を降ろしてもらうのも良いかもしれない。




