3-5.いつまで経っても期待していた死の静寂は訪れなかった。
いつまで経っても期待していた死の静寂は訪れなかった。
首筋にじわじわと広がる鈍痛と無機質な耳鳴りがするだけであった。
一度崖から落ちて死にかけた絢哉は、障碍こそ残る可能性はあっても、命に支障はない程度の打撲でしかないと悟ってしまう。手脚は動く。痺れもない。意識も明瞭であった。半身不随は免れたようだ――と分かってから目を開ける。
草原に、仰向けに寝ていた。
生き血と死に血を混ぜたような空を背負い、誰かが自分を覗き込んでいた。
赤色の和装に、黒い髪の娘であった。一体何をそんなに心配しているのか、今にも泣き崩れてしまいそうな顔で己の身体を揺すっている。
――何かって、俺のことだよな。それなら起きてやらねば可哀想だよなあ。それにしても誰だこいつは。畜生、俺はまた死に損なったのか――。
纏まらぬ思考を放棄して、絢哉は上体を起こす。
体感では身を投じてから五分とも経っていない。
既に頸部の痛みも耳鳴りも消えていた。
厭世感と虚無感だけがあった。
泣けるものなら泣きたかった。
怒れるものなら怒りたかった。
「君は、どうしてここに?」
絢哉は平静を装い尋ねるが、娘は答えなかった。泣きそうな顔をしたまま。
「どうして死のうとしたのですか」
と強く聞き返した。
命の尊さを知る、人間らしい言葉であった。ここで絢哉は娘の名を知らぬことを思い出すが、今更尋ねる気にはならなかった。畢竟、全てがどうでも良かった。
「紗絵が待っているからだよ。紗絵は、俺が殺したようなものだ。だから、罪滅ぼしにもならないだろうが――死ねば、会えると思った。ずっと一緒だって約束したんだ。きっと紗絵も俺を待っている」
「そんなこと――」
「あるんだよ、それが。紗絵は俺の死を望んでいるんだ。あの世があるなんてどこまで本気で信じていいのか分からないが、俺は紗枝とそこで再会したいんだ。それが俺の勝手な思い込みだとしても、それならそれでいい。俺は、生きていくのに疲れてしまった」
「どうして。あなたは死んではいけない。あなたに会いたがっている人だっているのに」
「そんな奴いるものか。俺には紗絵しかいない。何より、日記を見たんだ」
「日記、ですか?」
「彼女が――紗絵が、生前書いていた日記だよ。恨み言というと誇張があるけど、俺が紗絵に寄り添ってやれなかったことが確かに書いてあった。だから、逃げ出してしまった。そうして町を歩いていたら思い出したんだ。昔、そこの櫓で将来を誓ったことを」
いつの間にか、名も知らぬ娘は絢哉の手を握っていた。その表情は真剣そのものであり、検察の聴取役にも児童相談所のカウンセラーにもできぬ真心からなる拝聴であった。
本来、絢哉が紗絵にとってやらねばならぬ態度であった。
「それがどうして、あなたが死ぬことに繋がるんですか」
「約束したんだ。ずっと一緒だって。紗絵が死んだ以上、もう果たせないものになってしまったが――俺が死ねば、彼女に会えると思った」
絢哉の披瀝に娘は何も語らなかった。何を言っても無駄だと見切りをつけてくれたのかもしれない。その無言が、絢哉には何よりも有り難かった。
どれだけその沈黙が続いたのかは分からない。鴉の声も遠ざかり、町の喧騒も消えてなくなり、互いの息遣いさえ聞こえぬほどの静寂に浸っていた。
居心地の良い世界であった。
こうして黙っているだけで、いつかは朽ちてしまえるような気さえした。
だが隣に娘がいる以上、それはできない。今更ではあるがもう夜である。己とは違い、彼女にはきっと帰る場所がある。待っている人だっているだろう。また年若い娘である。悪い輩に絡まれないとも限らない。
絢哉が握られた手を払えば、娘は俯いていた顔を上げる。
「俺のことは放っておいてくれ。君はもう帰るといい」
「あなたはどうするんですか」
「もう少しだけここにいる」
こうしていれば、いつかは土に還れそうな気がするのだ、と思った。言いはしなかったが。
「旅館に早く戻った方がいいのではありませんか。お嬢さんが心配しますよ」
「まあ、それはそうだろうな」
「あの子は、あなたのために多くのものを犠牲にしている。だからこれ以上、あの子を不安にさせないでください。私だって、あなたのことが気懸かりです」
「気休めなら結構だ」
「気休めなんかではありません」
「ならお人好しにもほどがある。君は、沙羅とは友達なのか」
娘は答えなかった。
黙殺した――つもりなのだろう。
「気を悪くさせてしまったら申し訳ありませんが――あなたは、もう死ねないでしょう。ですから、どうやって生きるかを考えるべきです。死に対する向き合い方をこの里にいる間に決めてはいかがです。それができたら、きっとあなたは生きることに前向きになれる。死んでいった者の分まで生きたいと思えるようになる。そもそも、あなたはそのためにここに来たのではありませんか」
「随分とまあ、知ったように言うんだな」
「事実、知っておりますから。大切な者を亡くした時の悲しみは、遅かれ早かれ、誰しもが、いずれは直面してしまうものです。一時だけなら悲しむのも良いでしょう。挫けるのも良いでしょう。ですが――そう腐るのだけはよしてください」
娘は立ち上がる。
絢哉の憎まれ口に嫌な顔ひとつせず。
よくできた人間なのだ、と絢哉は感心してしまった。
「あなたの言う通り、私は帰ります。ですが、沙羅さんを呼んできますから、ここで待っていてください。その間に、気持ちの整理をつけてしまいなさい」
去りかけた娘が振り返る。
「――明日、予定はありますか。ないのなら神社にお越しなさい」
異論は認めぬと言わんばかりの言い振りであった。
「それは、なぜ」
「お祭りの準備を手伝ってほしいのです。旅館に篭もって、自責に苛まれるよりは気持ちの整理の手助けになるのではありませんか。時間は昼頃がよろしいでしょう。――おや、浮かぬ顔をされておりますね」
「神社に行くのはよせと言われているもので」
「どなたが、そのようなことを?」
「沙羅と、雪彦だよ」
絢哉が答えれば、娘は頷いた。
「彼らには私から事情を説明しておきます。まずは、あなたの精神状態を優先させるべきでしょう。一応言っておきますが、二人には二人なりの理由があったものと思われます。意地悪であなたを困らせようとしたわけではないのでしょう。もし神社に行くのが角が立つという場合には、私のせいにしてしまいなさい」
「君を悪者にすることはできない」
「猫の世話を頼まれたとか、掃除や事務仕事を頼まれたとか、それらしいことを堂々と言えばいいのです。この里であなたと初めて知り合ったのは私ですから口を挟む者は誰もおりませんよ。出会い方は決して褒められたものではありませんが――いずれにせよ、あなたなら。あなただけは歓迎しますよ」
そう言って、今度こそ娘は去って行った――ように思う。
戻ってきた閑静に抗議するよう、絢哉の傍らで鈴虫が啼いた。
力尽きた絢哉は仰様に夜空を見上げた。自然と溜め息が漏れた。精神は極度の混乱と恐慌に陥り、指一本動かせぬほど疲弊していた。それなのに頭の片隅はどこまでも冷静を保ち――絢哉は己の輪郭を見失ってしまう。
――俺は何をしたかったのだろう。
このまま眠るように死んでしまえたら、さぞ幸せなことだろう。
そしてその先で紗絵と再会できるなら他に何もいらない。
都合の良い妄想であることは分かっていた。
だが、その虚妄は絢哉にとって確かな救いだった。
どれだけ夢に耽っていたかは分からない。
間近で土を踏みしめる音がした。
目を開ければ――沙羅がいた。
報せを受け、急いでやって来たのだろう。制服姿であるのも、学校から帰った直後であったのかもしれない。息を切らし、何が起きているのか分からないという顔でこちらを見下ろしている。
「――絢哉さん?」
間違いなく、その姿は沙羅のものである。
声も、容姿も、佇まいも。
だが絢哉には、どういう訳か、自身を見下ろす娘が紗絵に見えた。先程まで死者に会いたいという馬鹿げた逃避に浸っていたからなのか。あるいは極度の精神疲労により理性が現実の許容を拒んだのか――。
いずれにせよ。
絢哉は跳ね起き、紗絵によく似た娘を抱き寄せた。
娘は戸惑いの声こそ漏らしたが、抵抗はしなかった。
「紗絵。済まなかった、許してくれ」
絢哉は声を絞り出した。
伝えたいこと、伝えるべきことは山ほどあったのに、いざ言葉にしようとすれば、閊えたように何も言えなくなってしまった。
只々震える手で、細い身体を掻き抱くことしかできなかった。
娘も絢哉の背に手を回し、抱き返してくれた。
その控え目な仕草も、柔らかな手付きも、絢哉のよく知る紗絵そのものであるように感じられて――その時だけは、絢哉は誰よりも幸せだった。
・互いの息遣いさえ聞こえぬ静寂
・あなたはもう死ねないでしょう
・「紗絵」




