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3-4.絢哉が旅館に戻ったのは昼過ぎであった。

 絢哉が旅館に戻ったのは昼過ぎであった。


 塞ノ神神社の麓で雪彦と別れたのち、再び紗絵の面影を求めて里を彷徨(さまよ)っていたのだが、結局捉えた影は、商店街の橋で見た清流を見下ろす姿だけであった。


 窓辺の安楽椅子に身を沈めながら、絢哉は咥えた煙草に火を点けた。燐寸は戸棚に収められてあった。窓を半分開け、テーブルの上に灰皿を置くことも忘れない。

 点火した直後の濃厚な煙を吐き出しながら、絢哉はようやく紗絵の日記を開くことができた。あれだけ躊躇していた絢哉の背を押したのは、甘い芳香による恍惚(こうこつ)と、己は紗絵の知らぬ人間になり果てたのだという捨て鉢めいた感情であった。


 紙面には、彼女の人間性を示すかのような繊細な文字が敷き詰められていた。褪せた青黒のインクが物悲しさを助長させる、万年筆で書かれた手記である。かつて見た遺書と変わらぬものであった。


 記述は二〇一七年の元日から始まっていた。事実と行動に加え、それに伴う心情までを丁寧に述べた――どこまでも理路整然としたものであり、紗絵を知らぬ者でも、彼女の為人(ひととなり)を容易に掴めるようなものであった。紗絵を知る絢哉にとっては、ありありと紗絵の映像が浮かんで却って苦しかった。直近の二〇一九年から読み進めることにした。


 

          *     *     *



 二〇一九年一月一日火曜日。

 今日から二〇十九年。思い切って高価な三年日記を買ってから三年目。毎日欠かさずに続けているだけあって達成感はそれなりにある。これからも、中身のある充足した日々にしていきたい。

 中身といえば絢哉くんとの関係である。私の大切な恋人(改めて文字にすれば気恥ずかしいものである。けれど、ありがたいことに事実である)。私は今年で高校三年生。彼はひとつ年下の二年生である。家は近いけれど通う学校は違うため、会えない日も多いけれど、温かくて幸せな関係を守っていきたい。明日は絢哉くんと八幡宮に初詣に行く約束をしている。今から楽しみである。

 それともうひとつ。あまりこういうことを書くべきではないが、ひとつ懸念というか心配事がある。学校のことである。今は冬休みで授業も部活もないが、学校が始まることを思えば憂鬱で仕方ない。



 二〇十九年一月二日水曜日。

 今日は絢哉くんと久々に会って初詣に行った。絢哉くんが迎えに来てくれた。昨日見た天気予報では晴れだったけれど、朝から牡丹雪が降っていて、ふたりで笑ってしまった。「やっぱり降ったね」と(彼は日頃雨男を自称しており、デートの度にいつも雨か雪になってしまうのだ。まさか新年早々的中してしまうとは)。

 八幡宮まではバスで。混雑を避けるために二日にしたけれど皆考えることは同じらしく、やはり人で溢れていた。私は信心深いわけではないけれど、願ったのは私と彼がいつまでも一緒にいられることである。彼も同じことを思ってくれていたら嬉しい。

 初詣のあとは、近くのショッピングモールで昼食を済ませ、夕方まで買い物をしていた。

 どちらともなく近くの公園に寄った。ベンチに座り、肩を寄せ合って、何をするでもなくそのままでいた。いつものように彼の肩に頭を乗せれば、彼は私の髪を()いてくれた。

 冬のベンチは冷たかったけれど、絢哉くんの手は温かかった。幸せな時間であった。


 二〇十九年一月三日木曜日。

 お母さんから電話が来た。私とお母さんの関係は悪くはないが良くもない。それでも、かれこれ一時間ほど話していたと思う。内容を要約すれば「正月くらい実家に帰ってこい」。ただそれだけに尽きる。実母との会話がこんな事務的なのも寂しい気がするが、もう慣れてしまった。

 帰省については当然断った。別段、貴重な時間を使ってまで実家に戻る理由はない。

 というよりも。妹に合わせる顔がない、というのが最たる理由ではあるけれど。

 きっと、あの子は今でも私を恨んでいる。未来永劫、許してくれはしないだろう。

 これだけは絢哉くんにも言えない私の秘密である。もし知られたら、彼は私に幻滅してしまうだろう。いや、幻滅どころの話ではない。律儀な彼のことだから、私を捨てて妹を選んでしまうだろう。それだけは、嫌だ。

 

 ……。

 …………。

 

 二〇十九年四月一日火曜日。

 春休みも終わり、学校が始まってしまった。三年生に進級したところでクラス替えがあるわけでもなく、授業が受験対策ばかりになるだけの代わり映えしない生活である。

 問題は部活である。人間関係がうまくいってくれないのだ。男子は変わらずに優しくて気遣ってもくれるけれど、女子の皆は正反対である。惨めになるだけだからあまり書きたくないけれど、虐めを受けている。原因は大会のレギュラー争いだろうか。それか、私が気付かないうちに皆の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのかもしれない。

 それだけであればまだ良かったけれど、最近、顧問の先生が気持ち悪く感じてしまう。あの人が私に向ける視線に、生理的な嫌悪と恐怖を感じるのだ。私の自意識過剰で済ませられればよかったが、あの人には昔から良からぬ噂があるのだ。卒業していった先輩達も「顧問と二人きりになってはいけない」と何度も忠告してくれたし、突然部活を辞めてしまった子もひとりやふたりじゃない。

 この件を絢哉くんに相談したけれど、あまり真剣に取り合ってはもらえなかった。彼だって忙しいのだ。むしろ聞いてもらえずにいた方が良かった。こんな話、彼には聞かせられない。馬鹿馬鹿しいプライドと笑われるかもしれないが、彼の前では年上の綺麗な先輩という偶像を守りたいのだ。

 

 ……。

 …………。


 二〇十九年四月十日水曜日。

 何を書いたら良いのか分からない。駄目だ、何も書きたくない。


 二〇十九年四月十一日木曜日。

 学校を休んだ。こんなこと、誰にも言えない。一番に思い浮かぶのは叔母さんや絢哉くんだけれど、やっぱり駄目だ。相談しても迷惑をかけてしまうだけだ。何より、私自身が知られたくない。この日記は、彼との幸せな思い出を記すものにするつもりだったのに。どうしてこうなったのだろうか。

 

 ……。

 …………。

 

 以降は、死の決意と、それに伴う緻密な行動計画が述べられている。

 


           *     *     *


 

 長くなった煙草の灰が落ちたことで絢哉は我に返った。紙面に落ちた灰を手で払ったのち、短くなった煙草の火を揉み消して日記を閉じる。


 窓から見える空は、透けるような茜色(あかねいろ)に染まっていた。

 居室の振り子時計は、四時を回ったところである。


 全身の気勢が削がれ、今にも消えてしまいたかったが、それでも紗絵の日記を視界に入れていられず、逃げるように――否、逃げるために部屋を出た。一階の受付まで降りれば、ちょうど神社から戻ってきたであろう宿泊客がちらほらと見える。


 草臥(くたび)れた礼服姿の男性、空の乳母車を押した老婆、幼子を連れた母親、浮浪者の如し襤褸(らんる)を纏った老夫――老若男女問わず様々な者がいたが、絢哉はその光景に違和を抱く。


 どうにも、彼らと旅館が結び付かぬように思えたのだ。

 旅館に来る者は、温泉を楽しみに訪った幸せそうな家族連れでなければならぬという先入観があったのだ。事実、幼い頃、自分が父親に連れてこられた時には、子連れも多く、北東北の僻地とは思えぬほどに賑わっていたはずである。共に遊んだ子供達が親に話し掛ける何てことはない光景を見て、母親のいない自分を憐れんでしまう程度には。


 ――懐かしいな。


 もう十年以上も前になるだろうか。

 彼ら彼女らの名前も覚えていないが連中とはそう年齢も変わっていないのだ。もしかしたらこの里でまた会えるかもしれない。否、もしかすれば気付かぬうちにすれ違っていたのかもしれない。


 絢哉は利用客を後目(しりめ)に戸棚に収められた自分の革靴を取り出す。外出の際は受付に一声掛けるという規則は失念していた。頼りない足取りで、夕日の差す町を歩く。


 目的などなかった。

 強いて言うなら日記帳から一歩でも遠ざかることが目的であった。


 商店街に出れば、店の軒先には『宇霊羅式年祭』と書かれた多くの提灯が吊られている。ほのかに油と煙の匂いが漂うことから察するに電球の無粋な光ではない。死者を弔う、どこまでも優しく懐かしい、幻想に近しい炎であった。

 提灯にしがみ付いた一匹の夜盗蛾(やとうが)がその場で二三度羽搏はばたいたかと思うと地面に堕ちた。丸々と肥えた黒い腹を上に向け、毛の生えた脚でどうにか起き上がろうと藻掻いていたが、やがて諦めたように動かなくなった。

 絢哉は、哀れな蛾を助けようとも踏み潰そうとも思わなかった。放っておけばそのうち勝手に飛び立つのだ。起き上がれないとしても脚を()がれるか(はね)を千切られでもして蟻の餌になるだけである。


 絢哉は商店街を直進する。あちこちが店仕舞いを始めている。人影は絶え始めていた。田舎らしく夜が早いのかもしれない。否、深夜でも電灯を点けて活動をしている現代の価値観がおかしいのだ。人間は夜に眠り、朝に起きるようにできている。そういう生き物なのだ。


 ――黄昏時だ。もう、帰らなければ。現実逃避は十分だろう。


 西の空に沈みかけた夕日を見て、足が止まった。


 ――絢哉くん。良い景色だね――。


 脳裏に、鮮烈な原風景が蘇る。


 酸漿色(ほおづきいろ)に輝く夕焼けを背景(バツク)に、幼き日の紗絵が笑みを振り撒く。

 頬を撫でる晩秋の風も、鼻腔を抜ける夕暮れの匂いも、神社から響く祭り囃子も――絢哉は明瞭に覚えていた。

 片思いをしている娘と二人きりになれた状況に対する胸の高鳴りも。この場が、里を見下ろせる火の見櫓の見張り台であることも。日頃立ち入りを禁じられているところゆえ、誰かに見られやしないかという少々の懸念すらも。


 これは――十年前の記憶である。

 秋の連休に父親に連れられ、紗絵に会った時の出来事である。


「二人きりになれたね、やっと」


 幼き頃の紗絵が言った。

 つい先刻まで、近所の子供達を交えて野原を駆け回っていたが、家族が待っているという理由でひとりふたりと欠けていき――最後に残ったのが絢哉と紗絵であった。


「私ね、お母さんにお願いしているの。中学生になったら盛岡に行きたいって。だって、この里からじゃ中学校が遠いんだもの。きみだっていないし」


 記憶の中の紗絵は、ポケットから細長い石を取り出した。その石で、支柱に向かって何かを書き始める。それが何かは絢哉の立ち位置からは見えなかった。


「あのね。私、きみに、言いたいことがあるの」


 紗絵が、落書きを隠しながら振り向いて。


「絢哉くん、私のこと、好き? 私は好きだよ。君のこと。だから――」


 息を継いだ紗絵は、大きく咳き込んでしまう。

 肺の深い箇所からこみ上げる湿った咳であった。


 大丈夫、と絢哉が聞けば、気にしないで、と紗絵は苦しそうに答えた。続けて。


「結婚式しようよ」


 と言った。


 その時、己が何と返答したのか絢哉は覚えていなかった。子供ながらに、好いている娘に想いを告げられ、顔が火照(ほて)ってしまったことと、結婚という大人びた単語に戸惑いを抱いたことだけは覚えていた。


「――良かった。じゃあ、これを持って」


 紗絵は、絢哉に石を握らせると、数歩横にずれた。


 白く塗装されていた柱には相合い傘が描かれていた。軸の左側には『紗絵』と書かれているが、右側は空白であった。そこに名前を刻めと言いたいのだろう。


 当時、まだ優等生であった絢哉にとって、火の見櫓という里の重要な施設を傷付けることは勿論、しかもそこに自分の名前を残すなど、あってはならぬことであった。だが、紗絵の願いを断り、彼女との関係に亀裂を入れてしまうことの方が余程、事であった。


 絢哉は、()くあるべきという規範を捨てて紗絵を選んだ。

 何かを犠牲にして、他者の想いに応えることの尊さ――あるいは禁忌を犯すことの快感に――絢哉は魅了されていた。


 絢哉が石を置けば、紗絵は満足そうに笑った。

 小さな手には半鐘を鳴らすための木槌が握られている。


「約束して。私はきみと一緒にいたい。きみも、そばにいてくれると嬉しいな。今はまだ子供だけれど――大きくなったら本当に結婚しようよ」


 そこまでを言うと、紗絵は右手に持った木槌を掲げて――三度、半鐘を鳴らした。


 ようやく絢哉は紗絵の目的を察する。

 ウェディングチャペルである。

 彼女は教会で行われるような結婚式を模したのだ。


 尤も、会場は教会でも礼拝堂でもなく、また神父や牧師といった司祭もいない。飛び立つのは白い鳩ではなく、(ねぐら)に帰る鴉ばかりである。

 だが、二人にとっては些事であった。

 時間と場所、そして想いを共有しているだけで良かったのだ。少なくとも絢哉は本気で約束を守ろうとしていたし、紗絵もそう思ってくれているだろうと信じていた。二人の関係が永久に続くものと信じて疑いもしなかった。


 ――だが、実際はどうだ?


 遠い過去に浸っていた意識が現実に引き戻される。

 夢のような光景であった。

 当然、鐘の音を聞きつけた大人達にすぐさま見付かり、酷く叱られもしたが――それでも絢哉にとっては貴重な思い出のひとつであった。貴重であるだけで、口が裂けても良い思い出とは言い難いが。何せ、あの時交わした約束は、紗絵が死んだ以上果たしようがなくなってしまったのだから。


 ――いや、本当にそうか?


 今からでも、約束を守る方法があるのではないか。

 稲妻の如し閃きが絢哉を貫いた。

 紗絵が今でも俺を待っているなら、俺が迎えに行けばいいのだ。わざわざ神社を頼るほどのことでもない。ここまで落ちぶれた身である。今更、禁忌も糞もないのだ。罪滅ぼしにもなろう。否、生きる熱量など疾う昔に削がれていたのだ。己のような極悪人など一刻も早く死んで然るべきである。


 一度決意すれば、それからは早かった。胸に宿った正義感に突き動かされるまま、絢哉は夕闇に半ば浸かった商店街を駆け抜ける。誰かに呼び止められた気もしたが――意識を割く余裕はなかった。白昼夢の如し浮かび上がる、幼き頃の紗絵と己の虚像を追うことで精一杯であった。


 彼らに(いざな)われるように路地を抜け、畦道(あぜみち)を走り、見晴らしの良い草原に出る。二人の幻影は、笑い合いながら山の麓に建てられた火の見櫓まで駆けて――消えていった。


 火の見櫓は、ビルに例えれば三四階程度の高さであった。

 基礎は混凝土(コンクリート)で固められ、(リベツト)で固定された鉄骨造りである。上半身が白、下半身が赤に塗装されているのはここが雪深い地域ゆえ、視認性を求めたからであろう。真っ直ぐ伸びた梯子は手摺りのついた見張り台まで続き、中央には青銅製の半鐘が吊られている。六角形をした屋根の頂点には、龍を模した風向計がくるくると回っている。

 幼少期の記憶よりも規模(スケール)が小さく、また今にも崩れてしまいそうに見えるのは、己も櫓も歳月を経てしまったからであろう。

 櫓の真横には、詰所もしくは物置として使用されているであろうプレハブ小屋が建ち、閉ざされた灰色のシャッターには『宇霊羅消防分隊』と赤文字が吹き付けられている。


 近傍に人影はなかった。世界から弾き出されたかような錯覚を抱いてしまうが、却って都合が良かった。追憶に浸るには第三者など邪魔なだけである。


 迷いのない足取りで櫓に近付いた絢哉は、塗装の剥げた梯子を登っていく。

 見張り台に立てば――黒紅色(くろべにいろ)に呑まれた宇霊羅の里を見渡すことができた。一望とまではいかないが、里は平屋ばかりであるため非常時の監視は果たせるであろう。今も現役なのかは怪しいところであるが。


 目を皿のようにして支柱を調べれば――あった。

 落書きは残っていた。

 (つたな)い直線で、塗装の表面をなぞっただけの記号と文字は残っていた。

 辛うじて絢哉と紗絵の名前が読み取れる。それだけではない。傍らには石が落ちていた。間違いなく、あの日紗絵から渡された細長い石である。


 当時は大きく感じたが、今では掌に収まってしまう。

 よくぞまあ、こんな小さな石で書いたものである。そもそもここは高所である。子供なら怖がって来ることもままならないだろう。梯子を登る最中、足が竦んで動けなくなってもおかしくない。

 それなのに、紗絵は俺を連れてきてくれた。

 彼女の甲斐甲斐しさ、ひたむきな愛情、拙いながらも誓いをしようとしたこと――本当に立派なものである。

 涙が涸れ果てた今となっては目頭が熱くもならない。だが、そんな彼女に報いてやるべきだと絢哉は思う。そして、己が捧げられるものはこの安い命だけであるとも。


 そう思った時には手摺りの上に立っていた。今度はヘルメットもプロテクターもない。高さが不足していることと、下が柔らかい地面であることが不満であったが、落ち方さえ間違わなければ十分に死ねるだろう――。


「紗絵、会いに行くよ」


 自然と声が出た。掠れても震えてもいなかった。身体が前傾して、頭から矢のように落下して――数瞬の浮遊感に包まれたのち、顔面から地面に激突した。

・紗絵を知らぬ者でも、その為人を掴める程度には詳細に書かれた日記

・いつものように彼の肩に頭を乗せれば

・子供の頃に遊んだ仲間と、また会えるかもしれない

・肺の奥から込み上げる湿った咳

・顔面から激突

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