3-3.そこからは互いの身の上を語り合っていた。
そこからは互いの身の上を語り合っていた。
絢哉は、恋人がある事情で自死したことを。それが許せず関与した者達に報復したことを。結果、重苦しい虚しさと退学処分という事実しか残らなかったことを。現実を受け止められず煩悶した末、知人から藤ヶ谷旅館での休養を勧められたことを。バイクで向かう最中、白猫を抱いた娘を回避した結果、崖から落ちてしまったことを――。
雪彦からは、自身が里外れに住み、そこで診療所を営んでいることを。民俗学の研究を趣味としていることを。大昔、実地調査でこの地に来た際、居心地の良さのあまり住み着いてしまったことを。出会った娘と昵懇の間柄になり婿入りしたが、結核を患い死別してしまったことを――。
絢哉は、紗絵のことは勿論、己の心中までを語るつもりはなかった。だが雪彦の姿勢――一定の距離と節度を保った傾聴に促され、語るべきではないところまで語ってしまった。だが、それを失態とは思わなかった。
絢哉にとって青年が醸す空気は好ましいものであり、いずれこの男とは唯一無二の親友となり得るだろうという予感すら抱いた。
尤も、その友誼と感動をあえて伝えるつもりはなかった。所詮、境遇が似ているだけである。同情と思われたくもなかった。他人に期待することの愚かしさも既に知っていた。
「渡会君。君は、死後の世界を信じるかい?」
ある程度は語り尽くしただろう、と絢哉が停滞を感じた時、雪彦が聞いた。
「まるで宗教の勧誘みたいな台詞だな。信じているよ。信じていなかったら、ここには来なかったさ。まあ、俺は基督教徒でも仏教徒でもないけどな」
「断言するんだね。どうしてそう思うんだい?」
「寂しかったから、かな。俺は今でも、紗絵がここではないどこかに存在して、俺を見守ってくれていると信じている。いや、そう信じていたい。それに――夢を見たんだ」
「夢?」
何が気になったのか、雪彦は絢哉の顔をまじまじと見る。
「ああ。餓鬼の頃、旅館に行った時の夢だよ。廊下で走っていたら転んだようでな。立ち上がろうと顔を上げたら屏風があった。詳しく知らないが日本神話の一場面だったと思う。死んだ妻を連れ戻すために主人公があの世まで行く話。屏風の中では、どういう訳か主人公の方が女に追い駆け回されていたみたいだけど。しかし、当時あんな屏風を見た記憶なんてなかったと思うんだがな」
絢哉が無残絵の構図と詳細を語れば、納得したように雪彦は頷いた。
「――ふむ。それはきっと、それは伊邪那岐命と伊邪那美命の、国生みの話だね」
「詳しいな。知ってるなら教えてくれないか」
「うん? それは構わないが、君もある程度は知っているんじゃないのかい」
「それがよく知らないんだ。興味のある分野ではあるけどな」
「そうか。今はもう皇国史観なんて時代じゃないもんな。学校教育で神話を扱わないならそのようなものか。ならば少々ばかり語らせてもらうが、どこから話したらいいものか」
あまり詳細に語っても退屈だろうからな、と雪彦は首を捻る。
「男神イザナギが、女神イザナミと我が国を創造したのだ。古事記流に言えば――天地開闢の際に現れた別天津神に命じられて、イザナギとイザナミの二柱は天浮橋に立ち、天沼矛で地上をかき混ぜる。そうして淤能碁呂島を作った二柱は、イザナギから誘い、目合うことで大八島を生み出していった。順番は――淡道之穂之狭別島、伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島、大倭豊秋津島――更に六つの島を生むのだが、まあここは割愛してもいいだろう。ここまでが国生みで、次は神生みの場面となる。二柱は自然にまつわる数多の神々を生み出すのだが、火の神である火之迦具土神を生んだ際、イザナミは陰部の火傷が原因で死んでしまう」
「ほと?」
「陰部、即ち女性器のことさ。ああ、気持ちは分かるが怪訝な顔は止してくれ。神代ないし古代において性行為ないし出産というものは命懸けで神聖なものだ。鄙俗でもなければ淫靡でもない。ゆえに性を主題とした神事などさして珍しくもないのだよ。尤も、出産が比較的安全となった現代では奇異の目で見られてしまうがね。とにかく出産において母体が死んでしまうのも当時を考えればそう珍しくもない発想なのだ。話を戻すが――妻の死因となったカグツチは、怒ったイザナギによって殺されてしまう。まあ、当然だね。我が子とはいえども妻を傷付けた者を許す夫など存在してはならないのだからね」
雪彦は強い言葉遣いで説いた。長椅子の背凭れに上体を預け、ぐいと背筋を伸ばす。
「ここからが本題だ。妻を喪ったイザナギは、彼女を取り戻そうと黄泉の国を訪うのだ。寝殿の中にいる妻に『共に帰ろう』とイザナギが乞えば、『黄泉の神々に相談する。その間、決して私の姿を見てはなりません』という返答がくる。だがイザナギがいくら待っても妻は戻らない。痺れを切らしたイザナギは妻を追って寝殿に入り――見てしまうのだ。妻の変わり果てた姿を。身体から蛆が湧き、醜く腐り果てた姿だ。驚き戦いたイザナギは逃げ出してしまう。恥をかかされたと怒ったのはイザナミの方だ。雷神と黄泉醜女を追手に放ち、自身も追いかけるが――イザナギは千引之岩を動かして、黄泉へと続く道を塞いでしまう。イザナミは『愛しい夫よ。こんなにも酷いことをするなら、私はあなたの国の人を一日千人殺しましょう』と言い、対するイザナギは『愛しい妻よ。それならば私は一日に千五百の産屋を建てよう』と返すのだ。まあ、ざっと語ればこのようなものだろうか。大部分を端折ってしまったが――中々よくできた話だろう?」
雪彦は満足そうに頷いてみせる。
「勉強になったよ、ありがとう。しかし何と言うべきか」
「どうしたそんな顔をして。分かりにくい部分でもあったかね」
「いや。ただ――複雑だな、と思ったのだ」
「複雑かね? 妻を喪った男の悲哀といい、禁忌を犯された女の復讐といい、鬼気迫る男女の愛憎と手に汗握る逃亡劇があって、結末には人間の生死が隔てられたという理由まで持ってくるのだから、流石神話なだけあってよくできていると僕は思うけどな。禁室型の神話ないし民話のひとつで鶴之恩返や蛤女房、浦島太郎なんかもそれに類するものだね。旧約聖書の創世記や、ギリシャ神話にも似通った話があったはずだぜ」
雪彦は専門家らしく言葉の端々に熱を忍ばせる。
絢哉が感じていたのは神々に対する不憫であった。
妻を亡くしたイザナギに対しても、腐敗した恥ずかしい姿を夫に見られ、しかも逃げられてしまったイザナミに対しても。互いを愛しく想いながらも――否、想い合ったがゆえに大岩を隔てて道を塞いだという救いのない結末も。
絢哉は無意識のうちに、己と紗絵を神話の二柱に重ねていた。死者を冥界まで迎えに行く行動力には感銘を受けた。死穢に呑まれた妻を見て逃げ出した臆病さには侮蔑を覚えた。己なら紗絵がどんな姿になり果てようとも抱き締めてやれると思った。紗絵が望むなら黄泉路の涯で共に在りたいとすら思った。
「話を戻すが――この国の神話に、あの世があるって書かれているんだ。だからまあ、信じてみてもいいかなと思うんだ。どうせあの世の存在証明なんて誰にもできやしないんだ。正直、あの世とか宗教なんて、どうにも胡散臭くて自分には必要ないものだと思っていたけど――それは大間違いだったよ」
こと一神教における原理主義的信仰は時に紛争の火種ともなり、平和維持の妨げになる以上、人間には不要なのではないかと懐疑を抱いていた時期すらあった。
「なるほどね。確かに、宗教が何のためにあるのかと問う者は未だ宗教を必要としていない者だろうね。無論それ自体に善し悪しがあるわけではないのだろうが――僕が思うに、宗教というものは、その当事者が何かに縋りたくて、足掻いて苦しんで途方に暮れてしまった時に、するりと胸の中に辷り込んでくるものだ。その一筋の光明が燦然と輝いて見えてしまうのだから実に不思議なものだよ。無宗教のまま生きて死ねるほど、人間社会は生温いものではないということの証左なのかもしれない」
「無宗教のまま生きて死ねるほど人間社会は甘くない、か」
「どうしたんだ」
「感心したんだよ。含蓄あることを言うじゃないか」
絢哉には、雪彦の発言が、実体験に裏打ちされたもののように聞こえた。
「宗教談義はひとまず置いておくとして、それよりも夢の話だ。君は屏風を見て――それからどうなったんだい?」
「助け起こされて、部屋に戻っただけだよ。面白い話じゃない」
「誰に助けられたのだね」
「紗絵にだよ。話の筋からして分かることじゃないか」
「そう言わないでくれよ。君にとって大切なことなのだから」
宥めるように雪彦は言った。
「君は、どうして助けてくれた彼女を、紗絵君だと判断したんだね」
「見ただけで分かるよ。長年付き合っていた彼女の顔だ、分からない方がおかしいよ」
「子供の頃の夢だろう? それなら彼女も幼い姿をしていたはずだ。よく分かったね」
「――いや、違う。紗絵は死ぬ直前の――今の俺とそう変わらない見た目だった。まあ、仮令幼い姿でも一目で分かるけどな。真っ白な死装束を着ていた」
「死装束?」
雪彦はさも意外そうに片眉を上げた。
「まあ、襟の合わせまで確認したわけじゃないけど白い和装だったからな。夢なんて得てしてそんなものだろ」
「――ふむ、なるほどな」
「夢を見ながら、俺は過去の光景であると同時に、紗絵が気遣ってくれたと思ったんだ。それで――紗絵と一緒に部屋に戻って終わりさ。言ってしまえば都合のいい妄想だよ」
「夢の中の紗絵君は、何か言っていたかい?」
「今日は一緒に寝ようと言ってくれた」
「へえ。年若いお嬢さんと同衾できるなんて羨ましい限りだ。不躾な質問で悪いが、実際に紗絵君と閨を共にしたことは?」
「いや、一度もなかったよ。だからきっと――俺の醜い願望なんだろうよ」
「なるほど、相分かった。聞いてばかりで悪かったね」
腕時計を一瞥したのち、雪彦は立ち上がった。
「行くのか」
「休憩も終わる頃だからね。諄いようだが神社に行くのはもう少しばかり我慢してくれ。きっとあと数日もすれば、僕の言わんとしていることも分かってもらえるだろうから」
「まあ、考えておくよ」
絢哉の返事に、玉虫色の答えだな、と雪彦は苦笑する。
「あとは、そうだな。何か困ったことがあれば僕の診療所に来てくれ。話し相手くらいにはなれるだろう」
「医者がそれでいいのかよ。開業医ってのは忙しいんじゃないのか」
「生憎ここの住人は皆健康体で僕の出番などそうそうないのだ。本を読んで、助手と雑談するくらいしかすることがない。何もなくとも君さえ良かったら外の話でも聞かせてくれ」
雪彦は白衣を翻して去ってしまった。
絢哉が葬列に視線を戻すと、人が流れたのか既に女の姿はどこにもなかった。
・結核を患った末の死別
・無残絵を見た記憶はない




