黄色のカレーと二人の覚悟
それは夏の豪雨を思わせるような雨だった。
降り落ちる雨が雨樋の薄いトタンに当たって響く。まるで滝のような雨だ。
そんな雨音だけが響く中、突然家に押しかけた女子高生は廊下にべたりと座りんでいる。仕方なくタオルを差し出せばそれで顔を覆い隠し、口もきかずもう15分。
彼女の顔を見た瞬間、私はまず焼き肉の焦げた香りを思い出した。もう今は聞こえない夏の虫の声も、夏の日差しの鋭さも思い出した。
彼女はあの熱い夏の夜、マヨヒガさんを化け物と呼んだ。
私は濡れた廊下を拭きながら、彼女の白い横顔を盗み見る。
今日の彼女は着崩した制服ではなく、私服だ。
短いスカートに夏仕立てのシャツは雨で体に張り付いているし、長い金髪も雨水でびしょ濡れだ。薄暗い室内で輝く金髪は、雨に濡れたゴールデンレトリバーの毛並みによく似ている。
「なに」
私の視線を鬱陶しがるように、彼女はタオルの隙間からこっちを睨む。それはまるで警戒心の強い猫の顔。
「何見てんの?」
「……大昔、付き合ってた人が犬を飼ってたの。それがゴールデンレトリバーで、水遊びが好きで」
「は? 何それ……」
廊下に点々と残る水滴の跡を拭いながら私はつぶやく。彼女は……いつから外にいたのだろう。
雨が降る中、彼女は雨宿りもせずにこの家に来た。何か覚悟を決めた顔だった。
……だから、招き入れてしまったのだ。
「あなたの髪。濡れてる髪が犬っぽいなって思っただけ」
私の突拍子もない言葉に、彼女はまず驚くように目を丸める。
私の言葉で緊張と警戒がとけたのか、彼女の肩のこわばりがゆるくなる。泣きそうなのか笑いそうなのか、分からない顔をする。
やがて彼女はタオルをつかんだまま、ゆっくりと壁を見上げた。
「ここ、塗り替えたの?」
……そこは、階段そばの壁だ。私が入ってきたとき、その場所に小さな傷があった。まるでタンスか何かの角をぶつけたような深くえぐれた跡だった。
マヨヒガさんと会話が交わせるようになってすぐ、私は最初にそこを治した。
引っ越し当初は「味のある傷」と思った箇所が、心が通じ合うことによって「怪我」に見えてしまったのは不思議なことだ。
彼女は無言のまま壁を見上げ、そして冷たいその場所に指を這わせる。
素人仕事なので、その場所だけ色が違って見えるのだ。色の違うところを彼女は冷たく見つめた。
「塗り直してるんだ。ふうん」
「ねえ、家に入れてあげたんだし、名前くらい名乗ったら? それになんで来たのかも……」
彼女は真剣に壁を見つめている。訪問の目的も意図も何も分からない。
なぜ彼女はここにいるのだろう。なぜ化け物と言い放った。この家に。
「ねえ、ちょっと、聞いてる?」
「なんでここの傷、修理したの?」
彼女は壁に手を押し付けたまま、こちらを見た。力強い目だった。
「結構えぐれてたでしょ」
「なん……で、知ってるの?」
雨の音がますます強くなる。
マヨヒガさんが、かすかに熱を持った気がする。
「佐々木」
「……え?」
「あたしの、名前」
彼女は、雨に負けそうなほど小さな声でつぶやいた。
「……ここ、婆ちゃんち」
マヨヒガさんを叩きつける雨の音は、まるで夏に聞いた豪雨の音だ。
「あんたに婆ちゃんちから出て行けって、言いに来た」
それは、マヨヒガさんと過ごした台風の夜を思い出す音だった。
ことことと、温かい音が響く。
キッチンのコンロに置かれた大きな鍋に揺れるのは、鶏肉、人参、じゃがいも、玉ねぎ。
たっぷりの湯気をあげるスープに、ぽとりぽとりとカレールーを落としてやれば、一面、カレーの香りが広がった。
ほとんど完成に見えるその鍋の中に、私はあさりの缶詰を汁ごと滑り込ませる。雨の日のカレーには『魚介の味』を潜ませる。それは死んだ祖母との約束だった。
思えば、祖母は私に一般的な約束をしなかった。
真面目に生きなさいとも、普通に生きなさいとも、友達を作り恋人を作り結婚をしなさいとも。祖母は私の生き方を、何一つ指示しなかった。
約束は唯一つ。カレーの作り方だけ。
「……」
カレーの匂いが部屋中に広がると、女子高生……佐々木さんは膝を抱えたまま、ようやく低く唸った。
彼女は私に名乗りを上げたあと、口をきゅっと結んで目を尖らせて胸を張ったのだ。
私が何を言い返すかと怯えつつ、しかし臨戦態勢を整えていた……その若い勢いが、逆に私を冷静にさせた。
私は彼女をするっと無視して無言のまま、台所に滑り込んでカレーを作ったのである。
思考回路を整理したいなら、料理が一番だ。切って炒めて煮込んで焼いて。嫌でも手を動かさなければ料理は完成せず、その間、考えることしかできない。
そうして私が無言をつらぬけば、佐々木さんも片意地を張るように頑なに口を閉ざす。
無言の間はおよそ1時間。
先に音を上げたのは、彼女の方だった。
「……いきなり料理、始めるとか、頭がおかしいんじゃない?」
「それを言うなら、いきなり家に来る方もおかしいんじゃない?」
鍋底をさらうようにゆっくりカレーを混ぜると、どんどんと香りが広がっていくのがわかる。野菜とスパイス……遠いところに、海の香り。
やはり雨の日とカレーは相性が抜群だ。
「なんで料理なんて……」
「晩ごはんの時間が近いからに決まってる。あなたはご飯を食べない人?」
「ばか」
悪口の語彙が消え失せたのか、彼女は小さくばか、ばかと何度もつぶやく。そして泣きそうな顔で縮こまる。
私はそんな彼女を横目でみた。
(佐々木さんの、お孫さん……か)
金髪、小さな顔に、痩せボッチの体。頑なな目つきに、こわばった頬。彼女が放った「お婆ちゃんの家」の一言に、私の心が揺れたのは確かだ。
その瞬間、祖母と暮らした古い家の香りを思い出した。
……もしあの家が今も残っていて……私の意志に反し、誰か別の人が我が物顔で住んでいたら……もしまだ私が幼ければ……追い出そうとするかもしれない。化け物屋敷と言うかどうかはおいておいて。
「婆ちゃんも、カレーが得意だった」
ふと、彼女が鼻を鳴らす。
「……牛乳が、たくさん入ってて……黄色くて」
その言葉に、感銘を受けたわけではないが、ただなんとなく冷蔵庫に手が伸びた。中に入っていたのは、あとコップいっぱい分だけ残っていた牛乳だ。
それを鍋に落とすと驚くほど淡い黄色になる。
これが佐々木さんのカレーの色だ。
「給食カレーの色みたいだね」
「……食べたこと無い」
「給食なかった?」
「……学校、サボってたから」
ぽん、ぽん、と雨樋から雨の垂れる音が聞こえる。
その音に惹かれるように佐々木さんが顔を上げた。きれいな金髪が乾いてさらさらと顔の横を流れていく。尖った顔だが幼い。学校をサボって、彼女はどこにいたのだろう。
……きっと、この家だろう。お婆さんの隣だろう。
私はなんとなく、そう思った。
マヨヒガさんが頑なに無言を貫いているのも、彼女のことを知っているからだ。
「あの噂、流したのあなたでしょう」
私がふとつぶやくと、彼女の頬がひくりと揺れる。
「この家の、噂」
重ねて尋ねると、さらに彼女の顔色が変わった。それは肯定の証だ。
「……なんでそう思うの」
「あなたがここに来たあとから、噂が広がった。そのタイミングが同じだったから。お婆さんの家に知らない人が住んでるのが嫌だった? きれいに使ってると思うけど」
彼女の指が床をがりりと掻く。
「誰もここ、借りなくなれば、親父が潰すって言ってたのに……あんたがずるずる住んでるせいで潰せないじゃん」
佐々木さんはぼそりとつぶやいた。その声には憎しみがある。私はおや、と心の中で首をかしげた。
「私をこの家から追い出して……この家を取り返したいんじゃないの?」
「いらないよ、こんな家」
憎らしそうに吐き出した言葉は、彼女の本音だ。その冷たい声に私の背がぞっと震える。
「化け物屋敷って脅せば出ていくと思ったのに、出ていかないし、そうしてたら学校の馬鹿があちこちで噂広げちゃうし、最悪。あたしはここを潰したいだけなのに」
「潰したい? ひどいこと言わないで……なんで?」
私の言葉に、彼女は何も答えない。ただふいっと応接間を覗き込み、眉を寄せる。
「障子破れてんじゃん。直せないなら住むなよ。婆ちゃんはきれいにしてた」
「廊下の傷、治してなかったくせに」
「あ……あれは婆ちゃんが引っ越すときに、あたしがぶつけたの……傷を、つけてやろうと思って」
かすかに凹んだ壁を思い出すと、胸の奥がきゅっと痛くなる。
それを飲み込んで、私は大きな皿に炊きたてのご飯を盛った。カレーをたっぷりとかける。米に染み込んでいく黄色のカレーは、やはり家の中を海の底のような香りに変える。
「食べていいよ」
カレー皿を机に置いて、私は彼女の腕を引っ張る。抵抗は少しだけ。無理やり椅子に座らせると、彼女の頬が震えた。
彼女に構わず、私は自分用の皿にカレーをついだ。大きなじゃがいも、大きな人参。その合間に見え隠れするアサリの白い粒。
「いただきます」
彼女を無視してカレーを噛みしめると、できたての熱い味がする。牛乳を入れると、少し甘くて、具にもとろみが付くのが不思議だった。
「……牛乳入れるのも、いいかも」
「出て行けって言ってんのに、おかしいんじゃない? あんたって、いつもそうなの?」
「そう、って?」
「怒らないの?」
「怒られたいの?」
「馬鹿にされてる気がする」
よく言われる。と言いかけた言葉を飲み込めば、代わりにため息が漏れた。
「怒らないのも、カレーを出すのも、あなたに聞きたいことがあるから。この家のこととお婆さんのことを聞こうと思ったの……でも今は」
カレーの隣には、よく冷えた水。スプーンも添えて。
「……なんでそんなにこの家のことを悪く言うのか、教えて」
私は彼女の目を見つめてそういった。
まるで飢えた猫の子のようにカレーを食べたあと、佐々木さんは糸が切れたように眠ってしまった。目の下にクマが見えるので、もしかすると長い間眠れていなかったのかもしれない。
結局、彼女は私の質問には答えない。
机に突っ伏して眠る彼女にタオルケットをかけて、私はため息交じりに縁側に出る。雨はまだ強く、跳ね返った冷たい水が体を濡らす。
「メイ」
……と、マヨヒガさんの声が聞こえた。
声が聞こえなくなり、たった数時間。しかし声が聞こえると、まるで数日ぶりに会えたようにホッとする。
「お客さんのこと、気にしないでね。起きたらすぐ外に」
「私は……本当に、メイの幸せを願っている」
台所の鍋からは、まだ白い煙が上がっている。台所は温かいが、縁側に出ると足先が冷えた。雨の音は夏のようでも、季節は確かに秋だ。春から夏、夏から秋。
私とマヨヒガさんが出会って、3つ目の季節に向かっている。
違う。まだ3つ目の季節だ。私とマヨヒガさんは、これからもっと多くの季節を迎えるはずなのだ。
「メイに何をすれば、喜ぶのか、ずっと考えて……」
「私も同じだよ。マヨヒガさんの幸せを……」
「私はその子が羨ましい」
マヨヒガさんは私の言葉を遮った。こんなことは初めてだ。
「メイのそばに、いられる」
「何……」
「メイが恋人だった、と語った人間のことも、羨ましい」
「そんな」
「メイのことを抱きしめられる」
「私は、今のままが……」
雨の音がうるさく、私は首を降る。雨のせいで、マヨヒガさんの声が途切れてしまう。
「私は今のままで、幸せで」
「私は化け物か」
しかし、そんな雨の中でもその言葉だけははっきりと聞こえる。
マヨヒガさんの言葉に、私は拳を握りしめた。
「違う」
「……メイ。私は、きっと化け物だ」
その言葉を聞いて、私の足から力が抜けた。座り込みそうになるのを耐え、壁によりかかる。
初めてマヨヒガさんに声をかけられた、あの日も確かに恐ろしかった。
しかし、今はあの時より更に恐ろしい。足が震えてまっすぐに立てない。
「……化け物じゃない」
ああ、とうとう恐れていたことに気づかれてしまったのだ。
慌てて壁に手を当て、床を撫でる。しかし彼はいつものように優しくは答えてくれない。
「化け物じゃないよ、マヨヒガさん」
「最初から話しかけるべきではなかった。声をかけるべきでは……」
「違う」
「私が、メイを迷わせた」
「違う」
雨が……唐突に上がった。そのせいで、マヨヒガさんの声がいつもより大きく響く。
「メイは、人ならざるものの執着を知らないんだ」
「ねえ。誰と話してるの」
そして、その声は、佐々木さんにも聞こえてしまった。
「やっぱり……この家は化け物なんだ」
振り返ると、金の髪が震えているのが見えた。
「婆ちゃんは不良でもいいって。学校いかなくてもいいって、あたしのこと、バカにもしなかった。でも……この家で過ごすうちに、段々と、眠るようになって」
佐々木さんは床にうずくまり、震えている。先程までの尖った態度は消えてしまった。恐怖に足が動かないのか、震えたまま涙が頬を伝う。
彼女は私の腕を恐ろしい力で掴んだ。
「……今、あたし寝たよね。今みたいに、急に眠くなる。気を失ったみたいに、婆ちゃんも毎日、毎日、すごく長く寝るようになって」
「寝る……?」
私はふと、思い出す。この家に来てよく眠れるようになったこと。井口さんが「すごくよく眠れた」と喜んでいたこと。
「病院行っても何も悪い結果は出ない。でもすぐ寝ちゃうんだ」
「別に寝るくらい……」
「それで、心配になって、家まで見に来たら……誰か知らない人と喋ってた。今みたいに……」
「それは」
「お婆ちゃんは独り言だって言ってたけど、でも違う。だって、その後いきなり引っ越しするって、施設に行くって全部自分一人で決めて……それで、引っ越して」
佐々木さんの爪ががりりと私の皮膚を刺す。
「すぐ、死んじゃった」
ふ、とマヨヒガさんが揺れた気がする。緩やかに、まるで悲しむように。
佐々木さんは怯えるように私の体にぎゅっと抱きつく。
恐ろしいほど熱い体温だった。人の体温はこんなにも熱いのだ……と、冷静な自分が考えるのがわかった。
「……きっと、お婆ちゃんは、この家に殺されたんだ」
私はふと想像する。
縁側でマヨヒガさんに語りかける女性の姿。台所で、廊下で、庭で、この家を愛した女性の姿。
家の秘密が漏れそうになったとき、彼女は覚悟を決めたのだろう。
彼女の覚悟は、マヨヒガさんから離れること。そして手紙を残すこと。
……次の人が、マヨヒガさんを守ってくれるように。
「あんたも死んじゃうんだ。この家に、取り憑かれて……だから早く、逃げて」
彼女の爪に刺されたそこが赤く滲んだ。
「お願い……だから、逃げて、お願い……」
私の腕をつかみ続ける彼女の手をそっと握りしめた。
……私なら、どうするだろう。秘密が漏れそうなとき。
「聞いて」
藤色の老婦人は「人は死んでしまうから寂しい」と言った。しかし家だって、同じくらい寂しい。
(佐々木さんもそれが分かっていた。分かっていたからこそ)
人は死んだあと、誰かの心に残る。墓におさまり、人が祈ることで、残り続ける。
しかし家はどうだ。家は壊れ、壊され、そして潰されたら、もうそこには何も残らない。
家の跡地に違う家が作られて、住む人が変わり、風景が変わる。そして、やがてみんな家のことを忘れてしまう。
「この家を潰さないでと願ったのは、佐々木さん……この家がここに残っているのは、あなたのお婆さんのおかげ、お婆さんはここを守りたかったの」
私は彼女の手を取り、泣きぬれた顔を覗き込む。
「そんな、お婆ちゃんが……」
佐々木さんは、彼女のお婆さんはマヨヒガさんから離れ、壊される前に誰かに委ねる覚悟を決めたのだ。
私なら、どんな覚悟をするだろう。
「私も、ここを守りたい」
私の覚悟は、ここに残ることである。