表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

黄色のカレーと二人の覚悟

 それは夏の豪雨を思わせるような雨だった。


 降り落ちる雨が雨樋の薄いトタンに当たって響く。まるで滝のような雨だ。

 そんな雨音だけが響く中、突然家に押しかけた女子高生は廊下にべたりと座りんでいる。仕方なくタオルを差し出せばそれで顔を覆い隠し、口もきかずもう15分。

 彼女の顔を見た瞬間、私はまず焼き肉の焦げた香りを思い出した。もう今は聞こえない夏の虫の声も、夏の日差しの鋭さも思い出した。


 彼女はあの熱い夏の夜、マヨヒガさんを化け物と呼んだ。


 私は濡れた廊下を拭きながら、彼女の白い横顔を盗み見る。

 今日の彼女は着崩した制服ではなく、私服だ。

 短いスカートに夏仕立てのシャツは雨で体に張り付いているし、長い金髪も雨水でびしょ濡れだ。薄暗い室内で輝く金髪は、雨に濡れたゴールデンレトリバーの毛並みによく似ている。

「なに」

 私の視線を鬱陶しがるように、彼女はタオルの隙間からこっちを睨む。それはまるで警戒心の強い猫の顔。

「何見てんの?」

「……大昔、付き合ってた人が犬を飼ってたの。それがゴールデンレトリバーで、水遊びが好きで」

「は? 何それ……」

 廊下に点々と残る水滴の跡を拭いながら私はつぶやく。彼女は……いつから外にいたのだろう。

 雨が降る中、彼女は雨宿りもせずにこの家に来た。何か覚悟を決めた顔だった。

 ……だから、招き入れてしまったのだ。

「あなたの髪。濡れてる髪が犬っぽいなって思っただけ」

 私の突拍子もない言葉に、彼女はまず驚くように目を丸める。

 私の言葉で緊張と警戒がとけたのか、彼女の肩のこわばりがゆるくなる。泣きそうなのか笑いそうなのか、分からない顔をする。

 やがて彼女はタオルをつかんだまま、ゆっくりと壁を見上げた。

「ここ、塗り替えたの?」

 ……そこは、階段そばの壁だ。私が入ってきたとき、その場所に小さな傷があった。まるでタンスか何かの角をぶつけたような深くえぐれた跡だった。

 マヨヒガさんと会話が交わせるようになってすぐ、私は最初にそこを治した。

 引っ越し当初は「味のある傷」と思った箇所が、心が通じ合うことによって「怪我」に見えてしまったのは不思議なことだ。

 彼女は無言のまま壁を見上げ、そして冷たいその場所に指を這わせる。

 素人仕事なので、その場所だけ色が違って見えるのだ。色の違うところを彼女は冷たく見つめた。

「塗り直してるんだ。ふうん」

「ねえ、家に入れてあげたんだし、名前くらい名乗ったら? それになんで来たのかも……」

 彼女は真剣に壁を見つめている。訪問の目的も意図も何も分からない。

 なぜ彼女はここにいるのだろう。なぜ化け物と言い放った。この家に。

「ねえ、ちょっと、聞いてる?」

「なんでここの傷、修理したの?」

 彼女は壁に手を押し付けたまま、こちらを見た。力強い目だった。

「結構えぐれてたでしょ」

「なん……で、知ってるの?」

 雨の音がますます強くなる。

 マヨヒガさんが、かすかに熱を持った気がする。

「佐々木」

「……え?」

「あたしの、名前」

 彼女は、雨に負けそうなほど小さな声でつぶやいた。

「……ここ、婆ちゃんち」

 マヨヒガさんを叩きつける雨の音は、まるで夏に聞いた豪雨の音だ。

「あんたに婆ちゃんちから出て行けって、言いに来た」

 それは、マヨヒガさんと過ごした台風の夜を思い出す音だった。



 ことことと、温かい音が響く。

 キッチンのコンロに置かれた大きな鍋に揺れるのは、鶏肉、人参、じゃがいも、玉ねぎ。

 たっぷりの湯気をあげるスープに、ぽとりぽとりとカレールーを落としてやれば、一面、カレーの香りが広がった。

 ほとんど完成に見えるその鍋の中に、私はあさりの缶詰を汁ごと滑り込ませる。雨の日のカレーには『魚介の味』を潜ませる。それは死んだ祖母との約束だった。

 思えば、祖母は私に一般的な約束をしなかった。

 真面目に生きなさいとも、普通に生きなさいとも、友達を作り恋人を作り結婚をしなさいとも。祖母は私の生き方を、何一つ指示しなかった。

 約束は唯一つ。カレーの作り方だけ。

「……」

 カレーの匂いが部屋中に広がると、女子高生……佐々木さんは膝を抱えたまま、ようやく低く唸った。

 彼女は私に名乗りを上げたあと、口をきゅっと結んで目を尖らせて胸を張ったのだ。

 私が何を言い返すかと怯えつつ、しかし臨戦態勢を整えていた……その若い勢いが、逆に私を冷静にさせた。

 私は彼女をするっと無視して無言のまま、台所に滑り込んでカレーを作ったのである。

 思考回路を整理したいなら、料理が一番だ。切って炒めて煮込んで焼いて。嫌でも手を動かさなければ料理は完成せず、その間、考えることしかできない。

 そうして私が無言をつらぬけば、佐々木さんも片意地を張るように頑なに口を閉ざす。

 無言の間はおよそ1時間。

 先に音を上げたのは、彼女の方だった。

「……いきなり料理、始めるとか、頭がおかしいんじゃない?」

「それを言うなら、いきなり家に来る方もおかしいんじゃない?」

 鍋底をさらうようにゆっくりカレーを混ぜると、どんどんと香りが広がっていくのがわかる。野菜とスパイス……遠いところに、海の香り。

 やはり雨の日とカレーは相性が抜群だ。

「なんで料理なんて……」

「晩ごはんの時間が近いからに決まってる。あなたはご飯を食べない人?」

「ばか」

 悪口の語彙が消え失せたのか、彼女は小さくばか、ばかと何度もつぶやく。そして泣きそうな顔で縮こまる。

 私はそんな彼女を横目でみた。

(佐々木さんの、お孫さん……か)

 金髪、小さな顔に、痩せボッチの体。頑なな目つきに、こわばった頬。彼女が放った「お婆ちゃんの家」の一言に、私の心が揺れたのは確かだ。

 その瞬間、祖母と暮らした古い家の香りを思い出した。

 ……もしあの家が今も残っていて……私の意志に反し、誰か別の人が我が物顔で住んでいたら……もしまだ私が幼ければ……追い出そうとするかもしれない。化け物屋敷と言うかどうかはおいておいて。

「婆ちゃんも、カレーが得意だった」

 ふと、彼女が鼻を鳴らす。

「……牛乳が、たくさん入ってて……黄色くて」

 その言葉に、感銘を受けたわけではないが、ただなんとなく冷蔵庫に手が伸びた。中に入っていたのは、あとコップいっぱい分だけ残っていた牛乳だ。

 それを鍋に落とすと驚くほど淡い黄色になる。

 これが佐々木さんのカレーの色だ。

「給食カレーの色みたいだね」

「……食べたこと無い」

「給食なかった?」

「……学校、サボってたから」

 ぽん、ぽん、と雨樋から雨の垂れる音が聞こえる。

 その音に惹かれるように佐々木さんが顔を上げた。きれいな金髪が乾いてさらさらと顔の横を流れていく。尖った顔だが幼い。学校をサボって、彼女はどこにいたのだろう。

 ……きっと、この家だろう。お婆さんの隣だろう。

 私はなんとなく、そう思った。

 マヨヒガさんが頑なに無言を貫いているのも、彼女のことを知っているからだ。

「あの噂、流したのあなたでしょう」

 私がふとつぶやくと、彼女の頬がひくりと揺れる。

「この家の、噂」

 重ねて尋ねると、さらに彼女の顔色が変わった。それは肯定の証だ。

「……なんでそう思うの」

「あなたがここに来たあとから、噂が広がった。そのタイミングが同じだったから。お婆さんの家に知らない人が住んでるのが嫌だった? きれいに使ってると思うけど」

 彼女の指が床をがりりと掻く。

「誰もここ、借りなくなれば、親父が潰すって言ってたのに……あんたがずるずる住んでるせいで潰せないじゃん」 

 佐々木さんはぼそりとつぶやいた。その声には憎しみがある。私はおや、と心の中で首をかしげた。

「私をこの家から追い出して……この家を取り返したいんじゃないの?」

「いらないよ、こんな家」

 憎らしそうに吐き出した言葉は、彼女の本音だ。その冷たい声に私の背がぞっと震える。

「化け物屋敷って脅せば出ていくと思ったのに、出ていかないし、そうしてたら学校の馬鹿があちこちで噂広げちゃうし、最悪。あたしはここを潰したいだけなのに」

「潰したい? ひどいこと言わないで……なんで?」

 私の言葉に、彼女は何も答えない。ただふいっと応接間を覗き込み、眉を寄せる。

「障子破れてんじゃん。直せないなら住むなよ。婆ちゃんはきれいにしてた」

「廊下の傷、治してなかったくせに」

「あ……あれは婆ちゃんが引っ越すときに、あたしがぶつけたの……傷を、つけてやろうと思って」

 かすかに凹んだ壁を思い出すと、胸の奥がきゅっと痛くなる。

 それを飲み込んで、私は大きな皿に炊きたてのご飯を盛った。カレーをたっぷりとかける。米に染み込んでいく黄色のカレーは、やはり家の中を海の底のような香りに変える。

「食べていいよ」

 カレー皿を机に置いて、私は彼女の腕を引っ張る。抵抗は少しだけ。無理やり椅子に座らせると、彼女の頬が震えた。

 彼女に構わず、私は自分用の皿にカレーをついだ。大きなじゃがいも、大きな人参。その合間に見え隠れするアサリの白い粒。

「いただきます」

 彼女を無視してカレーを噛みしめると、できたての熱い味がする。牛乳を入れると、少し甘くて、具にもとろみが付くのが不思議だった。

「……牛乳入れるのも、いいかも」

「出て行けって言ってんのに、おかしいんじゃない? あんたって、いつもそうなの?」

「そう、って?」

「怒らないの?」

「怒られたいの?」

「馬鹿にされてる気がする」 

 よく言われる。と言いかけた言葉を飲み込めば、代わりにため息が漏れた。

「怒らないのも、カレーを出すのも、あなたに聞きたいことがあるから。この家のこととお婆さんのことを聞こうと思ったの……でも今は」

 カレーの隣には、よく冷えた水。スプーンも添えて。

「……なんでそんなにこの家のことを悪く言うのか、教えて」

 私は彼女の目を見つめてそういった。



 まるで飢えた猫の子のようにカレーを食べたあと、佐々木さんは糸が切れたように眠ってしまった。目の下にクマが見えるので、もしかすると長い間眠れていなかったのかもしれない。

 結局、彼女は私の質問には答えない。

 机に突っ伏して眠る彼女にタオルケットをかけて、私はため息交じりに縁側に出る。雨はまだ強く、跳ね返った冷たい水が体を濡らす。

「メイ」

 ……と、マヨヒガさんの声が聞こえた。

 声が聞こえなくなり、たった数時間。しかし声が聞こえると、まるで数日ぶりに会えたようにホッとする。

「お客さんのこと、気にしないでね。起きたらすぐ外に」

「私は……本当に、メイの幸せを願っている」

 台所の鍋からは、まだ白い煙が上がっている。台所は温かいが、縁側に出ると足先が冷えた。雨の音は夏のようでも、季節は確かに秋だ。春から夏、夏から秋。

 私とマヨヒガさんが出会って、3つ目の季節に向かっている。 

 違う。まだ3つ目の季節だ。私とマヨヒガさんは、これからもっと多くの季節を迎えるはずなのだ。

「メイに何をすれば、喜ぶのか、ずっと考えて……」

「私も同じだよ。マヨヒガさんの幸せを……」

「私はその子が羨ましい」

 マヨヒガさんは私の言葉を遮った。こんなことは初めてだ。

「メイのそばに、いられる」

「何……」

「メイが恋人だった、と語った人間のことも、羨ましい」

「そんな」

「メイのことを抱きしめられる」

「私は、今のままが……」

 雨の音がうるさく、私は首を降る。雨のせいで、マヨヒガさんの声が途切れてしまう。

「私は今のままで、幸せで」

「私は化け物か」

 しかし、そんな雨の中でもその言葉だけははっきりと聞こえる。

 マヨヒガさんの言葉に、私は拳を握りしめた。

「違う」

「……メイ。私は、きっと化け物だ」 

 その言葉を聞いて、私の足から力が抜けた。座り込みそうになるのを耐え、壁によりかかる。

 初めてマヨヒガさんに声をかけられた、あの日も確かに恐ろしかった。

 しかし、今はあの時より更に恐ろしい。足が震えてまっすぐに立てない。

「……化け物じゃない」

 ああ、とうとう恐れていたことに気づかれてしまったのだ。

 慌てて壁に手を当て、床を撫でる。しかし彼はいつものように優しくは答えてくれない。

「化け物じゃないよ、マヨヒガさん」

「最初から話しかけるべきではなかった。声をかけるべきでは……」

「違う」

「私が、メイを迷わせた」

「違う」

 雨が……唐突に上がった。そのせいで、マヨヒガさんの声がいつもより大きく響く。

「メイは、人ならざるものの執着を知らないんだ」


「ねえ。誰と話してるの」


 そして、その声は、佐々木さんにも聞こえてしまった。

 

 

「やっぱり……この家は化け物なんだ」

 振り返ると、金の髪が震えているのが見えた。

「婆ちゃんは不良でもいいって。学校いかなくてもいいって、あたしのこと、バカにもしなかった。でも……この家で過ごすうちに、段々と、眠るようになって」

 佐々木さんは床にうずくまり、震えている。先程までの尖った態度は消えてしまった。恐怖に足が動かないのか、震えたまま涙が頬を伝う。

 彼女は私の腕を恐ろしい力で掴んだ。

「……今、あたし寝たよね。今みたいに、急に眠くなる。気を失ったみたいに、婆ちゃんも毎日、毎日、すごく長く寝るようになって」

「寝る……?」

 私はふと、思い出す。この家に来てよく眠れるようになったこと。井口さんが「すごくよく眠れた」と喜んでいたこと。

「病院行っても何も悪い結果は出ない。でもすぐ寝ちゃうんだ」

「別に寝るくらい……」

「それで、心配になって、家まで見に来たら……誰か知らない人と喋ってた。今みたいに……」

「それは」

「お婆ちゃんは独り言だって言ってたけど、でも違う。だって、その後いきなり引っ越しするって、施設に行くって全部自分一人で決めて……それで、引っ越して」

 佐々木さんの爪ががりりと私の皮膚を刺す。

「すぐ、死んじゃった」

 ふ、とマヨヒガさんが揺れた気がする。緩やかに、まるで悲しむように。

 佐々木さんは怯えるように私の体にぎゅっと抱きつく。

 恐ろしいほど熱い体温だった。人の体温はこんなにも熱いのだ……と、冷静な自分が考えるのがわかった。

「……きっと、お婆ちゃんは、この家に殺されたんだ」

 私はふと想像する。

 縁側でマヨヒガさんに語りかける女性の姿。台所で、廊下で、庭で、この家を愛した女性の姿。

 家の秘密が漏れそうになったとき、彼女は覚悟を決めたのだろう。

 彼女の覚悟は、マヨヒガさんから離れること。そして手紙を残すこと。

 ……次の人が、マヨヒガさんを守ってくれるように。

「あんたも死んじゃうんだ。この家に、取り憑かれて……だから早く、逃げて」

 彼女の爪に刺されたそこが赤く滲んだ。

「お願い……だから、逃げて、お願い……」

 私の腕をつかみ続ける彼女の手をそっと握りしめた。

 ……私なら、どうするだろう。秘密が漏れそうなとき。

「聞いて」

 藤色の老婦人は「人は死んでしまうから寂しい」と言った。しかし家だって、同じくらい寂しい。

(佐々木さんもそれが分かっていた。分かっていたからこそ)

 人は死んだあと、誰かの心に残る。墓におさまり、人が祈ることで、残り続ける。

 しかし家はどうだ。家は壊れ、壊され、そして潰されたら、もうそこには何も残らない。

 家の跡地に違う家が作られて、住む人が変わり、風景が変わる。そして、やがてみんな家のことを忘れてしまう。

「この家を潰さないでと願ったのは、佐々木さん……この家がここに残っているのは、あなたのお婆さんのおかげ、お婆さんはここを守りたかったの」

 私は彼女の手を取り、泣きぬれた顔を覗き込む。

「そんな、お婆ちゃんが……」

 佐々木さんは、彼女のお婆さんはマヨヒガさんから離れ、壊される前に誰かに委ねる覚悟を決めたのだ。

 私なら、どんな覚悟をするだろう。

「私も、ここを守りたい」

 私の覚悟は、ここに残ることである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ