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8/13

ぬか漬け作りと雨の来客

 私はいつから、平気な顔をしてコーヒーを飲めるようになったのだろう。


 ごちゃごちゃと混じり合う人の声、カップ触れ合う音、レジの蓋が開く甲高い音に、有線から漏れる低い歌声……誰かの咳払いに、ドアのベル音。

 雑音を吸い込んだ、腕に張り付くビニールのテーブルクロス。

「私はいいんです。でも、マ……家が」

 私が座るのは、そんな音に囲まれた名前も知らない町の喫茶店。

「壊れ……て」

 窓から差し込む爽やかな秋の朝日も、休日の朝という事実も、私の心を明るくはしなかった。

 一番隅っこの席で、私は震えながらカバンを開ける。

 中から出てきたのは、ハンカチに包まれたいくつかのガラス片。

「玄関の引き戸を……壊されました」

 それはレトロな花型がくり抜かれた、玄関のガラスなのだ。

 マヨヒガさんの玄関は西向きなので、夕日の頃になると土塀を越えてゆるい茜色が差し込む。するとこのガラスを通過した夕日が、三和土に淡い色を落とす。それを見るのが好きだった。

 しかし昨夜、そのガラスは無情にも割られた。夜の静寂を破って響いた冷たい音と、痛々しい割れ跡を思い出すだけで体が震える。

 冷たい私の手を、皺の寄った手が握りしめた……八百屋のおばあさんだ。

「ほら、やっぱりちゃんと伝えるべきだって、あたしはそう言ったじゃないのさ。可哀想に、こんなに怖い目にあって」

「おばあちゃん、僕だって色々考えて……。」

 その隣に座るのは、ひげの不動産屋。彼は心配そうに眉を寄せ、じっとガラス片を見つめる。

「これはひどいな」

 朝日が昇るのを待ちかねて、私は不動産屋に電話をしたのだ。

 そして朝の7時半。近所の喫茶店が開いた瞬間、三人は重苦しい集合を果たすことになる。

「すみません……動揺して、それで朝から電話なんて」

「泉谷さん、大丈夫、大丈夫……連絡してくれて却って有り難いほどでね。こういうのは、自分でなんとかしようとして怪我でもされたほうが取り返しがつかないから。玄関も明日には綺麗に直るからね」

 不動産屋さんは、太い眉を八の字にしてそんな事を言う。

 しかしその慰めは私の心には響かない。心臓がうるさいほどに音を立てている。

 息を吸い込むと古い喫茶店特有の、苦いコーヒーの香りが鼻をついた。

 どろどろと黒いそれは、今の私の心にぴったりだ。少し冷めたコーヒーを飲み込むと、酸っぱくて苦い味が口の中いっぱいに広がった。

「本当はね、あの家に変な噂が流れたときに、ちゃんと説明すべきだったんだ」

「……変な噂?」

「この辺で、あちこちウロウロしてる変なやつがいたから、ほら……なんて言ったかな、あの建具屋の。ああ、そうだそうだ、武田さん。あそこの爺さんが見慣れない子達を捕まえて」

 不動産屋さんの言葉に、おばあさんが続ける。

「そしたら……泉谷ちゃんのあの家に、変な噂があるって言うんだよ……笑っちゃいけないよ」

 彼女は息をひそめて、周囲をちらちら見渡す。そして小さな声で囁いた。

「なんでも、バケモン屋敷だって。廃墟だと思って肝試しにきたんだと。爺さんはその子らに、人が住んでるんだぞって叱りつけたらしいけど……ほんとに迷惑な噂だよ」

 数週間前のことだ。と、黙っていたことを謝るように、二人が同時に頭を下げる。

 二人の言葉を聞いて思い出したのはあの写真だ。

 全てはあの写真が始まりで、そして原因だった。サイトに載せられた写真を見て、噂を聞いて、マヨヒガさんは襲われた。

 ……では、化け物屋敷と呼んだのは誰だろう。噂には根っこがあるはずだ。何もないところから煙は立たない。

 春、越してきてすぐは何もなかった。

 当然だ。知らない人からすれば、築60年の、ただの一軒家。駅から遠く、神社の隣にある、古い家。取り立てて話題になるはずもない……もちろん、噂が立つはずもない。

 私は違和感に肌を擦る。

「……前の人が……」

 からん、と喫茶店の扉が開く。腰の曲がったおじいさんと、大学生の集団が喫茶店になだれ込んだ。新たに湧くコーヒーの苦い香りと、誰かの吸うタバコの白い煙が、煤けた天井に消えていく。

 朝の気怠い空気に押されるように、私はゆっくり息を吸い込んだ。

「前の人が住んでいた頃から、こんな噂はあったんですか?」

「……ないね。だからこっちもびっくりなんだ」

 二人は顔を見合わせ、コーヒーを飲み込む。

 おばあさんが追加でコーヒーを注文すると、眠そうな店員さんが、わずか20秒ほどで煮詰まったコーヒーを運んできた。

 机の上に置かれた場違いな救急箱を見て、彼女は少しだけ目を丸くする。

 朝の電話で「怪我をした」と伝えてしまったせいで、不動産屋さんが抱えてきたのである。絆創膏に消毒薬に、湿布に包帯が詰まった完璧な救急箱を。

 絆創膏でマヨヒガさんの怪我が治ればいいのに。と、私は思う。人の手で作られたものは、人の手でしか治せない。当たり前のことに気づき、そんな当たり前に傷ついた。

「あの家は前の住人のご夫婦が建てた家でね。息子さんが家を出て旦那さんが亡くなったあとも、奥さんだけが長く住んでたんだ」

 おばあさんは深くため息を吐いて、背もたれに体を押し付ける。

「旦那さんが亡くなったあとはすごく気落ちされててね……そりゃそうよ。思い出の詰まった家に独りで住むのは毒だよ。だから部屋を片して、そのうち息子さんの家に行くと言ってたんだが……いつのことだったかな。いきなり元気になってね。家の手入れも綺麗にして。気づいたら、前より明るくなって……でもそれも数年だ。急に家を手放すと言い出した」

 おばあさんは、濃いコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり注ぐ。

 それを美味しそうに飲み込んだあと、少し悲しそうな顔をした。ここの喫茶店も彼女のお気に入りだったからね、などと付け加えて。

「それで売りに出したんだけど、古いわアクセスも悪いわで売れなくってね。それで賃貸にしたんだっけ……ね、圭くん、そうだったよね」

「そうそう。いっそ思い切って建て直すか、大幅にリフォームすればって提案したんだけど、それは嫌だと。できるだけ今の形のまま、いじらず壊さず人に貸してくれって」

 その言葉に、私の指が震えた。

(……知ってたんだ)

 彼女は、前の住人は、マヨヒガさんの存在を知っていた。だからこそ、手を入れることを拒んだし、潰すことも拒んだ。

 きっと、私が彼女でも同じ条件にしただろう。

「それでもさ、家を手放してどうすんのって話よ。そしたら自分は、遠くの施設に行くって。元気なのに……そりゃもう突然……で、その施設で死んじゃった」

 ふと、おばあさんが寂しそうに瞼を落とす。

 前の住人がいくつだったのか、私は知らない。しかしおばあさんよりは少し年下なのかもしれない。まるで妹を思い出すように、彼女はつらそうにコーヒーを飲み込む。

「もう何十年も仲良くしててさ、一緒に料理をしたり……そうそう、あの人はぬか漬けなんかも上手に漬けるから、それをうちの店で卸してね、よく売れたんだ。掃除を手伝ってくれたりも……でも、あの子が抱えてたものを、あたしは一つも知らないままだった」

「前の持ち主があの家で変死したとか、そんな噂になってるとかだけど、そんな失礼な噂、名誉毀損だよ。持ち主はしっかりと契約書に判子を押して、最後には部屋の隅々まできれいにして家を出たんだから」

 不動産屋はひげを震わせ、憤慨するように言う。

「この家の家主さん……つまり彼女の息子さんは東京にいるんだが、その人も困惑しててね。もし泉谷さんが気になるなら、どんな事情であの家が手放されたか、いつでも説明するからって」

 彼は机の上に、小さな名刺を一つ置く。真四角のそこに、見知らぬ男性の名前が刻まれている。佐々木、という名前だけが目に刺さった。

 私は思わず、その名刺を強くつかむ。

「……佐々木、さん」

 前の住人……すべてが謎な女性もきっと、佐々木さんだ。初めて名前を知った瞬間、彼女の存在が色を持ったように感じられる。

 藤色の着物の女性が語った、「友人」としての彼女。

 八百屋のおばあさんが語る彼女。

 そして残された手紙。

 いくつかの情報が、音を立てて繋がっていく。私の頭の中に、出会ったことのない彼女の顔がふんわりと浮かんだ。

 しゃきしゃきとしてきれい好きで、明るく、社交的。ぬか漬け作りが上手で……満月の夜にぬか漬けを作る、そんな佐々木さんが。

「佐々木さんはいつでも連絡していいって。泉谷さん、僕たちでわかることはこれくらいなんだけど、他になにか聞きたいことがあれば」

「……ぬか漬け」

「え?」

 私の漏らした言葉に、二人が顔を合わせて、目を丸くした。当然だ。こんな質問、想定外だろう。しかし私は苦いコーヒーを一息に飲んで、まっすぐに二人を見る。

「ぬか漬けの作りかた、教えてください」

 朝日が漏れる喫茶店で、私はそれだけ、つぶやいた。



「メイ、怪我は?」

「怪我をしたのは、マヨヒガさんだよ」

 昼を回って家に戻ると、マヨヒガさんの声がすぐ響く。

「メイが誰かに、怪我をしたと、話を……」

「それはマヨヒガさんが怪我をしたって、言っちゃったの。動揺して」

 玄関をそっと開けて、中から外から傷跡をじっくり見る。

 玄関はガラスの引き戸だ。下半分が大きく割れている。今は薄い板で応急処置をしているものの、そのささくれた板が副木のようで痛々しい。

 それでも明日には工事が入るという言葉のおかげで、ショックは少しずつ薄れつつある。

 ……同じガラスの在庫がもうないので、違うガラスになる。というのは少し悲しいけれど。

「さて」

 玄関から目をそらし、私は台所に駆け込んだ。

「うまく、できるかな。失敗するとすぐ傷んじゃうらしいけど」

 手にしていたビニール袋から出てきたのは、ナスにきゅうり、人参にカブ。おばあさん自慢の野菜はどれもつやつやしている。

 その下にあるのは、ずっしりと重いタッパーだ。透明なそれには、すでにみちりと茶色の糠が詰まっている。


 ぬか漬けの作り方を教えて欲しい。そんな唐突な言葉を、おばあさんは馬鹿になどしなかったのだ。


 ぬか床を分けてあげる。もとは彼女のものだったから。とおばあさんは言ってぬか床と、いくつかの野菜を分けてくれた。

 この家で生まれてこの家で作られたぬか床が、またここに帰ってきた。

「さあ、どうだろう」

 蓋を開けると、マヨヒガさんが少し震える。

「……いい匂い」

 私はぬか床に鼻を近づけ、恐る恐る嗅いでみる。鼻の奥に残ったコーヒーの苦い香りが、一瞬でかき消えた。

 すでに完成しているぬか床は、しっとりと湿って不思議なくらい優しい香りがする。

(マヨヒガさんも知ってる匂いなんだ)

 マヨヒガさんは何も言わないが、そんな気がした。満月の夜に漬けられるぬか漬けを、マヨヒガさんは見ているはずだ。

 ぬか床は作るのではない、育てるのだ……と、おばあさんは言った。

 糠を塩や水、クズ野菜や昆布に唐辛子。様々なものを練り込んで、混ぜる。毎日毎日、自分の手で混ぜて捏ねて、そして育てる。

 まるで農地を耕すように仕上がったそこに、野菜を漬ける……土から生まれた野菜が、また土のようなぬか床に帰っていく。

 だから、どの漬物よりも、ぬか漬けの味が一番優しいのだ。と、おばあさんはぬか床をタッパーに取り分けながら、そう語った。

「最初にぬか漬けを発見した人……これに野菜を漬けてみようと思った人って、勇気があるよね」

 ぬるぬると輝くぬか床を見つめ、私はそっと息を吐いた。

 私の祖母はぬか漬けを作らなかった。ふたりなんだから、売っているものを買えばいいのです。と、案外合理的なことを言っていた。

 だから私はぬか床の不思議な暖かさを、人生ではじめて知ることになる。

「それを考えたら、ごぼうを初めて食べた人とか、奇妙な形のきのこを食べた人もすごいけど」

 教えられた通り、野菜を洗って水気を切って、静かにぬか床に沈める。中は心地よく、あたたかい。生きているのだと、ふと思った。

 この家から引き継がれたぬか床は、まだ生きている。

「先駆者は、やっぱりすごいよね」

「メイ?」

「ぬか漬けを作ってみようと思っただけだよ。晩ごはんにもお酒のつまみにもなるし、健康にも」

「メイ、最近元気がないのはなぜだ」

 マヨヒガさんが、強い言葉を放った。

 手

 ……マヨヒガさんが心配だからだ。といえば、彼はきっと困惑するだろう。

 彼に不要な心配をかけたくはない。化け物と呼ばれているなど、不名誉な噂を聞かせるのも嫌だった。

 だから私は笑ってごまかし、ぬか床をゆっくりとかき混ぜる。

「季節の変わり目だからだよ。マヨヒガさんだって、寒いと家の壁がぎしぎし鳴るでしょ」

「もしかしてメイが元気がないのは、ここに奇妙な人間が来るからか?」

「……奇妙な人間?」

「覗きこんだり、こそこそ動き回るやつらだ。また来ていたので、追い払ったが」

「追い払う?」

「震えさせてやれば、すぐだ。皆、怯えて逃げる」

 自慢そうにマヨヒガさんが軽く震えた。きっと人間なら胸を張って鼻を鳴らす、そんなポーズで。

「この家は巣だ。メイのことは私が守る。何も案じなくていい。大丈夫だから」

 その言葉は恐ろしいほど柔らかく体に染みた。

「マヨヒガさん」

「手も足もないが、私はメイを守ることができる。それだけが嬉しい。落ち込むな、笑っていてくれないか。私は……」

 マヨヒガさんの声を遮るように、とん、とととん。と、どこかで音が響く。雨だ。と思った瞬間、雪見障子の向こうに見える中庭が真っ白に染まる。

 昼の日差しは消え、一気に夜のように暗くなった。

 ……この季節には珍しい、豪雨だ。

 突然の雨に驚くように、マヨヒガさんが口を閉ざす。彼の声はかき消え、一面、雨の音だけになった。

「ありがとう」

 私は指先の糠を落とし、壁に触れる、床に触れる。彼の心臓はどこだろう。もし心臓があるなら、それは早く脈打ってるのだろうか。

 私の今の、心臓と同じくらいに。

「メイが幸せだと、本当に、嬉しいんだ」

 壁に頭を押し付ける。と、急に眠気が襲った。一日気を張っていたせいだ。ぬか床を片付け、床に転がる。目に入った障子が破れているのをみて、私は思わず苦笑した。

「マヨヒガさん。障子も破れちゃってる……治さなきゃね」

 外の雨はますます強い。壁が揺れ、表の雑草が音を立てる。

 雨の音とぬか漬けの香りと疲れ。これが一気に眠気を呼んだ。

 まるでぬか床に沈む野菜のように、ずぶずぶと睡眠欲が体を包み込む。あと一息吸い込めば眠りに落ちていく、そんな感覚。

 私はずっと眠りが浅かった。しかしこの家に来てからは不眠知らずだ……こんなに不安なときでさえ、目を閉じるだけで眠れてしまう。

(……たしか雨の音は……睡眠にいいって、おばあちゃんが……)

 小さな頃から不眠気味だった私は、雨の日が待ち遠しかった。雨が降るとカレーが食べられる。そして祖母のカレーの香りと雨の音は完璧な睡眠導入剤になる。

(……起きたら……カレーを作ろう……)

 水の音、風の音……ふと、そこに違う音が聞こえたのは私が眠りに落ちるほんの一瞬前のこと。

 別の音……それは誰かが玄関までの砂利道を歩く音。その音を聞いた瞬間、私の脳から睡眠欲が振り払われた。

「また……」

「待って、マヨヒガさん」

 また誰かが来た。と、マヨヒガさんが警告音のようなものを放つ。しかし私は飛び起きて、壁をぐっと押した。

「メイ」

「マヨヒガさんの力を疑うわけじゃないの。そうじゃなくて……ちゃんと捕まえて警察に……」

 玄関を覗き込むと、割れた扉の向こうに人影が見える。

「警察に突き出して、ちゃんと、罪を償ってもらわなきゃ」 

 吊り下げてあった傘を握りしめる……しかし構えたそれを、私は結局下ろすことになった。

(……もしかして)

 玄関の向こうにうっすら透けて見える影は細くて……小さい。

 割れた場所を刺激しないようにゆっくり玄関を開けて外を覗けば大雨の中、想像どおりの人がそこにいる。

「……中、入ったら?」

 私はしばらく考えて、そういった。

 頭の先からつま先まで濡れそぼったその影は、以前出会ったあの女子高生である。


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