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怖がり月夜のメロンソーダ

 多分、私は浮かれていたのだ。



「泉谷ちゃん」

 バスのステップを飛び降りてほぼゼロ秒。突然声をかけられるのも、もうすっかり慣れっこになってしまった。

「こっち、こっち」

 バス停の後ろから呑気に手を振っているのは、やっぱり八百屋のおばあさんだ。

「こんばん……」

「お仕事のあとに悪いわねえ。ちょびっとお暇ならね、今から手伝ってほしいことがあるのよ」

 彼女は相変わらずの強引さで私の言葉を遮る。そして、手にした懐中電灯を私に無理やり押し付けた。

「暗いから、それ使っていいからさ、ね、ついてきて」

「えっと、明日ではなく?」

 腕時計に刻まれるのは22時半。私は霞む目で時計を凝視したあと、八百屋さんを見る。

「……今からですか?」

「そーそー。夜のお祭りの準備してるから夜がいいのよ。なんだっけ、あれよ。お化けとお菓子の……」

「ハロウイン?」

「それ。この地域でも、今年からやってみようかなあ、なぁんて話をしてて」

 彼女の視線を追えば、八百屋の錆びたシャッター前にカボチャが並んでいた。凸凹の表面にはご丁寧に顔のシールが貼られている。その隣には画用紙に描かれた骸骨の絵も。

「これはハロウイン……?」

 ご自慢の時計にはクリスマスリース、その上には斜めに傾いた般若のお面。それを見て、私の首も思わず同じ角度で曲がってしまう。

「……かなあ?」

「路地裏の家もいろんな飾りをね。それも年寄りがガン首揃えて決めたんだけどさ、若い人の意見も取り入れたいと思っててね。色々意見してほしいのよ」

 ジュース、あげるからお願い。と、おばあさんは意外に器用なウインクとともに私の手にヌルいメロンソーダのペットボトルを押し付けた。

「え、でもハロウインってまだ数週間……」

 反論する間さえ与えてもらえず、彼女はさっさと進み始めている。

「先で……えっと、あの」

「とりあえず、こっちからねえ」

「あ、あの」

「おいてくわよぉ」

 おばあさんとは思えない素早さで、彼女は手押し車を支えに細道の角をひょいっと曲がってしまう。

「懐中電灯付けてねえ」

 八百屋さんの声に釣られるように懐中電灯の灯りをつけると、丸い光が地面に広がった。

 台所の窓から朝日が差し込むと、床にこんな円形の光だまりができることを私は知っている。もちろん朝日だから、懐中電灯の灯りよりもっと柔らかい光だけれど。

 窓には防犯の意味でもカーテンを付けるべきなのだろうけど、私はカーテンを最小限にしたかった。

 できるだけ家の中に光が入るように。風のとおり道になるように。

 おかげで、あの家は……マヨヒガさんは一日中いろんな光と季節の香りをまとっている。

(……マヨヒガさん)

 一瞬、頭の奥底に暖かい室温と温かい声が蘇る。それを思い出し、私はペットボトルで頬を冷やした。

(いけない、いけない)

 気がつけばすぐ、マヨヒガさんのことばかり考えている。そんな自分に気づいて、私は頭を振った。

「……とりあえず、いかなきゃ」

 シャッターの降りた八百屋の横道。一寸先の闇向こう、先に進む八百屋さんの赤いカーディガンが揺れている。それを見て、私もその闇に足を踏み入れる。

 頭を少し冷やし冷静さを取り戻すには、ちょうどいい散策になるに違いない。そんなふうに思えたのである。

 


 車道から細道に一本入るだけで、空気は一変した。

 茂みの奥から、りん。と甲高い虫の声が聞こえた。風は冷ややかで、気がつけば秋がそこにある。

 すれ違えないほど狭い道の左右には、家が空きなく詰まっている。そのいずれも、ハロウインをイメージした飾りが施されていた。

 懐中電灯で照らして私の心の奥底が、さわりと揺れた。

 まだ祖母が生きていた頃に、ハロウィンのイベントに参加したことがある。どこも似たりよったりのガイコツ、かぼちゃに悪魔のツノ。

 そんなものが私は怖くて足がすくんで動けなかったのだ。そして祖母は叱るでなくあざ笑うでなく、そこにいた。

 いつからだろう。私が暗い夜に怯えなくなったのは。

「泉谷ちゃん」

 こん、と背を押され、私ははっと顔を上げた。気づけば、懐中電灯を持つ手がだらりと落ちて、目の前が真っ暗な闇に染まっている。

「仕事終わりで疲れてるのに、悪いわねえ、急に巻き込んで。年寄りって思ったらすぐ行動すんのよ」

「あ……えっと、結構、本格的にやるんですね」

「見よう見真似だけどねえ」

 飾りをおざなりにつけた家もあれば、細部まで細かく飾り付けを施した家もある。

 おばけの飾りに囲まれた家からは子供を叱る声にテレビの音、お風呂を使う音が響いていた。

(これ、スーパーに行くときの近道だ)

 私は地面を光で照らし、続いて真っ暗な空を見る。

 昼には何度も通ったことがあるが、夜は初めてだ。昼と夜では、空気がガラリと変わる。飾りを施されているせいか、昼に見る以上に家たちが大きく見えた。

「どう?」

「なかなか立派で……楽しいと思います。あとはチラシを作ったり告知したり……夜店もだすとか」

「それは甥っ子がね、色々やるらしいのよ。いきなりみんな、やる気になっちゃって」

 そんな話をしながら古い家の列を抜けきると、くねくねとカーブする細い道に出る。道の端は元暗渠だ。

 すっかりコンクリ仕立てになった暗渠の横にも家はある。

 ハロウインなんて興味もなさそうな古い家も、あらゆる飾りで禍々しく、美しく、彩られていた。

(マヨヒガさんを飾るのはどうだろう)

 美しく飾りを施されたマヨヒガさんを思い浮かべ、私は思わず頬を緩くする……が、慌てて首を振った。

(でも、それを人に見られるのは、やだな)

「泉谷ちゃん」

 いつの間にか隣に立っていた八百屋さんがニヤニヤ笑いで私を見上げている。

「彼氏でもできたの?」

「へ?」

 八百屋さんの言葉に私の頬が熱を持つ。暗がりに顔を寄せ、私は静かに頭を振った。

「なぜ……です?」

「嬉しそうだから」

「そんなんじゃないです。ただ……なんとなく、浮かれてるだけっていうか……」

 慌てて顔を背けるが、八百屋さんの視線が痛いほど、横っ面に届く。

 そうだ、私は少し浮かれていたのだ。


 ……私はマヨヒガさんが好きだ。 


 好きだと思い始めると、その気持ちは少しずつ固くなり、確実になり、やがてすとんと、腑に落ちた。

 馬鹿みたいだが、私は人ではないものに恋をしている。

(……誰にも言えない。恋なんて、人生で初めてだもの。それも人じゃないものなんて)

「いいじゃない。若いんだし、浮かれたり、怖がったり、今のうちの特権なんだから」

 ふと、管理人さんの声が響いた。

「浮かれて怖がって、全部全部、年を取ったらいい思い出になるんだから」

「怖がることも……ですか」

「年取るとさ、怖がってる時間がもったいないの、蝋燭の先、人生の残りが見えてきてるもんだから」

 冗談のように言う八百屋さんの肩は細く、それは亡くなった祖母を思い出す。

(……薄暗い、夜の道)

 暗い道を見つめて私は思い出した。そうだ。小さな頃、私は夜道どころか、夜が恐ろしかった。

 それだけじゃない。

 私が恐ろしかったのは、夜更かし、扉の隙間、カラスの声。

『大人になれば、今怖いものが平気になって、幼い頃には想像も出来なかったことが怖くなるのよ』

 些細な闇夜を怖がる私に向かって、祖母はそう言った。

 さらに祖母は生真面目な顔で言葉を続けたことを、今でも覚えている。

『怖いもののない人生ほど、つまらないものはない』

 その予言のとおり、私は大人になるに従って、夜更かしも夜の道も、扉の隙間もカラスさえ、怖くはなくなった。

(じゃあ私は……今度は何を怖がるんだろう)

 暗い道の真ん中に立ったまま、私は深々と深呼吸をした。

 気がつけばどの家も窓から漏れてくるのは淡い灯り。灯りの向こうに響くのは夕飯の片付けをする音、些細な会話、水音と、鼻歌と……これは人の生きる音だ。

「手間取らせちゃったわね、泉谷ちゃん」

 八百屋さんはひょいひょいと道をゆき、やがて見慣れたバス停にたどり着く。

「引っ張り回しておいてなんだけど、もう遅いんだからさっさと寝なさいね。夜更かしは美容に良くないんだから」

 手をふる八百屋さんがシャッターに吸い込まれるのを見送って、私はゆっくり伸びをした。

「帰ろう」

 私は素直にそう思う。早くあの家に、帰ろう。そして、マヨヒガさんにただいまを言う。

 想像するだけで、私の心音が早脈打った。

 

 

「ただいま、マヨヒガさん」

「メイ」

 真っ暗な玄関の電気スイッチを押す。と、マヨヒガさんの安堵する声が聞こえ、私はその倍くらい安心した。

「少し遅いから、心配した」

「マヨヒガさんって、時間の感覚があるの?」

「さあ、ただ……朝と夜で空気や色が変わる、それが時間と言うなら、そうなんだろう」

 マヨヒガさんの声は、まるで体に振動するように伝わってくる。その声を聞いて、私はほうっと息を吐いた。

「空の色が変わっても戻ってこないから心配した……食事は?」

「大丈夫。仕事中にパンを齧ったから。それより遅くなったから早くお風呂を済ませなきゃ」

 私は大急ぎで風呂場に駆け込む。

 この家の風呂場は、レトロで可愛い。

 スモーキーピンクのタイル床に、ちょこんと鎮座する銀色で真四角の湯船。全体的に小さくて、音がコンコン反響するのも好ましい。だから私は一日のうち、お風呂の時間を大切にする。

 そしていつもなら風呂にゆっくり浸かるところだが、今日はシャワーだけでさっさと化粧を落として髪を洗い、部屋着に着替えた。

(……よし)

 そうして、収納庫にしまってあった大きな銀のタライを縁側の下に置く。と、マヨヒガさんが戸惑うような声をあげた。

「メイ?」

 時刻は0時を越えた。しかし私は構わず、やかん一杯にあつあつのお湯を作る。それをタライに流し込み、水を足し……何度か繰り返せば、いい感じのお湯加減になる。

「引っ越してきたときから、収納庫にあったタライなの。捨てるのももったいないから置いてたけど、足湯にするのにピッタリ」

 桶いっぱいに揺れる湯の中に沈めるのは、人工的な青の……ミントの入浴剤。 

 夏の半ばの暑さに負けて、大量に購入したものだ。しかし結局使いきれずに夏が終わってしまった。

 そんな夏の名残を湯に落とすと、まるで渦を巻くように湯が青く染まる。

 それを見た瞬間、夏が終わるのだ。と、私は唐突に思った。

「今日はマヨヒガさんとあんまり話ができなかったから……お風呂場だとマヨヒガさんと話ができないし。浸かる時間がもったいないでしょ。だから足湯」

 そこに足を沈めれば、まるで足先がゆらゆらと青い絵の具の中に溶けていくようだった。

 冷たい夜風に冷えていた体が、足の先からゆっくりと熱を待つ。心地よい温度が足先から駆け上る。

「今日はね、町でハロウイン……ってわかるかな。家を飾りつけるお祭りがあるから、その様子を下見してたの。八百屋の……いつも話してる、あのおばあちゃんに頼まれて。この家も飾りをつけたら、マヨヒガさんは怒る?」

「メイのすきなように……メイが嬉しいと、私も嬉しい」

「嫌なら嫌って言っていいんだからね」

 ちゃぷん、と足で湯を跳ね上げ私はつぶやく。

「私はマヨヒガさんの嫌がることはしないから」

 ミントの香りが鼻を突く。季節に置き去りにされたものは、どこか切ない香りになるのだ。この家に初めて足を踏み入れたときも、少し切ない香りがした……そんなことをふと、思い出す。

「メイ。空を」

 マヨヒガさんの柔らかい声に惹かれ、私は顔を上げた。夜のはずなのに、不思議と明るい。空を見上げて、私は「あ」と声を漏らす。

「……満月だ」

 空には驚くほど大きな月があった。黄色くて大きくて、雲ひとつない。

 闇をくり抜くように、月がぽかんと浮かんでいる。

「月の夜に漬物を作るんだろう、人は」

「なにそれ」

「ぬか……」

「ぬか漬け?」

 そう。と、頷くようにマヨヒガさんが少し揺れる。

 マヨヒガさんから漏れた意外な言葉に、私は自分でも驚くほどに動揺する。彼の言葉の裏側に、見え隠れするのは前の住人の姿だ。私にひりつくような手紙をのこした、顔も知らない彼女。

 青く染まるこのタライを残したのも彼女だろう。些細な痕跡が秋風のように私のどこかを冷やしていく。

「マヨヒガさん、あのね……」

「一緒に満月を見られてよかった。あと、何度も見られないかもしれないから」

 しかしマヨヒガさんは、なんでもないような口調でいうのだ。

「……メイとは思い出を作りたいと、思ってる」

 ぽつりと聞こえたマヨヒガさんの声に、私の心臓が大きく波打った。湯船の青い湯も、鼓動に合わせるように激しく揺れる。

「……そんな事言わないで」

「何か言ったか?」

「なんでもない」

 縁側に転がしていた荷物から、ころりと緑のペットボトルが顔を出す。私はごまかすようにそれを手に取り、蓋をひねった。

 口にすると、とろりと甘い人工甘味料が口いっぱいに広がる。口の端を刺激するゆるい炭酸に、甘い味。

 動揺を溶かすには、ちょうどいい味だった。

「喉に張り付くみたい」

「メイ? 何かあったのか?」

「はじめて……」

「はじめて?」

「あ、えっとね。八百屋さんから貰ったメロンソーダ。はじめて飲んだメーカーで、すごく甘くて、それで」

 初めての恋なのだ。

「……すごく、胸が苦しいくらい、甘くて、それで驚いただけ」

 初めての恋と、初めての嫉妬だ。こんな体には持て余す、感情の大きさだ。

 甘いドリンクで言葉を飲み込んで、私は真っ暗な庭を見つめる。秋が深まるごとに、庭の色も濃くなった。月夜の明るい夜は余計に暗さが増す。

 それでも私はその風景を怖いとは、一ミリも思わない。

(……マヨヒガさんがいるから、夜が怖くなくなったんだ)

 初めてなのだ。こんな気持ちも、浮かれた心地も。

 怖いものなど何もない、そんな強い思いも。

「マヨヒガさん」

 その時、私はやっぱり浮かれていたのだ。

 世界には私とマヨヒガさんしかいないような、そんな気持ちだったのだ。

「私が守ってあげるから」

 私のつぶやきに、小さな音が重なった。

 それは氷が割れるように小さく、耳に残る音だった。

 同時に、近所の犬の吠える声、複数人が走り去る音。

「メイ!」

 震えるようなマヨヒガさんの声に、私は急いで足を拭い玄関へ駆け出す。

 ……そこに見えたのは、粉々に割れた玄関のガラスと投げ込まれた大きな石。

 そこに残るのは、悪意の感情。

 私の頭の中に、様々な風景が蘇る。悪意に満ちた噂サイト。女子高生の声。妙なやつをみた、という不動産屋さんの言葉に、この家を覗き込んでは去っていく複数人の若者たち。

 無機質に転がる石と、美しい流線模様を描くガラスの破片を見て、ぞうっと冷たいものが這い上がる。

 それは恐怖だ。

 祖母の言う通り、幼い頃には想像さえできなかった恐怖が、ゆっくりと私の中に広がるのがわかった。

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