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お菓子な夜と青の雨

 部屋に雨が降り注いだのは、豪雨が去った翌日のことである。

 


「こりゃぁ、だめだ。瓦が割れちゃってるもん。そっから染み込んじゃって」

 屋根に立つ不動産屋さんの言葉を聞いて、私は張り詰めていた息を吐く。

「な……治りますか」

「そりゃ直せるけど、今日じゃないよ。あの雨だもん、業者さんが全員出払っちゃってて。シートかぶせて応急処置はしたけど、また雨がふると漏れるかも」

 不動産屋さんは、空を見上げて眉を寄せた。

「今日はこんな晴れてるけど、明日は分かんないでしょ。この季節はさ」

 昨日と打って変わり、今日の空は見事に晴れ渡っている。

 ぽくぽくと浮かんだうろこ雲に夕日の色が滲むところなど、すっかり秋を予感させる空である。季節の変わり目は、激しい雨が降りやすい。

 昨日も大粒の雨がこの辺り一帯を襲った。雨は空気を震わせるほどに降り、大雨警報のアナウンスが何度も流れた。

 そして雨雲が少し遠ざかった明け方、部屋の中にも雨が降ったのである。

 ……つまり、雨漏りだ。

「屋根も点検しておいたつもりなんだけど、こう古いとやっぱりね」

 彼は屋根から降りると、腰を叩いた。最近は歳のせいか、少し動くと腰が痛いのだ。なんてことを言いながら。

「直るまでは二階には大事なものを置いておかないほうがいいよ。一週間くらいで手配できると思うけど。もし畳も水を浴びてるなら、それも取り替えよっか。結構……ひどかったんじゃない、雨漏り」

 明け方の大騒動を思い出し、私は赤面する。

 顔面に雨粒を浴びた私は、思わず悲鳴を上げてしまったのだ。慌てふためき一階に転がり下りて、マヨヒガさんには散々心配をかけた。

「水は全部布団に落ちたので、畳はなんとか無事で……」

「……ところで、泉谷さん、ここ、大丈夫?」

 ふうっと、冷たい風が吹いた。秋を感じる風だった。

 その風と同じくらい静かな声で不動産屋さんが私の言葉を止める。

「えっとね……さっきも妙なやつが覗いていたから、追い払ったけど、大丈夫?」

「妙?」

「若い男だよ。どうも……この家が、なにか妙な噂になってるらしくて」

 不動産屋さんはいかつい顔をしているくせに、言葉は慎重だ。気を使うように、言葉を選びつつ心配そうに眉を寄せる。

 彼の言葉で思い出したのはどろりと暗い、マヨヒガさんの写真だった。棘のような悪意を感じる、薄暗く、重苦しいあの写真。

 ……女子高生がこの家に訪れ失礼な一言を吐いたそのあとも、不審者は数人現れた。

 数人の男女が「何だ普通の家だね」と囁きあうのを見たこともある。

 いずれも私を見た途端に逃げていくので、今のところ大きなことにはなっていない。逃げ去る背を睨み、私が覚えたのは恐怖よりも怒りだった。

「勧めておいてなんだけどさ。女性で一軒家ってのはやっぱり危ない……というより、広すぎるだろうし」

 不動産屋は下がり眉をますます下げて、私を見つめる。

 腕をさする私を見て、怯えていると思ったのだろう。

「今からでも、他の家も案内できるけどね。引っ越ししてまだ数ヶ月なら、荷物の移動も手間じゃないだろうし。なんならもっと、会社に近い……」

「いえ、大丈夫です」

 私は表情を隠し、目の前に建つマヨヒガさんを見上げた。青みがかった瓦の色や、漆喰の少し剥げかかったところ。壁についた雨の跡、窓の少し曇ったところ。

 人間は年齢を重ねていい顔になった、なんて言うけれど家だって年を経ればいい顔になる。四季と時の流れが、家を素敵に変えていく。恐ろしさなんて欠片もない、年齢だけが作れる美しさ。

「私、この家が大好きなんです」

 そんなことがわからない人たちは哀れだ。と、私は冷たく考えた。



「……さて」

 私は薄暗い二階の部屋で腕を組む。

 不動産さんが言う通り、たしかにマヨヒガさんは広い。

 一階には台所と応接間、そして立派な欄間が輝く仏間が一部屋。

 細い階段をのぼっていけば、2階にも和室が2間備わっていた。大昔は大家族でも暮らしていたのかもしれない。

「……」

 そんな和室の畳には吸水シートが敷き詰められ、天井には雨染みが年輪のように広がっている。それを見つめて、私は目を閉じた。

 まぶたの裏に、申し訳無さそうに頭を下げる不動産屋さんの顔が浮かぶ。

 雨漏りをしたと告げたところ、彼はすぐさま飛んできてくれたのだ。

 しかし施工が悪かったわけではない。もちろんマヨヒガさんが悪いわけでもない。

 天井を見上げてみれば、ほんの少し、数ミリだけズレが見える。30センチ四方ほど、不自然に浮いていた。

「……だって、雨が入ったのは、多分、私のせいだし」


 そうだ。昨夜、私は天井の一角を押し開けたのである。

 布団のちょうど真上。その場所は、あとから手を加えた場所のようだった。かつて同じように水漏れでもして、腐食してそこだけ取り替えたのかもしれない。

 30センチ四方の真四角の板……天井の色と同じ色の板がはめこまれただけなのだ。

 昨夜眠る直前。なぜか私は天井のズレに気がついた。先日の台風で家が揺れた。それで隙間が大きくなったのかもしれない。そのズレに一度気づけばもう我慢ができない。

 昨夜遅く、私はかすかに浮いた天井の一角を、押した。別に押し開けようと思ったわけではない。直そうと、そう思っただけだ。

 しかし板は簡単に浮かび上がる。板のずれたその先は闇。埃の香りと時間の流れがそこに閉じ込められていた。

 ……そして、閉じ込められていたのはもう一つ。


 私は部屋の扉をしめ、慎重に周囲を見渡す。

 2階までは、マヨヒガさんの意識は届かない。ここで彼の声を聞いたことも、気配を感じたこともない。それは寂しいが、今は幸いだ。

 机の上に一枚の紙がある。それは黄ばんだ封筒だ。古びた封筒は、外れた天井板のすぐ横に置かれていた。

 この封筒を見つけた衝撃で、私は天井の板を戻すのをすっかり忘れた。そして明け方、雨がそこから降り注いだ。

 手紙の秘密と引き換えに、私は雨をかぶったのである。

「さて」

 私は机に置かれた封筒を前に腰を下ろす。誰にも見られていないのに、正座の形になった。

 昨夜この手紙を見つけたとき、封筒の表面しか見られなかった。中を覗くか明け方まで迷って、結局、見ることができなかった。

 しかし、私は今、封筒を前にしている。

 心臓がうるさいほど音をたて、指が震えた。その指を握りしめ、私は大きく息を吸い込んだ。

「……この家に」

 表に書かれているのは綺麗で整った……女性の文字。まるでスミレの花のような青く滲んだインクの跡。

「住む人へ」

 私にはこの手紙を読む権利がある。

 息を止めた私は、震える指で封筒を開いた。



「メイ?」

 マヨヒガさんの声が聞こえたのは、外がすっかり薄暗くなってからのこと。

「動きがないので、気になった……具合が悪いのか? それともなにか……」

 階段をおりると、すぐさまマヨヒガさんの声が響く。壁が震え、足元が暖かくなる。

 その暖かさに、私は不覚にも泣きそうになった。

「人は風邪をひく。もしかして、その風邪か……雨が……漏れたせいで」

 昨夜のことを思い出すように、マヨヒガさんが声を潜める。

「自分の体が古びているせいで……」

「違うよ。昨日も言ったけど、驚いたのは雨でも……マヨヒガさんのせいじゃなくって……」

「それに人の子は、体が弱い」

「……確かに、家に比べると、人間は弱いかな。でも別に風邪を引いたわけじゃないの」

 私は壁に背を押し当てて、微笑む。

「変な夢を見てる途中に雨水が当たって……それで驚いて、飛び起きたの。その夢をまだちょっと引きずってるだけ」

 そうだ、私は雨漏りに驚いたのではない。

 夢の中でマヨヒガさんと一緒に水に沈む夢を見たのだ。水の中で壊れていくマヨヒガさんを夢に見たのだ。声もなく沈むマヨヒガを救うことができない……そんな悪夢を。その瞬間に冷たい水を浴びたので、夢と現実が一緒になって叫んでしまった。

 それはきっと手紙の宛名を見たせいだ。そのせいで嫌な想像をして、悪夢を見た。その恐怖を思い出した私は、きゅっと腕を掴む。

「ところでマヨヒガさん。2階は湿っちゃったからしばらくは1階で眠らなきゃいけないんだけど……」

「そのほうが私も安心だ。メイが見えないと、不安になる」

「……ん。用意してくるね」

 まだ心配そうに震えるマヨヒガさんの壁を撫で、私はうん。と背伸びをした。

 情けない話だけれど、マヨヒガさんが絡むと私はとことん弱くなる。

「布団と、あと晩ごはんの用意もしなくちゃ」 

 再び2階に上がると、そこにはまだ雨の香りが残っていた。

 机に見えたのは、青紫の文字が刻まれた手紙である。

 私はそれを手に取る。夕方から数時間かけて、何度も何度も読んだその文面だが、実際はたった10行もない。しかし、私はもう一度、一行目からじっくりと目を通した。

「……この家に、住む人へ」

 それは短い手紙だ。差出人の名前はない。ただ、自分は去るのだと短く書いてある。自分はこの家にふさわしくないので去るのである。次の人はこの家を大事にしてほしい。

 ただ、それだけが書いてある。

 拍子抜けするほどあっさりとした文面で。

 その文字の向こうに、見たことがない女性の顔が浮かぶ。

 以前この家を覗きに来た藤色着物の婦人、彼女が語った女性……きっと、その人がこの手紙を書いたのだろう。

 不動産屋も「前の住人は亡くなった」と言っていた。きっとこの手紙の送り主はもう亡くなっている。祖母と同じように、煙になって空へと消えたに違いない。

 会ったことも見たこともないその女性のイメージは青色だ。だからインクの色を見た瞬間、ああ前の持ち主からの手紙だ、と私は悟った。

 彼女は誰が受け取るかも分からない手紙を遺し、ここを出たのだ。

 家が……マヨヒガさんが意思を持っていることは一言も書かれていない。ただ家を守ってほしい、大事にして欲しい、それだけを書き残して消えてしまった。

 手紙の最後には、この青は忘れな草のインクであると書かれていた。その一行こそ、彼女の本心のように思われた。

 


「ただいま。ついでに晩ごはんの用意もしてきた」

 私が両腕に抱えて降りたのは、毛布と枕……それに、大量のスナック菓子。

 ポテトチップス、チョコレートに、飴にラムネ菓子。全部、井口さんの置き土産だ。

 以前彼女が無理やり泊まりに来た翌日、気がつけば玄関横にお菓子の入った袋が置き忘れてあった。井口さんに尋ねると「買ったきりで忘れていた、先輩どうぞ食べてください」と彼女はいつもの調子でそう言い放つ。

 とはいえ滅多にお菓子を食べない私は、すっかり置き土産を持て余していたのである。

「……だから、今日は、お菓子の日にしよう」

 私は言い訳がましく呟いて、机の上にどん。とお菓子を置く。甘い、しょっぱい、すっぱい。油と砂糖でコーティングさされた、栄養のない……しかし人を喜ばせるお菓子の群れ。

 年に数回、無茶な食事をしたい夜がある。きっと、それが今だ。そんな気分に、このお菓子はよく似合う。

「お菓子を食べながら映画でも流して……」

 買ったものの見ずに溜め込んでいたDVDは山のように眠っている。それを漁って適当にセットする。気がつけば時刻はもう深夜0時を超えていた。

 夕刻から6時間近く2階に引きこもっていたことになる。なるほどマヨヒガさんも心配もするはずだ。

「……眠くなったら毛布にくるまって寝る。そんな感じの日にするの」

 机の上には、濃い目に作ったハイボールに、袋を開けただけのポテトチップス。紙皿に広げたチョコレート。

 からん、と転がる氷の隙間から、甘いウイスキーが香る。

 一口飲んで、ポテトチップスを歯で押し割る。塩の強い味が舌先を貫いて、こんな味だったなあと思い出す。

 年に数回、私はポテトチップスを食べて味を再確認する。辛いことがあったとき、頭を整理したいとき、お菓子を食べて頭をリセットするのだ。

 この強い塩味を味わうと、私の頭は冷静になっていく。

 祖母の四十九日で食べたのも、弔問客から貰ったポテトチップスだった。

 マヨヒガさんはそんな私を見て、呆れるように天井を震わせる。

「メイ、それが食事か?」

「たまにはいいでしょ」

 電気を消した部屋の中、小さなテレビからは眩しい光が漏れている。

 対立するギャングのボス2人が、そうと気づかず手を取り合って警察から逃げる。そんなドタバタコメディだった。

 パンパンと、おもちゃのような拳銃の音。滑稽な格好で転がる二人と、アメリカのパトカーが放つ青い光。

 青は、忘れな草の色でもある。

 彼女はどんな気持ちで、あの手紙を書いたのだろう……私は映像を見つめながら、そう考えた。

 短いが真摯な手紙だった。きっと彼女もこの家の秘密を知っていただろう。

 知った上で、マヨヒガさんを愛した上で……手放した。忘れな草の青だけ滲ませここを去った。そしてどこか知らないところで亡くなった。

 次に住む人間に……私に……マヨヒガさんを託して。

「マヨヒガさん」

 前の住人はどんな人だったの。一言で聞けるはずのその質問は、喉の奥で詰まった。たったそれだけのことを、私は夏の頃からずっと聞けずにいる。

 手紙を読み上げ、彼に聞くだけだ。きっとマヨヒガさんは、教えてくれる。それだけなのに、それだけのことが、恐ろしい。

「メイ?」

 マヨヒガさんの声は優しい。この声はきっと、前の住人にも届いていたはずだ。二人がどんな会話をしたのかは知らない。しかし私なら、あんなに優しい手紙なんて絶対に書けない。

「……不動産屋さんがね、歳を取ったら腰が痛くなるって言ってたの。マヨヒガさんはどこか痛くなったりする?」

「さあ、痛いという感覚を私は知らないから」

「痛みを感じないだけだよ。マヨヒガさん、大事にするね」

 磨いて、整えて、キレイにして。それ以外の大事にする方法を私は知らない。

 それでも私は彼を守りたいとそう思っている。

 消えてしまった祖母の家の代わりではない。前の住人に託されたからではない。

 私が、彼を守りたいのだ。

「大事にするからね」

 塩の染みた指先を口に含むと、喉の奥が震えた。

「私ね……大好きなの」

「好きでも、あまり毎日こういう生活をすることは、おすすめしない」

「そうだね」

 苦笑してウイスキーを飲み込んで、毛布にくるまる。冷えた鼻先がふんわりと暖かくなる。

 映画では、まだギャングたちが逃げ回っている。気がつけばお互いがお互いを庇い、守り合い、手に手を取り合って。

 きっと二人は最後に真実を知り、それでも友情を続けるのだろう。そんなハッピーエンドに違いない。ハッピーエンドであるべきだ。

 映画も、私たちも。

「おやすみ、マヨヒガさん」

 私はゆっくりと目を閉じて、毛布を頭までかぶる。

 

 その日、夢の中で私は溺れるマヨヒガさんを救い出す、そんな壮大な夢を見た。

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