予定狂わせのピザパーティ
予定というものは、予め定めると書くくせに、いつも予測もしな所から転がり込んでくる。
それは月の最終金曜、待ちに待ったノー残業デーの18時。
「……先輩、今日って予定あります?」
立ち上がった私を止めたのは、井口さんの一言だった。
「あたし、先輩に愚痴を聞いてほしくって……」
椅子に座ったまま、彼女は大きな目をぱっちりと開いて私を見上げる。
「予定あれば諦めますけど……」
スーツの裾を掴む指の感触に私はしばし、固まった。
「予定? 予定は」
私達の横を、同僚や先輩たちが足早に駆けていく。
待ち合わせ時間に遅れちゃう。と言いながら大急ぎで駆けていく事務の人。
今日はちょっと用事が……なんて言いながら飲み会を断る課長。
……私にだって、予定はある。
まず、廊下をピカピカになるまで磨きたい。
夏の間放置していたカーテンも洗濯したい。
そうだ。先日の台風で汚れてしまった窓ガラスにもホースで水をかけよう。そしてスポンジでウロコ汚れを一個一個、綺麗に落とすのだ。
つまり、マヨヒガさんを心ゆくまで磨きたい。そうして、きれいになったマヨヒガさんを眺めつつ、ビールを飲む。それが私の週末の予定。
「予定は……あるといえば、あるけど……」
「なんです?」
「……家の……掃除……とか?」
誤魔化す言葉が思い浮かばず、思わず漏れた本音に井口さんはニッコリと微笑む。
「それって人手がいりますよね。じゃ、あたしも手伝います」
「……えっと、じゃ、じゃあ」
差し迫るバスの時間に焦らされ、私は自分でも思いがけない一言をつぶやいた。
「……うち、くる?」
その言葉を聞いた井口さんは、ゴージャスなつけまつげを何度もパチパチさせて、嬉しそうに頷いたのである。
「先輩って、バス通勤なんですね。すっごーい」
ガタつく路線バスに揺られながら、井口さんは私を見上げた。
くるくるに巻いた栗色の髪に、青みがかった縁取りのコンタクト。
爪の先はまるで桜貝を載せたように、ぷっくり膨らんでいる。だからいつも、彼女の机から聞こえる打鍵音は賑やかで、華やかだ。
人に種別があるとすれば、彼女と私はきっと正反対。和室と洋室くらい違う。
そんな人と肩が触れ合うほど近くで喋っているなんて……それも我が家に向かっているなんて、ひどく不思議な気分だった。
「あたし、バス通勤って絶対、無理」
指先を夕日にかざしながら彼女は言う。
「嫌なこと覚えんの、死んでもオコトワリなんですよね」
「バスの時間を覚えるの、そんなに嫌?」
「だって通勤バスの時間を記憶しとくなんて、この世で一番嫌だし、記憶容量の無駄遣いじゃないですか?」
井口さんは舌を出し、眉を寄せる。すべての動作が大仰で、ついつい見とれてしまう。
彼女は前の座席のシートを指で突きながら肩をすくめてみせた。
「だから最近はずっと会社近くの彼氏んちのアパートに居候してて……まあその彼氏と別れる別れないってなってるから、その話を聞いてほしいってのもあるんですけど……」
井口さんは今年の春に新卒入社した、と聞いている。
つまり3月終わりに転勤となった私のほうが、部署的には後輩だ。しかし彼女は律儀に私のことを「先輩」と呼ぶ。
「それに先輩、家に遊びにおいでって、春の歓迎会のときに言ってましたもん」
井口さんはにこやかに言うが、私にその記憶は薄い。最近はやけに毎日が眠く、記憶がマシュマロのようにヤワヤワだ。なんとか仕事に支障を出さないようにしているものの、それ以外の記憶はすっかりポンコツに成り果てた。
「言ったっけ」
「ほら、飲みのときに先輩と隣同士の席で。あたしがワインこぼして……先輩が、家なら染み抜きあるのにって。じゃあ今から先輩んち、行きましょって、あたしが言ったら……遠いから無理だよ。でもいつか遊びにおいでねって」
ありきたりな会話。ありきたりな社交辞令。それは私の最も得意とする、逃げの会話術。
(きっと、言ったなあ)
ずり落ちそうなカバンを抱え直して私は考える。
そして井口さんはそんな社交辞令に、するっと入りこむ素直さを持っている。
「……でも、お化け屋敷だよ」
「お化けじゃなくって、化け物屋敷、ですよね」
がたん、とバスが揺れる。秋混じりの濃い夕日がバスのフロントガラスに吸い込まれて、社内を眩しく彩る。
「まあ。それを見たかった、ってのもあるかな」
まぶしそうに目を細める井口さんは、やっぱり素直だった。
バス、降車ゼロ秒。目ざとい八百屋のおばあさんに捕まってスイカを渡されて、それから徒歩1分。
細道を子供のように駆け出した井口さんは、大きな目をさらに大きく見開いた。
鎮守の森の横、そこに我が家が……マヨヒガさんが建っている。
「す……っ……ごおい! 田舎のおばあちゃんちみたい!」
目を輝かせて彼女は叫び、走り出す。軋む門を押し開けて、玄関までの飛び石をぴょんぴょんと跳ね上がり、腕を広げた。
「先輩、想像以上にいい家じゃないですか。庭ひっろぉい! ね、雑草ぱぱっと刈っちゃって、空いたところで花火しましょう。あ、そうだ。井戸とかないです? 田舎って、井戸でスイカ冷やしたりするんでしょ?」
勢いに押され、私はいつもの愛想笑いも忘れてしまう。ぽかんと固まったまま、ぎこちなく首をかしげた。
「さすがにそれはないかな。あっても水がないと思うけど」
「じゃあ冷蔵庫!」
若いというのは、それだけで強い。
彼女はカバンを放り投げると嵐のように家へと駆け込み、勝手に冷蔵庫へスイカをしまい込む。
再び庭に駆け戻ったと思えば、スマホ片手に門を越えて「近くにスーパーあるみたいなので買い出ししてきます」の一言とともに姿を消した。
勢いに押されたように、マヨヒガさんがかすかに揺れる。不安そうに天井を震わせる。
「メイ……誰か、知らない人が」
「ごめん、マヨヒガさん。予想外の予定が転がり込んじゃって」
説明をする間もないほどに、井口さんの行動は素早い。気がつけば、両手いっぱいに袋をつかんで駆け戻ってきた。
袋の中には呆れるくらいたっぷりの缶ビール、甘いチューハイ、そして花火……歯ブラシに、Tシャツ、化粧落としのお泊りセット。
驚いた私は思わず壁に触れる。マヨヒガさんも驚いたのだろう。壁がゆっくりと熱を持った。
マヨヒガさんの声は井口さんには届くのだろうか。それとも彼の声は私にしか聞こえないのだろうか。そんな疑問がふと湧いた。
聞こえても嫌だ。しかし聞こえなかったら……それはもっと恐ろしい気がして、私はその疑問を飲み下す。
「えっと……井口さん、もしかして、泊まるの?」
「え? この時間からの飲み会で、泊まらないって、なくないですか?」
と、彼女は悪びれなく微笑む。
「宿泊代のかわりに、ピザもいーっぱい頼んどきました。住所覚えてなかったから、神社の隣って言ったら、了解って。いいですね、ここ他に家ないから誤配もすくなそうで」
人を避け交流から逃げてきた私は、こんな激流を前にするとどうしていいかわからない。
「でも」
「そうだ。夜になる前にやっちゃいましょ」
井口さんは私が口を挟むより早く、ふわふわシフォンの袖をまくりあげる。そして彼女は台所の鏡を、天井を、じっと見つめるのだ。マヨヒガさんが見つかりそうで、私は思わず壁を背でかばう。
「やる……って? 何を?」
「掃除!」
堂々と宣言されたその言葉に、マヨヒガさんも戸惑うように小さな家鳴りを立てた。
掃除にかかった時間は、たっぷり3時間。
鏡もガラスも全てキレイに磨かれて、白い鱗の汚れはすっかりなくなった。雑草は一角だけが刈り取られ、すっきりと地面が見える。
そこに使われていない机と椅子を運べば、ちょっとしたピクニックスペースが誕生した。
気がつけば夜はとっぷりと更けていた。風は涼しく、虫も鳴く。昼は暑くても、空気はすっかりと秋だった。
りいりいりいと、あちこちから高い音、低い音。大通りを通る車の音に、鎮守の森が揺れる音。昨日までと同じ音と、匂いと空気だ。
ただ井口さんという存在だけが、飛び込むように現れた。
「ん~夏っぽい! もう夏も終わるけど!」
彼女は腕を伸ばし、晴れ晴れとした顔で笑う。
「花火にスイカにピザにビール。で、大声出しても怒られない広い家。最高ですね」
机の上にはライト代わりのスマホと、冷え切ったピザ、切り分けたスイカに冷たいビール、私が滅多に飲まない甘いチューハイの缶。そして大袋入の花火がずらりと並んでいた。
それを見て、私ははじめて、腹が鳴る。
真っ白なチーズが山盛り乗ったクアトロフォルマッジ、放置されてはすっかり固くなっている。そこにはちみつを垂らしてかぶりつくと、じょりっとした塩っぱさが口の中いっぱいに広がった。
トマトとバジルが乗ったマルゲリータも、バジルソースのジェノベーゼピザも、固いくせに不思議と労働の後の体にじんわりと染みていく。
とろとろと脂の染みた口の中に、甘いスイカを噛みしめるとスッキリする。
「スイカは……夏っぽいけど、ピザはどうだろう」
「ピザって夏の生き物って気がしません?」
井口さんは、ぱくぱくと気持ちが良いくらいよく食べる。その手の甲にできた切り傷を見て、私は慌ててピザを飲み込んだ。
「……掃除ありがと……雑草刈りも」
大急ぎで礼を言えば彼女は肩をすくめて見せた。
「あたし、責任が伴わない掃除って好きなんです」
ジェノベーゼのソースを指先で拭い、彼女は甘いチューハイを喉の奥に流し込み、スイカをかじる。
そして地面においたバケツの上で片手花火に火をつける。
「先輩。これならバッチリ夏っぽいですよ」
しゅ、っと懐かしい音を立てて虹色の光が生まれた。夜の闇に、灰色の煙が上がる。
鼻の奥に煙が香った。
香りと色は、記憶を数十年前に飛ばす……ああ、そうだ。まだ小学生の頃、私と祖母の夏休みは花火ではじまり、花火で終わった。
庭の隅で、私たちは花火をしたのだ。ルールを曲げるのが嫌いな祖母は、雨が降っても花火を決行した。
祖母は決まって線香花火で、私は片手持ちの勢いのあるタイプ。シュッと湧き上がる光と、音と、煙の香り。それに包まれる祖母の家。それが私の夏だった。
「いーですね、花火」
流れていく煙はマヨヒガさんに広がっていく。煙くないかな、眩しくないだろうか。そんな心配をよそに、井口さんは私に花火の袋を差し向ける。
「ほら、先輩も……あれ、細っこいのでいいんですか?」
……そして数十年経って、私は線香花火を選んでいた。
まるで傘のように広がる花火は、ゆっくりと時間をかけて燃えていく。淡い光に染まる祖母の顔は、もうほとんど覚えていない……ただ、あのときの音と煙と、なくなった家だけは、痛いくらいに覚えている。
「……きれいだね」
光に染まる井口さんの横顔を眺めながら、私もぬるいビールを飲む。アルコールがくらくらと、頭を支配していくのがわかった。
「花火とピザ。いいじゃないですか。また来年もしましょうよ。おっきいクーラーボックス持ってきますよ。彼氏が持ってるんで。まあ、それまで別れてなければ、ですけど」
嬉しい、楽しい、怒り。小さな井口さんの体からは色んな感情がくるくると湧き上がって、まるで花火みたいだ。
その大きなうねりに触れて、私はどう反応すればいいかを迷っている。
ぽとりと落ちる線香花火の玉を見つめ、私は唇を何度か動かし、息を飲む。
「ねえ井口さん」
「はあい」
「えっと……」
「何でも聞いてくださいね」
井口さんは無邪気に、私を見つめる。その声に、表情に、私は確信した……彼女はなにか目的がある。私の予定に食い込んでくるくらい、強い目的が。
「……なんで」
こんなときの直感はよく当たる。井口さんはきっと何かを隠している。
「……なんで……今日ここにきたの?」
そして結局、私は一番聞きたかった言葉を口にした。
「彼氏の愚痴ですよ。あたし、飽きっぽいんですよね。好きの気持ちが続かなくて、すぐ別れちゃう。今の彼氏のことも、もう好きかどうかわかんなくて、もう別れそうでえ」
机に突っ伏し、井口さんは取ってつけたよな愚痴を吐く。しかし言葉を止めて、彼女は眉を寄せた。
「……ほんとのこと言うと」
そして井口さんは手の中で缶を潰す。それは台風の夜に聞こえた絶望の音によく似ていて、私の背に冷たい汗が流れた。
「主任に先輩の家を探ってきてくれ、って言われたんですよね」
リー、リーと虫の声が一段と大きくなった。急に飛び出してきた小さな虫が、私達の前を飛び退っていく。
「化け物屋敷、のことですけど」
井口さんは終わった花火を手早く片付けた。花火の光と煙がすっかり流れてしまうと、残ったのは夜の闇だけだ。
「噂があるってことは何かあるんですよ。地場が悪いとかガタついてるとか」
井口さんは平然と、二本目のチューハイに手を伸ばしながらマヨヒガさんを見る。
とっぷり更けた夜の中、マヨヒガさんが建っている。
築60年の色あせた壁や、しっかりとした屋根。大きな玄関に、整えられた縁側。どこから見ても美しい、ただ美しく静かで……立派な、マヨヒガさん。
「あと、変な人が来るとか。なんかこの家、そういう妙なサイトに載ってるみたい」
井口さんの言葉の一つ一つが私の心を揺さぶった。自分のことであればいくら悪く言われても、汗一つ流さない。しかしマヨヒガさんのことになると別だ。
……あの日、見知らぬ女子高生が放った乱暴な一言は、いまだ私の心の何処かに棘となって刺さったままだ。
あの子が誰なのか、なんのためにここに来たのか。
それはどうでもよかった。マヨヒガさんはちょうど聞こえない位置だったのか、動揺も疑問も抱かなかったようで、それだけが救いだった。
「そ、そんなことないからね、化け物なんて」
このことは、私の秘密にするつもりだ。私は声を抑え、首を振る。せっかくのピザなのに、なんの味もしない。ただ心音だけがうるさい。
「すごく、良い家で、この家は……すごく……私にとって」
「もちろん誰も信じてないですよ」
井口さんはもう一枚、ピザを手に取り足を組む。ジェノベーゼの青い香りが鼻をくすぐる。ジェノベーゼの原料であるバジルの香りだ。
この家に越してきたとき、なぜか庭の一角にバジルが群生していた。
青くて、柔らかい香りなのですぐにわかった。しかし今はもうない。
ハーブは広がるから。と、不動産屋さんがきれいに刈り取ってしまったのだ。
バジルの花言葉は好意、好感。前の住人はもしかすると、誰かに恋をしていたのかもしれない。そんな気持ちを感じさせるような、心地よい庭だった。家だった。私はマヨヒガさんに話しかけられる前からこの家が大好きだった。
「で、本当に危ない場合は、社宅に引っ越してもらおうって」
「え……引っ越しなんて」
「でもこの家見て、気が変わっちゃったんです」
秋を感じさせる風が、二人の間を吹き抜ける。その冷たさに目を細め、井口さんは微笑む。
「家って住む人によって匂いとか、雰囲気が変わるじゃないですか。家がその人に合わせるっていうか……違うな。人がその家に合わせるのかな、どっちだろ」
「合わせる……」
「この家、大事にして……んー違うなあ……大事にされてるって感じがする。守ってくれてるような……ねえ、先輩、この家、大好きなんでしょ」
井口さんは、変なところで鋭い。大きな目に見つめられ、私は頷いた。
「……好き」
言葉は偉大だ。自分さえ知らなかった気持ちが、言葉にすると溢れ出す。自分の声が耳に響き、それを咀嚼して、言葉は体の中にゆっくりと広がる。
「私はこの家が、好き……なんだ」
口にした瞬間私はひどく動揺した。立ち上がり、バケツを蹴飛ばし、私は慌てて花火のカスをかき集める。指先まで熱くなり、まるで自分が自分でなくなったようだ。
しかし井口さんはそんな私をみてもくすりとも笑わない。バケツを直し、私の頬にぬるいビールを押し付けた。
「先輩がうちの事務所来る前に流れてた噂、知ってます? 今度来る女の子は、動揺をみせない営業の鑑。本当にそうだったから、あたし、驚いたんです。クレームにも一切、動揺しないじゃないですか。なのに、ボンのメールで動揺して……今も動揺してる」
「私、動揺、してる?」
背に流れる汗と、心臓が小刻みに揺れる音。胸を押さえ、私はつぶやく。
「中学生の女の子が恋愛してるみたい」
「へ、変だよね。こんな」
「変って言っちゃだめですよ」
指が震えて、プルトップが開かない。井口さんが缶を取り上げ、桜貝みたいな爪でプルトップを弾き開ける。
ぬるくて苦いビールが喉に染みた。アルコールのせいなのか、言葉のせいなのか、体が全部、全部、熱い。
「好きって、お金で買えないじゃないですか」
いいな。と井口さんは私を見る。家を、マヨヒガさんを見る。
「あたし、多分本当に好きになった人なんて、いないから」
そして彼女は寂しそうに微笑んだ。
「……お金を出して買えたらいいんですけど」
しかし私は何も言えない、何も返せない。
私は多分、今、はじめて自分の感情というものに気がついてしまったのだ。
片付け終わってお風呂に入り、客用布団を用意するなり井口さんはまるで子供のように寝息をたてはじめた。
時刻は気づけば深夜二時。丑三つ時だ。
この時刻になると不思議と虫の声も静かになり、マヨヒガさんの体も冷える。私の一番大好きな時間だ。
私は布団を抱えて客間隣の廊下に寝転がる。壁に額を押し付けると、ずっと聞きたかった声が静かに降り注ぐ。
「……メイ、今日は賑やかだったね」
マヨヒガさんの静かで暖かな……柔らかな声。私は胸の奥がキュッとすぼまる音を聞いた。
「マ……ヨヒガさん、会話聞こえた?」
「いや、あまり。庭は、聞こえにくい」
その返答に私はほっと安堵した。井口さんに聞こえないように、静かに目を閉じ静かに声を吐く。
「ちょっと酔って、変な話を」
「メイは、誰か……」
マヨヒガさんは珍しく戸惑うように、つぶやいた。戸惑うように、少し不機嫌な様子で。
「好きな人が?」
「多分ね。でも」
それはあなただと、口にすればマヨヒガさんは困惑するだろうか。気持ち悪いと跳ね除けるだろうか。二度と口をきいてくれないだろうか。
不安は心を締め付けるが、同時に井口さんの言葉が私を慰めもした。
「どうしていいのかわからないんだ。こんな気持ちは初めてで」
廊下を撫でて、壁に足を押し当てる。マヨヒガさんに触れるのは私ばかりだ。抱きしめる腕がないとマヨヒガさんは言った。
しかし、私だって、マヨヒガさんを抱きしめられない。
「私もマヨヒガさんと同じなら良かったのに」
同じ年齢を刻み同じように生きていけたら、残されることはないのだろうか。そんなことを私は不意に、考えた。
「え……今、何時?」
昼の日差しが一面に広がる頃、ようやく井口さんがゆっくり身じろぎした。
「そうそう先輩んちだった……わ。もう12時!?」
天井を見上げ周囲を見渡し、ここがどこか思い出したのだろうか。彼女はぴょこんと飛び起きる。
「びっくり! こんなに長い時間寝たのって学生時代以来!」
「よく寝てたよ」
昨日の残りピザを温めながら、私はコーヒーをセットする。井口さんは朝日が上がりきっても目を覚まさず、身動ぎ一つしなかった。
惰眠をたっぷり貪った彼女は目をこすりながら、気持ちいいくらい伸びをする。
「なんでだろ。すごく、心地よくって……」
彼女は大きなあくびをして、また布団に顔を押し付けた。
「彼氏の家で居候してるって言ったでしょ。喧嘩気味で、ずっとソファで寝てるんです。そのせいかな、最近寝不足だったんですけど、すっかり取り戻したってかんじ」
煤けたような天井を見上げ、彼女はつぶやく。
「……あたしも、帰ろっかな。自分のアパート」
「あるの?」
「ありますよ。でももう1年も帰ってないし、多分ひどいことになってると思いますけど」
井口さんは顔を歪めてため息をつく。
「家に帰りたくなくて彼氏作り続けてたところあるから」
「なんでそんなに家が嫌なの」
「……一回閉じた扉を開けるのって、めちゃくちゃ怖くないです?」
やがて彼女は、諦めるように伸びをした。
「掃除してえ、布団も全とっかえして。バスの時間も、覚えて。ああ、冷蔵庫の中とか絶対ひどいことになってるんだろうなあ」
面倒だ。とつぶやきながらも彼女の頭の中では計画が進んでいるのだろう。器用にスマホをいじってその画面を私に見せつける。
彼氏らしき相手への、短くも潔い別れの言葉。
「彼氏の家から出ます。そんで、家に帰る」
「それがいいよ……家、寂しがってるかも」
「まだ待っててくれてるのかな、あの家」
「待ってるよ、きっと」
私は天井を見上げて、思う。
この家にはじめて入ったとき、迎えられた、と感じたのだ。光が差し込み、帰るべき場所にきた。と確信した。
しかし、マヨヒガさんは私ではなく、別の人を待っていたのではないだろうか……時々、そう思うことがある。
「あたしんちも、先輩んちみたいになるかな」
「なるよ、きっと」
私は昨日までの動揺を押し隠して、コーヒーにたっぷりの牛乳を注ぐ。昨日今日と喋りすぎだ。動揺もしすぎた。長らく凪いでいた感情に嵐が来たようだ。
揺らいだ心には筋肉痛のような痛みが残っている。しかし、不思議と心地が良い。
「だから今度、井口さんの家に遊びに行かせてね」
珍しく、私は本心からそう言った。