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嵐の夜の鍋焼きうどん

 台風の近づく夕暮れは、空気が少し特別になる。


「……うーん。やっぱり木の板、もっと貰ってくればよかったかなあ」

 長い木の板がばってんの形に組み上がるのを見つめ、私は溜息を漏らした。

 庭に面した広い縁側にはかつて雨戸があったようだが、今はその痕跡が残るばかり。

 ぼうぼうに生えた雑草や庭に生い茂る木のおかげで、少しの雨くらいなら雨戸要らずである。しかし、今夜は特別。

 ……今日の夜、大型の台風がやってくる。  

 雲がちぎれて飛んでいくグレーの空に、湿った空気。

 石でも背負っているような、倦怠感……すべて台風の前触れだ。

 テレビで流れるのは、朝からずっと台風の速報ばかり。

 お盆休みの始まりを狙い撃ちするように現れた台風に、下がり眉のアナウンサーがますます眉を垂らして困り顔をしてみせる。

 家の補強を忘れずに。と繰り返すテレビを見て、私は含み笑いをする。

 皆きっと今頃、慌てたように家の壁や窓を見直しているはずだ。

「台風の日って、家を急に大事にし始めるよね。私なんて……」

 言いかけて、私は顔を上げた。そういえば先程からマヨヒガさんの反応がない。

 ねえ、マヨヒガさん。大丈夫? そう呼びかけても珍しく返答がない。

「マヨヒガさん?」


「ああ、メイ」


 いつものマヨヒガさんの声が聞こえ、私は張り詰めていた息を吐く。

 焦って縁側にすがりついた様子を見られたか、マヨヒガさんが苦笑するように漏らした。

「ひどく慌てているな、メイ」

「声が聞こえなくなったから……びっくりしちゃった」

「私がメイを感じられるのも見えるのも、この部屋を中心に少しだけ。離れてしまうと声も姿も感じなくなる」

「確かに、私の……2階でマヨヒガさんの声が聞こえたこと、ないもんね」

 私が自室と決め込んでいるのは2階の和室だ。

 2階につながる階段には小さな取手がついた古めかしい扉があって、秘密基地みたいでワクワクする。赤い絨毯が敷き詰められた急勾配の階段を上がっていくと、もう一枚扉が現れ……それを開くといきなり青い畳の香りがするのだ。

 その部屋には、マヨヒガさんの気配は薄い。

 トイレでもお風呂でも声をかけられたことはない。

 彼の声が聞こえるのは、立派な欄間と違い棚がある床の間、その隣にある続きの部屋。そして台所、縁側……あとは庭の一部分だけ。

 彼の気配が一番強いのは、縁側だ。ツルツルの縁側によじのぼり、私は子供のように両手足を伸ばす。それに応えるように、背の部分がじんわりと暖かくなった。

「昔はもう少し外が見えた気がする。家の中も全部……隣の神社のクスノキを見ることもできたし、道の向かいまで……視界は広かった」 

(……マヨヒガさんの視界が狭くて、良かった)

 せつなそうに呟くマヨヒガさんには申し訳ないが、私は少しだけ安堵する。

 家と人。無機物と有機物。

 マヨヒガさんは人間の思考を持たないとわかっていても、やはりお風呂まで丸見えなのは、少しばかり恥ずかしい。

「人間も年をとると視野が狭くなるから、そういうのかも」

 よいしょ。と勢いつけて立ち上がり、私は再び庭を見渡す。

 風が少し出てきたようだ。予報では大雨も強風も夜以降のはずだが、皮膚にピリピリと雨の粒を感じる。

 空は17時とは思えない暗さで、セミの声も鳴りをしずめた。

「マヨヒガさん、お年寄りなら、今日はしっかり大地に根を張っててね」

 まるで世界の終わりのようだ。ちぎれて流れる黒い雲を見上げて私はトンカチを握りしめる。

「……台風がくるから」

 八百屋のおばあさんから頂いた木の板を雨戸代わりにして、ガラス扉に打ち付けた。内側は段ボールでしっかり補強する。やり方はインターネットとおばあさんのアドバイス。

「雨戸の代わり、というにはちょっと弱いかもだけど……」

 私は慣れない手付きで釘を握る。トンカチを持つ。

 高いところに登ると、この家の古さがよく分かる。

 柱は立派だが、壁は薄い。ガラスも軟そうだ。飛んでいかないように、壊れないように。祈りをこめて私は板を立てかける。

(どこまでも安全な……固い補強にしよう。絶対に、崩れない、壊れない家に……)

 脚立に乗って窓枠を覗き込むと、そこにはささくれた小さな穴が見えた。

(……釘の穴)

 かつて同じように誰かが打ち込んだ釘の跡である。

 私より前に、この家を守った人がいたのだ。それはきっと、前の住人。その人は、どうしてここを離れたのだろう。その人もこんなふうにマヨヒガさんに話しかけたのだろうか。

 古いその場所に同じように釘を打ち込んで、私はそっと柱を撫でる。

「痛くない? マヨヒガさん」

「人に痛みを聞かれたのは初めてだよ、メイ」

 家であるマヨヒガさんの痛みとは、どんなものだろうか。と私はふと考えた。



 台風は予想通り夜更け過ぎに本格化した。

 叩きつけるような雨が窓を包む。壁を揺らす。どこかのトタンがめくれて、激しく壁を叩きつける。

 そんな鈍い音が響く。地震でも起きたような爆音と、庭の木が折れそうに斜めに傾くのが見える。

 自室の窓から外を眺めるうちに、私の背中に汗が滲んだ。

 ぎしりと揺れる建物の音と家が傾くような感覚に私の足が震える。薄い布団にくるまって耐えられたのはたった30分だ。深夜2時を時計が刻む頃、私は震える足で階段を下っていた。

「メイ?」

「怖いの」

 ぎしりと家鳴りに驚き、私は床に座り込む。

 床を這うように、ようやくたどり着いたのは8畳敷きの床の間だ。

 いつもは雪見障子の向こうに庭の様子が見えるのだが、今は引っ越しの段ボールに塞がれて何も見えない。

 きしむガラス窓は、時折大きく膨れることがあった。窓には近づかず、私はできるだけ家の中心に体を寄せる。

 ……その冷たい床の感覚も、冷えていく部屋の香りも、家の揺れる音も何もかも知っている……それを経験したのは、もうずっと昔。私が10代の頃。

 祖母の家が、台風の夜に崩れた。

「崩れる家が……怖いの」

 吐息のようなつぶやきを漏らした途端、風が一瞬収まった。

 おかげで私の弱い部分が、部屋の中に響き渡る。

「メイ」

 そうつぶやくマヨヒガさんの声は優しい。

 祖母の家も意志を持っていたのだろうか。

 もしかするとその声を、私がただ聞き取れなかったのかもしれない。座り込んだ床の上で強く拳を握りしめて、私は考える。

「……昔、お婆ちゃんの家が、台風で壊れたの」

 私が幼稚園から大学の頃まで育てられた祖母の家は、彼女の死後も遺された。

 私はその時、10代の後半だ。

 都会の大学に通っていたため、祖母の家に足を運ぶのは年に多くて1度か2度。祖母が入院してからは年に1度も戻らないこともあった。

 住まないなら崩したほうがいい。と、周囲は忠告したが私はそれを無視した。土地だけにして売ればしばらく遊んで暮らせるのに。という嫌な声も無視した。

 10代の最後は誰しも大人ぶるものだ。

 最後の身内をなくした私は、必要以上に気を張って生きていた。

「家だけは、お婆ちゃんの遺してくれた家だけは、私の帰る場所だって……」

 私は膝を抱え、膝頭に額を押し付ける。ひょうひょうと、風の音がした。ギシギシと家が揺れる音もする。

「だから私、台風の夜にその家に居座って……家はどんどんと壊れていった」

 あの夜も、私は意地を張って祖母の家に入った。祖母の四十九日が迫っていたためだ。一人ででも準備をしてみせる。などと意気込んでいた。

 近年稀に見る大きな台風だ。この家は保たない。そう叱られても意地を張って家に根を下ろした。

 夜中、軋む家と壊れた窓を見て恐怖で足がすくんだ。心配して見に来てくれた近隣のお爺さんに引っ張り出されたおかげで怪我一つしなかったが、間一髪だった。と、皆にはさんざん叱られた。

 翌日、私はその理由を知ることになる。

「もう、本当にボロボロだった。あのまま家にいたら怪我をしたな。ってくらい」

 吹き飛んだ扉。倒れてしまった祖母お気に入りの物干し台。乾いた池に落ちた瓦。すでに折れて久しい梅の木も、耐えていた根っこごと倒れてしまった。

 壊れた家を呆然と見つめる私を見て、周囲の人々は「やっぱりね」と嘲笑った。

 無知で幼かった私は、人の手を離れた家が崩れやすくなることを知らなかったのだ。

 いや、この際、私のことなどどうでもいい。

 あの日、祖母の家はどれだけ不安だっただろう。補強もされず、守られもせず、風に晒され、どれほど不安だったのだろう。

 祖母の家は梅とカレーと思い出の匂いに包まれて生きていた。絶対に生きていた。

「……私が、守ってあげられるはずだったのに」

 そうして宝物だった家は潰れ、祖母の思い出は土の中に混じってしまった。

 壊れて誰もいなくなった祖母の家は、音が響くばかりでまるで見知らぬ場所のようだった。

 祖母の家の崩れるときの香りを、今でも覚えている。畳が吸い込んだ家の香りが埃と共に天に向かって舞い上がり、まるで野辺送りのようだった。

 いまあの土地は、いくつもの区画に分けられ、コンクリートで作られた見知らぬ家が建ち、見知らぬ人が暮らしている。

「メイ、顔をあげて」

 台風の家鳴りとは異なる優しい揺れ。私はふっと顔をあげる。

「私には、メイを抱きしめる腕がない」

 マヨヒガさんは姿を持たないはずなのに、まるですぐ目の前にいる、そんな気がする。

 温かい掌に頬を包まれた気持ちになって、私は思わず目を細めた。

「マヨヒガさ……」

「しかし、強い土台を持っている……壁も屋根も、こう見えて強い。根っこを張っている。私は、この程度の風では潰れないよ」

「……ありがとう」

 優しい空気に包まれて、私は指先で慌てて涙を拭う。

 同時に腹の奥がくう、と鳴った。それは安堵したときの私の癖。

 祖母の葬式のときも、失敗した面接のあとも、友達と喧嘩して仲直りしたあとも、必ず腹が鳴る。その音を聞くと私はほっと安堵するのだ。

 ……もう大丈夫。

「うん。今日はもう寝ない」

「メイ?」

「昨日もいっぱい寝たし、明日、いっぱい眠ればいいんだもん」

 ぶん、と腕を振り上げて私は立ち上がる。ドコドコと揺れる窓を横目に、台所に滑り込み、電灯紐を引っ張ると、台所がオレンジに染まった。

 壁の薄いアパートなら、夜中にこんな大騒ぎをすれば隣から苦情が来るだろう。しかしここはそんな心配もない。

 壁が厚く、地面もしっかりとしている。この家の中なら大丈夫だ。と、私はつぶやき、その言葉に安堵した。

「そうだ。うどんを、作ろう」

 冷蔵庫にある余り物を思い浮かべ、私はそう決める。

 冷凍のうどん玉があったはずだ。粉のうどんスープも、天かす、おぼろ昆布もある。そうだ、蒲鉾を薄く切って浮かべてみると、ぐっとお店っぽきなる気がする。それにもちろん、卵もマストのアイテムで。

「メイ、無理を……」

「無理をしているんじゃないの」

 冷蔵庫を覗き込み、大きな鍋を出す。キッチン台の上をお手拭きで綺麗に拭い、息を吸い込む。

 家鳴りも、家のきしみも、風の音ももう何も怖くない。

「儀式なの。元気になるための」

「儀式……食事が?」

「小さい時、嵐の夜と雷の夜は、夜更かしして温かいものを食べたの」

 幼い頃、台風や雷に決まって怯える私に対し、祖母はいつも夜更かしを許した。

 うどん、味噌汁、ミネストローネにポタージュスープ。コトコトと煮込まれていく温かい食べ物が、いつも私を元に戻した。

 台風でも雷でもマヨヒガさんは怯えない。死に対しても「そわそわする」と言う気持ちだけで、怖いとも悲しいという気持ちもないようだ。

 諦めともまた違う。家に恐怖という感情はないのだろう。しかし恐怖を持つ人間は、儀式をするしかない。

 悲しみからの復活の儀式は、決まって温かい食べ物である。

「それが私の儀式」

 大きな鍋に、うどんの冷たい麺が滑り込む。温かい出汁と、卵、たっぷりのネギに生姜に溢れんばかりの天かすも。

 上からはらりと落ちるのは2枚の赤い蒲鉾だった。

「……ほら、蒲鉾を乗せると、すっごくきれい」

 ぐずぐずに煮込まれていく鍋焼きうどんを見つめて、私はようやく息を吐いた。



「メイ、もう台風は消えたよ」

 マヨヒガさんが声を掛けてきたのは、まもなく朝が来ようかという時間だ。

 うどんをたっぷりと食べて体も温まり、眠気がまぶたと戦っている……そんな時にマヨヒガさんがふと声をあげたのだ。

「縁側の外を見てご覧、メイ」

 微笑むようなマヨヒガさんの声に疑心暗鬼のまま、そっとガラス窓に耳を当てる。

 外の風も雨も大人しくなった。もう風の音も聞こえない。

 縁側の扉は木の板と段ボールで補強してあるので、様子を見ることはできない。私は意を決し、玄関の扉を開く。

 

「……わあ」


 扉の向こうに見えたのは、まるで奇跡のような朝焼けの色だ。夜の黒に、早朝の青霞。赤の雲に緑の筋。虹が空を覆い尽くしたように、カラフルに輝く。雲はいろいろな色を身にまとい、ちぎれるように飛んでいく。

 しかしもう、地上はすっかり静かだった。風もなく、音もない。濡れた大地と歪んだ雑草だけが、台風の痕跡を残している。

「縁側……縁側……」

 マヨヒガさんの指示を思い出し、私は縁側に急ぐ。見えたのは白くて小さな人形だった。ずっと屋根のところについていた小さな像が風のせいで転がり落ちたのだろう。

「鍾馗様……だったっけ?」

 拾い上げ、泥を払うと案外愛嬌のある顔をしている。

 それは家の守り神たる鍾馗だ。と八百屋のおばあさんは教えてくれた。怖い顔をした鬼のような像だ。髭面で武器を持ち、前方を睨みつけている。

 掌の中に収まる程度のそれを持ち上げた瞬間、そこから声が聞こえた。

「メイ、聞こえるか」

 わ。と思わず叫んで落としかけた像を、私は慌てて抱きしめる。

 それは、家の中でしか聞こえないはずの……マヨヒガさんの声だった。

「風で守り神が落ちた気がした。それは昔、私が外を見るための目だったんだが随分前に見えなくなってね……風で落ちたせいか、また外界が見えるようになった」

 やや興奮気味にマヨヒガさんが語る。外の世界を見て、彼はため息を漏らす。美しい空を、庭の雑草を見せるように持ち上げると、彼は感嘆の声を上げた。

「マヨヒガさん、こんなことができるんだ」

「できないかと思ったが、できた。こうすれば、メイが寂しいときも、一緒にいられる……それが私は嬉しい。家は、人を守るものだから」

 寂しくなんてない。漏れかけた意地っぱりは、私の喉の奥に消えていく。

「だからメイ、台風で潰れた家は、後悔も悲しみもない。人を失った家は、役目を全うして消えていく。メイに怪我をさせずにすんで、ホッとしていたかもしれない……私はその家を知らないが」

 マヨヒガさんの暖かさと、うどんの温かさが私の体を包み込む。

「……しかし、私なら、きっとそう思う」

 台風一過の眩しい光が、私の上に降り落ちた。そうだ。あの日も祖母の家には美しい朝日が差し込んでいた。まるで誇るように、あの家は崩れていた。

「ありがとう」

 潰れた祖母の家に、そう言ってあげればよかったのだ。私はふと、何年も前に別れた懐かしい家を思い浮かべた。

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