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梅雨の晴れ間と二人の約束

 私が越してきたこの町は、古くて寂れていて……そして、人がいい。


「泉谷ちゃん」

 急に声をかけられて、つんのめるように足を止めた。そこにあるのはシャッターが半分降りた八百屋の看板だ。

 バス停目の前にあるこの八百屋の築は70年だか80年だか。壊れたところをつぎはぎしながら使っている……と聞いたことがある。

 去っていくバスの明かりに照らされた建物を見上げて、私は目をこする。

(……まさか、家という家の言葉を理解できるようになった?)

 そうおののいた瞬間、シャッターの隙間から伸びた腕にぐっと鞄を捕まれた。


「あたし、あたしよ」


「ああ。八百屋さん!」

「やだよ。まだ幽霊になんかなっちゃいないよ」

 そこにいたのは、御年90を越えた八百屋のおばあさんだ。腰は曲がったが、毎朝野菜の積み下ろしをしているためか、腕や足の力は衰えない。

 彼女はゆうらりとシャッターをくぐって外に姿を見せる。

「あんた、仕事帰りにここを通るじゃない。いっつも20時までには帰ってくるのに、今日は遅かったのねえ」

 店に掛けられた時計は、22時を指している。もうこんな時間だったか。と私は驚き目を丸めた。

「……残業で……」

 表面のガラスは茶色に染まっているが、この時計は1分のズレもない。息子さんが、時計職人になったからである。

「残業ねえ」

 自慢の時計を見上げておばあさんは鼻を鳴らす。

「仕事なんて夢中でやるもんじゃないわよ。見てごらん、あたしなんて日が落ちたら店をしめんだから」

 可愛いフリルの寝巻き姿を惜しげもなく見せつけて、彼女は大きなビニール袋を私に押し付けた。

「これ、あげようと思ってさ、ここで待ってたの。いっぱい貰っちゃったから」

 袋をのぞき込み、私は再び目を丸くする。

 中には、つるんとまん丸い梅がぎっしりと詰まっているのだ。

 産毛の生えたそれをつまみ上げると、ぬるい空気に爽やかな香りが広がった。

「生の梅……久しぶりに触りました。でもいいんですか? こんなにいっぱい」

 梅雨入りしたせいで、毎日雨だ。

 小雨に霧雨、降っては止んでの繰り返し。

 おかげで空気はずん、と重い。その重さを振り払うような、さわやかな香りが袋の中にずしりと詰まっていた。

 緑とピンクのグラデーションは、朝日の色に似ている。摘んで空に向けると、そこに朝が生まれたようだった。

「若い子に生の梅なんてあげても荷が重いんだからやめときなって、嫁がうるさく言うもんだから心配してたけど、泉谷ちゃんなら喜んでくれると思った」

 私の顔を見て、おばあさんは嬉しそうに顔の皺を深くする。

「干してもお酒にするのもシロップ漬けでも、どれでも美味しいからさ……そんなことより、圭くんがねえ」

「圭くん?」

「不動産の。あんたに家を案内した子。うちの甥なんだけど」

 おばあさんは、困ったような顔で首を傾げる。その顔に、不動産屋の顔が重なった。

 あの顔から髭をとれば、確かにおばあさんにそっくりだ。

「若い娘さんに無理やりあんな古い家を押し付けちゃった~って後悔しててさ」

 圭くんおじさんの顔を思い出し、私は思わず苦笑する。

 確かに彼は家を案内してくれた時、気まずそうな顔をしていたのだ。

「最初はさ、あそこ案内するつもりはなかったんだけど、入居者決めなきゃ解体するって言われて。まだ住める家なのにかわいそうだ。誰かに住んで貰わなきゃって焦ってたって。でもねえ、あんな古くて女の子のひとり暮らしには似合わない広すぎる家だろ」

 かわいそうだ。の響きに私は目を細める。あの家が好きなのは、私だけではないらしい。 

「そのお詫びにさ。泉谷ちゃんには、できることはしてあげなきゃね、って皆でそう話してたのよ」

 狂わない時計が22時5分を指し示すのを見て、私は大きく伸びをする。

 家の話をしていたら、無性に家が恋しくなった。早く戻りたい。一秒でも早く、靴を脱いでシャワーを浴び、青い香りのする畳に寝転がって、薄暗い天井を見上げたい。

 目を閉じて香りと音と暖かさを体いっぱいに感じて。

 ……そして、彼の声を聞きたい。

「まさか。感謝してるくらいですよ。良い家を紹介してくれて」

「あらそお。若い子はみんなタワーマンションが好きなんだと思ってたわ。この町にそんな洒落たものなんてないけどさ」

 まるで小さな森に囲まれたようなあの家を初めて見た時、奇跡のように太陽の光がさっと差し込んだことを覚えている。

 きっと私はこの家に住むのだろう……契約を交わす前に、私は確かにそう思った。

「……早く、家に帰らなきゃ」

 その直感通り、私はあの家に、住んでいる。



 八百屋から家までは歩いて1分だ。

 夏の湿気に湿った体を振るって家に飛び込み、私は大急ぎで温いシャワーを浴びる。乱雑に体を拭いて、大急ぎで冷凍の焼おにぎりをレンジにかける。

 ……そして、机の上に積み上げた荷物をみた。

 会社の鞄。隣には梅の詰まったビニール袋……それにもう一つ。

「ビールまで貰っちゃった。シャワーの前に冷やしとけばよかったかな」

「メイは酒が好きなんだな」

 八百屋のおばあさんから頂いた6本パックのビールを眺める私に、柔らかい声が降ってくる。

「私と初めて会話した日も、酒を飲んでいただろう」

 その声を聞いて、私はこの家に初めて足を踏み入れた日……一日目の夜のことを思い出した。

 声が聞こえて、驚いて、震えて……そうだ。確か、そのまま外に飛び出したのだ。

 しかし行くところもなく、仕方なく古びた自販機でビールを買ったのである。

「……飲まないと怖かったのかも。マヨヒガさんが、誰なのか分からなかったから」

 ビールのプルトップを撫でながら私は少し、照れた。

「もちろん今は怖くないよ。でも最初は……マヨヒガさんのこと、幽霊とか妖怪とか、神様とか……そういう存在だと思ったんだ」

 巫女もはるか昔は、神事の際には酩酊して踊ったという。

 人が神や妖怪に触れるためには、神の領地に入り込む必要がある。

 声の主が神か妖怪か分からなかったけれど、私はぐっとビールをあおって、見えない存在に立ち向かおうとしたのだ。

 あなたは誰。どこにいるの……そう声を上げた。そんな記憶がある。

 ずいぶんと演技がかったわざとらしいせりふだ。たった3ヶ月前なのに、初々しい姿を思い出して私は照れる。

「とはいえ、今もまだマヨヒガさんが何なのか、なんて分かんないけどね……ってご飯、ご飯」

 あつあつの焼おにぎりとインスタントの味噌汁、それに温いビールをかしゅりと開けて、私は手を合わせた。

「いっただきます」

「二日酔いになるぞ」

「私、二日酔いになりにくい体質なの」

 マヨヒガさんが人間の生態に詳しいのは、私のような人間と暮らしたことがあったからだ。私はそう、睨んでいる。

 私の前に住んでいた人か、その前か……きっと、マヨヒガさんは私以外の人間を知っている。

(……だからって、別に文句を言える立場でもないけどさ)

 割り切るふりをしてみても、マヨヒガさんの過去を思うと、胸がきゅうっと冷たくなって、焼おにぎりの味が分からなくなる。ビールの苦みだけが舌をしびれさせる。

「酔っぱらうと、メイは口が軽くなる。また後悔するぞ」

 また、の声にかすかな震えがあった。

 人のように表情を持たないせいか、彼は声や家鳴りでその感情がただ漏れになる。

「後悔なんてしたことないもん」

 口の中いっぱいに広がるのは、焼いたお醤油のいい香り。味噌の香ばしい焼きおにぎりも美味しいが、こんな夜にはお醤油の、ちょっとしょっぱい味わいがよく似合う。

「私は後悔なんてしないよ」

 焼きおにぎりの乾いた部分を噛み締めて、ぬるいビールで流し込んだ。

「……マヨヒガさんと出会ったことも、約束も」

「メイ」

「おやすみ、マヨヒガさん」

 最後の一口を押し込むと、私はマヨヒガさんの返事を聞く前に素早く布団に潜り込んだ。

 

 目を閉じると、貨物列車の走る低い音がきこえる。

 そうだ。あの夜も、同じ音が聞こえていた。電車のたてるきしむ音。小雨のはじける音に、風が草を撫でる音。


「私はもうじき、死ぬ」


 出会いの日、マヨヒガさんは、私にそう言った。

 ビールを何本もあけてべろべろになった私は、姿の見えないマヨヒガさんと何時間も話をしたのだ。

 何の話をしたのかすっかり忘れてしまったけれど、その台詞だけは覚えている。

 まるで鋭いナイフで刺されるように、途端に酔いが覚めたのだ。

「もうこの体ももたない。そのうちに、崩れる。たぶん、死だ」

 家の死が、どんなものであるのか、私には分からない。アルコールでふわふわとした耳で、私はマヨヒガさんの寂しい声を聞いた。

「最後を思うと何ともいえない気持ちになるのだ。無性にそわそわとして、たまらなくなるのだ」

 彼はきしむ音でそういった。

 ……私はその声を聞いて、無性に寂しくなった。悲しくなった。この恐ろしい、姿の見えない神様が愛おしくてたまらなくなった。

「一緒に過ごしてくれないだろうか、私と」

 最後まで、一緒に。と、彼は言う。そう言ったあと、後悔するように家鳴りを響かせ、低く唸った。

「……いや、余計なことを言った」

「約束だよ」

 慌てて否定するその声が愛おしくて、私は壁に小指を押し付けたのだ。温度を持たないはずの家が、ひどく熱かったことを覚えている。

「ずっと一緒にいる」

 私はそう言って、床にすがりついた。

「お願い。私と一緒にいて」

 その日から、私はこの家が一番の宝になった。



「おはよう、マヨヒガさん」

 目が覚めたのは、昼の少し前のこと。

 梅雨の顔をすっかり忘れた空は、これまでと打って変わってすっきりと晴れ渡った。今は鋭い日差しが濡れた庭を照らしている。

 私はさっさと支度をすませ、近所のスーパーに駆け込んだ。

 買ってきたのは大量の食材と大きな瓶、それに焼酎と氷砂糖だ。大荷物を抱えて帰ってくる頃には、時刻は昼を回っていた。

 のんびりと台所で片づけをする私をみて、マヨヒガさんが戸惑うような声をあげる。

「メイ、今日仕事は?」

「今日は有給をとってみたの」

 ゆうきゅう。とわざとゆっくり口にして、私はにんまりと笑う。

「最近、スーパーの近くにできたパン屋さんがすっごい評判でね。夕方には売り切れちゃうから、どうしても食べてみたくって」

 有給とは素晴らしいシステムだ。お家にいられる。そして11時に焼き上がる、焼き立て食パンにだってありつける。

「有給?」

 家に仕事の心配をされる。というなかなかに珍しいシチュエーションに私は思わず苦笑する。

「仕事を休んでもいい日ってこと」

 ふわふわの焼きたて食パンにオムレツを挟み込んで、ケチャップとマヨネーズをたっぷりと。

 えいいっと思い切って二つに折れば、柔らかな温もりが指の先に伝わってくる。

「いっただきます」

 柔らかくも甘いオムレツサンドにかぶりつき、薄いコーヒーを一気に飲む。甘い、しょっぱい、柔らかい、熱い。口の中に広がるいろいろな衝動に、私の喉が鳴る。

「うまそうに、食う」

 マヨヒガさんにまで苦笑されるくらい、夢中になって噛みしめれば、儚いパンはあっという間に胃の中に。美味しいものは、いつだって一瞬だ。

 空っぽの皿を名残惜しく見つめたあと、私は勢いをつけて手を叩いた。

「ごちそうさまでした……さて」

 そして机の上に置き去りにしていたビニール袋を取り上げた。

 なかにはぎっしり、梅の実。薄紅と薄緑のグラデーションに、柔らかな産毛。意外に堅いその実をつつき、香りを楽しむ。

「さあ、今日はお家で何しよう……って、もう実は決めてるんだけどね」

 平日朝のスーパーに駆け込んで、最初に向かったのは梅仕事のコーナーだった。

 朝日を浴びて並んでいたのは、焼酎、大きな瓶、氷砂糖、紫蘇の葉、粗塩。

 時間をかけて梅の実に向かい合う。なんてすてきな時間の使い方なんだろう。

 梅仕事コーナーの前には、梅酒や梅干し、梅シロップのレシピチラシが並んでいた。それを見た瞬間、私の頭に有給の過ごしかたが浮かんだのだ。

「梅酒」

「梅酒?」

「梅を、お酒でつけ込むの。数ヶ月で飲めるようになって半年後が飲み頃。今からだと……ちょうど、年明けかな」

 縁側に布を広げると、そこに梅の実を全部ころがしてしまう。

 一つ一つつまみ上げ、つまようじで梅のヘタを取り除き、水できれいに洗う。

産毛についた水滴も湿気も、一つ一つ丁寧に拭い、乾かす。そのついでに、梅の隣に寝転がる……と、甘酸っぱい香りが静かに体を包み込んだ。

「メイ、慣れてるな」

「そうだね。自分で作るのは初めてだけど、大昔、おばあちゃんの梅酒の下拵えだけ手伝ったことがあるから」

 祖母の家には昔、梅の木があったのだ。

 私が本当に小さい頃はたわわに実がとれたが、年を追うごとに実は少なくなり、ある年突然、実を付けなくなったという。

 この木は仕事を終えたんですね。と祖母はそう言って、葉っぱばかり生い茂る木を最期まで庭の隅に居座らせた。

 緑だけになっても、梅はその香りを忘れない。最期、静かに折れて倒れた瞬間さえ、あの木は梅の香りを漂わせていた。

 ……祖母の漬けた梅酒の味は、どんな味だったのだろう。私は時々、その未知の味を思い浮かべることがある。


「メイ」

 マヨヒガさんの声に揺り起こされて、私ははっと目を開ける。

 気がつけば、足下に夕日が届いている。目を見張るほど真っ赤な夕日だ。また明日には雨が降るのだろう。

 布の上に転がしていた梅はすっかり乾いている。慌ててかき集め、私はあくびをかみ殺す。

「いけない、寝てた。梅酒作りの途中なのに」

「……なにか、柔らかな、あたたかい、匂い……? がする」

「マヨヒガさんは匂いも分かるの?」

「分かるつもりになっている、だけかもしれないが」

 戸惑うようなマヨヒガさんの声を、私は幸せな心地で聞いた。

「これが梅の匂いだよ、マヨヒガさん」

 数ヶ月前に声をかけてきたマヨヒガさんは、音にも匂いにも鈍感だった。教えても、不思議そうにするばかりだった。

 そして五感を失ったマヨヒガさんの家は、きしみ、壁は崩れ、床はささくれていた。

 ……それは、実を付けなくなった梅の木と同じだ。仕事を終えた生き物は静かに死に向かっていく。

 しかし私は死に抗うように、毎日丁寧に掃除をした。

 キッチンを使うごとに、マヨヒガさんは音と香りの正体を教えてあげた。そのうち彼は匂いを感じ、温度を察知するようになった。

「さわやかで、甘いでしょう。これが梅」 

 大きな瓶を熱湯で洗い、焼酎をしみこませた布巾で瓶の内側をしっかりとふき取る。

 その中に梅の実、氷砂糖と順番に重ね……上からたっぷりの焼酎をかけていく。

「これは……酒の匂い?」

「そう。ちょっときついけど、そのうち、梅と混じってすごくいい匂いになる」

 私と一緒に過ごしはじめて、マヨヒガさんはゆっくりと、生を取り戻そうとしている。

「来年は梅干しかな。もっと、色んな匂いがするよ」

「来年」

「そう。そして再来年は、梅の木を植えるの。梅が実を結ぶのは4年から5年なんだって。そうしたら、きっと、もっとずっと、いい匂いがする」

 夕日に染まる庭は、広く、寂しい。

 再来年、隅っこに梅の木を植えよう。と、私は思った。森のようなこの庭に。

 4年、5年。その単語は、マヨヒガさんにとっては数日のような感覚なのだろうか。

 それとも途方もない年数なのだろうか。

 彼は私の言葉には答えず、ただ、柔らかに家を揺らした。

「最期まで一緒にいると約束したけど、その最期の日付は約束してないよ」

 焼酎の中、柔らかく浮かぶ梅の実が、夕日に照らされ赤くにじむ。

「……長生きしなくっちゃ。ふたりとも」

 この梅酒が完成する頃、私はマヨヒガさんと、どんな会話を交わしているのだろう。

 これからは過去の話ではなく未来の話をしよう。私はそう、心に誓って梅酒の瓶をそっと抱きしめた。

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