お婆ちゃんのぬか漬けサンドイッチ
翌朝、私はひどい二日酔いと同時に、佐々木さんの来襲を受けることになる。
「うわ、酒臭い」
いつの間に、そこにいたのか。激しい頭痛と共に目を覚ませば、顔面に彼女の顔がある。彼女は私の顔を見るなり嫌そうに顔を背けた。
「ボロボロじゃん」
「玄関……は?」
「開いてた。ぼーはんいしき、足りないんじゃない?」
私といえば、頭を押さえて目を細めるのが精一杯。そんな私の姿を見つめたあと、佐々木さんは長い溜息をついた。
「……もう昼だけど、何してんの」
「昨日の夜、に」
一言声を出すたびに、昨夜のことが鮮明に蘇る。
何を喚いたか、どうやって泣いたのか。
昨夜、マヨヒガさんが何を言ったのか。それとも何も言わなかったのか……それさえも、もう記憶にない。
「……飲み過ぎたの……かも」
思い出すたびに私は地面に潜りたいくらい恥ずかしくなってしまうのだ。
「うん。ちょっと……飲みすぎて」
「で、そのまま寝てた?」
「……」
昨日の夜、さんざん喚き散らした私は、結局廊下の真ん中で眠ってしまった。
一週間の不眠を取り返すように深く深く、まるで沼の奥に沈み込むくらい深く眠った。
夢で祖母が出てきた気がする。彼女と過ごした冬の一日を、夢に見た気がする。
それなのに、目がさめた瞬間から夢は昼の日差しに溶けるように、その夢は消えてしまった。
起きた私に残っているのは酒毒と、たまらない後悔だけ。
(……12時半……)
私は緩んだ腕時計を見る。深酒、二日酔いの、昼覚醒。こんな無茶な目覚めは久しぶりだ。
(良かった今日、休日で)
髪はぼさぼさ。スーツのまま。あげくに化粧を落としてもいない。
泣いたせいで顔もぐちゃぐちゃだろう。そんな私を、メイクを総仕上げにした女子高生が見つめている……まるで夢の続きのような光景だった。
佐々木さんの長い金髪も、着崩した制服も前のままだ。ただ、表情が少し柔らかくなった……そんな気がする。
「というか、何、勝手に」
「おじゃましますって、ちゃんと言った。あんたが聞いてないだけ」
さっさと部屋の奥に進む佐々木さんをほうほうの体で追いかければ、机に大きなタブレットを置くところだった。
「Wi-Fiってある?」
「……なに?」
「いい。無いだろうから持ってきた」
昨日、どれだけ梅酒を呑んだのか、もう記憶にもない。
立っているとふらふら足が揺らめいて、頭の奥がズキズキと痛い。
胃がむかむかとして、座るとめまいがする。こんなひどい二日酔いなのに、佐々木さんは何も構わず、ただ私を見つめた。
「施設に、つなげるから」
「……施設?」
「お婆ちゃんの」
彩り豊かな彼女の指が、器用にタブレットを叩いた。
やがて私の知らないアプリが立ち上がり、まるで魔法のようにするすると指が動く。その白い指先を私はつい、ほれぼれと眺めてしまう。
「おば……佐々木の……この家の持ち主の?」
「そう言ってる」
反応の鈍い私に苛立つように、彼女は私を見上げた。
「お婆ちゃんの遺書が新しく、見つかったって」
「遺書……」
とん、とどこかで家がきしむ。それはまるで水の落ちる音のような心音のような……柔らかい音。
佐々木さんは気づきもしなかったのか、タブレットをじっと見つめる。
「というか、映像らしいけど。それを今から、聞くの」
「なんで」
「もう黙ってて」
彼女は私を睨みながら、床を爪先で軽快に弾く。誘われるように床に座りタブレットを覗き込めば、画面には一人の男性が写っていた。
「……ども」
佐々木さんはたどたどしい様子で男性に挨拶をした。それに応える男性の声にはかすかな訛りが聞き取れる。
南の……遠い離島で佐々木のおばあさんは亡くなった、と昨日聞いた。その言葉を思い出し、私は自然に背が伸びる。
『お孫さん。あゆちゃん、でしょう。おばあちゃん、ずっとあなたの話をしていてねえ』
男性はすでに連絡を受けていたのだろう。見つめられ、佐々木さんは緊張するように小さく頷いた。
彼女は何度も唇を湿らせて、勇気を振り絞るようにタブレットをつかむ。
「お婆ちゃんが、死んだあとに、あの、遺書……出てきたって……本当?」
その言葉にマヨヒガさんが少し揺れた気がする。
私の体から酒毒が抜けて、意識が急に明瞭になった。
タブレットの中に四角く見えるのは青空だ。窓の向こうは海だろうか。波の音が聞こえた気がする。
『遺書っていうか、ビデオレターね。もう今はビデオレターっていわないのかなあ……亡くなる何ヶ月も前のことだけどお』
男性はのんびり喋りながら、カメラを部屋の中央にセットする。そこには大きなテレビがあった。慣れた風に操作すると、画面が揺れて青い色がさっと広がる。
『皆でビデオレターを撮ろうって話になってね、佐々木さんの分も郵送したと思うんだけど。実はもう一本、彼女が内緒で撮ってたようでねえ』
「それが、出てきた?」
佐々木さんの言葉に、男性は頷く。
『仲の良かったお婆ちゃんがね、預かっていたんだと。すっかり忘れてたって、大慌てで持ってきたのが三日前。これは自分に何かがあったら必ず、前の家で流してほしいってことでね……前の家ってのがよく分からなくってね。佐々木さん……あなたのお父さんに聞いたんだけど。そしたら娘さんに連絡してみるって』
「……昨日、あたしに……親……お父さんから連絡がきた」
佐々木さんが吐息のような声で囁く。
「施設からこの連絡が来て……どうするか迷ってたときに、あんたが事務所に来たって」
かたかたと、壁が揺れる。
佐々木さんには聞こえないのだろうか。マヨヒガさんの、小さな震えの音が。
「……きっと、お婆ちゃんの引き合わせだろうって。あたしに任せるって……何年かぶりに話ししたのがそんなのって、馬鹿みたいだけど。でも……」
一日悩んでここに来た。と、彼女は強い眼差しで私を見つめた。
『郵送しても良かったけど、本当に、この形でよかったの?』
「いい。一日も早く、聞きたいから」
とん、とん、と彼女の指がまたタブレットを叩く。と、音が震えるように大きくなった。
「……まって。ここで、この場所で、流すの?」
「勘違いしないで。私はまだこの家を化け物だって思ってる。でも……」
『流していいかなあ』
タブレットの中からのんびりとした声が聞こえた。
慌てて覗き込むと、男性がテレビに何かをセットしたところだ。
それを見て佐々木さんが唇をきつく結んだまま、頷いた。
「……流して」
『じゃあ映すね』
佐々木さんは強く拳を握りしめたまま、私を見つめる。
「……だって。お婆ちゃんの、希望だから」
彼女のつぶやきと同時に画面が揺れる。テレビに色が付き、一人の女性が浮かび上がる。
その顔を見て、私は静かに息を吸い込んだ。
「この人が?」
「黙って」
写っているのは、シフォンの青いブラウスに身を包んだ女性だった。髪は白いが腰はそれほど曲がっておらず、顔は穏やかだ。短い髪が揺れているのは風が強いせいだろう。
彼女は少し照れるように、画面をまっすぐ見つめている。
佐々木さんの唇が震えて、おばあちゃん。と、声が漏れる。まるでその声が聞こえたように、画面の中の彼女が微笑む。
『あゆちゃん』
柔らかい声だった。
優しい声だった。
『……みゆきさん。達三。聞こえる?』
あの手紙の文字に似た、きれいな声だった。
『ごめんなさいね。今日のこれは、あなたたちへのメッセージじゃ、ないの。がっかりかしら』
『ねえ、佐々木さん、これって誰宛なの?』
少し高い女性の声が響き、カメラが左右に揺れた。撮影をしている人の声だろう。
『秘密……でも、私のお願いの通りに……家でこの映像を流してもらえたら、その人に伝わるの』
ふふ、と彼女は笑う。そんな笑い方をすると、まるで小さな女の子のように見えた。
『秘密が好きねえ。この施設に来たのも急だったし』
『そう。私は……』
風に吹かれて、彼女は一瞬だけ目を閉じた。
『……私は大切なものを傷つけて、ここに逃げてきたの』
ざ、ざ、ざと海の音が聞こえる。虫が一匹、呑気に空を飛ぶ。
『誰を傷つけたの?』
『泣いていた私を支えてくれた、優しい人』
白い髪が、柔らかいシフォンの袖が、青い風に揺れて膨らみ地面に影を落とす。南の島は、影も緑も何もかも濃いのに、彼女だけが薄く見える。
『だけどね、不思議と離れたら、忘れてしまったの。その人のことを。あんなに楽しくて、幸せだったことを』
『なんで急に思い出したの? 驚いちゃった。朝に突然部屋に飛び込んでくるんだもの。撮って撮ってなんて、女学生みたいにはしゃいじゃって』
カメラが震える。笑っているのだろう。それに釣られるように佐々木さんも笑った。
『……そう。今朝起きたら、急に思い出したのよ。本当に、本当に……突然。でもきっとまた忘れてしまう、そんな気がする。これは、目覚めたあとに思い出す夢のようなものだから』
『なるほど。これはあなたにとっての、記憶の記録なのね』
『そう。だから残しておきたかった。覚えている間に私の口から、伝えたかった』
佐々木さんがまっすぐにカメラを見つめる。大きな瞳だった。
私の隣に座る女子高生の佐々木さんも、同じ形の瞳で食い入るように画面を見つめている。
『これを流しているのは、あゆちゃんかしら。きっと優しい子だから私のお願いの通り、家で流してくれていると思うの。仏間かしら、それとも縁側? どこでもいいけど、二階では止めてちょうだいね。その家は、私と同じくらい耳が遠いから』
『面白いことを言うのね』
『本当にそうなのよ。家も人と同じように年をとるものだから』
笑いながら彼女はカメラに向かって深く頭を下げた。
『ああ、それと。家に誰が住んでいるのかしら。きっとその人にお礼を言ってちょうだいね。家を大事にしてもらえるように』
ざ、と波の音がまた聞こえる。穏やかで、柔らかく、優しい風が吹く。
『……そして、私の声が聞こえる人へ』
彼女は鳶色の瞳で、画面をまっすぐ見つめた。
『文字のお手紙でも良かったけど、私の声で伝えたかったの。声から始まった二人だから』
遠い遠い島の音。そしてもういない人の声がここに響くのは不思議なことだ。
『本当にありがとう。騙されてくれてありがとう』
『佐々木さん、騙すなんて、恐ろしいことをしたの?』
『そう。私はどうにも気が弱くて、夫が死んだことを認めたくなくってね』
風が吹いて、彼女の髪を巻き上げる。風の軌跡を追いかけるように、彼女は空を見た。優しい目だった。その先に、愛する人がいるのだと、そう信じている目だった。
『その人は、私のために夫を演じてくれたの』
私の隣の佐々木さんが息を飲み込んだ。
床に置かれた手が、拳の形になるが、それでも彼女は床も壁も殴らなかった。ただ、戸惑うように、その手が震えている。
『私だって本当は気づいていたの。夫ではないって。もう夫は死んだんだって。でも、その人は……』
『佐々木さんに優しい嘘をついたのね』
カメラを持つ女性が、つぶやく。
『……優しい嘘?』
『素敵なことよ。わかるでしょう。真実を言うことが正しいわけじゃないって。ここまで色々なものを見てきたら、嘘も方便って言葉が一番染みるのよ』
明るい女性の声に、佐々木さんが微笑んだ。救われるような笑顔だった。
『そうね、結局。私はその人を騙して、その人は騙されてくれた』
『優しい嘘で』
『そう……優しい……嘘ばかりで、今更こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけど』
何かを言いかけて、彼女は口を結ぶ。最後に浮かべたのは、やはり柔らかいほほえみだった。
『本当に、素晴らしい毎日をありがとう。この気持ちだけは本当』
あなたが幸せでありますように。つぶやくような小さな声で、映像は終わった。はじまりと同じくらい、急な終わりだった。
『ミステリアスな人だったけどねえ。ビデオレターまでミステリアスだ』
「……お婆ちゃんはどんな風に死んだの」
佐々木さんの声がおそるおそる響く。
「あたし、前、怖くて聞けなかった……」
男性は少し驚くように目を丸くしたが、やがてカメラを持ったまま別の部屋に移動する。
そこは、大きな窓がついた広い部屋だった。
『ここが佐々木さんの部屋だったんだけど、その日は長雨も止んで、ちょうど空も海も綺麗に見えて……そんな朝に、迎えにいったら』
寝ているみたいだった。と、彼は目を細めた。
『そう。この窓の下がちょうどベッドで……窓を開けてたせいか、まるで空と海の青い色に包まれてるようでねえ。青い色が好きだって言ってたから、ここで本当に良かったってみんなで話してて……ああ、住んでいた家も屋根が青いんだよねえ』
(マヨヒガさん)
私はたまらず床を撫でる。応えるように、少しだけ床が熱を持つ。彼は何も語らない。しかし佐々木さんの声は聞こえたのだろう。佐々木さんの姿も見えたはずだ。
(ちゃんと大事にされてた)
前の住人へ抱いていた、ほんの少しの嫉妬心だとか、過去への恐怖だとか、そんなものが砂が崩れるように消えていく。
(……良かった)
私は床に手のひらを、壁に頬を押し付けて思う。
純粋に、素直に、私はそう思った。
男性の声が途切れタブレットがただの黒い板になると、この部屋も急に現実に戻った。南の島の風だとか、眩しい日差しは幻のように消えてしまう。
ここは、佐々木さんが愛した、温かいマヨヒガさんの中。
「……あたし、お婆ちゃんが最後にみた海を見たい」
とん、とタブレットを閉じる音と一緒に佐々木さんの小さな声が被る。
「だからお金、貯める。学校もいくしバイトもする」
私も彼女も天井を見上げたまま。あれほどマヨヒガさんを憎らしく睨んでいたはずの彼女だというのに、その目が今は柔らかい。そんな顔をすると、画面の向こうの彼女にそっくりだった。
「わかった。今度一緒に行こう」
私がつぶやくと、彼女は驚くように私を見る。
「一緒に?」
「約束」
約束。と、私がそんな言葉を人に対して使ったのは久しぶりだった。
守ると誓った祖母の家が崩れた日から、私の人生から約束なんて消え去ったはずだったのに。
(さいごまでマヨヒガさんと一緒にいる約束。佐々木さんと南に行く約束)
それなのに、また一つ、私の人生に約束が増えていく。
それは、不思議とくすぐったく、嬉しいことだった。
佐々木さんは訪問も突然だが、去るのも唐突だ。派手な音を立ててタブレットをカバンに押し込むと、無言で立ち上がり、足音も荒々しく廊下を行く。
彼女が顔を上げたのは、もう玄関の前である。
「そうだ。冷蔵庫」
「え?」
何を言われるのか、身構えている私に向かって彼女が放ったのはひどく呑気な言葉だった。
「冷蔵庫って?」
「ぬか漬け、古くなってた」
「あっ。勝手に人の……」
「勝手に冷蔵庫を見るなって言うつもり?」
「……お婆ちゃんはちゃんとしてた。って、言うつもりでしょ?」
互いに言葉を先取りし、同時に吹き出す。それに気づいた彼女は慌てて唇を噛み締めて、鼻を鳴らした。
「お婆ちゃんも、ぬか漬けは時々失敗したけど、そんなときは、あれ」
「あれ?」
「サンドイッチにしてた。古いぬか漬け刻んでマヨネーズ入れて混ぜて……」
「えっと……タルタルみたいに?」
新しくなった玄関に気づいたのか、彼女が細い指でガラスを撫でる。
「玄関、変わったんだ……うん。タルタルみたいに。混ぜて、それを焼いたパンに挟んで」
作って食べてみたら。と、彼女はいう。
「たぶん、懐かしがるんじゃない? この家も」
彼女の声が、優しく柔らかく壁に反響した。
「マヨヒガさん」
とん、とん、とん。と包丁でぬか漬けを刻みながら私は足先で床を撫でる。と、マヨヒガさんが戸惑うように揺れた。
包丁がまな板を叩く音は、古い記憶を揺さぶる。
「私、包丁の音を聞くとすごく懐かしくなるの。包丁の音でいろんな音を思い出して、それが記憶を起こすの」
包丁の音は、祖母の姿に結びつく。
風邪を引いた日、遠足の朝、年末の夜。
電球だけが輝く薄暗い台所で、祖母の白い背中が浮かんでいた。手元から響く音は、美味しいものができる約束の音だった。
「マヨヒガさんは、この音を知ってる?」
ぬか漬けを刻む。マヨネーズで和えて、そこに少しだけ辛子を混ぜる。包丁がまな板で跳ねる音、ボウルにぶつかる箸の音。
「じゃあ、この音は?」
私はバターを落としたフライパンの上に、白いパンを押し付けた。そうするとパンに熱と油が伝わって、縁に黄金色の泡が沸き立つのが見える。
「私が学校に行きたくないって駄々をこねると、おばあちゃんは必ずパンを焼いてくれたの。フライパンでね」
じゅうじゅうと美味しそうな音と共に、バターと熱を吸い込んでパンがカリカリに仕上がっていく。
学校に行きたくない理由はもう思い出せないが、この音は覚えている。駄々をこねて泣きつかれ、目を腫れ上がらせた小さな私はキッチンの隅っこの椅子に乗って、パンが焼けていく音を聞いていた。
パンを見ているうちに、私の駄々こねは収まって、だんだんと冷静になっていく。
この音は私を冷静にする音だ。
「……確かに。あの人は……時々、同じように、作っていた」
マヨヒガさんが静かに口を開く。
「こんなふうに、作っていた」
パンがバターを吸い込んだ黄金色と、焼けていく音は、なんて幸せな色なのだろう。音なのだろう。それは追憶の色だ。過去を思慕する音だ。
「料理上手だった?」
そう。と、壁が優しく震えた。
「よく、そこで、料理をしながら、話をしたよ。いろいろな、私の知らない話を……」
私は油を吸ったパンの上に、白いタルタルをたっぷりと塗り付ける。きゅうりの緑に、パプリカの赤と黄色。大根の白。漬けすぎて少し疲れたようなぬか漬けが、マヨネーズの間で泳いでいる。
バターをたっぷり吸い込んだパンで挟み込み、さくさくと真ん中で二分割に。
「一緒に食べられたら良かったのにね……みんなで」
マヨヒガさんと私と、佐々木のお婆ちゃん。ここで並んで食べて、喋ればきっと楽しかっただろう。あんな悲しい手紙を残さずに済んだに違いない。
「ねえ。マヨヒガさん。佐々木さんのことを教えて」
「あの人は結局、思い出したんだな」
あの人。と語るマヨヒガさんの声は優しく、私はその声に包まれるように縁側に出た。
ちょうど外は、冬の空気だ。庭を占拠する雑草はすっかり枯れ果てて、その上を淡い夕日が舐めるように揺れている。
「マヨヒガさんは人の執着を甘く見すぎだよ」
冷えた縁側に腰を下ろして、私はできたてのパンをかじる。サクサクと噛みしめればその隙間からバターと甘いマヨネーズ、そして浸かりすぎたぬか漬けが顔をだす。
とろりとしたマヨネーズと塩っぽい味が不思議とあって、優しく柔らかく渦を巻く。
きっと佐々木さんも縁側にこうして腰をおろして、夕日を眺めながらこのサンドイッチを食べたことがあるはずだ。そんな気がした。
「……あの人は、私を、死んだ夫だと勘違いをしていて」
マヨヒガさんはぽつり、と呟いた
佐々木さんは深くは語らなかった。マヨヒガさんも細かくは語らない。それでも私はなんとなくその風景が見えた気がする。
一人きりになったこの家で、彼女はきっと初めてマヨヒガさんに声をかけられたのだ。私は怯えて騒いだが、彼女はすんなりその声を受け入れたのだろう。
……亡くなった夫が帰ってきたと、そう勘違いしたせいで。
「私は、それでも嬉しかった。人と喋ることができる。もう何十年も孤独だった。一人だった。その寂しさを埋めるために彼女を騙して」
マヨヒガさんは彼女の勘違いを受け入れた。佐々木さんの願望を受け入れ、彼は彼女の夫のふりをする。
……しかし佐々木さんはある時気づいてしまった。マヨヒガさんに無理をさせていることに気づいてしまった。
騙し、騙されるふりをする。それが二人のしこりになった。
「ずっと、騙して……だから真実に気づいて、彼女は、怖くなって……逃げたのだと」
「違うよ。彼女は多分……マヨヒガさんを騙していることに心が苦しくなったんだ」
優しい嘘だと言われた時に、安堵したような彼女の顔を思い出す。どれくらい苦しんだのだろう。
この優しいマヨヒガさんを騙していると気づいた時から、彼女はきっとずっと苦しみの中にいた。
「だから彼女はマヨヒガさんを開放しようとしてここを離れたの。それでマヨヒガさんのことを忘れて……マヨヒガさんの願った通りに」
「忘れてくれたと、そう思ったのに」
「思い出すんだよ。私だって、思い出した」
さくり、とパンをかじる。甘じょっぱいその味に苦味が走るのは、浸かりすぎたぬか漬けの味だ。
私もこの味を知っている。花火を見上げているときに、不意にマヨヒガさんのことを思い出した。あの瞬間の驚きと悲しさは一生忘れないだろう。
彼女は南の島で、この苦味に似た苦しみを思い出したのだ。
「私のことを思い出しても、怖がることなく、後悔もなく……幸せに死んだのか」
ふと、マヨヒガさんがゆっくりと揺れる。
「私のことを思い出して、私に話しかけて……」
ぎ、ぎ、と揺れるのは天井か、壁か、床か。
「もう、会えないと思っていたのに」
死んだ人を見送る時、人は歌をうたう。祈りを捧げる。マヨヒガさんもきっとマヨヒガさんなりの見送りがあるのだ。それは、冬の風に似た、静かな軋みだ。まるで泣くような、そんな音。
その音を聞きながら私は最後の欠片を飲み込む。
「あとは……マヨヒガさんを、あの人のところに」
色々な味が混じり合ったそのサンドイッチは、まるで今の私の気持ちと同じだ。
「連れていってあげられたらな……」
ちらりと廊下の棚を見れば、そこには小さな鍾馗の像が鎮座している。秋の台風の日、マヨヒガさんの屋根から転がり落ちた像だ。
(……そうか、一つだけ、ある)
それを見て、私の中に一つの思いつきが浮かんだ。
(マヨヒガさんを、連れていく方法)
それは、素晴らしい考えだ。同時に胸が苦しくなる計画だ。
「メイ?」
遠い南の島。
彼女が最後に見た島の風景。
青の空と海の見える暖かなその場所を実際にマヨヒガさんに見せることができれば、彼はなんと言うだろうか。
不意に浮かんだ考えを、私は振り払おうとして……振り払えない。
皿を洗い、熱いお茶を入れて冬の空気を吸い込んで。考えに考えてやがて私は心の底で腹をくくる。
「なにか、あったのか、メイ」
「……なんでも無いよ」
見たこともない南の島の風景と音。私は冷え切った冬の空気の中で、音と風景を想像する。
それは近い未来におきるであろう、別れのための覚悟でもあった。




