トリック・オア・トリートと忘れもの
玄関の修理が終わったのはハロウイン当日、夕暮れ過ぎのことだった。
「元のガラスはもうないんだって」
夕日で暖まった三和土に座り込み、私はピカピカの玄関を見つめる。
前の玄関は小さな小花が散ったような、そんなデザインガラスだった。しかし在庫はとうになく、ざらりとした曇りガラスに代わってしまった。
床にできる光の粒を懐かしく思い出しながら、私はガラスを撫でる。
玄関が変わったことを佐々木さんが……前の住人が知ったら、どう思うだろうか。怒るか、呆れるか、悲しむか。
「でもこれも、衣替えと思えば切なくないかな」
秋の空気は、冷たい風を運んでくる。冬へ向かう風が新しい玄関を揺らす。
冷やされたガラスに額をくっつけて、私は目を閉じる。
「冬が来るかあ」
この家で過ごす、はじめての冬がやってくる。
「今夜はハロウインだね」
家が言葉を放たなくなり、もう一週間近く、経った。
先日のあの雨の夜。佐々木さんが落ち着くまで、数十分の時間が必要だった。
この家を残してほしいと願ったのは、佐々木のおばあさん、その人だ……私の言葉が予想外過ぎたのか、信じられないのか、彼女の表情はコロコロと変わり、泣きそうになり、怒りそうになり……やがて耐えきれないように顔を伏せたのである。
そうして数十分後、彼女はゆっくり深呼吸して立ち上がった。納得したのか、それとも怒ったのか。
結局、何も語らずに去っていった。
不思議なことにパタリと嫌がらせの類は消え、同時に家も言葉を発しなくなる。
これまですべて夢だったかのように、何の声も聞こえなくなってしまった。
「泉谷ちゃん」
門がガタガタ動くと、まるで警戒するように家が少しだけ揺れた。地鳴りのような音に気づき、私はようやく目を開ける。
玄関にぺたりと腰を落としたまま、数分間眠っていたようだ。気づくと、夕日の色が先程より少しだけ濃い。
「トリック・オア・トリート」
若干奇妙なイントネーションとともに玄関を開けたのは、八百屋のおばあさんだ。
彼女は頭に紙で作った三角帽子を被っている。カボチャの絵が描かれたオレンジ色の……多分、どこかの菓子店の包装紙だ。
見れば、神社の境内には同じような帽子をかぶった人たちが、ぞろぞろと集まっている。
もう少しで日が落ちる。そうしたら皆で街を巡るのだという。ハロウインパレードだ。とおばあさんは、また不思議なイントネーションでそう言った。
おばけと幽霊で飾られた民家と民家の細い道を思い出し、私は不意に胸が苦しくなる。
あのとき、まだ玄関は壊れていなかった。それからもう何年も経ったような気がする。
理由もわからない、薄らとした怖さに私は腕をさすった。
「玄関、きれいになったじゃない。とっとと工事が終わってよかったわよ。女の子の家なんだからねえ」
そんな私に気づかないまま、おばあさんは玄関に腰をおろし、イガ付きの栗を床に転がす。
つん、と尖ったイガの先をつまんで、彼女はにやにやと笑う。
「ほら。おすそ分け。変なのが来たら、これぶつけてやんな」
「でもおかげさまで、最近はなんともないんです」
私がそう言えば、彼女は嬉しそうに手を打ち鳴らした。その音に驚くように、家がきしんだが、おばあさんは気づきもしない。
「どうも、うまくいったみたいだ」
「うまく?」
「そもそもはね。うちの甥っ子が、ハロウインをやろうって言い出したんだけど。それには理由があってね」
彼女は周囲をはばかるように、顔を伏せる。ちょいちょいと私の顔を引き寄せて、耳元で囁く。
「町をあげてハロウインをしたら、この家の噂もそれの一環だったんじゃないか……って思われるんじゃないかって……」
秋風のように静かな彼女の声が、私の耳をくすぐった。
「一環……」
「いやね、あたしも、そんな上手くいくはず無いっていったんだけどね。甥っ子が言うには、騙された~って思わせたほうが噂が消えるのが早いっていうんだよ。それにお祭りにすれば町に人も呼べるから一石二鳥だって、ねえ? 何を突飛なことをって最初は思ったけどさ」
風が吹いて、木が揺れる。神社の鐘も揺れたのか、音が響く。その風で、玄関に取り付けた気持ちばかりのハロウイン飾りが柔らかくたなびいた。
家の玄関には小さなかぼちゃの飾りと、おもちゃみたいな悪魔の羽根。そうすることで、周囲の家にすっと溶け込んでしまう。
ハロウインに参加することで、また石を投げられたらどうしよう……と思ったのは事実。しかし石を投げ込まれるどころか、やってくる人もいない。
「……効いたんでしょうか……」
「本当に効いちゃうんだから驚きだよ」
家にまつわる悪い噂も、この町がハロウインイベントをする話が流れた途端、じわじわと潮が引くように消えていったという。
気がつけば、サイトに載せられた不気味な写真ももう消されていた。今はみんな、別の化け物屋敷に夢中になっているのだろう……とおばあさんは嬉しそうに言う。
「良かった……」
私はホッと息を吐く。良かったね。と、言いかけて、私は伸ばした指先を握りしめた。
……今、私は誰に話しかけようとしたのだろう。誰に触ろうとしたのだろう。
「そう……ですね。住んでる家に石を投げられるのは、困りますし。変な人が押しかけてくるのも、怖いし……」
ど、ど、どと心臓が音を立てる。不思議な違和感が、腹の底にある。
「人の噂も七十五日っていうけど、それ以下だったわねえ」
戸惑う私に気づかず、おばあさんは立ち上がった。ドクロのおもちゃを引っ付けた手押し車を押しながら振り返る。
「さ、おいで。今からハロウインだよ。みんなでウロウロしてお菓子を配るんだ」
「すみません、実は明日、東京出張で……」
「いいから。ちょっとだけ。歩くだけじゃないか」
私の横に置かれたスーツケースを横目で見たくせに、彼女は遠慮というものをしない。
「ほら、若いんだから」
外はゆるゆると夕日が沈みそうになっている。戸惑う私の頭に紙でできた帽子を被せた。
「胸を張ってさ……そうそう、そんな感じに。それで家の悪い噂が消えたぞって、歩けばいいじゃない」
そうして私は、浮かれたハロウインに引き出されたのである。
「東京出張ってのはちょいちょいあるのかい」
「いえ、今回は急で」
出張の文字を頭に浮かべ、私は心の中でため息をつく。
急な出張が決まったのは昨日のこと。本来行くはずだった人が急病になり、部門外の私にお鉢が回ってきた。日帰りの強行軍である。
「珍しいじゃないか。会社の出張も飲み会も、家に引きこもりたいから断ってるんです。って」
おばあさんは高い声音で声真似をしてニヤニヤ笑う。
「……いつもあたしに、そう言ってたじゃないか」
「そんなこと、いってました?」
「そうだよ。若いのに、珍しいもんだってね、甥っ子とも話してたんだ」
……外は苦手だ。家の中のほうが落ち着く。しかしなぜか今は家に居たくない気分だった。だから急に湧いた出張に、率先して飛びついたのも事実である。
「……実はまだ支度もこれからで……あっと、すみません」
前まではあれほど眠れていたのに、最近は夜もやけに寝不足になっている。
絡んだ足で体がよろけ、人にぶつかり私は慌てて頭を下げた。
「風邪かい? 声がかすれてる」
「いえ、なんだろ……最近、あんまり声を出してないというか」
おばあさんに顔を覗かれて、私は小さく喉を鳴らす。声をだすと、喉にかすかな違和感があった。渡された飴を口に含むと、ミルクの味が喉に染みる。
「……家に帰っても、喋らないですし」
「ひとり暮らしなんだから、そりゃあねえ」
おばあさんの言葉に、私は思わず苦笑した。ひとり暮らしで電話嫌い。そんな私が家の中でべらべらと喋る機会なんて、あるはずもない。
……あるはずもないのだ。
「いつでも話し相手になってあげるわよ」
「助かります」
気がつけば細い道には、人で溢れている。小さな子供だけでなく、大人も仮装しているので、私はほっと息を吐いて帽子を押さえる。
気がつけば手の中いっぱいに、飴玉やチョコレートが載せられていた。
ビニール袋を渡されると、あっという間にその中もいっぱいになる。
(……もう晩ごはん、お菓子でいいかな)
色とりどりのお菓子を見つめて、私はぼんやりと考える。
明日は早い。このまま帰って支度をして……お菓子とビールでおしまい。そんな夜があってもいい気がした。
(怒られるかな)
無意識にそんなことを考えて、私は思わず足を止める。
(誰に?)
誰に叱られるんだろう。ひとり暮らしで、誰も見ていないのに。
「泉谷ちゃん、ほら、こっち、こっち」
「は、はい」
急かされ、人波に押されて私は慌てて駆け出す。一歩進むごとに、一言、喋るごとに……なにか大事なことを忘れていっている。そんな気がする。
「ねえ、泉谷ちゃん」
案外足がはやいおばあさんの後ろをついていくと、ふと彼女が顔を上げた。
「どこもかしこも綺麗だろ。みんな楽しそうでさ」
家はあちこちでライトが灯され、お化けかぼちゃが赤く染まる。まるでクリスマスのような飾りも付けられていて、その前で写真を取り合う子どもたちの顔も明るい。
「きっかけはともかく、こんなお祭りができてよかったよ。泉谷ちゃんとも仲良くなれたしね」
空は、ゆっくりと夕暮れに向かっていた。
水彩絵の具の赤と青色とオレンジを水の中に流し込んだらこんな色になるのだろう。
天は明るく、下に行くほどに鮮やかなオレンジの色になる。地上は薄暗く、そのせいでハロウインのライトアップが眩しいほどだ。ただただ、美しく今日が暮れていく。
その夕日にも不思議と違和感があった。
夕日が照らされる縁側が、庭が、青い屋根が、無性に懐かしい。家に帰りたい、帰らなくては。なぜかそんな焦りが汗になって流れていく。
「あの家が貸し出されたときね、ひどかった。前の佐々木さんが退いてしばらく経ってたせいで、玄関までの道に雑草とか、どっかから飛んできた花が育っちゃって。そんなものがぎっちり詰まってさ……ほら、ここみたいに」
彼女が指さしたのは、暗渠の上の廃墟だ。近所の人が付けたのか、少しだけ飾りが施されている。しかし玄関周りは雑草で埋め尽くされていた。
私が初めて内見へ来たとき、あの家も玄関までの道が、雑草に覆われていたのだ。かき分けながら玄関に進むとき、まるで泳いでいるようだ。と思ったことを覚えている。
「泉谷ちゃんがきれいにしたんだ。覚えてるよ。仕事もあるだろうに、きれいに引っこ抜いてくれてさ、あれからあの家は以前みたいに、きれいになった。佐々木さんがいたころはそりゃあ綺麗だったけど、息子さんは家を嫌ってるみたいだったからねえ。掃除もしなかったし……」
「嫌ってる……ですか」
寝不足のせいだろうか。頭の芯がジン、と震えるように熱を持つ。
「泉谷ちゃんが怖がるだろうから言わなかったけど。まだ佐々木さんがあの家に住んでる時、彼女、奇妙なことを言ってたんだ」
パレードはまもなく終わりを迎えようとしている。小さな町なので、ちょっと歩けばもう、一周。見慣れたバス停近くで、皆がパラパラと散っていくのが見えた。
「奇妙なこと、ですか?」
「家から声が聞こえるって」
「家から……?」
もう夕日が完全に落ちきって、地面に濃紺の闇が広がる。
その闇が怖い、となぜか私はそう思った。
「家が喋るなんて」
「もちろん勘違いだよ。しかも佐々木さんも自分で言ったことを忘れちまったのか、あとで聞いたら、あら。なにそれ。なんて明るく言っちゃってさ……そりゃ、素敵だと思うよ、家と話ができるなんて。年寄りにはいい暇つぶしになる。ボケ防止にもなりそうだし、何より楽しそうじゃないか」
「楽しい……」
楽しいですよ。口がそう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。唇を引っ張っても、もう何の言葉も思い出せない。
この一週間、少しずつ何かを忘れようとしている……そんな気がする。
手や指の間から、砂が落ちていくように。何かが抜け落ちている気がする。それが気持ち悪く、私は唇を噛みしめる。
(……仕事も普通にこなせてるし……約束なんて何もしてない。何を忘れて……)
大事なことを忘れている。そんな気がするのだ。
「そういえば泉谷ちゃん、東京行くなら佐々木さんちに寄ってあげてよ」
彼女は腰をとんとん、と叩きながら頭に載せたよれよれの帽子をおろした。
仮装の人々も散り散りに消えていく。バス停にバスが停まり、中からはスーツ姿の人たちが数人、降りてきた。
彼らは浮かれた帽子をかぶる私のことを、不思議そうに見つめていく。しかしそれにもしばらく気づかず、私は息を止めていた。
「……え?」
「やだ。もう忘れたの。家の持ち主の佐々木さん。あの人、今回の騒ぎのことで泉谷ちゃんに謝りたいからって」
「いえ、そんな。何事もなく無事に終わったんだから」
「話しておきたいことがあるっていうからさ。東京行くんだろ。同じ東京なんだからシュッと行けばいいだけなんだから」
「でも……」
寄ってあげてね。と、佐々木さんは私の言葉を完全無視してシャッターの向こうに消えていった。私は暗がりの中で一人、立ち尽くす。
闇が地面を伝わり足元まで広がってくることが恐ろしい。
夜が迫ってくることが恐ろしい。
……何より大切ななにかを忘れている気がする。その、些細な違和感が、私の背を痛いほど、冷やした。




