迎え梅雨のトマトサバカレー
小学校から家に帰るためには、大きな角を二度曲がる必要がある。
雨の日、私はその角を曲がるのを何より楽しみにしていた。
今日は雨だからカレーですよ、メイカ。
2つ目の角を曲がると聞こえてくるのは、滑舌のいい祖母の声。鼻孔をくすぐるのはカレーの香り。
誰もが鬱陶しがる梅雨も秋の長雨も、私にとっては恵みの雨だ。
校庭をしっとり濡らす雨をみるたびに、幼い私の心は浮き立った。今日はカレーだ。と、足踏みをしたくなるほど嬉しくなる。
海やプールは楽しいのに、同じ水でも雨って何でこんなに鬱陶しいんだろう。と眉を寄せる同級生を横目に、私は1人で笑顔だった。
帰りの会が終わった瞬間、私は誰より早くに片づけを済ませて学校を飛び出したものだ。
海よりもプールよりも私にとって魅力的なのは、祖母の作る特製カレー。
そうだ。祖母のカレーはいつも、海のような複雑な香りがした。
「お疲れ様です」
そう言いながら、私はそさくさとノートパソコンの重い蓋を閉じる。
カレーが大好きだった幼い少女は、10数年の時を経て立派な大人に成長した。
変わらないのは食いしん坊の精神と、片づけが誰よりも早いことだけ。
私はマウスの電源を切り、流れるようにリュックの端っこを掴む。
……その途端、私の真後ろから素っ頓狂な甲高い声が響いた。
「あらっ。泉谷さん、もう出ちゃう?」
振り返ると、福福しい顔立ちの主任が私の顔を覗きこんでいた。
彼女は親指と人差し指を伸ばして、クイッとひねって見せる。
「これ。行くんでしょ? 課長のおごりだもん」
笑顔の主任の向こうに見えるのは、18時の文字を刻んだデジタル時計。
その時計を見上げる同僚たちの顔は明るい。
ホワイトボードに刻まれた『納涼会』の文字をみて、私は「あちゃー」の言葉を慌てて飲み込んだ。
(……忘れてた)
いつもは終電間近まで残業している同僚たちが、すでにパソコンを落としてネクタイまで緩めてる。
今日は会社の飲み会だ……と、私はようやくこの浮かれた空気の原因に思い至る。
梅雨時のビールは最高だよな。いやいや、冷酒でしょ。いやぁ僕は健康診断の数値が悪かったから、今日はもうハイボール一択ですよ。
さざめくような浮かれ声が、雨の音の中に反射する。
「今日は日本酒のお店よ。お刺身と朝取りの筍が美味しいんですって」
指先に架空の盃を摘んだまま、主任はうっとりと目を細める。
「筍なんて、ちょっと炙って塩で食べられるんだから。合うわよぉ、冷酒」
主任の指先を見て、私は喉を鳴らす。
きりりと冷えた日本酒に、美味しいつまみ。賑やかな居酒屋の空気。とても魅力的だ。きっと三ヶ月前の私なら、喜んで飛びついた。
しかし今は、飲み会より魅力的なことが家で待っている。
「残念です。今日は大事な大事な……そう、すっごく大切な用事があるので、すみません」
主任の引き留めの言葉に、やんわりとしたお断りの応酬。それをする時間も今は惜しい。
私は主任の返事も待たずにハイヒールからシューズに履き替えて、さっそうとオフィスの出口を目指す。
「泉谷ちゃんは誘っても来ないよ」
「どうせ彼氏だ彼氏」
「一昔前なら営業職で酒の席を断るなんて、査定に響いてたもんだけどね」
「無理に誘うなよ。なんとかハラだって訴えられるぞ」
背中の向こうに色々な声が聞こえたが、そんなもの、私には響かない。
薄い扉を静かに閉じて、薄暗い階段を駆け下りながら、重苦しい社員証をむしり取る。
髪を一つにまとめ、真っ青な折りたたみ傘を引き出してビルを飛び出した。
ぱっと開いた青い傘。艶やかな表面に、大きな雨粒が一気に吹き付けて弾けていく。
「もう梅雨入りした?」
「もうすぐじゃない?」
着飾った女性二人が黒い空を見上げ、私の前を通り過ぎた。
「こういう雨を迎え梅雨って言うんだって。湿気が多くて嫌になっちゃう」
……ジメジメ雨が数日続くと、梅雨になるのよ。膨らんだ髪を鬱陶しそうに振り払いながら、ハイヒールの音も高らかに。
鬱陶しいと言いながらも、彼女たちの足取りは軽い。
道を歩く人々はみな、華やいで見える。そうだ。今日は金曜だ。
こんな心地いい晴れやかな日が大雨降りというのが良いじゃないか。
「……よっし。まだ18時05分!」
腕時計を見つめ、私は力強く頷いた。
買い物しても19時にはキッチンに滑り込める。
湿気った空気を胸いっぱい吸い込んだ私は、笑顔で曇り空を見上げた。
少女が大人になっても、変わらないことはいくつもある。
誰より片づけが早いこと。雨が好きなこと。
「今日はカレーだ」
……そして雨の日はカレーを食べること。
雨の音はいつだって私にカレーを思い出させる。
「たっぷりの鶏ガラでスープを取って、生姜とにんにくをいっぱい目に」
家に滑り込んだのは予定通り、19時ちょっと過ぎのこと。
着替える時間も惜しいので、スーツの上にエプロンだけ掛けてキッチンに急ぐ。
築60年というこの家は、あらゆるところがボロボロだ。しかしキッチンは広くて使い心地がとてもいい。
鍋にたっぷりの水を注ぎ込み、スーパーで半額だった鶏ガラを綺麗に洗ってゆっくり沈める。
綿帽子のように盛り上がるアクを丁寧に取り払い、煮込む間に隣のコンロで、玉ねぎを炒める。
少しずつ半透明になるタマネギを見つめて、私は思わず足踏みした。
タマネギ炒めは、なかなか根気のいる作業だ……トロリと飴色のほうがきっと美味しいのだろうけど。
「……半透明で勘弁しとこう」
私は鼻を鳴らして、しぶしぶ手を止めた。
ほどよく熱の加わったタマネギの上から加えるのは、サバ缶。汁ごと。そしてたっぷりのトマトはざく切りに。
「じゃがいも人参は大きめに切って……おっと、そろそろスープが出来たかな」
野菜を切ることに夢中になっているうちにスープから、何とも言えない良い香りが漂いはじめた。
鶏ガラなんて失礼な呼び方だ……と、私は常々そう思っている。生き物を形成する大黒柱たる骨には、美味しさが詰まってる。
丁寧に濾せば、目の前に現れるのは、最高に美しい黄金色のスープ。
そのスープの中に、炒めた野菜もサバも何もかもを入れて煮込む。雨の音と湿度がどんどんと加速して、部屋中が香りと湯気で充満する。
鍋からぽこんと泡が吹き出すごとに、私の額からも汗が流れた。
「……ポイントはこれね」
私は一呼吸置いて、鍋の中に透明な液体を注ぎ込む……それは、純米吟醸と書かれた日本酒。
綺麗なスープと綺麗な日本酒が混じり合うと、鍋から甘い香りが漂った。
日本酒の美味しい居酒屋も魅力的だけれど、私にとってはこっちのほうがずっと、魅力的。
「メイは、いつも雨の日にカレーを作るんだな」
……ふと、声が聞こえた。
おたまを握りしめたまま、私は目を閉じる。
壁に触れ、優しく撫でる。
家が、それに答えるように優しくきしんだ。
「雨の日って湿気が多いから空気の匂いが全部下に下にって落ちるじゃない?」
火を緩め、辛口のカレールーを小さく砕いて加える。と、一気に香りがカレーになった。
鳥の骨に、サバに、トマトに野菜。いろんな香りを抱き込んで、カレーはゆっくり一つの料理になる。
床に座ると、カレーの香りが雨の音と一緒に降り落ちてきた。
「雨の日にカレーを作って、そうして夜におふとんに入る。そうすると、匂いが全部下に落ちるから、寝るときまでずっとカレーのいい香りがするの。おばあちゃんからの、受け売り」
カレーを作ると、祖母は必ず私を床に座らせた。茶色の染みがいくつも残る床は清潔で冷たく、私の小さなお尻と足を冷やしてくれた。
床に触れ、床に頬を押しつけて、祖母はうっとり目を細めて言ったのだ。
まるで海に溺れているようでしょう、と。
「……ほらね、いい香り」
「私は体が温かい。それに体に匂いが染み付きそうだ」
「生姜たっぷりだから、暖かさが染みこむのかも」
私は顔を上げ、天井を見上げた。壁も見る。床も見る。そこに声の主の姿はない。
当然だ。彼は顔も体も持たない。
しかし、確かに存在はある。
「ねえマヨヒガさん。においの強いカレーだったら、一緒に食べてる感じにならない?」
……彼は、この家自身だからである。
私がこの家に案内されたのは、三ヶ月前のこと。
支社の人員増加を目的に、山ばかりあるこの町への異動命令が降ったのである。
独身、恋人なし、家族なし。
そんな私に命令が下ることは数ヶ月以上前から決まっていたらしい。
だから私を含め、誰一人驚かなかった。
大変だったのは、引っ越し作業だ。
引継ぎと引っ越しに与えられたの期間は一週間。
神様は一週間で世界を作ったらしいが、人間にとっての一週間は24時間×7日でしかない。つまり短すぎる。
平均睡眠時間3時間の状態で、次の引っ越し先を決める羽目になった私は、とにかく疲れ果てていた。
ここは最高にいい物件ですよ。と、髭の不動産屋が案内してくれたのは、森のような庭に包まれた一軒家だった。
駅までは車で30分だが、バス停まで徒歩1分。2階建ての5LDK。台所はリフォーム済み。
さらに家賃は格安……ただし築は60年。
なんでも前の持ち主が亡くなり、息子が継いだが住む予定もないという。
「あんたが住まないからもう潰すだけらしいけどね」不動産屋のそのつぶやきが、なぜか私の胸を突き刺した。
気がつけば契約書に判を押し、荷物を運び入れ、電灯をつけ……ああそうだ、あの日も雨だったっけ。
ひとり暮らしは慣れたものだけど、引越の直後はいつだって少しさみしい。
ダンボールに囲まれたまま、雨の吹き付けるくもりガラスを見つめていた三ヶ月前の夜更け。
座り込む私に、彼は声をかけてくれたのだ。
「メイ、米は炊かなくていいのか?」
「あ。ご飯!」
また声が聞こえ、私は慌てて回想をふりはらう。
大急ぎで米を洗い、早炊きセット。しかしあと20分、私はこのいい香りの中でぐっと我慢をしなくてはいけない。
「カレーでご飯炊き忘れるのって、すっごい苦行」
「珍しくぼうっとしてたな」
私は床にゆっくり寝転がる。全身の凝り固まった筋肉を解すように、全身を床につけて足を伸ばし、腕を広げる。
この家にいるとき、私は床に近い場所に座る。できるだけ、体が家に触れ合うために。
「ううん。マヨヒガさんと出会ったときのことを思い出してたの」
……マヨヒガ。と、三ヶ月前、彼はそう名乗った。
迷い家とかいてマヨヒガ。東北地方にそういう伝承があることは知っている。山中に存在し、人に富を与える幻の家だ。
彼はその名前を名乗った。
彼は人間ではない。この家そのものであるという。
気がつけば意思をもち、人の言葉を理解した。もちろん動くことはできないが、思考し、会話もできる。
なので、迷家というより付喪神の一種なのかもしれない。
……なんて、冷静にそう思えるようになったのは、出会いから何日も経ってからだけれど。
「まさか、返事をしてもらえるとはな。メイは強い」
マヨヒガさんの声を聞いて、私は静かに目を閉じる。
聞こえる。のではない。彼の声は響くのだ。彼、といっても性別は無いだろう。
でも声は、優しくてあたたかく、深い……雨音に似た低い男性の音質を持っている。
「名前が似てるから、かなあ」
「名前?」
「うん、ほら、私の名前って……」
私は胸元に手を伸ばしかけ、思わず苦笑する。社員証を一日中付けているせいで、まだ首にそれがぶら下がっている気がしてしまう。
その社員証には、一風変わった私の名前が刻まれているのだ。
「メイカ……芽衣家。迷家もメイカって読めるし、似ているから、だから会話ができるのかも」
母は当初、私を芽衣花と名付けるつもりだったらしい。
しかし母の代わりに届けを出しに行った祖父が、花ではなく家と書いて提出してしまった……という笑い話を、私は耳にタコができるくらい聞かされた。
そのことをずっと根に持っていた母も、呆れていた父も、私が小学生の時に相次いで亡くなった。
トンチンカンで有名だった祖父も早くに亡くなり、私の面倒を見てくれたのは祖母である。
「それに、おばあちゃんの家に、似てるんだ、ここ……だから馴染んで……会話ができるのかも」
畳の青臭さ、触れると脆く指に絡みつく土壁。木の香り。
とうに無くなった祖母の家を彷彿とさせるこの家で、私はマヨヒガさんに声をかけられた。
「あなたが、ここに住むのか」
私は染みの残る天井を見上げ、マヨヒガさんの声音を真似て見せる。
「……覚えてる? これがマヨヒガさんの第一声」
震える声で、彼はきっと精一杯に声をかけてくれたのだ。
私は最初、驚き、飛び上がり、震えて眠れなかった。
「最初はあれほど怯えていたのに」
「そりゃびっくりだよ。幽霊かと思ったもん。でも今は……マヨヒガさんがいてくれてよかったって、そう思ってる」
むせ返るようなカレーの香りに包まれて、私は再び目を閉じる。
たん、たたたん。と、トタンの軒に雨粒が当たる音が聞こえる。酸っぱいような雨の香りも、体にまとわりつく雨の湿度も。
……雨降る日はカレーを作る。
そう決めたのは祖母だった。
祖母の作るカレーはいつも寸胴鍋いっぱいに作られる。
雨の朝、祖母は底が焦げた寸胴鍋を棚の上から恭しく引き下ろす。
その姿を見るたびに「ああ今日はカレーだ」とワクワクしたことを覚えている。そう思うと、じめじめしくしく鬱陶しい雨の日も、なんだかちょっと嬉しくなったものだ。
床に寝転がり、私は鼻を鳴らした。
「……うん、サバ缶を入れて正解」
祖母はカレーには海産物を必ず一つ、入れた。
香りの中に海を混ぜたいから。というのが彼女の口癖だ。
海は全ての原初です。と、祖母は私に秘密を明かすようにそう言った。
港町で生まれ育った祖母にとって、海は大きな存在だったのだろう。
では、私にとっての大きな存在とは、なんだろうか……考えてみれば、きっとそれは家なのだ。
小さな頃から家が好きだった。家に入るとホッとした。
「比喩じゃなく、待ってくれる家があるって、最高の贅沢」
やがて、キッチンの上から軽やかなアマリリスの音が流れる。炊飯の完了の音だ。カレーの香りの中に、米の甘い香りが交じる。
「私は時々、メイの言葉に救われることがあるよ」
マヨヒガさんが、ため息をつくように、静かに囁いた。
家が揺れ窓が波のように揺れる。その柔らかな衝撃を感じるたびに私は幸せを噛みしめるのだ。
彼はここにいる。そう思うと、私はたまらなく幸せな気持ちになるのだ。
「外を見ながら食べよっと」
外の雨は、気がつけば小ぶりになっていた。迎え梅雨は断続的で気まぐれだ。
たっぷりのお米に、これまたたっぷりのカレーをかけて、私は縁側の隅っこに腰掛ける。
「そろそろ、庭の草刈りとかしないとだね」
名前を知らない草が、気がつけば庭を占領していた。この手の草は放っておくとすぐに伸びるから、除草剤を使う方がいい、と不動産屋にはいわれたが、こうものびのび育つのを見ると切り取るのが可愛そうになってくる。
「……まあ、森と思えばいいのかな」
野放図に育った森兼庭の向こうには石壁があり、その先には川が流れていた。川の向かいには電車が走っていて、夜になるとゴトンゴトンと静かな音が響くのが心地いい。
時間をかけてカレーを作ったせいで、もう夜は22時。雲の隙間からは、小さな星も見えている。
きっと会社の飲み会は、小雨を幸いに3次会へ流れ込んでいる頃だろう。
真っ赤な顔の主任や、眠そうな同僚の顔を想像して私はにやりと笑う。
皆も幸せ、私も幸せ。いい金曜の夜だった。
「いっただきます」
大きなスプーンでカレーを掬い、噛みしめる。ぴりっと辛く、とろりと重いカレールーが口いっぱいに広がって喉が鳴る、腹も鳴る。
「美味しいか」
「美味しい」
カレーの香りを吐き出しながら私は静かにそう頷いた。
一緒に食べることはできないけれど、私の「美味しい」でマヨヒガさんが幸せそうに震えるのが嬉しかった。
「明日は休みだから、余計に美味しいのかも。6月はお休みがないから土日ってすっごく貴重」
「どこかへいくのか、メイ」
「まさか、ここにいるよ」
縁側から足を外に出すと、小雨がむき出しの膝を濡らす。天気予報では明日は晴れると出ていた。
貴重な梅雨直前の晴れ予報。やることは山ほどある。
「さて、明日はお家で何しよう」
「メイの好きなように」
「……私も時々、マヨヒガさんの言葉に救われることがあるよ」
カレーの最後のひとくちを噛み締めて、私は縁側にごろりと横になる。
天井の染みも、床に広がるささくれも、歳を重ねたマヨヒガさんの痕跡だ。全てが愛おしい。
丁寧に磨いて、温めて、大事に大事にしたくなる。
「寝ると風邪というものをひくんじゃないのか」
「そんな言葉、誰に教えてもらったの?」
私の言葉に、マヨヒガさんはふと口を閉ざした。代わりに家がかすかに熱を持つ。
暖かく、まるで布団にくるまれているようで、悔しいけれどこうなると私はすぐに陥落してしまう。
(……いつも言いたくない時にごまかすのは、ずるいな)
そんなことを思いながら、床に頬を押し付けたまま、私はそっと目を閉じる。
降り落ちてきたカレーの香りが私を包む。
やがて私は心地よい海の底へマヨヒガさんと一緒に沈む夢を見た。