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セイレーンの家  作者: 前原よし
第二章 松井卓朗
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第三話 下心あり

 柊子はやはり、身の置き所がないかのように立っていた。


 彼女は待ち合わせの駅の改札を出たところで、携帯を見て時間を潰すということもせず、やや顔を俯かせただ立っていた。

 単に惹かれているからそう思うだけなのかもしれないが、彼女は異質な雰囲気を持っていて、目が追ってしまう。柊子は卓朗に気付くなり顔を綻ばせた。

 待ちに待った人間に会ったかのような顔をする。美しい容姿で、今にも折れる風情で頼りなく、男を簡単に虜にする。

 卓朗の、その欲望そのものが自身を冷静にもさせた。

 これほどに惹かれることに恐ろしさが募る。

 しかも、彼女はやはり異質だ。異次元の人間を相手にしているような気がする。柊子は何かのイメージに近い。語彙として喉まで出かかっているという状態で、卓朗は彼女を表す言葉をまだ見つけられずにいた。


 柊子は先日の電話にて、嬉しそうな声で会いたいと言ってくれていたが、実際会ってみると暗かった。

 あれから間をおかずに約束をしたが、すでに冷めたのだろうか。女心というより、柊子が特別読めない人なのだろう。


 道中二人はほぼ無言だった。予約した店は、屋外の階段から降りた地下に入り口がある。柊子は階段の最後の段を降りた辺りで、先を歩いていた卓朗にぶつかってきた。

 ぶつかったといっても、柊子の肩が卓朗の背に軽く当たった程度だった。しかし驚き卓朗は振り返って、まだ前のめりになっている彼女の手を掴んだ。

 相変わらず柊子の手は、今まで水仕事をしていたかのように冷たかった。しかも震えてもいる。

 上げた顔もどこか青い。暗く沈んでいるように見えたのは、気分が優れなかったせいではないか。

 柊子は、卓朗に握られた手がそのままでも気にしていないようだ。それで余計に、介助が必要なほど具合が悪いのかと考えた。

「具合が悪いようでしたら、無理はされず言って下さい」

 店内の席に座り卓朗は、さっきまで握っていたにも関わらず、ずっと冷たかった柊子の手に目をやった。彼女ははっとして、そして目を伏せた。


「やっぱり私、浮かれているのが分かりますか?」


「浮かれている?」


 ラテン語ではない。日本語だ。


 突然だが「姑息」という言葉がある。卓朗はこれまで「ずるい」というニュアンスの意味だと認識していたが、本来は「その場しのぎ」という意味ということを先日知った。それがあって、卓朗は「浮かれている」も自分が勘違いをしていただけで、本当は別の意味があるのかと、一応考慮してみた。


「おれは……済みません、私は『浮かれている』という言葉は、うきうきして踊り出しそうだとかそういう雰囲気のものを指すのだと思っていましたが」

「え、私もそう思っていたんですけど、違いますか?」

 合っているらしい。卓朗はますます困惑した。

「もう一度卓朗さんに会えると思って、私、浮かれてるんです」

「浮かれて、ます……かね?」

 卓朗の「あなたは何を言っているんだ」という顔に、柊子は実に真面目な顔を返した。

「私、今度こそ卓朗さんによく思ってもらいたいので、一昨日のお見合いのときのように変なこと言わないように気を付けてはいるんですけど、そうしたら変に緊張してしまって」

 緊張という言葉に納得した。手が冷たいのはそういうことなのかと。初回の見合いの席でも、彼女に重ねられた手は異様に冷たかった。

 洗練された外見から、勝手に世慣れていると思い込んでいたが、桐島美晴の言葉や柊子自身の言動からも察するに、むしろ柊子は浮世離れしているのだろう。

 常に感じていた、身の置き所がなさそうな不安な様子も、本当に人と会うのに慣れていない可能性があるとも思えるようになった。


 卓朗はほっと、少しばかり自分本位な安心を抱き息を吐いた。

「緊張しているんですね。だから手が冷たかった……そんなに俺……私に気遣うことなんてないのに」

「気遣うというより、なんて言うのかしら、ぱっと日本語が出てこないんですけど」

 給仕の男性が顔を出し、柊子の話は一旦中断された。卓朗と柊子のそれぞれに飲み物用のメニューが渡された。


 柊子と会う前に卓朗は店選びについて、見合いの心得について助言をくれた友人と、会社の先輩にそれぞれ助言をもらった。面白いのは二人ともここには来たことがないことだ。友人は別の婚活仲間から、行ってみて相手に好評だった店を聞き、先輩は職場の女子社員に聞いたそうだ。


 二人曰く、女性が好む店は女性に聞くのが一番だと。至極尤もである。


 ただ、会ってすぐの相手とお酒を飲むのは避けた方がいい。無難に烏龍茶を頼んだのだが、卓朗は正直なことをいえばお酒を呑みたかった。また別の機会があれば友人と来てもいいかもしれないと考え、まだなお飲み物の品書きを見ていた。

「八海山がある」

「え、いいですね」

 卓朗は顔を上げた。柊子は少し前のめりで卓朗の持った品書きを見ていた。

「柊子さんはお酒がいける方なんですね」

「好きですよ」

 にこりと微笑む顔が嘘ではないのが分かる。

 思わず、頬を赤くしてお酒を嗜む柊子のしどけない姿を想像してしまったときだった。


「あ、下心」


 見事言い当てられ、卓朗は顔を強ばらせた。柊子といえば顔を明るくして手を合わせていた。

「そうですよ下心。私は卓朗さんに気を使っているんでなくて、よく見てもらいたいって下心があって緊張してるんです」

 朗らかで嫌味がない言い方だった。卓朗ははあと、緊張していた肩の力を抜いた。そのまま項垂れたいほど脱力した。

 柊子は、それで何か勘違いをしているらしい。しゅんとして、彼女が顔を伏せてしまった。

「今のは言わなくてもいいことでしたよね」

「そうかもしれませんね」

 こちらの寿命が縮まるという点では全くの同意である。


 まるで見計らってくれたかのように、給仕がお茶と前菜を持ってきた。


 前菜はほうれん草と揚げのおひたしに、昆布の佃煮だ。ますますお酒が恋しくなると思いながら箸を付けた。

 味は濃くなく、しかし出汁が利いていて美味しかった。酒のつまみでなくても楽しめるものだった。

 柊子も同じものを口に含み、静かに微笑んだ。

「美味しいです」

「よかった」

 女性が──柊子が、対面で美味しいと機嫌良くものを食べている。それだけで可愛らしい。ここを選んでよかったと心底思った。単純にもほどがある。

 さらに単純なことに将来もこんなふうに、次はお酒を酌み交わせるようになればいいなど、酔ってもいない頭で卓朗はのぼせて想像した。

 話せば話すほど、理解し難くなる柊子のことを見ていたい。全てを知り理解など無理だが、できないことが、むしろ永遠にこの感情が続くなら、それがいいと思えた。



 食事を終え、二人は店を出た。


 話をしながら、先を歩く柊子の後ろについて、階段を上がっていた。喋りながら華奢な背中を、不躾にじっと見ていると、目の前で柊子はバランスを崩した。卓朗は反射で手を出し、階段から落ちそうになっていた柊子を抱えた。

 ほっそりとして、なのに柔らかい肢体の感触を、卓朗は半身で受け取った。不意に、名前が分からない好ましい香りが鼻に届く。いきなりどうしてと思ったが、柊子の香りだと気付き、鼓動が早くなった。

 柊子は卓朗にしがみついている。彼女の鼓動も早くなっていた。階段から落ちそうになったのだからそうだろうとは思いつつ、自分を頼りにしている構図に、いろいろな思いが渦巻いた。

「大丈夫ですか?」

 自身に非はないと思っているが、女性に抱きつかれ、声から欲が漏れていないか焦ってしまう。

「立てますか?」

 離れてほしいと思った。下心がバレてしまう前に。

「く、くつ、が」

 柊子は靴を落としていたのだ。そんな音がしていたが、柊子自身に気を取られていた。柊子を支え手すりに手を置かせて、問題なく立てることを確認してから、卓朗は彼女の、落ちていた靴を拾った。

 使い込まれた薄いローファーは、卓朗の手で持つと一層華奢に思える。目前で、片足だけで頼りなく立っている持ち主のように。


 卓朗は屈み、柊子の足のすぐ前に彼女のローファーを置いた。

「寒いですか?」

 柊子のお礼を受けてから、卓朗は聞いたのだが、正直それを確かめたいとは思っていない。動揺しているのを気取られたくないから、話題にしただけだった。けれど、柊子は心許なげにそうかもしれないと言った。


 少しためらったものの、卓朗は手を差し出した。


「手をおつなぎしましょうか?」


 十割の下心──先刻に柊子に言い当てられたそれの、まだ表に出しても許されそうな類いのものを──柊子に示した。


 罠にかけられた美しく無垢な動物のように、柊子はするりと手を握ってきた。


 冷たい手。


「相変わらず手が冷たいですね」

 靴を落とすという行為で連想していたシンデレラから、ふと、先日から柊子が何かを連想させる何かが出てきそうになった。けれども、思い出せないまま、近くなった何かはゆるゆると霞掛かり遠ざかっていく。


 階段を上り終え卓朗は、自分こそ酔った勢いで手を繋ごうなど言ってしまったことを恥ずかしく感じてきた。手を離そうと緩めたとき、柊子は逆に、それを離さないとばかりに握ってくる。

 彼女の手は、自分の体温が移動して、少しだけあたたかくなっていた。

 熱伝導というキーワードから、ジュールの法則も芋ずるに脳に湧き出てきた。卓朗は式を脳内でそらんじていた。



 駅に着いてしまった。改札が見えたときに卓朗が思ったのはそれだった。着いてしまった、とうとう。

 手を離さなければいけない。彼女を帰さなければいけない。

 家の前まで送っていくほど、まだ親しくない。


 卓朗は手の力を抜いた。柊子もその流れで手を離した。今夜は帰りたくないなどと言う、柊子が卓朗にそう懇願する絵面を妄想し、自分のバカさ加減に呆れた。

 柊子は卓朗に手土産を渡したあと、さようならと会釈をして改札を通っていった。その背を見つめていたのだが、卓朗の念が通じたように、柊子は階段を降りる前で振り返った。

 すでに、もう一度会いたい。自分も改札を抜けて、彼女を抱き上げ連れ去りたい。

 触れたくてしかたがない。もう一度、腕のなかに抱きしめたい。

 願わくば、彼女も同じ思いでいてくれたらいい。触れてほしいと思っていてくれればいい。

 クリエイターとして崇められるだけでなく、男として見られたい。


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