6 男装令嬢は射貫かれる
遠征の馬車は、軽やかに街道を南下している。
総勢50名の遠征隊は、40の騎兵と10の非戦闘員から成っていた。
足の速い騎馬隊が前方に30騎、次いで物資を乗せた馬車が中央に、殿に10騎が続く間延びした隊列だった。
その中程で、ディートはその先に待つ人を思った。
ちゃんと休憩は取れているだろうか、サインをした後のペンはちゃんとペン立てに差しているだろうか、熱いスープはちゃんと冷ましてから飲んでいるだろうか。
この隊で、もう2年も過ごしている。その間のほとんどが、副団長の代わりに団長の補佐をして、いつの間に秘書的な位置にいた。
ギルベルトもディートを頼ってくれているのを感じていて、二人は良好な上司と部下の関係であると思っているが、どうしても母親的な心配が浮かんでしまう。
国の英雄と呼ばれるギルベルトだが、その実、少しぼんやりしているところがあって、どうしてか世話を焼きたくなるのだ。
それが、この度の遠征で、これまでになく長期間離れることになって、ディートの心配も限界まで来ていた。今回は小姓が付くので生活面はそれほど心配しなくてもいいと思うが、初めてギルベルトに付く小姓があの沈黙に耐えられるといいが、と別の心配もある。
今回の遠征は、大規模かつ長期になることから、前線に一番近い南の神殿からも神官の派遣があり、ディートたちはその追加物資を運ぶ任務であった。
騎兵はそのまま現地の兵と交代となるが、ディートは物資の設置や残数の確認と、戦闘の簡易的な補助をするため、数日間だけ滞在する予定だった。
もう少し前線の様子を見ていたいと思ったのだが、王都に残してきた副団長がいつ事務仕事に嫌気が差して爆発するか心配で、最低限の日数で調整しなければならない。
往復で2日掛かるため、実質現場は5日しかいられないのだ。
今から仕事の段取りを頭の中で練っておく必要があった。
南の神殿、と聞いて、ディートは少し不安が過った。
南の神殿は管轄にアールスマイヤー領が入っており、今頃はアンネが聖女として幅を利かせているだろう場所だ。
知りたくもないので、積極的な情報収集はしていないので、今代の聖女の評判は知る由もなかったが。
今回の派遣は神官ということだし、娯楽も物資もない僻地にアンネが来るとは思えないが、念のため外見を晒さないように帽子を被ることにした。
基地に到着すると、早速とばかりにギルベルトが小さな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
約半月ぶりの再会に、ディートも嬉しく思うが、久しぶりに見ると、ギルベルトの笑顔は随分と破壊力があった。
出会って半年の謎の飲み会から約1年半で、随分とギルベルトも表情が豊かになったと思う。ただ、他人から見れば微々たる変化らしいが、今の微笑みはさすがに他の人間も分かったようで、俄かに基地がざわついた。
しかし、その微笑みは、どこかぎこちなく、困惑が見て取れた。
「ご苦労だった」
「調整が遅れて申し訳ありませんでした。早速神官方の要望から確認いたしますが、今回は女性神官が多いと伺っていますが……」
「それなんだが……、お前はこのまま王都に帰れ」
「は?」
いきなり意味不明な言葉に、思わず上司に対するものとは思えない返事をしてしまった。
「ああ!ディートか!よく来てくれた!」
突然沸き上がった大声に、そちらを見ると基地での団長補佐である古株で団長と同い年の騎士のホルストが駆け寄って来た。
「お前が来てくれて本当に良かった!もう、俺たちでは解決できないんだ」
「はあ、それは、お疲れ様です」
むんずと腕を掴まれたディートを見て、ギルベルトはあからさまに顔を顰めた。
「駄目だ。ディートは王都へ帰す」
「何を言ってるんですか。もう俺たちみたいな無骨な人間には無理ですよ。団長だって辟易してるじゃないですか」
「だが……」
どうやらのっぴきならない問題が起きているようだ。即決即断のギルベルトだが、どうにも歯切れの悪い言い方しかしないところに、その問題の難解さが伺い知れた。
「団長、何があったのかだけでも、お話くださいませんか?」
ディートが話を引き取ると、ギルベルトはまた顔を顰めた。
「ディート、俺から説明する。いいですね、団長」
煮え切らないギルベルトの態度に、ホルストが割って入ろうとした時だった。
「あら、ギルベルト様、こんなところにいらしたのね」
全身の毛が逆立つ感覚がした。
背後から聞こえる声に、身体が竦んで、指先一つ、瞬き一つ自由にならない。
呼吸が、できない。息の仕方を忘れてしまった。
耳鳴りがする。そして、背中の傷までもが疼き出した。
誰か、誰か、……助けて。
目の前が暗くなる寸前、不意に腕を引かれて、その声とディートの間に壁ができた。
ギルベルトの背中だった。
その背中を見ただけで、ディートの身体は呼吸し、活動することを思い出したのだ。
「神官殿。お呼びしてもいないが、何故こちらへ?」
ギルベルトの声は、平坦ながらも苛立ちが立ち込めていた。それをさらりと躱すように、相手はころころと笑った。
「いやですわ。わたくしの事は『アンネ』とお呼びくださいと申しましたのに」
もう聞いていたくなかった。何故、「聖女であるはずのアンネ」がここにいて、しかも神官と呼ばれているのか。
「わたくしは、都からわたくし用の物資が届いたというので、ご挨拶にまいりましたの」
軍の物資を私物のように言うアンネに、その場の空気が冷えた。
「あなたの仕事は魔物の殲滅であって、ここの女主人のごとく振る舞うことではない。それに軍の物資はあなたの物ではないことをお忘れなきよう」
ギルベルトが、スラスラと長文を喋っているが、彼は怒っている時ほど流暢に話すことをディートは知っていた。
それでも相手は、まったく堪えた様子も無く、自分から見えるホルストの顔が渋面を通り越して仮面のようになっていた。
おそらく、ディートがここに来るまでに、幾度となくあったやり取りで、それでも改められない態度にこのような表情になったのだろう。
「わたくしも、早く皆様のお役に立ちたいとは思っているのですが、何せ初めての遠征ですので、慣れるまでは身体を休めて魔力の調整が必要ですの」
嘘を吐けと思う。「アンネ」にはそんな繊細さはない。
「では、いつから動けるか聞きたい。もう4日、待っているが?」
「そうですわね。もう少しは掛かるかしら」
不毛な会話の中、ギルベルトの手が合図を送って来た。ディートを連れてホルストはここから離れろ、と言っている。ホルストは釈然としないながらも、命令では仕方が無いと動こうとした。
「あら、そちらの方は初めてお会いしますわね」
総司令であるギルベルトと話していたことから、ディートを高官だと思ったのか、急にアンネの意識の矛先がディートに向いた。
またあの耳鳴りがする。
「おい、大丈夫か?顔が真っ青だぞ」
ホルストがディートの様子に気付き声を掛けるが、もう目の前が見えなくなりそうだった。ダメだ、今倒れたら、アンネに知られてしまう。
吐き気まで催してきたが、突然頭に何かを被せられた。あっと、思う間もなく、ディートの身体が浮いて、誰かに背負われたようだった。
「俺が救護所へ連れて行く。お前は神官殿を天幕へお連れしろ」
「了解です」
その声から、ギルベルトがディートを背負ってくれたことを知った。
そして、笑ってしまいたいほど、ホルストの返事は不満に溢れていた。
そんな空気を物ともしないアンネが、話に割り込んで来る。
「その方、具合が悪いようですわね。これでも聖女に最も近い神官ですの。わたくしが診て差しあげましょうか」
やめてほしい。アンネの医学知識など、子供のまじないの方が確実に効く。
それをギルベルトが遮ったので、ディートはホッとした。
「結構だ。俺の部下に触らないでいただこう」
何故か、ギルベルトはアンネに対して敵意を隠さないでいる。
対話能力が欠如している割に人には悪意をもって接しないよう注意しているギルベルトが、珍しく吐き捨てるように言うのを聞いて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
優しいギルベルトが、不快さを隠さない程のことをアンネがしたのかと思うと、どうにも居たたまれなかった。
「無礼ではありませんか、ギルベルト様。わたくしは伯爵家の人間ですのよ」
「そのままその言葉をお返しする。あなたは還俗しないかぎり、聖女ですらない一神官だ。それを将軍職である俺を名前呼びにするのは、完全に無礼に当たるのをご存じないのか」
アンネは自分の容姿に絶対的な自信を持っていて、学生時代では、学園でも社交場でも名前呼びをすると喜ぶ男が多かったから、きっと今回もそんな軽い気持ちでそう呼んでいたのだろう。
ギルベルトは間違いなく、アンネの好みの容姿だ。
だが、自分が拒絶されることも、自分の行いを非難されることも思いも寄らないことだったようだ。
「もう、結構よ!」
「……あぁあ、行っちゃった」
アンネの甲高い声の後に、ホルストのさしてまずいとも思っていない声が聞こえた。
「救護所は危ないから、ディートには俺の天幕を使わせる。お前には悪いが、代わりに物資の搬入をしてもらいたい」
「それこそ了解です。あの女を天幕に送れって命令の方を悪いと思ってください」
歯に衣着せぬ言い方だったが、ホルストの気遣いが嬉しかった。眩暈と吐き気で礼も言えない自分が情けなかった。
会話が終わると、歩きの揺れが伝わってきた。温かで広い背中に預けた身体が、徐々に解れていくのを感じた。
この背に、ずっと触れていたい。
やがて天幕に着いたのか、ギルベルトはゆっくりとディートを寝台のような場所に下ろした。
「布を取るぞ」
そう断ってから布が取り払われ、視界が明るくなった。
その布は、出会った時にギルベルトが身に着けていた顔を隠す布のようだった。それがアンネの視界から守ってくれたことに、不思議な感覚がした。
最初の時には怪しさしかなかったが、こうして顔を隠したいという心理にはとても心強い味方だと分かった。
「団長。申し訳ありません」
「いい。まだしゃべるな」
ギルベルトは、枕元に椅子を手繰り寄せて座った。団長のものとは言っても、天幕は狭く、寝台と書き物机一脚で部屋がいっぱいだった。
だから、ディートとの距離も至極近いものだった。
「特徴的だな、アールスマイヤーの血統の外見は。あれはお前の従姉か」
ディートは観念して頷いた。
知られているとは思っていた。
父クラウスの話を持ち出したのはギルベルトだからだ。
ただ、どうして今まで黙っていてくれたのかが不思議だった。本来なら処罰を受けていてもおかしくはない。
「不思議そうだな。実は、俺を含め上層部ではお前のことを知っているよ」
騎士団の上層部では、クラウスが世話した人間が大勢いるようだ。
そして、既に子供の頃の記憶で不鮮明になりつつある父の顔だったが、やはりディートは似ているらしい。見る者が見れば分かることだろう。
「学園での証言でも、一部の使用人の証言でも、お前への虐待が確実だったからな。書類の訂正を求めることで、お前の居場所が分かってしまうことを恐れたんだ。それだけ血縁や養親の権利と言うのは強いからな」
血縁の話をする際に、ギルベルトは一度声を落とした。
だがすぐに、努めて穏やかな口調に変えたようだった。
これで少し恩を返せたといいな、と少し遠くを見て呟く姿を見て、ディートは涙が溢れてくるのを止められなかった。
そんな昔のことで、しかも父への恩というだけで、騎士団が罰せられることはないのだろうか。こんな取るに足らない自分のために、相当な危険を冒したのではないか。
「お前は何も心配することはない。騎士団の採用規定に、男女の別などないし、あの身分証の元となる養子の証明には、間違いなく「男」となっていたから、こちらの手落ちは無い」
ディートも精神的、身体的に追い詰められ、強制的に偽らせられていたので、最終的な咎は脅迫していた伯爵家にあることは確定しているようだ。
ギルベルトは、ディートの不安を一つずつ潰していく。
守られているという実感が、胸に迫った。
ふと、ギルベルトの指が、優しくディートの髪をかき上げた。
「だから、お前は安心して俺の側にいろ」
真剣な眼差しに射貫かれ、言葉の意味の理解が追い付かなかった。
余程変な顔で見上げていたからか、男らしい直線的な眉尻を下げて僅かに目を細めた。
「まだ、顔色が悪いな。もう少し休んでいるといい」
そう言って髪を梳いていた指を離し、涙に濡れた頬を掌で覆ってゆっくりと撫でてから、名残惜し気に手を離して席を立った。
ディートは、今の言葉を判断しかねた。
それは、秘書的な今の立場からそう言ったのか、それとも少しでもディートに好意を持ってくれているということなのか。
いずれにしても、先ほどの言葉は、今まで聞いたどの言葉よりも胸に残ったのだ。
閲覧ありがとうございました。