80-なんとしても
《スペルリタス市街地・地上》
(どこにいるんだ、ケファ……!)
スペルリタス市街地の一角、狭い路地に隠れながら、ノキアは魂の鼓動に耳を澄ました。しかし、聞き慣れたケファの鼓動はどこにも感じられない。
代わりに緊張した様子の鼓動が二つ近付くのを感じて、ノキアは路地の奥の方に身を潜めた。物陰から大通りの方を窺うと、兵士の身なりをした二人組が周囲を見回しながら路地の前を通り過ぎて行った。
ノキアたち侵入者の情報が伝わっているのか、市街地は予想以上に警備が厳重だった。まあ、ミストが空に向けて放った光線などは遠くからでもはっきり見えただろうし、仮に詳しい情報が伝わっていなくても、何か穏やかでないことが起きていることは誰にでも分かるだろう。
その証拠に、ずらりと家が並んでいる割に、屋外は不自然なほど閑散としていた。おかげでノキアも人混みに紛れるということが出来ず、こうして人目を忍んで移動するという面倒なことをしなければならなかった。
それにしても、ミストは本当に大丈夫だろうか――兵士たちが完全に視界から消えるのを確認して素早く道の反対側へと移動しながら、ノキアは無意味と分かっている問いを心の内で繰り返した。
親しいものの鼓動が消えかかっている音。それはノキアにとって、過去のトラウマを呼び覚ますものだった。そのせいで、アリムの前であんな情けない姿を晒してしまった。クエルも、口では何も言わなかったが、内心では失望したのではないかと気がかりだった。
(あんなことじゃ駄目なんだ……俺が、もっとしっかりしないと)
さもないと、また大切なものを守れずに失ってしまう。ノキアは自分の心の弱さを振り払うように、逃げるように、路地を走った。
そう、あの時に決めたはずなのだ。もう、自分の弱さのせいで大切なものを失うようなことはしないと。どんな状況でも落ち着いて、最善の行動を取れるような強い心を持つのだと。
それなのに、ああも簡単に取り乱してしまった自分が悔しかった。もしあの時アリムたちがいてくれなければ、自分はフラッシュバックに囚われて何も出来なくなっていたであろうことが分かっていたからだ。
(いや、こうやって過ぎたことでくよくよしているところがすでに駄目なんだ)
そう思い直して自分を奮い立たせ、ノキアは路地を先へと進んでいった。
(ミストのことは、アリムを信じるしかないんだ。俺は、俺のすべきことを……)
もうしばらく移動したら再び立ち止まって周囲の鼓動を確認しなければならない。いくらノキアの感知能力が高いからといっても、この広いスペルリタス市街地の中でケファを一人で探すのは大変なことだ。
そもそもを言えばケファが市街地にいるという確証もないのだが、他に当てがない以上そのことについて悩んでも仕方ない。当てが外れたら、その時はその時だ。
せめて市街地の全体図でもあればまた違うのだが、あいにく鎖国をしているスペルリタスの詳細な地図を事前に入手することはできなかった。
住宅地や事業所、官公庁など、スペルリタスにおける人間族の生活圏がほとんど北部市街地に集中していることが分かっているだけでも御の字というべきだった。
(ケファも、ルディロに何もされていないといいが)
それに、連れ去られた時のケファの精神状態についても心配だった。何しろケファはあの時、自分が人工的に作られた人間であるという真実を受け止めきれず、放心状態だったのだ。
そこにさらに宙賊による誘拐が重なって、ケファは今どんな気持ちでいるのだろう。それを思うと居たたまれなかった。
やはり、あの時強引にでもついて行っていけばよかった。またもや、ノキアは無意味と分かっている後悔を繰り返した。
あの時、ケファが自ら一人でいることを求めたこと、ミストからもそうさせてやるように諭されたこと、そういうことが分かっていても、それで悔いが拭いされるわけではなかった。
(だから、過ぎたことをくよくよと……)
ノキアは、自分の心のどこかで歯車が狂っているのを感じた。ここしばらくは、こうまで心を乱されることはなかったのに。
ミストの瀕死を感じ取った時のフラッシュバックがそのきっかけであったことは間違いない。それは、数え切れないほどノキアを苦しめてきた情景。
丘に建つ質素な家。夜、暖炉の薄明かりに照らされた苦しそうに呻く女性。次第に力を失っていく魂の鼓動。それでも気丈に微笑んで、女性はノキアの頭を撫でるように手を置いて。
『大丈夫、ノキア。お母さん、こんな病気に負けたりしないから……』
そして、その手から、次第に力が、失われていって……
「……しかし、このスペルリタスに侵入者なんて、いつ以来でしょうね?」
「まったくだな。国境警備隊は平和ボケしているんじゃないか?」
思いがけないほど近くで聞こえた話し声に、ノキアの心は現実に引き戻された。大通りに飛び出す直前で、なんとか踏みとどまって隠れる。その目前を、さっきとは別の二人組の兵士が雑談をしながら通り過ぎていった。
あと一瞬気付くのが遅れれば、兵士たちの目の前に飛び出すところだったのだ。ノキアは自分を思いっきり引っ叩きたい気持ちだった。しかし、そんなことをして物音を立てるわけにもいかないので、代わりに魂の鼓動に耳を澄ませる。
――ドクン――
――トクン――
――トクッ――
様々な鼓動が入り乱れる中から、ただ一つの鼓動を見つけ出そうと集中する。念じる。祈る。
(ケファは、なんとしても、俺が助け出すんだ……!!)
――……トクン――
ノキアははっとして顔を上げた。確かに、聞こえた。まだ遠く、その音は微かだけれど、聞こえた。それは、ケファの鼓動だった。
逸る気持ちを抑えつけながら、ノキアは方角と距離を推測し、そして、出発した。




