49-ライラの街
ノキアたちは簡単な下船手続きを済ませ、環境保全区域であるイオーヴィアにおける行動の制限等について説明を受け――その間中係員がミストのことを胡散臭げに見ていたのが、ノキアには気に食わなかった――イオーヴィアの港町であり、来訪者が唯一歩き回れる街でもあるライラへと足を踏み入れた。
「ふわぁ、緑がいっぱい……」
その景色を見たケファの第一声がこれだった。
思えばケファは研究所で目覚めて以来、緑の豊かな場所を訪れたことはほとんどなかったのだと、ノキアは思いいたった。ルエリータの杉林を歩いたことはあったが、あそこでは何もかもが雪に覆われていた。レクシリルの市街地にも公園や大きな木の家など緑はあったが、イオーヴィアのそれは別格だった。
ライラの街は、市街地と言いながら目に入る色の半分以上が緑だと言っても過言ではなかった。大通りの両脇には背の高い街路樹が生い茂り、恒星へレアの日差しをほどよく遮って透明感のある木洩れ日へと変換している。
赤茶色のレンガを基本とした建物が建ち並ぶ中にも、前庭に小さな庭園を備えていたり、壁をグリーンカーテンで覆っていたりと、必ずどこかしらに緑を取り入れているのが特徴的だった。
「なんというかこう……絵本の世界に入ってきたみたいよね」
ミストも柄になくロマンチックなことを言った。
「このアステラは保全区域の観光が主産業だから、市街地といっても半分はテーマパークみたいなものなんだよ。だからこの街並みも観光客を喜ばせるために……」
ちょっとからかってやろうと夢を潰すような説明を始めた途端、ミストとケファに同時に睨まれ、ノキアは慌てて押し黙った。
とはいえノキアの言ったこと自体は事実であり、それがこの街の独特な空気感の理由だった。レクシリルと同じく複数の種族が混在しているが、誰もが日々の生活に汲々として動き回っているレクシリルとは異なり、人々はゆったりと歩き回り、ここで過ごす時間そのものを楽しんでいるように見える。
その様子を眺めながら、ケファは奇妙な感覚に包まれていた。自分がもう一つの人格についてあれほど悩んでいた間も、ここでは同じように悠々とした時間が流れていたのだ。
自分が苦しんでいる時にも、そんなことはつゆ知らずそれぞれの時間を楽しんでいる人たちがいる。逆に自分が幸せを感じている時にも、世界のどこかには悲しみに打ちひしがれている人たちがいるのだ。
それは寂しいような、ほっとするような……当たり前のことだが、とても不思議なことのようにも思えた。
(世界は、人それぞれに存在するものなんだ)
自分でも名付けられないような感覚が、胸の奥から湧き起こってきて、一つの流れとなってケファの心を通り過ぎていった。
ふとその時、ケファは道の脇にある一つの建物に目を止めた。大きな窓がショーケースになっていて、半透明の彫刻のようなものが並べられている。
気になって近寄ってみたケファは、その細工物の美しさに見惚れた。色とりどりの素材で作られたそれらは、城や航宙船、民家や動物など、様々な姿をしている。その一つ一つが細かいところまで作り込まれており、繊細な凹凸の一つひとつが恒星へレアの光を反射して、キラキラと煌めいている。
一体どうやって作っているんだろう、とその店の看板を探したケファは、その店名に驚いた。
『アシリー飴細工店』
つまり、この彫刻たちが全て飴でできているというのだ。そう思ってみると、なんだか美味しそうに見えてきた。
「なんだケファ、それ食べたいのか?」
意識しないうちに随分長く見つめていたのだろう、ノキアが声を掛けてきた。
「そ、そんな、ノキアに余分にお金使わせちゃ悪いし……」
「たしかにそのショーケースのやつは高そうだな。でも手頃に買えるのもあると思うよ」
「それに、あたし、別に食い意地とか張ってないし……」
そう言いながらショーケースに釘付けになっているケファの視線を見て、ノキアは肩を竦めた。
「……まったく、ノキアはケファに甘いんだから。これからは欲しいものがある時は、ケファにおねだりさせるのが良さそうね」
ちゃっかりと御相伴に与ったミストは、ご機嫌な声で言った。
「こ、今回は特別だ! せっかくイオーヴィアに来たんだから、このくらいはと思って……」
「ふーん、本当かしら?」
ミストに疑わしげな目で見つめられて、ノキアはうっと言葉に詰まっている。ケファは、棒の先についた飴をためつすがめつ眺めながら、そのやり取りを聞いていた。
緑がかった透明な飴で形作られたそれは、カワセミを模したものだった。サイズは小さいが、だからこそいかに精妙な技術で作られているかが伝わってくる。
尖った嘴に丸みを帯びた体、小さい分すばしこそうな翼は、まるで今にも動き出しそうにさえ見えた。
見れば見るほど舐めて溶かしてしまうのがもったいないように思われて、しかし一方でミストのために細工前の飴の塊を格安で分けてくれた気前のいい女店主の「この飴の味は一度食べたら忘れられない」という売り文句のこだまも耳をくすぐる。
散々迷った挙句、ケファは心の中で『カワセミさん、ごめんなさい!』と叫びながらついにその飴をぱくっと口に含んだ。
途端、この世のものとは思えないまろやかな甘みがケファの味蕾を魅了する。イオーヴィアにしか生えないというヒカリカエデの樹液を練り込むことで生まれるという奥ゆかしい味わいに、ケファはしばし恍惚とした。
しかしそんな幸せな時間にもふと、自分の未来に対する不安が首をもたげる。このまま時間が止まってしまえばいいのに。ケファは飴のついた棒をすがるように握りしめながら思った。
そんなケファも、益体のない言い合いを続けていたノキアとミストも、近くの建物の陰で緑色のぼろ服を纏った男に見られていることには気付かなかった。
ごま塩のボサボサの髪をしたその男は口元をニヤリと歪ませると、まるで霧にでもなったかのように、ふっとその場から消え失せた。




