30-ペント族の町
ニックが町と呼んだ真ん中のブロックは牧場だった。数ヶ月放置されたに相応しく草が高く生い茂る中に、加工技術が乏しいなりにペント族が工夫して作ったらしい、廃材を利用した掘建て小屋が並んでいる。しかし、機械蜘蛛に襲われた際に踏み潰されてしまったと思しき廃墟の方がさらに多かった。
そして、庭と呼ばれた左側のブロックには多種多様な草木が並んでいる。それらはどれも食用の葉や実を付けるもの、根菜ばかりであり、そこが農場であることは容易に想像できた。
海と呼ばれた右側のブロックは、全体が巨大なプールのような四角い生簀になっていた。その時、ミストはその生簀の方から不快な臭いが漂って来たのを嗅ぎ取った。ニックもそれ気付いたのか、ミストから飛び降りると、顔をしかめて小走りに生簀へと向かう。
「……こりゃひでえ……」
後からニックに追いついたミストも、ニックの言葉にはそのまま頷かざるを得なかった。生簀の中には生きた魚は一匹もおらず、代わりに数え切れないほどの死んだ魚が水面に浮かんでいたのだ。嫌な臭いの原因は、魚の死骸が放つ死臭だったようだ。
「これじゃ、仮にここを取り戻せたとしても、もう住めねえかもしれねえな……」
ニックの鎮痛な声に、ミストは掛けるべき言葉を思いつかなかった。普段元気に振る舞っているだけに、本気で落ち込んでいる姿は痛々しかった。
表向きはあまり拘っていないように見せていたが、本心ではこの故郷に戻ってくることを切望していたに違いない。もっとも、故郷と呼べる場所を持たないミストには、その感情は想像することしかできなかったが。
「……ニック、あなたの言ってた『先生』はここに戻って来たのかしら?」
せめてもの工夫として、ミストは話題を変えてニックの気を紛らわそうと考えた。それに正直な気持ちとして、ミストは早く目的を果たしてノキアの元に駆けつけたかったのだ。
「いや……先生が戻ってきてたなら、海がこんなことになってるはずないよ。先生は元々ここの管理者だったんだ」
「……となれば、ずっとどこかに隠れているのかも知れないわね。ニックが最後に『先生』を見たのはどこだったの?」
『先生』はもう生きていないのではないか、という懸念をミストは口にできなかった。ミストがノキアの身を案じるように、ニックも『先生』の身を案じてここまで来たのだ。安易に希望を捨てるのは無情に思えた。
「それなら、こっちの方だぜい。ミストにはちょっと狭すぎると思って、迂回してきたんだけど……」
ニックは入ってきたのとは別の方向にミストを導こうと……
ガシャン。ガシャン。
軽い地響きのような音が、二人の耳に届いた。それは先ほど方舟に入ってすぐに聞いたのと同じ音だった。
「まさか、もう追って来て……」
「いいえ、それにしては方向がおかしいわ」
ミストは隣で絶句するニックを振り返って尋ねた。
「たしかニック、あの機械蜘蛛は複数いたって言ってたわよね?」
ニックは緊張した面持ちで首肯した。
*****
「……面倒なところに陣取られたな」
ノキアは呟いた。扉の細い隙間からは、通路の先に静止して佇む機械蜘蛛が見える。
機械蜘蛛の追撃を避けつつ通路を縦横に走り回り、やっと機械蜘蛛が入ってこれない狭い部屋を見つけて隠れたところまでは良かった。
問題は、ノキアたちを見失って立ち去るかと思っていた機械蜘蛛が、その場で待機したまま動こうとしないことだった。隠れた部屋に他の出口はない。つまり、閉じ込められてしまったのだ。
天井の明かりに照らされたその部屋は十メートル四方ほどの広さで、様々な計器類が置かれた様子は管制室のように見えた。しかしそれらはノキアにとって初めて見るものばかりで、どれがどんな役割を持っているのかは分からなかった。
それで、ひとまず部屋内に危険がないことだけをざっと確認し、ノキアとケファはしばらく様子を見ることにしたのだ。
「ねえ、ノキア、背中が……」
後ろに控えるケファが心配げな声でささやいてくる。
「このくらい、大したことないよ」
ノキアは強がったが、実はちょっときつかった。ケファを助けた時、機械蜘蛛の鎌がかすったのだ。背中には袈裟懸けに傷口が開き、血が流れている。
あと少し深ければ背骨を砕かれていただろうということも分かってはいたが、ノキアは自分の行動に後悔はしていなかった。後悔しているとすれば、むしろ自分の力不足のせいでケファを危険な目に合わせたことに対してだった。
「……ノキア、服脱いで。あたし、軟膏と包帯持ってるから、手当てできるよ?」
「いいって、大丈夫だから……」
ノキアは恥ずかしくなって、振り返りもせずにそう言った。背中の傷を手当てしようとしたら、上半身裸にならなければならない。
「お願い。あたしのせいで怪我したんだもん、そのくらいはさせて」
しかしケファが毅然とした声で言い募ったので、ノキアは少し驚いてケファの方を見る。印象的な夕陽色の瞳に、真剣な光が宿っていた。これまで素直に自分の指示に従ってくれていたケファが、反論されても自分の意を通そうとするのは、なんだか新鮮な感覚だった。
もしかしたら、今まで自分は無意識のうちにケファを下に見てしまっていたのかもしれない。ノキアは反省の念とともにそう思った。ケファは自分より弱い存在で、庇護するべき対象なのだと。
しかしケファはノキアの命を守るために自ら囮になる勇気を見せた。そして今、ノキア自身のためにノキアの言葉に反論している。ノキアは今、自己の意思を持つ一人の人間としてのケファを感じていた。
「ありがとう。それじゃ、頼むよ」
「うん!」
ケファは一転して暖かい微笑みを見せた。予断を許さない状況ながら、ノキアはその笑顔にふっと心がほぐれるのを感じた。




