もう一人のケファ 02
数時間に渡る訓練をひととおり完了し、結果をシートに書き込み終えると、ケファはミオリの部屋を退出した。
本当なら、もっとたくさんミオリと話をしたかった。体調や訓練のことだけでなく、もっと普通の、他愛のない話をしたかった。
だが、ケファは自分にそれを許さなかった。それに、余計な話をすればいずれボロが出てきてしまって、計画そのものを危険に晒してしまうかもしれない。
閉まった扉の前で、ケファはひとりため息をついた。しかし、廊下をやってくる機械的な足音に気がついて、慌てて姿勢を正す。
「ケファ博士、ローム船長がお呼びです。船長室にお越しください」
それは、方舟の管理をサポートするために製造された人型メンテナンス・ボットの一体、SMB–41だった。高度な人工知能を持っており、機械関係のメンテナンスの他にこうした伝令のような雑用もこなせるように設計されている。
「ありがとう、サム。すぐに行くと、船長に伝えなさい」
「了解いたしました、ケファ博士」
伝令といっても、サムが実際に船長室に走るわけではない。イリア波通信で船長室に伝言を届けるだけのことだ。
だから本当は、サムを介する必要などない。もっと言えば、サムが人型である必要もない。
だが、人間というものはいかに優れた技術を持っていても、どこかで人間的な触れ合いを求めるものらしい。だからこそ、メンテナンス・ボットに高度な会話機能などを搭載したりもする。
そんなことをつらつら考えて自分の気を紛らわしながら、ケファは踵を返して船長室に向かうのだった。
「……それで、オーラノイドの準備は整ったのかね?」
開口一番、たっぷりとした髭を蓄えた船長・ロームの口から出たのは、ここ最近毎日のように投げかけられてきた質問だ。
「いえ、まだ……ミオリがオーラ・ギアの能力を完全に使いこなせるようになるまでは、せめてあと半年……」
「去年も、同じことを聞いたぞ、ケファ博士」
苛立ちを押し込めたような低い声が、ケファの言葉を遮った。
「ですが……計画実行後に万が一のことがあれば……」
「リスクは十分承知の上だ。我々にはもう時間がないのだ。そもそも、エンデスティアの園までどれほどの距離があるかさえ、我々には分かっていないのだぞ」
ロームが言い、隣に控えている長身の副船長が言葉を継ぐ。
「ルエル人の出生率は低下する一方だ。一刻も早くエンデスティアの園にたどり着けなければ、我々全員が滅びることになる。オーラ・ギアが永久機関であったとしても、それを制御するオーラノイドには寿命がある。その貴重な時間を刻一刻と奪っているのだと、君は理解しているのかね?」
「それは……理解しています。ですがミオリにはまだ時間が……」
「ミオリではない。オーラノイド、またはANG–EL–Ⅺと呼称すべきだ。あれはこの方舟の主機関に過ぎないのだからな」
ロームの叩きつけるような言葉に、ケファは歯噛みした。この男たちは、ミオリを人間ではないのだと自分に言い聞かせることで、罪悪感から目を逸らそうとしている。
だが……気の持ちようはどうあれ、やっていることはケファもまた同じなのだ。それがケファには、何より辛かった。
船長と副船長は、さらにたたみかける。
「オーラノイド実験に供出した瞬間から、あれはもう君の娘ではない。そう言ったのは君自身ではなかったかね、ケファ博士?」
「どうしても肉親の情を捨てられないというなら、君をあれの担当から外してもいいのだぞ」
それは絶対に嫌だ。ケファの心が叫んだ。ミオリを道具としてしか見ないような人間に、ミオリを渡すことだけは、絶対に嫌だ。
「いえ、それだけはどうか……ミオリのことも、オーラノイドのことも、私が一番熟知しております。必ずや期待に……答えてみせます。だから……」
「一週間後だ。一週間後に、方舟の進水式を執り行う。それまでに、オーラノイドの性能を最大限に引き出しておくように。これは命令だ。変更はあり得ない」
ケファは、ただ頭を下げることしかできなかった。
「そっかぁ、来週かぁ……いよいよだね、ケファ先生」
ミオリはあっけらかんとしていた。
「分かっているの、ミオリ? 一度出発したら、あなたは一人で役割を果たさなければならないのよ。私ももう、いつまでもそばにはいてあげられなくなる」
「分かってるよ……うん、分かってる」
夕陽色の瞳が微かに翳る。ケファには、ミオリが自分を奮い立たせるためにあえて明るく振る舞っていることに気付いた。
「でも、それがみんなのためになることなんだよね? みんなで、エンデスティアの園に行く。そのためなら、あたし頑張る」
なぜこの子はこんなにも強く育ったのだろう、とミオリは眩しげに目を細めた。実験体であるという事実が伝わらないよう、厳格な情報管理はしていたが、ミオリにだって自分がどういうものとして扱われているか、本当は薄々分かっているはずだ。
ケファは、天真爛漫さの中にも意志の強さを垣間見せる、ミオリの夕陽色の瞳を思った。
その夕陽色の瞳は、親から受け継いだものではない。これもオーラ・ギアの影響なのかもしれないが、はっきりしたことは何も判明していない。
そんな得体の知れないものを、ケファは自分の娘に背負わせたのだ。
いや、単に得体が知れないというだけではない。ID末尾の「Ⅺ」の符号が示すとおり、ミオリは十一番目の被験者だ。つまり、ミオリの前に十人、被験者がいたことを表している。
ケファとは別の研究チームが実験したというその十人がどうなったのかは、誰も知らない。隠されているのだ。それが何を意味するのかは、素人でも分かる。
だから、エンデスティア帰還計画の反対派からは、いや、賛成派の一部からでさえ、自分のことを「狂気の研究に娘を売った悪魔」と呼ぶ声があることを、ケファは知っている。
だが、他にどうすれば良かったというのだ。今や、ルエル人の間に生まれる子どもは年間でも数えるほどしかいない。そうでなくても、自分の子を人体実験に差し出したいと思う親などまずいないだろう。
実験を続けるためには、こうするしかなかったし、実験をやめれば、ルエル人に未来はない。
ならばせめて、あらゆる病が治るというエンデスティアの園に辿り着ける、万に一つの可能性に賭けようと、ケファは決めたのだ。
それでも、あと一分、あと一秒でいいから、ミオリに少しでも人間らしい日々を過ごさせてやりたい。それが、ケファのうちに渦巻くジレンマだった。




